第二章45 目覚めの血
――地面に、叩き付けられたのだろう。
その事実に気付いたのは、街道に力なく倒れ伏している自分自身の状態を把握し終えた直後のことだ。
無防備な姿を晒したラルズの背中。背後から鋭い影が迫り来て、身を避けることもできずにラルズは影の攻撃を貰い受けた。皮膚を貫いて内部に侵入。そのまま直線的に影が伸びていき、人体の急所の一つ――心臓を確かに貫いていることが、直感的に理解できた。影は心臓を貫きながらも勢い衰えず、そのまま最後の障壁でもある内側の皮膚をこじ開け、反対側の出口から影が飛び出る。
影の本数は五本。全て胸付近の同一箇所を集中してしまっており、心臓を串刺しにした影の本数は一本ではないだろう。生命活動を支える大事な器官を、一気に数ヵ所も貫かれたのだ。命を失うには十分すぎる痛手であり、致命傷であることは疑いの余地すらない。
人体を見事に串刺し。貫かれたのだと状況を理解したのも束の間、ラルズの肉体はそのまま竜車から引き剥がされた。抵抗もできずに宙に浮かされて下車を試みられる。そして次の瞬間にはラルズの視界がぐらつき、気付けば固い感触を味わっており、その衝撃を身を持って思い知る。
「――ごぇ」
まるで槌を振るうように振りかぶって勢いを増長。一切の容赦も躊躇もなく、まるで物でも投げ捨てるようにして眼獣はラルズを地面に叩き付けた。
鈍重な音と致命的な音。二つの音が身体を通して伝わり、物理的な衝撃で骨が見事に四散。速度の乗った叩き付けの影響として、一度では衝撃を緩和し切れずに街道を何度も転がり跳ねる。地面に接して、勢いを殺しきれずにバウンド。弾けた肉体が再び無抵抗に街道に激突、骨が更に砕けてひしゃげて、以下繰り返し。
慣性運動に従って、受け身も取れないラルズの身体はただただ速度に後押しされて街道に出迎えられる。途中、衝突するごとに命の源が喉の奥からせり上がり、血反吐を堪え切れずに思う存分ぶち撒けて街道を赤く汚していた。
何度転がったのか分からず、視界も安定しない状況下の中、ラルズはようやく視界が落ち着きを取り戻していた。二転三転、コロコロと変わり続ける世界が停止して、ラルズは自分の状態を始めて確認することができた。
「――ぅ、ぁぅ……」
うつ伏せの状態で街道に力なく横たわっている事実に気付いて、ラルズは自分の肉体に意識を向け始める。機能している点と、そうでない点。二つを分別して状態を精査していく。
まず頭。額を何度も削り、割れた頭部からはドロッとした赤い液体が流れ落ちている。眼球は今の衝撃で潰れてはいなかったのか、機能は疎外されていない。が、割れた頭部からの血が眼球の中に流れ込んできており、視界が僅かに赤身がかっている。
次に両腕と両足。あれほど転げまわり、衝撃を分散し切れなかったのに対して、骨折をしている気配はない。もしかしたらラルズの気のせいかもしれず、実は折れているけれど違和感を捉えきれていないだけかもしれない。実際に骨に異常がないか、動かして確かめてみようと試みたが、
「――ぁがっ……ぁ!!」
身体を起こそうと試みて腕と脚に命令を下すが、つい悲鳴が漏れ出してしまうほどの痛みによって邪魔をされる。今まで感じたことのない激痛が肉体を走り、声なき悲鳴に従わざるを得なくなるほど。気力や覇気なんかの代物では誤魔化しきれない、痛みの最高到達点。その領域に達してしまっており、ラルズは指先一つすら動かすことができなかった。
