第二章46 命の祝福
目が覚めたラルズが最初に目にしたのは、見慣れない天井模様だった。視界が機能する先、そんな馴染みのない世界を目にして、ラルズは数回瞬きを繰り返していた。
「・・あ、れ?」
疑問が口からこぼれ、それでもラルズの疑問は留まることを知らない。目が覚めただけ……ならばここまで静かに動揺することなどない。
ラルズの目覚めの調子の良さは極々普通の類。良い方でも悪い方でもなく、意識が目を覚ましたのと同時に世界に順応し、停止していた肉体の時間が活動を再開を始める。ぼんやりとした記憶の霧が晴れていきながら落ち着きを取り戻し、即座に適応できるのがラルズの目覚め事情でもあり体質だ。
その上で疑問が口から唱えられたのは、見知らぬ場所に自分自身がいることではない。それも疑問の種としては一定の働きを示しているが、それはラルズが抱いている大きな疑問に比べれば些細なものでしかない。
「・・生き、てる?」
死んだはずだと……死ぬはずであると、他の誰よりも思っていた。それもそうだろう。あれほどの出血に加えて、内臓も組織も滅茶苦茶にされて、生きている可能性に賭けるほうがどうかしている。ラルズの末路は死ぬ以外には有り得ないと、勝手に自己診断を下していた。
そんな命の有り様を否定する姿勢のラルズを、世界が否定している。一つずつ、世界が順繰りとラルズに死んではいないと突き付けてくる。
窓の外からは眩しいぐらいの陽光が差し込んできており、光を浴びれば一気に眠気が浄化されそうなほど。一日の始まりを暗示する太陽の激しさに目を細めて辺りを見渡す。目にしている見慣れない天井に続いて、部屋の内装は簡素な代物で埋め尽くされており、特段気になるような代物は置かれていない。
動かした視界は次々に情報を吸い上げていく。視界良好、機能は正常を示している。次点で、自分の身体の状態について意識を傾ける。
まずは両手と両足。痛覚が邪魔して上手く扱えなかった両手と両足であるが、こちらは問題なく動かせている。骨に異常も感じられず、力を加えれば両手は握り拳を完成させ、両足はピンと真っ直ぐに張って伸びる。力を抜いて身体をだらんとすると、気怠さの節が各部位から流れ込み、軽く息を吐き出した。
四肢の類も健常そのもの。痛覚に邪魔されて思うように動かせなかったのが嘘のように、ラルズの肉体は回復されていることを示していた。
――しかし、そんな一つずつクリアになっていく肉体の健康具合を前にしても、未だにラルズは生きている事実を飲み込められない。
生きていると肉体が主張しているが、魂が否定を曲げない。そんな身体と精神の葛藤に悩んでいる最中で、ラルズは気付いた。
「・・! 心臓――!」
この状況を、ラルズの抱えている不信感を一手で解決することができる最良の手段。心臓の鼓動を確認すれば、一発で生きているか死んでいるか嫌でも判断せざるを得ない。その結果次第で、曖昧な生死の天秤がどちらか一方に傾くことに思い至り、ラルズは反射的に起き上がって心臓を確かめようとした。が――、
「いっ――!?」
確かめるならばそっと手を添えるだけでよいと判断したのも束の間、それまで静まり返っていた肉体が急激に活動を再開したことを咎めるように忠告を促した。身体を起き上がらせた瞬間、電撃が撃ち込まれたのではないかと錯覚するほどの鋭い痛みが胸部と頭部の二箇所から生じた。
痛みに従って頭部と胸部付近、それぞれ遅いながらに手を添える。痛みにもがき、次いで苦鳴も漏れる。荒い呼吸を繰り返して痛みを緩和、沈めさせようと己の身体を律する。強烈な痛みに打ちひしがれる時間の中で、ラルズはある事実に気付いた。
