第二章43 愚者の解叫
解叫=かいきょう
「この、この――っ!」
必死ながらも可愛らしいかけ声。そんな声を上げながら、風の魔法を生み出す少女の向けられた両の掌の先、放たれるのは緑色の刃。直撃すれば確実に相手に鋭い裂傷を与える、掛け声とは真逆に可愛くない攻撃を打ち続ける。
もう一方の少女も片手の掌を同じ標的に向けて魔法を展開。こちらも絶え間なく連続で風の刃を生み出して攻撃を続けていく。
ミュゼットとセーラの風魔法。両者とも近付けさせない意志のもとに打ち続ける攻撃の波は、バルシリア小森林より執念深く追ってきた一匹の魔獣に向けられており、竜車への接近を防いでいる。
「――……」
迫り来る一匹の魔獣――眼獣は遠くから一方的に攻撃を放たれ続けて、影を用いて迫り来る風の刃を片っ端から蹂躙していく。移動用として扱っており、現在も迫っている自身の流動性の効く足場の方から生まれし、攻防一体の影。
鞭のようなしなやかさと、相手を縛り上げて動きを封じる紐のようにも扱える性質。そして極めつけは、相手の肉体を易々と貫通せしめることができる、槍に酷似した鋭い先端。現出できる影たちには限りがあるのか、現在確認できている影の本数は十五本。
いずれも驚異を覚えるには十分すぎる能力。一本だけでも相手を翻弄するには十分な力を有しており、その数は増えれば増えるほどに相手から希望の色を消し、絶望の色を浮かばせたる代物。
――作戦を開始してから数分が経過しており、初めの頃から状況は変わらないで続いている。地竜は負傷状態のグレンベルクに手綱を握られ、どうにか走行を可能にしている。全速力で都市へと向かい、その間竜車の走りを止めさせまいと、ミュゼットとセーラが魔法を放って遠くから眼獣と応戦。必死に接近を防いでいる傍ら、ラルズは心配の眼差しをセーラに向けていた。
セーラは左手の掌を眼獣に差し向けて魔法を放っている。そして差し向けられている方とは逆の掌、そこにラルズの腕が伸ばされている。棒立ちと大差ないラルズはセーラの掌を解かないように力強く握っている。この一見意味の無さそう状態が、今のラルズの精一杯の支援となっている。
・・悲しいことに現在のこの状況、ラルズは魔獣に対して何もできない。グレンベルクから譲ってもらった二つの短剣のみで、この武器種は近接戦でしか本領を発揮できない。弓なんかの遠距離に適した武器はこの場には存在せず、仮に存在してたとしても、ラルズは剣以外の武器種など触ったことなど皆無に等しく、真面に扱えないことは目に見えている。
ならば彼女たちと同じように魔法で応戦すればいいだけの話だが、ここにきてラルズの特異体質? が大きく影響を及ぼしている。
――魔法が使えない。この一点が大きいほどに仲間と状況の足を引っ張ってしまっている。
名のある名医に診断してもらっても原因不明。この世の理から逸脱していると認定され、幼少期の頃から現在に至るまで、ラルズは魔法が使えないとして診断を受けた。魔力は体内に満ちているのに、肝心の魔法が使えない。皮肉という他言い表せない。
魔道具や魔石の類は本人に魔力が備わっている点からも問題なく使用できるので、全く魔法と縁がないというわけではない。だがそれを考慮したとしても、今の防衛戦線においては半置物状態と変わらない。自分で言うのも情けない話だが、この場にいて戦える人間の中で一番役に立たないのがラルズにあたるだろう。
が、だからと言って何もしないでただ傍観していることなど性分上認め切れない。仲間たちが戦っているのに、自分だけ安全な場所でただ事態の成り行きを眺めているだけなど、自分で自分を許せない。と、自身の正義に応えるべく頭を悩ませていたのだが、これといって具体的な名案も浮かばずじまい。
そんな光明の兆しが見えない中で、セーラからの助言を頂いて現在に至る。セーラの柔らかな手とラルズの手が力強く結ばれて連結されている点だ。
