第二章36 戦局転風
「グレンっ――!」
ジクジクとした主張する胸の痛みも忘れて、一目散にグレンベルクの元へと駆け出したラルズ。背後からの奇襲に対応が間に合わず、影の攻撃を真面に貰ってしまい、身体はそのまま空中へと身を投げ出されて木々に激突。
吹き飛ばされた軌跡でもあり、地面を赤く汚している血は相当な量であり、倒れ込んだその場所は尚も血が流れ続けている。見る間に血溜まりを形成して地面を広がっている。地面を赤く染める鮮血の絨毯――それは彼が受けた攻撃の被害の大きさをそのまま表していた。
「――ごっ……が、ぁ!」
身を案じて駆け寄ったラルズの腕の中、揺さぶられるグレンベルクが命の源を口から吐き出す。口からの吐血と全身からの出血。その見た目は余りにも凄惨であり、ラルズの受けた傷なんかが可愛いと思えるほどだ。
ラルズは医者ではない。人の傷をまじまじと観察した経験もなく、療養や傷の具合についてあまり知識を持ち合わせていない。が、そんな知識や良識云々は後回しにして、とにかくグレンベルクの状態を確認する。
一番大事な心臓部分や頭。急所とも呼べる場所付近には幸運にも攻撃を貰ってはいない。致命傷と呼ばれる傷はどうにか回避しており、意識も健在。痛みに呻いて血反吐を吐いている姿が瞳に映るが、今は命が繋がっている事実だけを前向きに捉える。
・・が、それでも……
やはり出血量に目が向いてしまう。いくら致命的な攻撃は回避できたとしても、それがそのまま安心できる、といった具合には至らない。出血多量で死ぬことなんてざらであり、ラルズもその類の経験をしているから身に染みて理解している。
意識が段々と虚ろになり、ぼんやりとした視界。力は段々と抜けていき、手や足に力が入らず、呼吸も満足に行えなくなっていき、死が近付いていると実感してしまう。今この瞬間も、グレンベルクの命の灯は小さくなり続けている。
――どうしたらっ、どうしたらいいっ!? 考えろ、考えろっ!
必死に頭を回転させて解決方法を模索する。賢いわけでも他人より頭脳が秀でていないことはわかってる。それでも、どうにかしなければいけない。どうにかしなくては、このままではグレンベルクの命が潰えてしまう。
友達を、失ってしまうっ……!
グレンベルクの容体を確認する傍ら、ちらりと魔獣の方へと視線を向けると、倒れているグレンベルクを襲おうともしない。そしてそれはラルズに対してもだ。
今尚もグレンベルクを倒したときの表情と同じくして、変わらずにやにやと邪悪な笑みを瞳に宿してこちらを眺めている。勝者の特権だとでも言わんばかりに、生殺与奪の権は既にこちらの手の中にあるのだと、何ら焦ることも無く、むしろ足掻いているラルズらを小馬鹿にしている節さえ感じられる。
そのまま追撃されれば、意図も容易く死にかけのグレンベルクと、実力が遥かに劣っているラルズなど瞬殺できるだろう。影を用いて容易に心臓なり頭を貫いて生命活動を停止させ、完全な勝利を手に入れることができるはずなのに、あえてそれを行わない。
ラルズの視線に気づいてもなお、野卑な視線を送り続けている眼獣。その視線を正面から見据えて、はっきりと理解した。
――食い物にしているんだ。必死に抗って命を繋げようとしている弱者を、憐れで滑稽な存在であると捉えて、高みの見物を決め込んでいる。慈悲や遠慮といった生易しい代物なんかじゃなく、舐め腐り下卑ている思想。邪で悪辣、それでいて質が悪い最悪な醜悪。
生命を冒涜している眼獣に怒りが込み上げるが、それよりも優先すべきはグレンベルクの容体。心外ではあるが、あの眼獣は今時点でこちらに対して追撃を行おうとは思っていないみたいだ。それが一貫したものか一時的なものなのかは知らないが、今の内にどうにかしてグレンベルクを助けなければ。
行動原理が最初に帰結し、頭を悩ませるラルズ。ありとあらゆる方法を模索して打開策を講じるが――、