「痛い……ってことはっ」
痛覚が本人の自意識に訴えている。それはつまり、心臓に手を添えて鼓動を確認するのと同じくらいに等しく、ラルズの命の具合を現す明確な指針としての効力も発揮しているということだ。
荒い呼吸が段々と弱まっていき、ラルズは一度息を呑み込んだ。自分の胸部――そこに位置している人間の大事な生命器官、心臓。上から包帯を巻かれており、治療の後が見られる。そんな包帯越しの自分の胸に右手をゆっくりと近付ける。
論は整っており、あとはラルズの気持ちの問題。自分の胸元に手を置けば、ラルズの抱いている僅かな疑問も完全に解消される。九割近くは既に心得ている命の道理。残りの少ない一割を満たすために、ラルズは右手を胸へと押し当てる。
――トクン、トクンっ、ドクンッ……
繰り返し鳴り響く心臓の鼓動。強くも弱くもない命の拍動。一定のリズムで刻まれる心臓の動きを右手越しに自覚して、ラルズは認めざるを得なかった。
「本当に俺、生きてる……っ」
生きていると、命が繋がっていると真に自覚した瞬間だった。信じられないと異を唱えたとしても関係ない。夢などはなく、確かな現実が実証と共にラルズへと誇張する。
「俺が無事ってことは、他のみんなもきっとっ」
自身が生きていると本当の意味で自覚して、ラルズは改めて思考を燃やした。自分自身が生きていると知って、次に思考を働かせるのは、ラルズと一緒に行動をしていたミュゼット、グレンベルク、セーラの三名だ。
意識を失う前の記憶を掘り返して、三人についての傷の進行度合いを改めて確認していく。
怪我をしている兼、危険な状態となっていたのはラルズを含めて今し方挙げたばかりの三者の内の二人、グレンベルクとセーラの二名に当たる。
「でも……」
改めて考えてみても、二人とも命に関しては無事である可能性は高いと判断が及ぶ。なにせ一番重傷――もとい、命の危機に瀕していたのは他でもないラルズなのだから。楽観的とは違って、自分自身という存在が根拠の基だ。
まずはグレンベルクだが、負傷具合は中々に大きい印象だ。ただ、道中でリオンに魔法での治療を受けて意識は覚醒し、以降は意識を失うことも、ましてや新たな傷も被害も被っていない。それだけが安心の材料になるのはいささか不足していると言わざるを得ないが、客観的に考えても無事である線は強いだろう。
次に重症具合で言えばセーラに当たるだろう。外部からの影響や他者によって植え付けられた外傷とは打って変わって、魔力を激しく消耗し続け、魔力が底をついてしまった際に引き起こされる、欠乏症と称されている症状。セーラは救出をしに向かった四人の中で一番魔力を消費してしまったこともあり、彼女はこの症状に苛まれることに。
吐血に鼻血、嘔吐感に頭痛、眩暈。限界の更に先、命が危ぶまれるほどに彼女は魔力を行使した。眼獣の接近を阻止し、ラルズから受け取った魔力も全て使用して、全員が無事に帰れるように、我が身を顧みずに彼女は魔法を使用し続けた。血を吐き出しながらも守ろうとするその姿は、今でも鮮明にラルズの記憶に刷り込まれている。
ミュゼットに放たれた眼獣の影から彼女を守ろうと、最後にセーラは風魔法を発動。その発動が皮切りとなり、セーラの意識は肉体から隔離し、闇の中へと溶けていった。その後は竜車の奥地で寝かしつけてリオンに診てもらっていたが、その後はラルズもわからないというのが現状だ。
わからないという物の見方をすれば、先程のグレンベルクも同じだが、被害の不明瞭さはセーラの方が大きい。なぜなら、ラルズは欠乏症に陥ったことがなく、どれくらい危険な状態なのかが想像つかないからだ。