「・・これでいいのかな、セーラ?」
「ええ、大丈夫よ。ちゃんと魔力は渡ってきてる。おかげでこうして魔法が使えるわ」
ラルズからの案じる言葉にセーラは返答する。ラルズが今行っているのは、他者に魔力を分け与えている行為。つまり、ラルズの体内に満ちている魔力の一部を、セーラに譲渡していることになる。
前述したとおり、ラルズは魔法が使えない。属性魔法の類も、黎導も持ちえないのであるからして、ラルズはそれまでの生涯で一度として魔法を使用したことが無い。が、そんな世界全体の中でも稀有な事実の体現者とは別物として、体内にはしっかりと魔力を携えている。
水の入った浴槽をイメージするのが一番事象的に適しているだろう。水の入っている浴槽をラルズと考えて、その浴槽から水を抜く――今回で言うと魔力に当たる。腕を出口として定めて、出口の先の新たな魔力を貯めておける浴槽。つまり、自身の浴槽に張った水を、セーラの浴槽の方に流し移す。
原理としてはこんなところだろう。具体的な想像に頭の理解が追い付いているからか、さしたる問題も無く目論見は無事に達成されている。ラルズの使わずじまいの魔力。宝の持ち腐れ、無用の長物。それらを有効活用できるようにと、セーラの方へ捧げる。
既に彼女はバルシリア小森林での活動において、かなりな魔力を消費している。魔獣の索敵と、森に入っていた行方不明だったティナとリオンの残留魔力の捜索。加えて、ラルズとグレンベルクを助けるために放った特大の風。森に入ったメンバーの中で、今最も体内の魔力が枯渇しているのはセーラだ。
彼女の事情とラルズの事情。負と負の事情が重なったものの、こうしてラルズも間接的にはあるものの、眼獣を退けることに一役買うことに至っているというわけだ。
「でも、こういう方法が確立されているなら、それこそ遠慮無しに魔力をセーラに差し出して、さっきみたいな特大の魔法を放ってもいいんじゃない? 失った分の魔力に対しても、十分お釣りがくると思うんだけど……」
セーラから魔力を譲渡する際の条件として、少しずつ魔力を分け与えるようにお願いされ、少量ずつ魔力を伝達している。
「厳しい話よ、それ。他者から魔力を譲渡してもらうってのは確かに助かるわ。でも、それは限度や境目を自覚しておいて初めて行って良しとされる危険な行為なの。いくらラルズ自身が構わないと口にしても、私は許容できない。そんな芸当を仮に行ってしまったら、私以上にラルズ……貴方の身体が悲鳴を上げることになるわ」
「どういうこと?」
空のグラスに液体を注ぐように、繊細で小さな流動の中でラルズはセーラに魔力を渡している。だが、下手に時間をかけるよりも、一気に大量の魔力を彼女に渡した方が時間も過度に消費しないし、他に手を回せることもあり効率的なはずだ。折角なら活動できるギリギリの範疇まで魔力を彼女に渡して、有効的に役立てて欲しいという思いもあり、ラルズはセーラに訴える。
だが、そんなラルズの提案は、提案したラルズ自身を心配するセーラの発言によって揉み消される。疑問が解消されないラルズにセーラは横目を向けると、魔力の仕組みについて詳細に語り出した。
「いい? 肉体から魔力を無くせば欠乏症に陥って不調を引き起こす。欠損した魔力は血と同じで、体内から無くなれば無くなるだけ身体に影響を与える。最悪死に至る……ここまではいいわね?」
「うんっ」
欠乏症は体感したことこそないが、症状としては眩暈や吐き気を催したり、意識が混迷して真面に立っていることもできないらしい。一般で用いられる他の単語としては、魔力酔い……という名前で周知されている。
「血だって失えば身体に異常をもたらすし、血も失い続ければ確実に影響が現れる。それと一緒で、仮にラルズの魔力が瞬間的に一気に吸収したとする。そうなれば、体内に現存していないといけない、必要不可欠な成分が一気に失われることになる。・・とすれば、そのあまりにも急激な状態変化に、肉体の変化が追い付かないのよ」