グレンを担いで森を抜ける――? 駄目だ、この場から離れようとした瞬間に、命潰える瞬間を心待ちにしている魔獣が見逃す道理がない。
ミュゼットとセーラが戻ってくるのを待ち続ける――? 仮に戻ってきたとしても、この状況をひっくり返したり、魔獣との戦力差を覆せるとは思えない。
最高戦力でもあるグレンベルクが倒された時点で、真面に相手取るなんてことは不可能だ。現実的でも無ければ、可能性の域としても選択肢の候補にさえ上がらない。彼がやられた時点で、そんな考えは破綻しており、愚策もいいところ。
――この魔獣は、ラルズたちには倒すことができない。どれだけ逆立ちしようとも、どれだけ力を結集させようとも、何度挑もうとも敵わない。
「どう、したら……っ」
解決策に頭を悩ませるが、何も浮かばれない。足りない頭を必死に動かし続けても、僥倖とも呼べるような一手も生み出せない。どころか、光明の兆しすらも思い浮かばない。
言葉に覇気が失われ、時間が経過するごとに身体から熱が消えていく。グレンベルクは危険な状態であり、水魔法や薬などの治療方法も持ち合わせていない。逃げること、森を抜けることも不可能で、かといって魔獣に立ち向かったとしてもラルズでは話にならない。
剣の腕は一流には届かず、平凡より少し背伸びした程度。他者よりも頭脳が優れておらず、状況をどうにかできる手段として魔法も選択肢に挙げられない。武力も知力も、果てには魔法のような奇跡の力も備えていない。
無力感と焦燥感が時間をより一層加速させて感じられる。時間が無為に浪費される中で、浪費に見合った行動も起こせず、ラルズは呆然と気抜けしたようにただ俯いていた。魔獣は動かず、絶えず何も行わない。攻撃することも、距離を近付けることも離れることもせず、じっとその場で様子を窺っている。
いつ襲ってきても不思議ではない。気が変わって、突然飽きたとでも情緒が動きでもすれば、抵抗もできず簡単に殺される。だったら――、
「――ぉ……」
言葉が通じるかどうかは定かではないが、醜く無様に頭を下げてしまおうかと考える。邪悪さと悪辣さを兼ね備えている魔獣に対して降伏の意を示す。弱者の情けない姿を前にすれば、魔獣の僅かな恩情を呼び起こせるかもしれない。備えているか定かではないが、情に訴えたほうが生き残れる確立としては高いのではと考える。
・・先程、生命を冒涜していることに対して怒りを抱いていたラルズであったが、友達の命を救えるのならば、喜んで頭を下げても構わない。無価値同然のラルズの行動一つで命を保証してくれるのであれば安いもの。
情けなく媚びることに今更抵抗感もない。一度、プライドなんてとっくの昔に置き去りにしている。ラッセルにシェーレとレルには手を出さないでくれと懇願したように、二人を護るためとして頭を下げることになんら躊躇も無かった。
立場を明確にはっきりと自覚し、それを遵守する行為の一環。もはや、二人に危害を加えられないなら、何だって喜んで差し出そうと決意して行動に移し、無茶な要求にも応えてご機嫌取りを図った日だって、半年間の間でザラにある。
ラッセルの件と今の状況。最初に抱いていた怒りの牙も、ふと気付けば折れている。抵抗しようとした意思を諦めた先、相手を下手に刺激しないように立ち回って、命を優先的に保守しようと思考を改める。
――ラルズはどこまでいっても小心者であり、弱者であることに変わりはない。幼少期の頃からも、そして剣を手にして身体を鍛えた七年間があったとしても、十五歳を迎えて成人として数えられても、弱者であることに変わりはなかった。
反意を抱いても、気付けば消沈している。そして知らないうちに思考は道筋と軌道を履き替えて、醜い欲望を叶えようと進路を変える。実に都合が良くて、自分という存在が憐れで他ならない。・・そんな自分を自覚しているからこそ、余計に質が悪くて、自分を嫌悪してしまう。
