第二章40 復讐と贖罪
・・眼前に映るセーラの姿。そんな彼女はいつの間にか地竜を操作していた御社台から移動しており、怒鳴り散らかして感情をぶちまけるグレンベルクの右頬を叩いていた。その様子を目にしていたラルズも目を白黒とさせ、一緒に目撃していたミュゼットも、目の端に涙を浮かばせつつも目を丸くしており、近しい反応を見せていた。
「セー、ラ……」
「――心配しないで、ラルズ、ミュゼット。運転は地竜に任せてある。賢い子だから、暫く手綱を握ってなくても、私たちに配慮して街道を進んでくれるわ」
状況に意識が追い付かず、勝手に喉の奥から零れたセーラの名前を唱えたラルズと、呆然として見つめているミュゼット。そんな二人に対して、まったく気にしていない、場違いな感想を口にしながら、心配いらないと微笑を浮かべている。
グレンベルクの頬を引っ叩き、ある種苛烈な一面が見て取れたその姿は、初めて目にするセーラの一面であった。
司書館に長い時間滞在しており、それこそ閉館のときまで本を読み進めている時間もあると本人も口にしているほど、本に囲まれて一日の大半を過ごしているセーラ。ミスウェルの屋敷に滞在していた頃、随分と本を手にしており知識を深めていたラルズ。自分で言うのも変な話だが、中々な読書家だと自負しているラルズである。が、彼女はそれ以上の位にいると該当される。
感情をそのまま口や行動に表すミュゼットとは違い、いわば彼女は真反対――物静かな姿がとても記憶と心に残っている。
理知に長けているような空気感と面貌。落ち着きのある言動と、同い年の中でも特段大人びているような、そんな印象。他者に向ける口調や語気は少し強目だが、その実言葉の内には刺々しさや粗暴さは感じられない――そんな女性だ。
気の強い面を知っていれば今の行動も不思議には思えない。それでも、誰かに直接手を上げたりといった様子はこれまで目にしたことがない。行動で示すよりも、論を用いて他者を説得する手法を選択する彼女。実際、ミュゼットの行動を良くないと判断して、言葉で窘めたりする瞬間なんかは数回目撃している。
繰り返すようだが、だからこそセーラの行動は意外でしかなかった。直に直接手を加えて訴えるやり方は、完全に想定外であったから。
そしてその予想外は、突如として横合いからビンタをされた張本人――グレンベルクがもっとも衝撃を味わっているに違いない。突然のことに困惑し、倒れ伏せた体制のまま、やがて事態を把握して口元の血を腕を動かして拭うと――、
「・・何の、真似だっ?」
低く、普段の声の調子を更に一つ落し、目線は合わせずに下を向きながら問いかける。問いかけの相手は当然、自らに危害を加えたセーラ以外に他ならない。目を合わせずとも、その声音に含まれている感情の類がなんなのか、容易に想像がついた。
そんな、尋ねられれば怯んでしまうような怒気を含めた質問を前にして、セーラはグレンベルクを文字通り見下ろして、淡々と……挑発するように言葉を吐き捨てた。
「そんなに叩かれたのが意外だった? 普段の貴方なら、簡単に察知できて躱せたはずだけど、負傷しすぎて私の叩きすらも避けられなかったのかしら。だったら謝っておくわ。ごめんなさい」
挑発するようにではなく、その言葉には間違いなく挑発している意志が備わっている。そんな、ある種グレンベルクを馬鹿にしている謝罪を受け、彼は静かに立ち上がり目線の高さを揃える。次いで、右目で睨み付けてセーラに対して威圧感を放つ。
――だが、そんな威圧を前にしても、セーラは一切怯んだり気圧されたりといった様子を見せない。まるで恐れておらず、互いに互いを睨み付けており、その空気は正に最悪。先のラルズとミュゼットの間の距離で取り巻いていた空気よりもなお重い空気が、狭い竜車内全体に充満していた。
「話はずっと御社台の方で耳に入ってたけど、貴方……本当に大馬鹿みたいね」