「肉体の変化が、追い付かない?」
セーラの話した言葉尻の内容を今一度口元で唱える。セーラは短く「ええ」と答えながら頷くと、未だに話を理解を示し切れていないラルズに対して注釈を続ける。
「考えてもみて。命の源として血と同一の価値を図っている魔力。それが一気に体外へと流れ出たとして、無事でいられるなんて有り得ないでしょ?」
「それはまぁ確かに……」
魔力は目に見えないから想像しずらいが、血ならば理解できる。肌に傷がついて皮膚を貫通していれば血が体内から出口となる部分から大量に流れ出てくる。そして血を流し続ければ生命活動の維持は困難であり、放置を続ければ個人差はあるものの、遅かれ早かれやがて死ぬ。
「魔力も一緒よ。体内にないといけない重要な生命源ということに変わりはない。血という代物が目に見える身体的エネルギーだとして、目に見えない代物として存在している魔力はいわば精神的エネルギー。どちらか片方でも大量に失えば、それだけで命を保つことができなくなり、死地に到達してしまうわ」
被害をより正確に、瞬時に理解できる血は身体的エネルギーとして分類され、目には見えない――だが確実に体内に流れていて生命活動を支えている魔力は精神的エネルギーとして分類、働きを各自行っている。体内に存在する、生命を肯定する大事でな性質であり、生物全体を統治する最大にして重要な二強というわけだ。ただ、
「その理屈は理解できるけど、だったら活動に支障や影響をきたさない程度の残留魔力を残しておけば、さっき口にした俺の提案もあながち間違いではないんじゃ……」
「言ったでしょ。肉体の変化に身体が追い付かないって。それは簡単に言えば、その急激な変化に対して肉体が慣れていないってことなのよ」
「慣れ?」
「大きすぎる減少に、肉体が適応できないってことよ」
「――あ、そういうこと……」
慣れと適応。その二つの単語を耳にして、ラルズの疑問の霧が霧散していく。セーラが口にしていることはつまり、肉体の負荷と順応を示しているんだ。
熱い地域や寒い地域にずっと身を置いているときに抱く感慨。他にも未知の場所や環境に初めて身を乗り出した際には、まだ順応しきれておらず、心や身体に多くの疲れやストレスが圧しかかってくる。原理としてはそれと近しいだろう。
その上で今回の議論に照らし合わせてみる。一気に体内から魔力が体外に流れてしまった場合、身体の中を過重の負荷が襲い、急速で急激な魔力量の増減に肉体が適した反応を示してくれない。慣れ……つまり、普段から魔力を大きく失ったりしている経験とかが無い以上、仮にラルズが魔力の大半をセーラに渡した場合、肉体と精神に対しての反動がとてつもなく大きく、一気に絶不調へと落とされるのだろう。
「・・やるとしたら本当に追い詰められたとき限定だね。今はまだ、お荷物になるのは御免かな」
「理解したみたいで結構よ。・・さ、勉強の時間はこれぐらいにして、集中するわよっ」
今のラルズの行っている仕事は、簡単に言えば魔力を他者へと分け与える供給係や補給係のような位置に該当する。ドライな言い方をすれば、それ以外は役に立てていない。いざとなれば、身を削ってでも誰かに力の源を捧げる所存ではあるが、それはあくまで最終手段だ。
いざってときに動けないことが大きな致命傷になり得る場合もある。今はまだラルズたちに有利に状況が動いているけれど、たった一手でこの現状が覆ることだって可笑しくない。魔力を失って半戦闘不能へと陥れば、事態の変化への対応は確実に遅れてしまう。
セーラとの閑話を終了し、迂闊な考え方を否定して奥底へとしまい込んだラルズ。眼獣と竜車との間の距離は、明確に縮まっている様子を見せていない。移動に全力をつぎ込んでいるが、ミュゼットとセーラ、両者の風魔法によって妨害され続け、防衛を始めてからはそこまで互いの距離も変化していない。