恐る恐る魔獣を見る。魔獣は変わらず視線を二人に集中しており、顔を上げたラルズの方に特に注力すると、次の動作をまるで心待ちにしているように瞳を細めている。
腕の中のグレンベルクを地面に置いて、正面を見据えて言葉と態度で訴えようと準備する。木剣と鋼の剣、魔獣からも確認できる武器の類を全て腰から外して、許しを――
「――ゖ……っ」
「――!」
腰から武器を外そうとした瞬間、後ろからか細い声が漏れる。声に反応して振り返れば、グレンベルクが再び動き始めていた。血で全身が染まり、荒い呼吸を繰り返し、空気の軌道を邪魔する血を呻きながら地面に吐き出す。血溜まりの中で荒々しく足を立てて波紋を生じさせ、木々に背中を預けながらゆっくりと身体を起き上がらせた。
「はぁ……っ、はぁ……!」
「――……」
今にも倒れそうな立ち姿。気力だけでどうにか奮い立たせたようなグレンベルクの姿を前にして、眼獣は再び立ち上がった彼を見て、愉しそうに眼球を歪ませていた。
「グレン、動いたら――」
「……ゖっ!」
「え――?」
立ち上がったグレンベルクの身を気遣い、同じく立ち上がったラルズ。これ以上動いたら本当に手遅れになると、身を案じて心配する態度を言葉に乗せる。だが、そんなラルズの声音を、上から低くて威圧感のある声が被せられた。
眼獣との間で身体を入り込ませるラルズの襟元を掴むと、強引にそのまま横へと払う。突然のことにそのまま地面に背中から倒れ込み、視界を上げた先で――、
「――俺の復讐の、邪魔をするなっ!!」
怒声。それは、魔獣に対して放たれた言葉ではない。倒れたラルズの瞳を正面から見下ろし、踏み入れて来るなという物言い。呼吸も忘れて見上げるグレンベルクは、一言だけラルズにぶつけると、再び短剣を握り締めて魔獣に吶喊する。
「――ま、待ってよグレンっ! それ以上傷を受けたら――!」
手を伸ばして切羽詰まった声を上げる。しかし、伸ばした手も……当然声も届かない。最初に魔獣に対して駆け出したときと同じくして、グレンベルクは止まらない。血走った目をしながら、全身から血を流しながら猪突猛進する。
再び挑みかかった愚か者を前にして、眼獣の瞳の高揚ぶりはまるで収まらない。再び足場の影が蠢めいて応対する。
影は縦横無尽に走って迫り来るグレンベルクに対し、更に風穴を増やそうと先端を差し向ける。血を流して大きな負傷を抱えている中、グレンベルクは短剣で一つずつ切り伏せる。先の攻防とまったく一緒の状況。両者とも攻撃の幅も手段も何ら変わらない。
「グレンっ――! お願いだから、俺の話を聞いてよっ!」
聞く耳持たず。どれだけ呼び掛けても、どれだけ大きく声を飛ばしても、グレンベルクの心は閉ざし切ってしまって反応を返さない。鉄の檻に囚われている心は他者からの言葉に微動だにせず、変化も及ばない。
出血は激しい動きにつられて尚も流動を見せる。血を失い続けている点と、身体に生じる苦痛の反響。痛みに苛まれながら、それを感じないと復讐の心が誤魔化す。細胞が興奮して痛みを緩和――感じないと虚勢を張り続けていても、肉体の機能は嘘をつかない。
・・ラルズの目からもはっきりと伝わってくる。動きの質や速度が明らかに先までに比べて劣っている。それも当たり前の話だ。あれほどの傷を貰って、痛覚が強く働いている中で、正常時と同じパフォーマンスを発揮できるだなんて到底不可能。
魔法をどれだけ打ち込もうと、力が入らないのか狙いが定まらない。足元はぐらつき、影に対応し続けるグレンベルクの肉体が少しずつ後れを取り続ける。次第に傷跡は増え続け、新しい傷が更に苦痛となって重りとなる、肉体に追加され課せられる負の財産。
「俺も一緒に――!」
足手纏いに変わらないが、一人で戦い続けても勝機は無い。上手く隙を付いて、グレンベルクの援護を――!