次に内傷の状況分析に移行する。驚くべきことに、心臓は未だに鼓動を続けていた。地面にうつ伏せになっているからこそ、密接な体位であるからして自身の心臓の拍動を捉えることができた。弱々しく、今にも止まりそうな寂しい収縮音。その音が途絶えていないことが、命の脈動が潰えていないことが、死に瀕しているラルズの微かな意識を繋ぎ止めてくれている気さえする。
最後に内傷の至る部分。心臓以外の臓腑や骨、そこに着目してみる。あくまで感覚としての物の捉え方などで断言こそ難しいが、大部分の骨は全滅しているのはまず間違いない。
砕けた骨が臓腑に刺さっている感覚。支えていた骨組みも役目を終了して、各部に深刻な傷を量産し続けている。一部なんかは身体から突き出てしまっているのではないかと思われる。無論、仮にそうなっていたとしても、確かめようと腕を伸ばすこともできないので、その点に関しては些細な物事に収まる。
以上がラルズの現在の様子。加えて診断すると、意識の方は特にこれといった問題が見つからない。自分の名前も覚えているし、こんな状況にありながら怖いことに、冷静に状況判断も行えている。見るも無残な肉体の損傷具合も、直前までの出来事もはっきり覚えていることから、記憶に障害は生じていないと断言できる。
そんな正常に働いているラルズの意識は、最後に自分自身の肉体を軽く診断していく。
頭を強く打って額が割れているが、意識は健在。四肢はいずれも骨が折れたり千切れたりと、物理的で致命的な事態には至っていないが、動かすことは到底不可能。体内の肉体を支える骨たちと臓腑たちは一部が完全に使い物にならなくなってしまっており、焼けるような痛みが奥底から湧き出てラルズを苦しめている。最後に心臓――こちらは眼獣の影によって貫かれてしまった箇所が恐らく三箇所以上。
古い傷の出血は時間経過で止まっていたものの、今現在の衝撃で再び傷が開いて出血を再開。新しくできた傷によって新鮮な流血を引き起こされ、二つが相乗して加速度的に体内の命の源が流れ続けている。血に染まるラルズの身体は、気付けば全身を包み込んでおり、尚も面積を広げ続けている。
――・・・・あぁ、これはもう駄目だ……。
誰が見たって明らかだ。間違いなく命は助からないし、助かる見込みも万に一つとして存在しない。眼を背けたくなるような凄惨な見た目。直視しずらいであろう命の変わり果てた姿に比例して、目には映らない内部も悲惨な状態に変わりなし。
いつ事切れても可笑しくない。正に、命の灯が消える直前。・・いわゆる、人生の詰みというやつだ。
他ならぬラルズ自身も命の諦観を抱いてしまうほど。過去に味わった魔獣の一撃。左肩近くを抉られたあの重傷よりも、度合いも被害も桁違い。あのときは運良くミスウェルに発見してもらい、治療を施してくれたからどうにか一命を取り留めたが、今回は話が違う。・・もう、手遅れなのだ。
厳密に言えばラルズはまだ生きているのだろう。意識も繋がっているし、完全な死者と呼ぶにはまだ猶予が残されている。だが所詮は一時しのぎ。
既に肉体は死地の沼の中へと入り込んでしまっている。片足を突っ込んでいるとかではなくて、漬かってしまっているんだ。
そんな死の海へとどっぷり漬かっているにも関わらず、救い出せる可能性なんて万が一にも有り得ない。魔法という万能な力――過去に一度ラルズが救われている力を持ってしても、死者をこの世に蘇らせることはできない。
もう、ラルズの肉体は死んでいるのだ。意識が繋がっているだけの半抜け殻状態。その意識も、間もなく潰えて滅びてしまう。ラルズという一人の魂が完全に消滅し、残るのはラルズだった人物を示す肉体のみ。二度と言葉も話せず、目を開くこともなく、起き上がることも永遠にない。
――みんなは、無事かな?