そんな被害状況の判断が正確ではないのとは反対に、セーラを竜車の奥で寝かしつけたミュゼットが、リオンからの言伝を運んでくれたことと、その内容はしっかりと覚えている。彼が言うには命に別状はないらしいとのこと。今はその言葉と判断が正しいものであると信じる他ないだろう。
「グレンとセーラも多分大丈夫だと思うし、ミュゼットは……」
ミュゼットは言わずもがな、最後の眼獣の影からも守ることができたし、最後にラルズの元へと駆け付けてきたときの姿は覚えている。外傷と呼ばれるような外傷を負っていないことからも、彼女も無事と断定。
以上のことから、ラルズを含めて全員無事であるとラルズは判断する。もっとも直接姿を確認したりしなければ確実な安否は保証できないのだが、残念ながらラルズはこの部屋を出ようとしても出られない。
傷が深くて、命繋がったとはいえもう少し回復に時間をかけなければいけない。誰かいないかと部屋の外へ向けて大声を発すれば、気付いて部屋へとやって来てくれるだろうか。
わかっていることなど、取り敢えずラルズは無事であったという自身についての見解のみ。それ以外は現状何一つとして確かな情報が入ってきていない。ラルズの現在の肉体事情を始めとして、仲間たちの安否、日数の経過具合、その他諸々。尋ねたい内容が多すぎて、いち早く情報を確認したい所存なのだが――、
と、その思考が引き金になったように、ラルズの部屋の扉がガチャリと音を立てた。扉が開き、開かれた扉の先には男性の姿。その男性は、ラルズが良く知っている人物の一人であった。
「――ぬぉ、目が覚めたのか青年っ!」
「ぼ、ボルザさんっ!?」
大きな声と足音を率いて部屋へと入ってきたのは、会った時間や交流は少ないものの、記憶に強烈に刻み込まれている、ギルドの最高責任者であるボルザであった。
鍛え抜かれ、常人よりも遥かに発達していて立派な筋肉。日々鍛錬を怠っていない様子がその見た目の風貌からも容易に伺え、その見た目の凄さに比例して気も大きい。華奢という言葉とは正に正反対の身体付きであり、性格も大柄で豪気。覇気に溢れた筋骨隆々の男性、そんな印象を抱いている人物。
「一時はどうなることかと思ったが、こうして無事に目を覚ましてくれたみたいで一安心だっ! だーっはっはっはっ!」
豪快な笑い声。それと共にラルズの背中をバシバシと強く叩く。手加減無し、病人であることを忘れているような容赦のない張り手に思わずラルズはえずいてしまう。その様子を見てボルザは「おっと、これはすまない」と謝罪を口にする。大丈夫だと手で示したラルズは、改めてボルザを見やる。
「ボルザさんがいるってことは……ここってギルドの施設内ですか?」
「その通りだ。ギルドの方が経過観察する分と、なにかあれば直ぐに対応できるので打ってつけだ」
ここならば常に人が配属されているし、何より人手も多い。こうして様子も確認しやすいし都合が良いのだろう。
「――して青年よ、目を覚ましたのは先程か?」
ボルザの短い問いにラルズは顎を引く。言葉なしに答えた返答を受けて、ボルザは自身の屈強な両腕を組み始めて瞑目する。悩む時間もそこそこに、「うむ」と声を上げて瞳を開くと、再び口を開いた。
「・・ということは何もわからずじまいか。だとすればまずは、事情説明から入った方が良いだろうな。気になるであろう青年の仲間たちについても今から――」