後ろを一度振り返れば、都市の姿が先程よりもくっきりと鮮明に映り込んでいる。ミュゼットとセーラの風魔法に邪魔され続けている中で、眼獣に対しては明確な傷は付与できていない。しかし、いくら外傷を与えることができなくても、ラルズたちの目的はあくまで都市へこのまま逃げ込むこと。
無理をしたり、欲をかいて手痛い一撃を与えようとは一切考えていない。重要なのは逃げおおせることであり、眼獣を倒そうという考えは、既に過ぎ去って通り過ぎている街道に捨て置いてきた。
命を優先に。その考えを全員で共通して実行している。
繰り返さえられる風の魔法。その風を打ち消す影の刃。苛烈で連続に襲いかかる風の弾幕は、さしもの圧倒的な力量を誇っている眼獣ですら時間の経過に頭を悩ませている。対応が面倒くさく、鬱陶しいと感じているのか、対処を続ける傍らで不機嫌そうに眼球たちは揃って目を細めている。
決して相手の領域内に収めないとして奮闘を続ける少女二人の頑張りはとても大きい。現に眼獣は防御一辺倒。移動を続けながら影を操るのも苦労するのか、こちらに対して仕掛けてくる気配も感じられない。進展という進展が両者共々訪れず、眼獣側からしたら不快、ラルズたちからしたらいい意味で停滞を生み出し続けられている。このまま続いていければ――、
「――……!」
「――! 魔獣がっ……!?」
このまま続いてくれると嬉しいという淡い考えは、眼獣の動き一つで一蹴された。
事態の変化は突然に、予告なしに訪れる。都市までの距離、ラルズたちのゴールが迫ってきていることを眼獣も把握したのか、行動に変化が生じる。それまでミュゼットとセーラの風魔法を丁寧に捌き続けていた眼獣であるが、途端に別の行動を取り始めた。
そして何より、ラルズを始めとしてミュゼットとセーラもその行動に面食らってしまった。到底そんな手段を用いるとは思っておらず、正に不意の一手と呼べる。
眼獣は巨眼を閉じていた。見た者に寒気を及ばせる大量の眼球が全て閉じられ、気色の悪い景色がラルズの視界から外れる。そして一番驚愕したのが次の行動。それが、
眼獣が影を操ることを辞めたのだ。それ即ち、それまで自身に向けられていた風の刃を防ぐことを放棄したことと同義。その行動の先は当然、自らの身体が傷つけられていく結果に繋がる。
「――! ミュゼット、打ち続けてっ!!」
「わ、わかってるっ!」
動揺を誘われた後、再び行動を起こすセーラ。そして彼女に呼びかけられてミュゼットも再び魔法を展開する。風の緑刃は全て魔獣に命中している。決して安くない刃の嵐。自らの眼球を全て閉じて、視界も完全に塞がれている。細かい刃は全て閉じられている瞼に衝突して、血が滴り落ちて点々と街道に赤い模様を落とし込む。
行動の代償を街道とその身に刻み込む眼獣。だが、犠牲を厭わずに突き進む行動が、ほんの少しだけ竜車との距離が狭まる。移動に力を注いで、一々防御を試みることを諦めた結果は、事態を大きく動かす。
眼獣との距離が縮まってしまい、身を挺して距離を詰めた眼獣の頑張りが報われたのか、我が身を駆使して敵の防壁を突破したことを讃えて褒めるように、足元の影が歓喜に満ちた動きをしていた。
「影、が……っ!」
「ミュゼット、一度そこから引いてっ!」
射程内に入ってしまったのだ。眼獣の操る影が及ぶ範囲内に。竜車の最後方に位置するラルズたちが、ついに影を伸ばして捉えられる距離へと至ってしまった。その距離はおおよそ二メートル程度。
都市まで残り数分であり、耐えきれれば実質的に勝利となるこの状況は、正しく正念場となっている。
ラルズは眼前に迫り来た眼獣を前にして、グレンベルクから譲ってもらった短剣を引き抜いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