自身の命の行く先を受け入れて、ラルズは別のことに思考を燃やした。竜車から引き剥がされて街道へと捨て置かれた自分自身よりも、竜車に乗って都市を目指している仲間の方の安否を心配する。
眼獣が尚も竜車を追走しているかどうかは定かではないが、あの存在が簡単に獲物を諦めきるとは到底思えなかった。バルシリア小森林からずっと追いかけ続けて、傷を負ってでも逃がさないという強い執念。その執念に力及ばず、逃げ切ることができなかったのは他でもないラルズ自身だ。
恐らくだが、爆発を受ける直前、影での防御は間に合わないとして、影に身を隠したのだろう。その後はラルズとミュゼットにバレないように影に身を隠し続けて、機を窺っていたのだろう。
そもそも最初から影に身を潜めて近付いていれば、ここまで時間を消費する必要もなかっただろう。ミュゼットとセーラの風魔法に一々付き合わず、影に隠れて身を潜め、対処を行うよりも先に影を差し向ければ、それだけで眼獣に有利なはずなのに、なぜその選択肢を取らなかったのか。
・・いや、そんなことを今更一々考えても仕方が無いだろう。何か理由があるにしろ事情を抱えているにしても、ラルズにはもう関係のない話だ。どうせ、ラルズは死ぬのだから。
ただ仲間の無事を願うこと。それだけが、ラルズにできる精いっぱいの――死んでいく時間の中で行える唯一の行動だ。
・・だが、そんな仲間への祈りは途中で中断されてしまった。それは、
「――――ははっ」
何かが近付いてくる気配を察知して、その正体を確かめようと首を動かす。が、首を動かすことも厳しかったので、ラルズは眼球だけを動かして上目を向け、その正体を瞳に収めた直後、思わず乾いた笑みが口から漏れ出した。
「――……」
自らの操る影によって急所を貫き、街道に叩き付けて止めを刺した眼獣。ラルズを排除しきったあと、てっきり竜車を追っていると思われた外敵だが、ラルズの思惑とは反対の行動を取っていた。だけど、それはラルズにとっては嬉しい誤算でしかない。
眼獣がこちらに来ているということは即ち、竜車はギルドの人々と合流できたのだろう。今頃はきっと、ティナとリオンを始めとして、負傷を負っているグレンベルクやセーラ、ギリギリで窮地から退けたミュゼットも無事ということになるだろう。
「・・見送り、かいっ……?」
虚勢を張って強気な物言いを行うラルズ。喉の奥から振り絞った、死に損ないの掠れた発言。自らの手で死へと追い詰め、力なく地面にひれ伏している矮小な存在でしかないラルズを眼獣は見下ろしている。何かするでもなく、ただじっとラルズを高い位置から眺め続けている。
傍へと寄ってきた理由は知らない。どうせこのまま何もせずとも、ラルズの死は絶対的なものだ。内臓も体組織もズタボロで、命の源たる血液も全身を埋め尽くしており、尚も余り物の血で満たしている。このまま傍観を続けていても、数十秒先――あるいはこうして思考をしている次の瞬間には、心臓の鼓動が完全に停止してしまっても不思議ではない。
仮に身体を動かせたとしてもだ。この状況じゃ、身動き一つ行った瞬間に影を差し向けて殺されるのは想像に難くない。いずれにせよ、ラルズの末路は心臓を貫かれた時点で定まっている。死という結末は揺るがない。
「――……!」
何も手を加えない眼獣が背後を気にして振り返る。後ろを振り返った眼獣につられ、最後の力を振り絞って遠くを見つめると、
ラルズっ! ラルズっ――!
「・・ミュ、ゼット……?」
ラルズの名前を叫びながら近付いてくる少女の姿。瞳から大量の涙を流して、転びそうになりながらも必死で街道の奥から走って向かってくるミュゼットの姿が、そこにあった。
・・来なくていいんだ。もう、俺は助からないっ……! それよりも、ミュゼット自身が――!
彼女に危険が及んでしまう。その危険性は彼女も分かっているはずなのだ。だけど分かった上で、ミュゼットはラルズを助けようと走っている。その優しさに包まれている心根が彼女を動かして、ラルズを救出しようとしてくれている。
助けに来てくれることは本当に嬉しい。でも、無茶でしかない。無茶を通り越して無謀であり、勝てる可能性など万に一つとして無いのだ。街道を移動し続けていた竜車の上とは違う。眼獣が操る影が真価を発揮して、遺憾なく実力を発揮できるこの場面において、彼女一人が対峙したとしても、無駄に命を一つ失ってしまうだけなんだ。
――お願いだミュゼット! 来ないでいいから、みんなと一緒に都市へ帰って。俺のことは放っておいていいんだっ……!