「邪魔するなと言っただろうっ! 俺の復讐に、お前が関与してくるなっ!!」
「――っ!」
戦闘に断りもなく入ろうとするラルズを、厳めしい顔つきと振り絞った一声で沈める。戦闘に参加しようとする闖入者を、邪魔者として物言いして参戦を拒絶する。その迫力は、他者をねじ伏せるには十分すぎるほどであり、弱っている肉体からは想像つかないほどの力を孕んでいた。
「俺の、俺だけの復讐だっ! 誰にも邪魔させない……っ。この復讐は、俺の手で果たしてこそ意味がある。すっこんでろっ!!」
「グレンっ……でも――!」
「邪魔するならそれこそ、お前も俺の敵だっ!」
「――っ……」
割って入ればそれこそ、魔獣よりも先にラルズを優先して排除しようとする意志。その内容は、既にラルズのことを友として定めていない。完全に敵に向ける目と態度であり、圧力に律せられてラルズは何も口に出せないし動けなかった。
忠告を口にしてグレンベルクは再び魔獣と向き合う。
・・もう、ラルズの知っているグレンベルクの姿はどこにもいない。復讐に取り込まれ、やっとの思いで再会を果たした眼獣を殺すこと、その一点に行動の全てを託している。
「グレン、俺は邪魔したいんじゃないっ……! ただ――」
邪魔がしたくて声をかけるんじゃない。復讐を諦めろとも言わない。ただ、今は命を優先して欲しいだけなんだ。今、この瞬間……今のグレンベルクの実力では魔獣には敵わない。認めたくない事実であり、それを認めることは、彼のこれまでの行動を否定する代物と化すだろう。
追いかけ続けて、鍛錬を続けてきた。危険な地帯に自ら足を運んで情報を追い求め続けた。毎日毎日復讐を遂げられるその日を夢見て活動を続けていたグレンベルクの気持ちは、深く深く……闇の中にまで身を投じて尚も歩き続けている。その意志を否定するつもりも、行いを咎めるつもりもない。最終的に判断を下した行動するのは、グレンベルクの意思だからだ。
少し知り合った程度のラルズも、ましてや家族や親密な間柄にいる人物からも苦言は口にできない。それはわかっている。でも、
「お願いだから、お願いだからっ……!」
グレンベルクはラルズにとって、確かな友達だ。出会った時間も語らい合った時間もわずかだけど、それでもこれまで時間を共にしてきた。浅い関係、只の既知の存在。でも、友達である事実には変わらない。でも、そんな間柄にあっても、ここでグレンベルクと別れることをラルズは望まない。関係性なんて関係ない。
もっとグレンと……友達と時間を共にしたいだけ。ただ、友達を案じているだけなんだ。死んでほしくないんだけ。
ただ、それだけなんだ――!
「――っが……!」
「グレンっ!!」
動きの質の低下。徐々に対応が甘くなり続ける隙を付き、影が再びグレンベルクの肉体を捉えた。地を這いながら浮かび上がる影の数本が突き刺さり、地面を二転三転して転がる。血をまき散らし、その場から立ち上がれずに苦鳴と吐血を零す。
「――……」
起き上がる様子を見せないグレンベルクを前にして、関心が失せ、興味無さげな視線をぶつけて魔獣が影を操る。グレンベルクの心臓付近へと狙いを定め、影がゆっくりと近付いていく。
止め、を刺すつもりだ。自らに挑んだグレンベルクがもう起き上がれないと悟り、これ以上は楽しませてくれないと、戦いに終止符を打とうとしている。
「くそっ――がぁ……っ!!」
地面に拳を叩きつけて起き上がろうと身体に鞭を打つが、既に肉体は限界を迎えている。鋭い眼光で魔獣の眼球を睨み付け、地面に置いた手に力を加えて起き上がろうとする。怒りの衝動によるエネルギーを活力として肉体に注いで奮い立たせようと試みるも、命令を行使できずに途中で身体が力尽きる。
命を奪う最後の一撃。影が近付く様を見て、
「させないっ!!」
抜刀して魔獣に対して突っ込んで銀閃を振るう。横からの邪魔に眼獣はさしたる焦りも浮かばず、予期していたようにすいすいと軽い様で地面を滑り攻撃を逃れる。グレンベルクの言い付けを破り、ラルズは眼獣と向き合って戦う意思を見せる。
湧き上がる恐怖と友達を助けたい気持ちがせめぎ合い、後者の感情が勝利する結果。不安を飲み込み、今だけは表に出さず奥へと引っ込める。目の前の友達を失いたくないために、小さな勇気を噛み締めて。
自身に挑んでくる新たな参列者を前にして、大小の眼球たちが揃って形を横に広げて喜びを体現。影が目の動きに呼応するように形を形成してラルズに差し向ける。
剣を握る力に今一度力を籠め直す。繰り出される影の本数に注視し続け、眼前へと迫り来る影の数々を剣を振るって一刀両断。ぐちゃりという音を立てながら影が地面へとだらしなく広がり、そのまま影は本体の足元の影へと吸い込まれて、次弾の影として再び形成――装填が完了し、発射される。