影の射程圏内に眼獣が迫り来て、ラルズは急増の武器として頂いていた短剣を鞘から引き抜いて、荒ぶる影の動きに注目する。
捨て身の覚悟で吶喊してきた眼獣。細かい風の刃をその身に浴び続けながらも敵に近付こうとする覚悟は正に想定外。生み出して連続で放つ風の魔法は、確かに練り上げた魔力が少ないこともあって、威力は通常の代物と比べると些か見劣る。が、それでも肌を切り裂く攻撃に変わりはなく、決して無視はできない。
防御に夢中にさせようと尽力していたこちらの作戦。威力の大きさよりも連続性や細かさを優先した攻撃手法。その隙を付いた眼獣の行動を褒めるしかない。その身に傷を負いながらも状況を有利に運ぼうとする気概は圧巻という他ない。
「ラルズ、魔力はもういいわっ! それよりも、ミュゼットの傍で守って上げてっ!」
「え、でもセーラがっ――」
「早くっ!!」
「・・わかったっ!」
ミュゼットの援護に回るように指示を飛ばすセーラ。しかしそれは彼女にとって大きく危険が伴う判断にもなる。その判断に従うべきか悩みを見せるラルズであったが、有無を言わせない彼女の檄を受け、身の安全を心配する気持ちよりも彼女の意思を優先することにした。
「ミュゼットはラルズの後ろで魔法をお願いっ! 私は魔獣を近付けさせないようにするから、ミュゼットもラルズを援護してあげてっ!」
「う、うんっ!」
竜車の最後方。奥へと引っ込んでいるティナとリオンには恐らく影の射程外。影が真っ先に潰そうとするのは、竜車の守護に回っており、妨害を続けるラルズたち三人になるだろう。
移動しながらの影の扱いは不慣れなのか難しいのか、バルシリア小森林で一度対峙したときと比べると影の動きは比較的おとなしい。速度も動きも目で追える範疇。が、だからといって全員対処できるとかと言われると話は別だ。
幼少期から鍛錬を続けていたラルズ。状況に物怖じておらず、冷静に対処を続けるセーラ。この両名はどうにか影の舞踏に抗えるが、ミュゼットは違う。
指示されるとおりにミュゼットの傍に近寄り、彼女を守るように身体を突き出す。短剣を握り締めて、迫り来る影の先端を切り捨てようと力を籠め直す。
敵側有利な状況に陥り、緊急で対処を余儀なくされる。セーラの手を握って魔力を流していたラルズも、戦闘面で不安な面が如実に表れているミュゼットの方へと回る。影の動きが迫り、射程内に入ったことは、逆に言えばラルズの短剣――もとい近接戦が役に立つ場面に変わったことでもある。
肝心の本体は竜車よりも後ろの位置で追走を続けている。影を使役して敵を蹂躙しようとする試み。ゆえに眼獣本体までには短剣の一発を当てに行こうとしても、距離が足りない。万が一届いたとして、無策でただ突っ込めば返り討ちに遭うのがオチだ。
優先順位はあくまで魔獣の撃退ではない。それをできれば望ましいが、実力差がある以上下手なことをすれば更に状況が悪化するだけ。
あくまで影を伸ばした射程の中にラルズらが入っただけで、その範囲もティナとリオン、そして傷だらけのグレンベルクと、何より都市へ向かっている重要な足でもある地竜には届かない。致命的地帯に踏み込んだわけではないし、投げ出したり諦めたりするにはまだ早過ぎる。
「――っ!」
セーラは魔力面が心配になるが、それまでラルズから吸収してきた魔力を軸として風を生み出す。いくらラルズから魔力を分けてもらったとはいえ、それでも保有量としては微々たるものだ。都市につくまで持てばいいのだが、そこは時間との勝負にもなる。
ミュゼットの前に出て短剣を軽やかに振り続けて影を一つずつ切り伏せていく。短剣なんてあまり使用したことも手にしたこともない武器ではあるが、振り方や動かし方は剣とさほど大差は見られず、数ある武器種の中ではかなり馴染む方であると実感する。