「――あ?」
「そんなボロボロの状態で、さっきの魔獣に戦いを挑む? ラルズやミュゼットが言った言葉が聞こえなかったのかしら。傷も回復してなくて、未だに命は危険。真面に走り回ることもできず、心は荒れ果てていて物事を正しく見ることもできない。誰が見たって敗北するに決まってる。なのに、貴方はそれに気づかない。・・いや、気づいているのに事実から目を背けている」
「・・俺が、目を背けている?」
先の会話の中身をセーラなりに総括してグレンベルクに伝える。
「俺が、何から目を背けてるって言ってんだっ! ああっ!?」
荒々しく、血反吐を吐きながら同じことを聞き返すグレンベルクに対して、セーラはそんな彼に冷静な態度と姿勢で接し、「ええ」と短く頷きながら言うと、右手の指を見えるように二本立てて続きを繋げる。人差し指と、中指の二本。
「まず貴方は既に二度死んでいる。周りのおかげで命は無事に繋がっているけれど、単身であれば貴方はもう二回も命を失っているわ」
「二回……っ」
「そうよ」と呟くと、指を全て畳んで詳細を続ける。
出口へ向かう途中にラルズが事情を説明していたこともあり、セーラもその辺りの流れについて詳細は把握していた。
「だってそうでしょ? 既に貴方は二度も敗北している。一度目は私たちが森の出口に到着している頃、背後からの死角を突かれて全身をめった刺し。まずこれが一度目」
畳んだ二本の指のうちの一本――人差し指を立てて、分かり易いように動作込みで説明を補助する。まるで赤子に一つ一つ丁寧に教えるような行為。そんな行為一つすらも、今のグレンベルクからしたら怒りを助長させる要因でしかなく、目障りで仕方が無いのだろう。怒りが沸々と煮え滾っているのがわかり、血管が今にも切れてしまうぐらいな様子。
「そして二度目。そのあとに魔獣に情けをかけられて放置扱いされて、やっとの思いで起き上がって再び対峙。無理をすれば勝てるなんて都合の良い妄想を膨らませて、結果はあえなく撃沈。一度目と同じ結果。間にラルズが割って入らなかったら、そのまま呆気なく殺されて、森の肥料にでもなってさようなら。どう、間違っているかしら?」
立てた二本目の中指。敗北の詳細をそれぞれ説明する。そんなセーラの分かり易い説明――自身の敗北した流れを伝えられ、グレンベルクの激情が更に膨れ上がっている。
怒りが行動に伝播している。堪え切れない怒りの証拠として奥歯を噛み締め、強く握られた拳には爪が深々と食い込んで血が流れ出ている。全身で怒りを表している彼の様子は、今にも爆発しそうなほど。
「何か反論でもあるかしら?」
「てめぇっ……!」
反論があるのなら言ってみろと豪気な態度を示すセーラ。それに対して声を荒げるグレンベルクであったが、彼の口から反論が出ることはなかった。明確な理由も、体のいい言い訳も、何も出てこない。反論してやると息巻いている胸中とは裏腹、突き付けられた現実を前にして、何も言葉が喉の奥から出てこない。
「ないわよね? 全部真実なんだから。否定する箇所も、間違いっている事実もどこにも無い。私が今話した内容が全てで、敗北したっていう負けの勲章と、敗北した事実は覆せない」
「――……」
「そしてそんな悲惨な結果を前にして、ラルズやミュゼットが心配するのなんて当然じゃない。貴方は彼等のことを友達だと思っていなくても、反対にそこの二人は貴方のことを本当に友達だと思っている。友達が死ぬとわかっている現場に再び送り出そうだなんて、そんなことできるわけないでしょ?」
事実を並べてぶつけて、先程までラルズやミュゼットが唱えていた事実を再び突き付ける。違うところは、ラルズとミュゼットが事実を陳列していたのは一緒だ。が、どこか理屈を唱えることと変わり、感情が酷く刺激され、感情論が前面に押し出されていた。それに対してセーラは違う。