「来ないでっ!」と叫び声を上げたい。大声を上げて拒絶して、彼女の足を反対方向に向けさせたい。どの道ラルズは死んでしまう。無理をして死体を一つ量産する必要なんてないんだ。死ぬのはラルズだけで、ミュゼットが死ぬ必要なんてないんだ。だから――、
「――……」
眼獣が迫り来るミュゼットを前にして、僅かに前へと移動を開始。同時に、足元の影が揺らめき始めた。殺戮の武器たる影を数本浮かび上がらせて準備を完了していた。
のこのこ竜車から降りてきたミュゼットを迎え撃とうと、影の射程に彼女が入ってくるのをただじっと待っている。影が放たれれば、ミュゼットは反応できずに殺されてしまうだろう。防御も回避も取り行えずに、鋭い先端で先のラルズ同様に急所を貫いて、死体の数を一つから二つに増産せしめようとしている。
「・・や、め……ろっ!!」
腕を動かすことすらラルズにとっては拷問の所業。痛覚が激しく主張して行動を取り下げろと宿主に逆命令を下すが、構うものかと歯を食いしばって必死に抵抗する。
どうせ死ぬのだから、最後に主人の命令ぐらい聞けっ――!!
気力や覇気を超え、狂気を従わせて無理矢理肉体に命令を放って脅しをかける。脅しの甲斐もあってか、ラルズの肉体は僅かではあるものの動けるように。だが所詮は残り少ない命の残餌。行える動作は勿論のこと、時間も滴程度のもの。
「――……?」
ラルズは腕を伸ばした。眼獣本体を掴むことは無理なので、その足元でもある影の領域にラルズの血塗れの指が重なる。無許可で入り込む闖入者が影に入ったからか、違和感を覚えた眼獣が後ろを振り返る。
血を吐きながら、鋭い視線を眼獣にぶつける。くたばる寸前の弱者の必死の抗い。ミュゼットを攻撃するなと視線で訴える。しかし、そんなラルズの必死さも眼獣にとってはさしたる影響を及ばさない。放置しておいても、この状態のお前に何ができると、呆れている風な視線を送られて、ラルズから興味と関心を失う。
不干渉を貫くと決め込んで、眼獣はラルズから視線を外して再びミュゼットに意識を向ける。互いの距離が狭まっていき、射程内に入った途端、最速の一撃を繰り出して彼女を亡き者にしてみせようと影を躍らせる。が、その愉し気な様子の影が、背中に生じた違和感を覚えて動きを停止した。その違和感は、
「――……」
眼獣の背中に突き刺さった、一本の短剣。それが眼獣の無防備な背中に突き刺さったのだ。
本体に直接接触しないと意味がないと知ったラルズは、狂気のままに痛覚を飲み込んで肉体の支配権を奪い返す。伸ばした腕を畳んで腰へと伸ばし、そこにある短剣を手にした。一本は竜車から街道に叩き付けられた際にどこかへ吹っ飛んでしまったが、一本はまだご存命であった。その短剣を眼獣の背中へと投じたのだ。
お粗末な威力でしかなく、刺さったと言っても皮膚を少し傷つけた程度の一撃。そんな傷をもらっても、眼獣の動きが鈍るわけでも、激痛に悶えるわけでもない。無視しても問題のない一撃だ。直ぐにミュゼットに意識を移すことは目に見えている。
だが、実害を出したおかげで、眼獣の注意を今一度引き寄せることができた。振り返った先、僅かに注意がラルズへと向けられた瞬間を狙って、ラルズは舌を出した。そして、
「・・ばー、か……っ!」
咄嗟に頭の中に浮かんだ、ラルズ最大限の悪口。
ラルズのこれまでの人生の中で、恐らく一度として口にしたことのない、相手を馬鹿にする発言。面と向かって誰かに直接吐き捨てたのは、これが初めてだろう。初めて罵倒をする相手が魔獣になるとは考えてもいなかった。
そんな混ざり気も飾り気もないたった一言。シンプルな相手を罵倒する意。小さな子供でも思いつきそうな単純な一言。
しかしそんな安い言葉でも、効果のほどはあったみたいだ。
「――……!!」
激昂。その様子が眼球から察せられる。自身が滅ぼした生命の最後の悪あがき。痛くも痒くもない負け犬の遠吠え。それでも、ラルズが口にした最大限の侮辱を受けて、失せ切っていた興味と関心――引いては、自らを馬鹿にされたことを知って怒りの頂点を迎え、ラルズに再び焦点が向けられた。
「――ぁがっ……!!」
背中に軽く突き刺さった短剣を影を操って外して、元の持ち主へと返還。持ち主のラルズの背中へと短剣が刺し返される。深々と突き刺さった短剣の刃が肉を抉り、激痛が走って喉の奥の残り物の血が口からばら撒かれた。短剣を刺した程度では怒りの留飲が収まらず、そのまま影がラルズに伸びていき、身体を浮かされる。
「やめてっ! これ以上ラルズを――!」