ミュゼットも後ろから風を飛ばして影を殲滅させるのに協力してくれている。遠距離からの魔法攻撃においては、自身の無さとは裏腹にかなりの命中精度を誇っている。間合いと周囲を良く見渡せる冷静さを備えていれば、本領を発揮していない影では彼女に届かない。
近距離と遠距離。それぞれの特質と弱点を互いにカバーし合う戦い方。ヘッドハウンドのときと今回、都合二回目の共同戦闘ではあるが、かなり相性保管もされているので、随分とやりやすい印象だ。
一方でセーラの方へ視線をちらりと送る。彼女を見れば、影が届くことを恐れておらず、元々の立ち位置よりも前に身を置いており、残り少ない魔力を駆使して防衛を続けている。そして何より、今まで気づかなかったが、彼女の魔法の扱いはミュゼットが口にしていた通り、遥かに卓越されているものだと理解した。
――驚くべきことに、彼女の周りに伸びる影の一つ一つが、空中で跡形もなく消え失せているのだ。影に手を直接下している様子もない。ただ、彼女の周りで鋭い風斬り音が絶え間なく響いている。
「セーラ、それって……」
「風を上手く操って周囲に展開して、近付く代物全てを切り裂いてくれる風の防風よっ」
防御に特化した、半自動的な風の包囲陣。その効力は凄まじく、近付く全ての影に平等に襲いかかる。彼女の命を奪おうと迫り来る影の全てが、彼女に到達する前に消え失せている。
風を扱えることに長けているセーラだからこそ行える風魔法。個人差が多く乗り移り、反映される魔法の生態。まさかここまで凄い芸当を生み出すこともできるとは思えず、彼女の魔法への理解度は極めて高く、思わず目を見張ってしまう。
「そんなことまでできるんだ……。・・だったら影の迎撃はミュゼットに任せて、迫り来る影から守る盾として使ってもいいんじゃ――」
セーラの周りに三人とも集まり、迫り来る影の数々をミュゼットに任せて打ち払う。魔力をセーラに流し続けて、セーラには三人を守る風の防壁を作り上げてもらった方が良いのではないかと提案するが、そんな考えは甘いものだと思い知る。
――突如として、セーラが激しく吐血したのだ。
「・・っ……!」
「――セーラっ!!」
膝をつきガクガクと震え、息も激しく乱れており、肩で息をしている状態。目はどこか虚ろ気味で覇気も無く、今にも倒れそうな気配を醸し出している。吐血だけでなく鼻血も零れており、正に命の境目を彷徨っている危険な印象。駆け寄って状態を確認しようとするラルズであったが、手を差し向けて来るなと拒絶する。
「・・風の鎧は、展開する代わり、に……消耗が激しいのっ……。だから、できれば使いたくなか、ったんだけど、仕方、ないわねっ……!」
常に展開し続ける、魔力がある限り発動が継続されるという風の鎧。消費する魔力量が大きく、彼女はその代償を身を持って証明する。竜車に手を付き、ふらふらとした様子のまま立ち上がって頭を振る。そんな状況においても、彼女は眼獣に対して風を放ち続け、更に風の鎧の展開を途絶えない。
吐血も止まらず、限界寸前。いや、とうに限界など超えている。魔力ももう残り少ない中で、それでも眼獣の進行を止めようと、文字通り血を吐きながら必死に竜車を守ろうと奮闘している。色の抜けた瞳には再び力強い熱が宿っており、その様子にラルズの心が震える。
「・・ミュゼット、位置を前に動かそう。影が到達する時間が大幅に近くなって、被害が生まれるかもだけど、俺への援護は控えめにして、セーラのこと援護してあげてっ」
たった一人で、満身創痍となっているのに、それでも気を失わずに全力を持って竜車を死守している。血を流そうと厭わない。吐血や震えなど、既に欠乏症の末期の症状が引き起こされている。これ以上魔力を消耗してしまえば、最悪死んでしまう可能性も。それなのに、彼女の行動が雄弁にラルズに語りかける。
心配するなと、やるべきことをやれと訴えてくる。言葉はなくても、その身一つで在り方を示し続ける。今にも崩れそうで、負傷に塗れて儚いその姿は、誰よりも勇ましい。