ラルズの尋ねたい質問事項の内の一つでもある、仲間たちの安否について教えようとしたボルザは、瞳を開くと扉の外に出ていこうと足を向けながら言葉を続ける。が、その言葉と外への歩みが途中で中断される。
開かれたままの扉の外。廊下の奥から聞こえてくる、段々と大きくなる足音。音の強弱具合からして、走っていると直ぐに判断が付いた。廊下から伝播して室内にまで響く足音。ラルズとボルザが揃って視界を一箇所――扉の外へと向けていると、
「――ラルズっ!?」
音の正体。勢い良く駆け込んできたのは、ラルズが安否を心配していた三人の内の一人だ。
白くて綺麗な髪を左右で二つに纏めているツインテール。腰にまで届いている髪たちが、走る勢いのままに部屋へと入ってきた影響もあり、ふわりと優雅に跳ねて踊る。綺麗に整っている顔立ちには汗が浮かんでおり、息も整わないままに部屋へと飛び込んできた。
「ミュゼット!」
求めていた少女の元気そうな姿を前にして、ラルズは胸を撫で下ろす。安心しきった様子を見せるラルズとは対照的に、ミュゼットはそのまま愕然と瞳を開いたままでラルズを見つめている。
そして彼女の後ろから、新たに二人の人物が登場してきた。
「駄目じゃないミュゼット、いきなりそんなバタバタして入り込んだら、迷惑になるわよ」
「お前も気が気でなかっただろう」
「グレンとセーラもっ。良かった……二人とも無事だったんだねっ!」
部屋の入り口で固まっているミュゼットの後ろ。廊下から新たに二人の人物が登場。グレンベルクとセーラ、いずれもラルズと一緒で大きな負傷を抱えていた青年と少女であり、その様はラルズが普段良く知っている二人の姿だ。
「一時はどうなるかと思ったが、無事そうで何よりだ」
「ラルズ、貴方が一番死線を彷徨っていたんだから、無事だったんだねって言葉は私たちの台詞よ。でも、一安心したわ」
「あはは、心配かけてごめんね?」
二人の安否とは別で、セーラとグレンベルクもラルズのことを心配してくれていたみたいだ。笑ってその場を誤魔化すラルズと、その様を見てグレンベルクが目元を柔和に細め、セーラは吐息をこぼしていた。
一同に介した、バルシリア小森林救出人員の面々。この場に全員生きて集まれていることが嬉しくて、ラルズは更に安堵の感情に浸っていた。
「ボルザさんの声が良く通るから、廊下にいた俺たちの元へと直ぐに入り込んできてな。あとはお察しの通りだ」
確かにボルザの声は体格ぶりの期待を裏切らず、それはそれは大きい。扉も閉じられていなかったので、部屋内に留まらず廊下を貫通して声が通っていたのだろう。
「呼びに行こうとしたのだが、そんな必要は無かったみたいだなっ」
呼びに行こうと足を向けた直後、ミュゼッとが走り込んできて、後は今見た流れ通りとなるだろう。何はともあれ、こうしてもう一度みんなと会えて良かった。
「・・ってミュゼット? いつまでそこに立ってるのよ」
入り口にずっと立ち尽くしており、会話にも参加せずに呆然とラルズを見つめているミュゼット。その立ち姿にセーラが疑問を浮かべて言葉を投げるが、ミュゼットからの返答はない。さっきからずっとこの調子であり、何かあったのかラルズも声をかけようとしたが、
「・・よか、ったっ! ほんと、に……良かったぁ……っ!!」
突然、停止していたミュゼットの時間が再起動。瞳の奥から涙が物凄い速度で浮かび上がり、一瞬で涙腺が決壊。ぼたぼたと涙を流してラルズが無事であることを心の底から喜んでくれていた。そして彼女は涙を腕で抑えることも拭くこともせず、流した状態のままにラルズへと向かう。腕を広げて彼女が迫り来て、ラルズは嫌な予感を覚え始めた。
ま、まさか――っ!