一つ一つ丁寧に、起こった流れをそのまま口にしてグレンベルクに突きつけている。口にしている内容は同じでも、衝撃や通りがまるで違う。
真実から逃がさないように、逃げ道を塞ぐように、セーラは冷静に事実のみを口にする。感情も情緒も、一切含まれない。ただ内容を羅列し続けて、自身の置かれている立場をはっきりと自覚させるような、静かで苛烈な物言い。
それを受け、グレンベルクは最初こそ反応を返していたが、今ではすっかりと黙り込んでしまっており、先の激情が消沈してしまっている。プライドをズタズタにされ、負けの事実だけが彼の中で反芻されており、横顔から覗かれる琥珀色の片眸が激しく揺れ動いている。
「・・復讐を志すのは個人の自由よ。復讐に限らず、物事を行うのにあたって、他者の影響は少なからずあっても仕方が無いと私は考えてる。だけど、最終的に判断するのは貴方自身。貴方が選択したその道を、他でもない貴方自身が選んだものだとしたら、特段否定しようとも思わない」
「だったらっ……何でっ!」
心を砕かれ、文字通り崩壊させられたセーラから、復讐自体を志すグレンベルクの行動には一定の理解を示していると胸中の考えを口に出され、だとすればどうして自身の行いを否定するのかと声を荒げる。実際、ラルズもそれに関しては同じ意見であると伝えている。
「復讐のチャンスは確かに今目の前に転がってきた。でも、それはただ偶然目の前に敷かれた代物……言ってしまえば餌と同義。今正に、貴方は餌に食いついて、偽りの好機を掴みにいこうとしてるだけ」
「・・偽りの好機……?」
偽りとはどういう意味か。その意味するところをグレンベルクが理解できず聞き返す。
「五年の年月を費やして、ようやくその存在が目の前に現れた。正しく待望の瞬間、天から与えられた啓示、そう思ってるんでしょうね。でも……」
一度言葉を区切って瞑目する。数瞬の隙間を作り、閉じていた瞳を再び開いて言葉を続けた。
「巡り合わせは今じゃない。貴方の復讐が完遂される日は、今日じゃない」
ハッキリと、セーラは告げた。
五年間、復讐を果たす為に行動してきたグレンベルクにとっては、セーラの言葉通り、正しく毎日想像し続け夢を見ていたことであろう。
そして本日、その願いは天に通じる形となった。一度、バルシリア小森林で戦いを始める前に見た彼の横顔は、ようやく出会えたと、歓喜に染まる表情をしていた。だが、
「貴方と魔獣との間には、気合いや執念だけではどうすることもできない壁が存在している。それは、戦った貴方が一番良くわかっているはずよ」
「――っ!」
一度として攻撃は当たらなかった。鋭い攻撃の連撃も、魔法を囮にも使用して牽制しても、最後の切り札と称せる黎導も、全てにおいてあの眼獣には掠ることさえなかった。眼獣が操る影に抵抗はできていたものの、隙を付かれて、呆気なく轟沈されて地面に伏せた。
憎悪に身を焦がれても、長い年月の果てに迎えた一戦も、ものの数十分で勝者が決定。勝者として君臨したのは眼獣で、敗者として汚名と存在を刻んだのはグレンベルクの方だ。それまでの己の行動の集大成が、儚く消えて、なにも残らない。
虚無感と無力感。両方が深く圧し掛かる。かつてラルズも、同じ感慨を抱いていた。真正面から挑んで敗北したグレンベルクからしたら、常人以上に負の感慨も深く、重いものであるのは確実。
酷な話だろうが、その悔しさを噛み締めることが、敗北を受け入れることが、今のグレンベルクには必要なのだ。誰だって弱さを認めるのは辛いし、苦しいものだ。苛まれて、受け入れがたくて、虚勢を張って誤魔化し、平静を取り繕う。
でも、本当はわかっているんだ。虚勢を張って周囲を騙しても、自分自身を偽ることなど、決してできない。心のどこかで、後ろ暗い感情に押し潰されて、自覚のない暗闇を無意識の中で自覚している。
――迸る感情も底を尽きたのか、セーラに真正面から真実を突きつけられたからか、もう顔には先程までの覇気は残っておらず、項垂れて気力が失っている姿。