死体同然のラルズの肉体に再び危害を加えようとする眼獣。その様を遠くから瞳に移して、ミュゼットが叫んで停止を呼びかける。無論、怒りを買うように仕向けたのはラルズ自身だ。仕方のない処置であるし、ミュゼットに向ける手筈の影がラルズに向けられるのならば、さっきの発言と行動にも意味が生まれるというものだ。
・・そしてそれとは別に、これはラルズからミュゼットに対しての贖罪でもある。こんな程度では贖罪にもならないが、せめてもの罪滅ぼしだ。
目論見通り眼獣はラルズにご執心。完全な止めを刺そうと、影の先端をラルズに向ける。既に貫いている心臓部分と、もう一つの急所でもある頭部……脳みそに狙いを定めている。・・いよいよ、本当に終わりみたいだ。
死を受け入れて、ラルズは覚悟を決めた。二回目は走馬灯もこないんだな……なんてことを考えながら、影が放たれる最期の瞬間、思い浮かぶのはラルズの一番の宝物であり、最愛の妹二人の姿。
その姿を思い浮かべて、最後にラルズは瞑目した。準備されていた影が発射されて、ラルズは眼獣によって命を落とした――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――瞑目して、迫り来る影によって死ぬ覚悟を抱いて、その瞬間をずっと待ち続けていた。死ぬ瞬間、人はごく短い時間の間で、永遠とも思えるような感覚に陥り、時間が止まったような錯覚を感じると聞いたことがある。
ラルズも正にそれを体現している。目を閉じて、その瞬間がいつまでも訪れてこない。時間の終焉は長く、それでいてどこかいじらしい。ここまで長く猶予をもたらされると、いっそのこと早く殺してほしいという感慨を抱いてしまう。
死を少しだけ遠ざける、極限状態で引き起こされる現象。それを直に体感しており、折角意を決したのにも関わらず、死と生の間にいつまでも取り残されている。これではまるで生殺しだ。そんな配慮はいらないから、時間よ早く刻んでくれ。ラルズの死を、完成させてくれと、切に願う。
「・・・・・・」
ラルズの願いとは裏腹に、身体には何も変化が生じない。体感時間にして十秒近くは経過している。もうラルズの命は完全に奪われているはずだ。誰かが間に割り込めることも、干渉も不可能。邪魔する人物など誰もいない。
「・・・・っ……?」
いつまでもこない「そのとき」を不審に思い、ラルズは目を開くことを決めた。今更恐れることなんて何もない。どんな答えでも、ラルズは真っ向から受け止める。
どんな景色が広がっていても、どんな結末を迎えていても、ラルズは全てを肯定する。そのつもりでラルズが開いた瞳の先で――、
――眼獣の影は、ラルズに届いていなかった。
「・・・・ぇ?」
自らに向けられた殺戮の影の先端。そのいずれもが、目の前に広がっている「なにか」に防がれていたのだ。その「なにか」はラルズの足元――詳細に言えば、先程までラルズがいた地点。ラルズが倒れ込んでいた、負傷の海。つまり、ラルズの体内から体外へと流れ出していた、全身を覆い尽くしていた血溜まりの中から生まれていたのだ。
まるでラルズを守護しているような、血と同じ同色の物体。形状は細長く、血の針……という表現が一番適しているだろうか。見た目からして固い印象を受ける代物であり、事実、人の身体など簡単に貫通することが可能な眼獣の放った影の全てを、見事に真正面から受け止めて勢いを完全に殺していた。
足元の血溜まりから生成されている点と、見た目にそぐわない圧倒的な硬度。基本的性能は少し違くても、どこか眼獣の操る影と近いような性質を誇っている。そんな血の針たちが、眼獣の攻撃を全てせき止めていた。
「――……!!」
眼獣も想定外なのだろうが、ラルズにだって想定外なのだ。幻想……空想……白昼夢、そういった類に属しているような感慨を抱き、いっそのことラルズが目にしているこの景色は夢だと言われた方が遥かに現実的で納得できる。が、今目にしている事実が夢ではないと、本当が囁いている。
わけが分からず、無理解が脳裏を支配している。なぜ、どうして、そんな疑問を繰り返し続けるも、結局答えは見つからない。唯一わかるのは、まだラルズが死んでいないという点一つだけ。
と、次の瞬間――
「――えっ!?」
突然としてラルズの身体は解放された。解放された、というよりも投げ捨てられたという表現が適しているかもしれない。身体を浮かせていた影たちは引っ込み、支えを無くしたラルズはそのまま地面に転がる。浅い衝撃が全身に響くが、痛みも無視して攻撃の手を引いた眼獣を見上げた。
・・見上げた視界の先、眼獣の瞳は全て震えていた。愉しそうに歪ませるでもなく、怒りに染まって大きく瞳を見開いているでもない。初めて垣間見える感情を眼球に宿し、わなわなと震えていた。
――俺を、恐れてる?