既視感。それは、屋敷に運ばれて死地から目を覚ました際、シェーレとレルにもされた行動。それと酷似……どころかまったく同じ状況であり、肉体が記憶していた展開。
「みゅ、ミュゼット待ってっ! 俺今怪我――っ」
静止の呼びかけを口から発するが、時すでに遅し。彼女は躊躇することなく、ラルズの身体のことも忘れてダイブを完了しており、彼女の身体が眼前に迫り来ていた。回避不可能、対応不可能として、ラルズはそのまま彼女に力のままに抱き締められた。結果、
「――いったぁぁぁぁぁぁ!!」
ボルザの良く通る声よりも遥かに轟く絶叫が、室内を埋め尽くした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「じゃあ、あの日からもう二日も経ってるんですね?」
話を聞いたラルズがボルザに日々の経過具合を質問し、ボルザも「うむ」と短く頷いてみせる。
ミュゼットの抱擁(容赦なし)がラルズの全身に炸裂し、再び意識が闇の中に沈んでしまいそうな激痛を全身が襲うも、歯を食いしばってどうにか耐え忍んだラルズ。完治に至っておらず、回復にはまだ時間がかかるから手荒い真似はしてはいけないと全員から注意され、己の行動の軽率さに対して反省を見せるミュゼット。
まぁ彼女も悪気があったわけでなく、純粋に心の底から心配だったからこその行いなのはラルズもわかっているので、反省してくれたならそれで十分だ。
取り敢えずラルズが無事であることは確認できたので、話は次の段階に進む。眠りっぱなしで何も把握しきれていない状態のラルズと、様子を見にきたミュゼットたちを交えて、ボルザからの説明が始まったのが十分前のこと。
話を聞きながら質問を繰り返していく内、見えてきた実情。一つ一つの欠片が埋まりつつあり、大まかな今日までの事態の流れが明確になりつつあった。
まず、バルシリア小森林にティナとリオンを助けに行ってから、実に二日間が経過しているとのこと。ラルズはその間意識が回復することも無く、二日間ずっと眠りっぱなしだったとのこと。そりゃミュゼットも心配するのは当たり前だと理解しつつ、次いでグレンベルクとセーラの容体についても教えてもらった。
グレンベルクの傷も深いものではあるものの、それ以降は大きな傷を受けておらず、リオンから少しの間とは言え治療をしてもらった点が大きく、都市で療養を始めて間もなく、身体を動かす分には問題がないくらい回復していたとのこと。傷も完全に塞がっており、今では本調子にまで回復しているみたいだ。
続いてセーラ。彼女は外傷とは別で、魔力の使い過ぎが原因として数えられ、無茶をしたこともあって意識が完全に目覚めたのは、都市へと戻った次の日の夕方近くとのこと。ラルズが言えた立場ではないが、彼女も随分と長い間眠り続けていたみたいだ。目覚めた当初は少し眩暈や頭痛が激しかったらしいが、今ではすっかり体調も魔力も回復しきっていたらしい。
ということらしく、グレンベルクとセーラ、両者とも後遺症などは見られないとのこと。無事に回復しきったらしく、それを聞けてラルズも一安心だ。
ちなみに先だって魔獣への対応をしていたギルドであるが、周囲の魔獣の殲滅は開始してから三時間近く経過した後に達成。負傷者は出たものの、命を失った人物も一人としていないということであり、ラルズたちがバルシリア小森林を出立した際には、既に都市へと戻ってきていたらしい。
更に言えば、眼獣も姿を消した以降出現したとの報告もないとのこと。万が一に備えて警戒網を広げていたが、一度として姿は確認できなかったらしく、ラルズの目の前から消えるように影に潜ったのを最後に、そのまま逃走したのだろう。
あれほど獲物の命を奪おうと追いかけてきたのに、あっさり諦めた理由も不明だ。加えて、死にかけのラルズの何を恐れたのか、見開かれた大量の眼球は今でも脳裏に刻まれている。答えなど既に確認する術もないので、わからず仕舞いとなっているが。
