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導きの愚者  作者: ひじきの煮物
第二章 新たな世界と南の都市
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第二章35 眼球合唱


 机の上に零した水滴が範囲を広げるように、本体とも呼べる眼球の下で影が蔓延っている。そんな暗闇の湖から無尽蔵に放出される攻撃。先端は鋭く鋭利状であって刃物と遜色ない代物。身の回りの覚えのある身近な武器として、槍に非常に酷似している。だが、その性能は槍とは別の脅威を備えている。


 先端が鋭く、人体を貫き通せるほどの貫通力は槍にも見られる特徴の一つだが、何よりも槍との差別化点は、鞭のようにしなって動く流動性にある。武器を手にする人の操る技量によって動きが違うのは当然として、魔獣の足元から伸びて攻撃に転じる影の軍勢の動きは直線的ではなく曲線的。眼球の意思に沿って前後左右、あらゆる方向から迫り来る。


 槍の性質を大きく上回っており、相手を仕留めることに更に重きを置いている、攻撃性能の膨れ上がった代物。しかもその影は一本だけでなく多量。数は十数本にまで至り、その全てが相手の命を刈り取れるだけの脅威と威力を誇っている。


 ラルズの胸元――皮膚を貫通することなど朝飯前。心臓なんか紙切れを断ち切る程度の感覚で貫くことができる。本体には四肢が付いておらず、魔獣の攻撃方法は足元の影を伸ばす一辺倒なのだろうが、それ以上の能力などこの魔獣にとっては無用の長物だ。


 殺戮の嵐と化している攻撃を繰り出し続ける魔獣。名前も知らないが、特徴的で不気味な眼球が全容を現していることから、眼獣と呼称するのが一番適している。


 ――そんな眼獣に戦いを挑む人物。グレンベルクが爆炎を打ち出し、自らは短剣を握り締めて猛然と斬りかかりに向かっている。そしてそれに対して眼獣が影を伸ばして抵抗、防御の姿勢を取っており、完全に蚊帳の外と置き去りにされているラルズたちを余所に、戦いは始まってしまっていた。


「グレンっ――!」


 ラルズの声も、既にグレンベルクには届いていない。


 ミュゼットとセーラが指示を受けて切り崩した森の一面。辺りは見晴らしがよくなり、ちょっとした広間の区域が完成。準備が完了したとして炎を打ち出したグレンベルク。フィールドは辺りが炎で照らされ、熱気が空気を通して肌を焼く感覚。舞台が整ったとして眼獣の存在をはっきりと認識する。


 グレンベルクは魔法による牽制、加えて手にしている短剣で相手の影を切り伏せ、距離を詰めることを試みている。鋭く命を脅かす影の猛追を、グレンベルクの器量が対抗しており、大半の影は彼に到達する前に断ち切られて霧散する。


 一方は必殺の魔法。黎導を発動しようと距離を縮めにかかる。もう一方は足元の影を巧みに使役して接近を阻止している。その戦闘の凄まじさは、素人のラルズから見ても圧倒されてしまい、援護しようにも手助けしようにも機を伺えないほど。


 レベルの違う、実力者同士の一戦。隙を付くなんてことすらもできない。完全に二人だけの場と化している戦場。


 たった一人で敵と対峙して注意を引き付けており、巨眼の中に内蔵されている眼球たちは揃ってグレンベルクを注視している。


 グレンベルクの実力は何度も手合わせしているラルズがこの中で一番よく知っている。魔法を使わないというハンデを考慮しても、一度として勝ち星を獲得できなかったラルズ。身体の使い方、状況を見据える判断、どれをとってもグレンベルクに勝っている点が一つも無い。


 ・・ただ、実力をよく知る反面、彼の実力を高く評価している裏で、胸中では嫌な予感が連続してラルズを襲っていた。理屈では説明がつかず、どう言葉に置き換えればいいのか分からない。ただ、漠然と胸の内を渦巻いている不安の数々。


 ――このまま彼を戦わせてはいけない。根拠のない思いが確信へと変わり、ラルズは二人だけの戦場に足を踏み入れようとしたが、


「ぐっ……っ!」


「――! ラルズ、動いちゃダメっ! また血がっ……!」


 足に力を入れた途端に身体が硬直。胸の方からの出血と痛みが行動を抑制し、痛覚に無理矢理従わされてバランスを崩す。そんな倒れそうになるラルズを慌てて支えてくれ、且つ動いてはいけないと声を荒げるミュゼット。


 彼女の忠告通り、今のラルズの肉体はかなり危ない状態にある。魔獣からの攻撃を真面に貰ってしまった二箇所が原因し、身体の調子は悪いことこの上ない。


 ヘッドハウンドによる腹部付近への容赦のない蹴り。骨が砕けてしまっても可笑しくない威力だと見積もっていたが、折れたり砕けている事態には陥っていないと感じる。時間も経過しており、最初の頃と比べると痛み自体は引いてきているが、それでも最悪、骨にヒビが入っていても不思議ではない。


 加えて胸部分。眼獣の影によって貫かれた箇所は、出血をして見るからに痛々しい様子。血の流れは収まってきているが、このまま放置し続ければ出血多量で死んでしまうことも。早急に処置、対処を取らないといけないかもしれない傷であるが、そんな要求はこの状況で叶えられない。


 ミュゼットもセーラも水魔法に適性は無い。他でもないラルズ自身は、水魔法どころか魔法全般を使用できないという不便で謎の体質を担っている。治療できる人物がこの場には一人もいない。


 唯一例外として、青の魔力反応を追っていた二人の子供の内の一人、リオン。彼ならば魔法での治癒が行えるかもしれないが、彼の震えている様子を前にそれは不可能だと直ぐに察しが付く。無論、この状況下で平静を保つことなど無理で酷な話だ。