幾重にも連続して行われる攻撃の数々。どれだけ剣を振るって猛攻を阻止しても、次々に打ち出される影の数々。グレンベルクほどの器量も無く、ただ迫り来る脅威を切り捨てるだけの一辺倒。防御し続けるのみでこちらから踏み入れることもできない。
「くそっ……!」
遠くから眺めていた戦闘ぶりでもわかっていたけれど、ラルズでは相手にならない。影は尽きることなく、無尽蔵に攻撃を続ける。刃をいくら振るおうとも状況は進展しない。ただ、
ラルズが追い詰められているという、逆の進展が加速していくだけ。その結果は、一分にも満たない時間の中で終着を迎えた。
「――ぐっ!」
目の前の影に気を取られ、背後に回っていた影の存在に攻撃を貰ってから気付く。手遅れな判断によって右足を負傷してバランスが崩れる。
・・刹那、魔獣の操る一本の影がラルズの右手目掛けて突き進む。狙いは手にしている武器。屋敷を出る際にミスウェルから頂いた、ラルズの大事な剣。その剣が影によって弾かれ、遠くの方へと吹っ飛んだ。
「しまっ――!」
鋼の剣は宿主を離れて空中で回転。銀色の曲線を描いて、そのまま地面に落下。持ち合わせている他の武器は木刀一本のみ。それも、この状況において武器と呼べる代物には至らず、対抗しえる唯一の武器は地面に寝そべってしまった。
獲物を失い動揺するラルズ。その動揺を浮かべた次の瞬間には、もう眼獣がラルズの命を握っているも同然であった。
「――がっ……!?」
しなって首周りを回って影が纏わりつく。見た目から想像つかないほどの膂力を備えている影は、まるで紐のようにラルズの首を締め上げて呼吸を阻害。腕を伸ばして引き剥がそうとするも、その時間すらも与えず、影はラルズへ伸びて全身を縛り上げて拘束する。
両腕、両足、首回り。全身の肉体を動かせる部分へと影が這い回って拘束。ギリギリと力強く締め上げられ、腕も足も動かせず、そのまま空中に浮かばされる。完全にまな板の上の魚状態。
「ひゅっ――っ」
ギリッと喉が締め付けられ、空気を肺に運べず苦悶の表情を浮かべる。身じろぎを行っても、影に縛られて真面に抜け出せず意味を成さない。呼吸軌道が塞がれて息切れを引き起こし、喉の奥が突っ張ってきて呼吸困難を伴う。
柱に括りつけられた処刑人のように空中で固定され、時間が経過するごとに症状は進行して、意識が朦朧とする。視界はぼんやりとしてきて、命の終わりが近付いてきていることを明確に自覚する。
「ぁ……ぅぅ……っ!」
口の端に泡が浮かび、瞳にも苦しみのあまり涙が溜まる。意識が消滅しそうになり、視界が明滅。苦しみ続ける時間の中、グレンベルクの様子を横目で確認する。
「――――! ……っ! ――、――――――っ!!」
今尚ももがき苦しんでいるが、それよりも怒りが凌駕しているのか。顔を上げて囚われのラルズと眼獣を目にする。何かを必死に叫んでいるようだが、既に肉体の機能が死んでいるのか、何を叫んでいるのかまではわからない。
窒息するまで残り数十秒もないのだろう。命の終わりが、ラルズという魂の終着が目前に迫っていると実感する。
そんな状況の中に際して、浮かばれるのは様々な記憶。
家族と過ごした楽しい記憶。最悪の男に虐げられてきた記憶。新しい人々との出会いと、新しい世界に踏みしめた瞬間の記憶。
――他にも、中には身に覚えのない記憶も。記憶が混濁しており、記憶の欠片が不規則にパズルのように形成されて不備の形として完成されている。が、一々取り繕っている暇もない。様々な記憶が一瞬にして脳内を駆け回り、連鎖的に次々と思い出が呼び起こされる。
思い出を振り返った時間の果て――最後に思い浮かべたのはシェーレとレルの姿。
怒った顔、笑っている顔。これまで過ごしてきた時間の記憶と楽しかった日々。そんな記憶のページが連続してラルズの頭を駆け回り、思い出す度に再び会いたいといった感慨が浮かび上がる。
――走馬灯……てやつ……だ。
「し、――ぇれ……。・・ぇ、るっ……!
もっとも適した言葉、表現。思い浮かばれてきた記憶の数々。
最後に口から唱えた最愛の二人の名前。不格好で名前に満たない音を言い終えた途端、白く染まって頭の中が空っぽになる。
意識が消える。命が――魂が――ラルズという人物はそのまま儚く消えて――、
「リーフ・ストームっ!!」
――魂が世界から断絶されるその直前、特大の暴風が巻き起こる。突如として生み出された暴風は、周囲の木々も、辺りに燃え広がる炎も、ラルズもグレンベルクも、眼獣さえも、全てを飲み込んだ……