「しかし、二日間も眠りっぱなしだったのに、身体に違和感とかないのか?」
「うん、特には何も」
あちこちに手を添えてみるが、違和感や不備は見られないし、内側に意識を集中させても、特に変な感じも抱かない。傷がまだ完治していない点を除いてしまえば、大丈夫だと言って差し違いは無いだろう。あくまで自己判断によるものだが。
「ギルドの職員さんが治してくれたんですよね。本当にありがとうございます」
あれ程の重傷。見るも凄惨で、生きている見込みなどゼロに等しい状態のラルズが、今では五体満足、意識回復にまで至っている。複数人で治療したのか、治療に長けた人物が尽力してくれたのだろうが、いずれにせよ感謝しなくてはならない。
そんなラルズの感謝の言葉を、この場にいるギルドの代表者でもあるボルザに伝えて頭を下げるのだが、顔を上げたラルズを前にして、ボルザが気まずそうに頭を掻いていた。
「・・あの?」
ボルザの態度を前にして、ラルズは疑問が浮かぶ。治療をしてくれたお礼を伝えたのに、どこかボルザは歯痒いような様子をしており、素直にラルズの言葉を受け止めきれていない、そんな印象。普段のボルザなら、大きく笑いながら対応すると思っていたのだが、どうにも予想していた反応と違う。
「ううむ、感謝は有難く受け取りたいと言いたいんだが、なんて言えばいいのか……」
自身の判断に揺ぎ無い自信を宿しており、迷ったり悩んだりといったこととは無縁そうなボルザ。しかし、どういうわけかボルザは神妙な顔つきをしており、言葉に詰まっている。
「ボルザさん、ラルズの治療で何かあったんですか?」
全員が首を傾げている最中、中でもボルザと面識が強いグレンベルクが質問をする。グレンベルクの質問を受けるも答えず、腕を組んで目を瞑っているボルザ。唸り続けており、話すべきか検討しているような素振りだ。
話すべきか話さないべきか、そんな葛藤を続けているボルザが息を大きく吐き出すと、意を決したように瞳を開いた。そのままラルズの瞳を捉えると、閉じていた口が開いて言葉を紡ぎ出した。
「結論から言うと、青年を治療したのは確かにその通りだが、色々と可笑しい点が多々あってな……」
「可笑しい点、ですか?」
顎を引くボルザ。彼はそのまま言葉を続けた。
「まず出血量。常人であれば治療の余地なくして死を連想させる代物だ。あれほどの血を流しておいて、出血多量で死んでいないことなんて、奇跡であるとしか言いようがない」
「私は気を失っていたから想像できないんだけれど、そんなに凄かったの?」
セーラの問いに、言葉無くミュゼットが小さく震えだした。思い出してしまったのだろう。他者から見ても明らかに死んでいると直感してしまうほど流れてしまった命の奔流。押し黙って震えるミュゼットを視線に映して、セーラは「ごめんなさい……」と自らの失言を恥じる。
確かにラルズの出血量は当人も思うところがあり、地面に大の字に突っ伏しても全体を覆い尽くすほどの血液量であり、意識が繋がっていたのも今にして思えば不思議でしかない。どころか、こうして死の淵から帰還しているのだから、奇跡と言われて当然だろう。
「そして無視できないのが心臓――つまり、急所に貰い受けた致命的な傷。これが治療した上でもっとも疑問が残るものなんだが……。貫かれた箇所の傷が、治療をする前から塞がっていたんだ」
「・・え?」
患者であるラルズ然り、その場で一緒に話を聞いていた全員が言葉を疑った。それもそのはず、治療を受ける前段階から既に、急所に生じた傷が塞がっていたなどと、驚くなというほうが無理である。
そもそも、心臓に穴が開いて生きている人間などこの世にいないはずだ。心臓の壁が突き破られるなど、即死で疑い無し。命のポンプとして体内に血を巡る働きをしている心臓であるが、血液が漏れ出し始めた場合、心臓が瞬間的に破裂して死に至る……なんて事実を医学の本で目にしたことがある。