「・・・・く、したんだっ……!」
「――え?」
そんなグレンベルクだが、まだ熱が焦がれていた。
低く、か細い呟き。出し尽くした激情の残り物が、その小さな呟きの中に注がれていた。そんな小さくて聞き取れない言葉を踏み台に、自身の橙色の髪の毛を乱暴に手で掻きむしり、そして――、
「約束、したん、だっ!!」
初めて見る、グレンベルクの姿だった。怒りで我を失うほどに感情を吐き出す姿も初めてであった。それでも、その姿を初めて目にしたとき以上の衝撃が、ラルズを――ミュゼットやセーラにも襲われた。
――彼の瞳から、透明な滴が零れ落ちている。一度零れたその滴は尚も止まらず、足元に水滴が流れ落ちる。その軌道を瞳に捉えながら、ラルズは息を呑んだ。
・・泣いていた。泣いているのだ。
強気な姿勢を崩さないように、声を押し殺しながら耐え忍んでいる。だが、堪えようとする意志とは対照的に、グレンベルクは瞳から大量の涙を流していた。普段から落ち着きがあって、泣いている姿なんて想像つかない。そんな彼が目の端から大量に、とめどなく、弱音と弱気を含んだ感情の塊を流し続けていた。
「あの日、あのときっ、あの瞬間……っ! 俺は逃げた。逃げて、置き去りにしてっ、自分の命欲しさに親友を見殺しにしてっ! 俺は無様に生き残ったっ! そんな俺が、復讐を果たせない俺なんかに、何の価値なんかもないっ!!」
――それは、決して見せることのなかった、グレンベルクの弱い部分そのものだった。深い内情まではラルズも知るところではない。言葉の端々から察するに、恐らく殺された友達との最後の時間のことを指しているのだろう。
見殺しにした、といったフレーズが出てきたことからも、その後に無様に生き残ったと自信で自分のことを評価していることからも、なぜグレンベルクがここまで復讐を成し遂げようと強い思いを抱いているのか、ようやくその実態が今になってわかった。
・・彼は、自分で自分を許せないんだ。友達を見捨て、助けられなかった自分自身を……
友達を助けられず、自分だけ生き残ってしまっていることに対して、後悔の念や自責感を超えて、罪と呼ばれる代物に変わっていたのだ。その全てを復讐として捉えている傍ら、日々を過ごす彼には罪の意識が常に付き纏っている。
魔獣に復讐を誓っている傍らで、自らは友達を見捨てた自分自身を恨んでおり、呪っている。
それが、グレンベルクが復讐を果たそうとする行動の裏に隠された、もう一つの意味。
贖罪――それが、グレンベルクを突き動かす、自らに課せた十字架なんだ……
罪の自覚と無自覚。自覚しているかどうか、そんな些細ともとれる小さな変化は、本人からしたら大きな歪の種となり、心を蝕んでいく代物であると知っている。
それはラルズが知らないうちに自らに課していた、父さんと母さんから託され、約束という名目で捉えて形を変貌させた、歪で醜悪な鎖。
シェーレとレルのため……そう自分の心を誤魔化して、免罪符にして、二人の気持ちなんてまるで考えないで、自らの夢や行動理由に鍵をかけて、長い間封印してきた。誰にも――自分自身すらも偽って、奥底に閉じ込めて、一生解放されないように雁字搦めにして……
グレンベルクは、その罪を自覚して生きてきた。ラルズとは違って、他者から気付かれるに至るまでの間を、ずっと苦しんで生きてきたのだ。
そんなグレンベルクの心を思うと、なんて言葉をかければいいのか浮かばれない。ラルズだけでなく、ミュゼットも悲痛な色を浮かべて、涙を流すグレンベルクを気遣っている。ミュゼットの方の涙は既に引っ込んでしまっており、代わりに涙の涙腺がグレンベルクへと移動している始末。
そんな、誰もがなんて声をかけて接すればいいのかわからない状況の中で、
「――だから?」
何の情も含まれていない、無慈悲なセーラの一声が投じられた。