・・勇姿と、そう呼ぶべきに相応しかった。その姿に、応えなければならない。
「怖いだろうけど、俺が絶対にミュゼットを守るから、ミュゼットはセーラを守ってあげてっ」
「・・うん、任せてっ!!」
自分の役回りを自覚して、身を粉にして戦い続けている。この姿に感銘を覚えないことなんて有り得ないし、彼女の頑張りに報わなくして、仲間などと口になどできない。
彼女は正に命を懸けている。だったら、多少危険が広がる地帯に飛び込むことに躊躇もない。与えられた役割を、ラルズも成すべきことを取り仕切るだけだ。ミュゼットにセーラを助けてもらって、不破が生じる影の攻撃全てを叩き潰していく。
竜車の奥から最後方の先頭に移動する。セーラの攻撃の頻度は著しく低下してしまっている。その分の穴埋めをミュゼットにお願いして、俺は防御の核ともいえるミュゼットを守るために影の動きに注力する。
手の中の短剣を振るい、ことごとく這い寄ってくる影の全てを駆逐していく。切り捨てられて霧散していく影を量産し続け、常に視界を動かして危険度を更新する。魔法も使えない今、ラルズが頼れるのは己の身体技術だけだ。縋りたかった魔法なんて勘定に入れるな。それ以外の取り柄なんて持ち合わせていないのだから、全力で己を遂行するしかない。
ミュゼットの奮闘と、ギリギリまで仕事を成し遂げようとするセーラの貢献。二人のおかげで、眼獣との距離は狭まらない。影をどれだけ繰り出そうとも、人体に届くよりも先、生み出す風の刃と短剣が影を無力化する。
一瞬も気を抜くことができない。一度でもどこか不備が生まれれば、その僅かな隙を眼獣は確実に狙い、風穴を開けて潰しにかかる。神経を鋭敏に働かせて、細胞一つ一つを刺激して行動を最適化――最良の判断を下して次々に行動を磨き続ける。
その繰り返しの果てで――
「――お前ら、もう少しだっ! あと少しで都市に到着するっ!!」
背後から鼓膜に滑り込んできたグレンベルクの叫び。まもなく都市に到着するという吉報を受けて、刻一刻と窮地に追いやられる状況に光が差し込む。
「ふんば……り、どころ、ねっ!」
鼻血と吐血を服の袖で拭いながら、最後の最後まで自らを奮い立たせて身体を酷使するセーラ。命の瀬戸際、その間際でさえも、彼女の意思は揺るぐことなく、全身全霊で眼獣に魔法をぶつけ続ける。ミュゼットが援護することで風の鎧を一時的に解除したこともあり、魔力の減少は少し緩和されている。
――だが、当たり前のことだが限界も既に迎えて、その境界すらも飛び越えてしまっている。どれだけ発破をかけようと、血反吐を吐き捨てながら肉体を鼓舞しようとも、火を灯し続ける精神や魂とは反対に、己の肉体は先に結果を提示してきた。
「が――っ……!?」
「セーラっ!!」
一際気合を入れ直したセーラが、先の吐血とは比べ物にならないぐらい、命の源を口から吐き出してぶちまけた。足に力が入らず崩れ落ち、呼吸も真面に行えていない。寒さを覚えるように全身が小刻みに震え続け止まらない。一度線の通った鼻血も再びドクドクと流れ落ち、セーラの周りが真っ赤な血で染まっていく。
魔力の消耗によって誘発される、欠乏症。命の危機に陥ってしまう、欠乏症の一番深くて危険な状態。その域に到達してしまい、これまで誰よりも活躍し続けていた彼女のタイムリミットを表現していた。
「しっかりしてっ。死んじゃ嫌だよ、セーラっ!!」
大量の鮮血と、自らが生み出した鮮血の絨毯にぐったりと倒れるセーラ。その彼女に駆け寄り、身体を揺さぶって状態を確かめるミュゼット。泣きそうな表情と声音。力なく横たわるセーラの瞳に、ミュゼットの悲しそうで悲痛な表情が映り込む。が、他者を気遣ってしまったことが影響して、瞬間的に眼獣への注意が外れてしまった。そしてその隙を見逃すほど、眼獣は甘くなかった。