「大部分における内蔵の損傷や骨組織の崩壊。これらは最悪魔法で治すことができる。ただ、魔法は万能であるだけで、及ばない事象も数多く存在する。その観点から照らし合わせると、青年の命が繋がれている点には、どうしても相互性が見当たらないんだ……」
一度死んだ魂は既に手遅れとなり、どれだけ力を尽くそうと元には戻せない。死者蘇生などという、大切な人を失った人が誰しも求めるような力は、万能の結晶でもある魔法でも不可能と断言できる所業だ。万に一つも例外は無いし、だからこそ命は一つきりであり、大事にしないといけない。
「ボルザさん。つまり、今回ラルズが死ななかったのは、心臓に穴を空けられた事実に対して、致命的でもある心臓への欠損が塞がっていたからってことになるんですか?」
「まぁ見方的にはそうなるかもだが、俺は医者ではない。実際に手を尽くした兵らが言うには、そんな治療体験をしたこともないし、過去にもそんな事象を前にして生還した人物など一人として存在しない。端的に言ってしまえば原因不明であり、「わからない」って言うのが答えなんだ」
ボルザが言葉に詰まっていた意味が理解できた。
仮説の域と、想像の範疇外。心臓を貫かれて生きていた存在など、過去にも類を見ないとのこと。治療を受ける前に致命的な傷が塞がっていたから助かった……などとは安易に考えられないだろう。
「でも魔法で自分自身を治療できる人はいるんでしょう? だったらそんなに不思議に思わなくても……」
「忘れたの、ミュゼット? ラルズは使えないでしょ?」
「あ」
セーラの言葉に小さく言葉をこぼしたミュゼット。
確かに水魔法に適性がある人物は、自身に及んだ外傷や傷を、自分で魔法を発動して治癒することができるだろう。ぶっ飛んでいる意見にはなるかもしれないが、致命的な傷を受けて即座に治癒を開始して生命の危機を遅らせる。即死を回避して、魔法を構成して死に至るまで猶予を作る……なんて神業も世界を探せばできる人がいるかもしれない。
だが所詮憶測の話であるし、現実味のない産物でしかない。仮にそんな神業を理論的に行える、もしくはできた人物がいたとしてもだ、ラルズには不可能な話。それは既にセーラが答えを示してくれている。
「心臓部分への致命的な傷と、大量に体外へと噴き出た、致死量に該当する血液量。この二つの面から見ても、青年が生き残った事実に明確な理由が適用されていないんだ」
「確かに……変な話ですね」
「勿論命が救われた点には俺を含めて、一同みんなが喜んでいる。が、それとこれとは別として、原因や事情が発見できていないというのはむず痒いものだな」
頬を掻きながら、難しい顔をしているボルザ。生きている点は確かに大変喜ばしいが、中々素直に喜ぶのが苦労しそうな一件だ。無論、あれこれ難しく考えることをせず、「生きている」という点にだけ着目していれば、そんな感情とはとっくの昔におさらばできるのだが、如何せん人は納得を求める生き物でもあるため、割り切るのが難しい。が、
「私はラルズが生きててくれて嬉しいよっ。お礼も言えず仕舞いで、このままお別れなんて嫌だったからさ、本当に嬉しいっ!」
一人だけ、素直に感情を言葉に変換する少女の姿。ミュゼットはその心の内側、ラルズが生きている点だけに焦点を当てて、捻りも無く嬉しいという感情表現をそのまま曝け出す。
「・・確かに、少女の言う通りでもあるな。今直ぐ納得も厳しかろう。・・だが、今は何より、無事にこうして生きている、そこに目を向けるだけで良いかもしれないなっ」
ミュゼットの意見にボルザが賛同し、にかりと笑顔を表情に浮かばせる。単調なものの考えを口に出したミュゼットを前にして、グレンベルクとセーラは呆れたような顔をしているが、その実彼女に向けている眼差しはどこか暖かい。
疑問もある。疑念もある。でも、今は良いのかもしれない。取り敢えず無事に帰れたこと、それだけを喜んでいれば、それで。
気付けばラルズも顔に笑みが浮かんでいた。先程まで悩んでいたモヤモヤが、どこかへ吹っ飛んでしまっていた。
今はただ、全員が無事であること。それだけを祝して――。