勘違いでも見間違いでもない。間違いなく、眼獣はラルズに恐怖している様子だ。
虫の息同然のラルズを前にして、何を恐れるようなことがあるのだろうか。眼獣は得体のしれない化け物でも見るような視線をラルズにぶつけており、その視線の意味がまるで理解できない。理解を示せない時間の間で、眼獣は注意を向けながらゆっくりと後ずさりを開始していた。
その動きを視線で追っていたが、十分距離が離れていく中で、眼獣は自らの影の中へとするりと入っていき、姿が消失した。渦巻く影が目の前から完全に消え失せており、それ以降眼獣は再びラルズの目の前に姿を現すことは無かった。
「・・なに、が……どうなってるんだっ」
わけが、わからない。眼獣がラルズを見逃した理由も、恐怖の感情を乗せてラルズを見つめていた理由も、ラルズを守った血の針も、何もかもが理解できない。
視線を隣へ移せば、ラルズを守った代物でもある血の針が、存在を保てないように形を失った。仕事を全うしたようにひび割れていき、まるでガラスが割れるように音を立てて崩れ、そのまま血だまりの中へと吸い込まれていった。そこには相変わらず自らが垂れ流した血が広がっているだけで、先ほど見た代物たちはなんだったのか、答えを追求することも確かめることもできない。
「――ラルズっ! ラルズっ!!」
情報量が許容量を遥かに超えており、無理解が次々とラルズの脳裏に襲いかかる。そんな現実の世界から仲間外れにされていたラルズのもとに、叫びながら一人の少女が走り込んできた。後ろにはギルド兵が数人確認できる。助けに、来てくれたのだろう……。
でも、ラルズの肉体はもう手遅れだ。これだけ血を流したのだ。生き残れる道理がない。
眼獣がいなくなり、脅威が目の前からいなくなったからか、ラルズの張り巡らされていた緊張の糸が切れて、身体が倒れ始めるのと同時に、意識が段々と遠くへ沈み込んでいく。
助かったなどとは思えない。結局、傷が深すぎて回復など夢のまた夢。多少生き永らえただけで、眼獣に仕留めきられなかっただけで、ここでラルズの命は潰えるに決まっている。そんな意識が辛うじて残っている間に考えてしまうのは、ラルズを守ったあの力についてだ。
・・あの力、見覚えなんてないはずなのに……。
遠ざかっていく意識の終焉。時間の残骸を彷徨う中で、眼獣の攻撃からラルズを守ったあの力を、過去に見たことがあるような、変な錯覚に囚われる。どこか記憶の及ばない、遠い昔の話。確信とは程遠い感覚とは真逆に、幼少期の頃に見覚えがあると強く本能が示している。それも確か……一度ではなくて二度。
だけどそれ以上のことはなにもわからない。それ以上は、何も……
そのままラルズは意識を失った。自らの流した血の海の中へと倒れ込み、血がラルズを優しく出迎えてくれる。
肉体も、意識も、魂も、全部全部……血に溺れていく。