「――しまっ!」
振るう短剣の射程外。追い付かず、一本の影を取り逃がしてしまったラルズ。その影が狙う先は、
「――! ミュゼ、ットっ!! 後ろ――!」
「え――?」
心配を向けるミュゼットに発せられた、血に染まった少女の警告。背後を注意しろと呼びかけられたミュゼットは後ろを振り返るが、反応は間に合わない。既に放たれた影の一本が迫り来ていた。
「――っ!」
間に合わない。そう悟ったのだろう。先端が鋭い影が喉元へと伸びてくる。回避を行うにしても、魔法で防御しようにも間に合わない、確実な一撃。その先端が狙いを定めるミュゼットに無抵抗に貫き、彼女の喉を貫通して――
――ラルズは短剣を力を籠め直した。そして、
「リー、フっ!!」
決死の叫び。息も絶え絶えの状態からの、死に瀕しているセーラの振り絞った一声。位置からして、ミュゼットに背後から迫る影にいち早く気付いたセーラは、瞬間的に詠唱を叫ぶ。喉奥から引き出した叫びに呼応した小さな風の刃が、ミュゼットの喉元に伸びて命を奪おうとする影を切り裂く。間一髪の瞬間であり、セーラの活躍によってミュゼットは無事に至る。
今の魔法で完全に意識が事切れたのか、セーラは力なく瞼を閉じた。意識を失う直前に、最後の力を振り絞ってミュゼットを救ったセーラ。だが――、
悪辣に嗤う眼獣の瞳たちは、防がれることも見越していたように、知恵を働かせていた。
竜車の真横。そこから、何度も目にしてきた影が一本、姿を現した。
「あ――」
その影にミュゼットが気付くも、今度こそ間に合わない、完全に虚を突かれた一撃。先の一発も、この死角に隠されていた一発を確実に通すための布石。決定打に至らしめ、自らの進行を阻止した少女らの命を確実に奪い去るために、溜めて潜めていた必殺の一撃。
伏線の一発でもあって、通ればそれで良しとされる計算された一撃。防がれれば死角からの影で、防がれなければその時点で命に終止符を付けられるという、眼獣の知恵の高さを思い知る、完璧な一手。
自らが腹積もりした、攻撃でもあって罠でもある攻撃。その策略に押し上げられて、今度こそミュゼットとセーラに影が伸びる。抵抗も、回避も、防御も、誰の阻止も間に合わない。誰からしても予想外の一発であり、そして勝利を決定付けてしまう類の一発。
反応など、誰にもできない。誰にもできない……はずだったのに――
「――え?」
終わりを覚悟したミュゼットの瞳が、驚愕に染まって景色を眺めている。自らに差し迫る殺戮の一撃は、目の前で霧散して形を消失していたからだ。
「――……!?」
勝ちを確信していた眼獣も、その景色と訪れた結果に驚愕しているのか、眼球たちが見開いている。使役している影も、宿主の動揺を表すようにその場で動きを停止していた。眼獣の目にする先と、ミュゼットの視線が重なり、目の前に映り込んだのは、影を切り伏せた青年の姿。
影を短剣で切り裂いてミュゼットらを救ったラルズ。自信満々に、迷いもなく、一切躊躇することなく振り切られた短剣。その短剣は見事に影を捉えることに成功して霧散させる結果を生み出し、二人は無事に済んでいた。が、彼女らの無事とは別として、その結果を素直に喜べないでいた。
正しくは、喜び以外の要素が胸中を満たしているからだ。
それは他でもない、影に対処をしたラルズ自身であった。彼の瞳も眼獣とミュゼット同様に見開かれ、驚愕の色を浮かべて震えていた。それは、
「・・・・今、俺……っ?」
自らの手で、決定的でもあった影の脅威を振り払ったラルズ。そうしたのは自分自身のはずなのに、自分の意思で影を退けたのではなかった。
そしてそれは、反応が早かったとか、反射神経が優れていたとか、そういう次元の話とは、どこか違う。
まるで、自分の中の知らない自分に突き動かされたような、正体のわからない不可思議な感覚。
その感覚の答えは、果たして――……