 魔獣に追われ続け、体力も精神もボロボロの中、出口を目前にして、味わった以上の脅威と恐怖が姿を見せたのだから、臆病気質なリオンは既に限界もいいところだ。姉のティナはぎゅっとリオンを抱き締めて安心させようと声をかけている。そんな二人のやり取りを見ているだけでも、不思議と元気が湧いてくるのは、ラルズの兄として妹に向ける親愛に近いものを感じるからだろうか。


 だが、今はそんな感慨に余裕を割いている場合ではない。これ以上、傷を負うことはかなり不味い状態を引き起こしてしまう。傷の具合も考慮すると、新たに被害を被ってしまうのはそれこそ本当に命を失いかねない。


 忠告も無視して必死に身体を動かそうと足に力を入れる。そんな様子を前にしてミュゼットから再び怒声を浴びせられるが、


「――駄目よ、ラルズ。今、私たちが割って入ってもグレンの邪魔になるだけだわ」


 今の状況を鑑みて判断を下したセーラの落ち着きのある声。その態度はひどく冷静で、ひどく達観しており、加速する空気の流れを大人しくする静かな効力を持ち合わせていた。


「セーラ……。でも、グレンがっ――」


「わかってる。このままグレンを見捨てたり、置き去りにする気はないわ。だけど今の私たちじゃ魔法で援護しようにも手助けしようにも、邪魔になるか最悪足手纏いになるだけよ」


 緑色の双眸でグレンベルクと眼獣の戦いを見届けているセーラ。戦いに参列できないと見切りをつけると、彼女は「それより――」と言葉を続け、改めてラルズとミュゼットに向き合う。


「私たちはやるべきことをやりましょう。蚊帳の外は気に入らないけど、この状況を利用してね……」


「やるべき、ことっ?」


 セーラは「ええ」と言葉を続けると、今度は震えて縮こまっているティナとリオンに目配せする。すると――、


「私たちが森に入った目的。それを遂行しましょう。この子たちをこれ以上ここに留まらせるわけにもいかない。私たちに意識が向けられていない今なら、楽々出口に迎えられるはずよ」


「でも、他の魔獣が」


「他の魔獣の心配ももうしなくていいわ。あの気持ち悪い眼球魔獣のおかげが、周囲の生態系は見事に崩れて魔獣の姿もまばら。恐らくだけど、あの魔獣が森に現れてから、大半の魔獣は既に殺されているか、殺されるのを嫌ってこの森から離れていると思うから、私たちを襲うような度胸のある魔獣は少ないはずよ」


 確かにセーラの言葉通りかもしれない。これほどの騒ぎが起こってしまった手前、魔獣が周囲に沢山生息しているならば様子を窺いに来たり、周囲に隠れている線も考えられる。だが、セーラが説明交じりで周囲を確認している様子から見て、魔獣の存在は確認されないのだろう。


 彼女の理の通った考え。今ならば、この状況が逆に森を抜け出る好機と成り得る。ただ、


「ぐ、グレンはどうするのっ?」


「・・申し訳ないけど、今は私たちの声も聞き入れてくれない。私たちが何を言っても無意味に等しいわ。彼には悪いけど、子供二人を地竜に預ける間、あの魔獣と相手してもらうわ」


 グレンベルクの今の様子は鬼気迫るものだ。復讐が彼を突き動かしており、セーラの言うことも間違いではない。今の彼は、仲間の声を聞いている余裕も、配慮も持ち合わせていない。


「でも私、見捨てるなんて真似したくないし、嫌だよっ!」


「見捨てるわけないじゃない。地竜のところに二人を引き渡して、その後でもう一度ここに戻ってグレンを助けに回る。グレンがあの魔獣に勝つのが一番望ましいけど――」


 それ以上先の言葉は敢えて言わない。口にしないだけで、最悪の想像を考えてしまったのだろう。誰だってそんな想像をしたくはないが、勝利を決定づける要因は様々だ。


 状況、天候、身体の調子、魔法、持ち合わせている武器、知能。ありとあらゆる要因が作用しあって、ある程度予想を付けれても、結果は誰にもわからない。予想や予測はあくまで情報や材料の積み重ね。確固たる結果に結びつけるための補助に過ぎない。


 目撃した事実のみが、残酷に如実に結果として表れる。戦いにおいて、絶対と呼べる勝負は存在しない。


 今回、グレンベルクと眼獣の勝負の行方が、どちらに軍配が上がるのかなんて、誰にも、


「・・とにかく、地竜のところに運んでおけば万が一、他の魔獣が二人を狙ったとしても地竜が門番として役立つ。あの魔獣ならともかく、他の魔獣なら地竜に挑んだとしても返り討ちに合うだけだわ」


 生物としての格の違い。竜の威容さに恐れをなして、命を無駄に散らせる選択肢はないと言い切る。並大抵の相手であれば簡単に反撃にあって力を示される。竜という守護者がいれば、暫くはリオンとティナの身の安全もある程度保証されるだろう。


 それに、少なくてもこの場よりは遥かに危険が少ない。


「子供たちを地竜に任せて、私たちはもう一度戻ってくる。それまでグレンが無事なことを願って……。そしたら私たちも魔法で防御しつつ地竜に乗り込んで、そのまま一気に都市へと戻る」


 ここから森の入り口まで戻るのは、全速力で向かえば数分で辿り着く。往復だとして、長く見積もっても十分程度だろう。行って戻ってきて、グレンベルクと一緒に四人で地竜のところまで全力疾走。そのまま乗り込んで都市を目指せば、全員無事に帰れる。


 現実的な手段であり、これ以上ないぐらい良い作戦と言える。否定する意も浮かばず、その考えに賛同の意思を示すラルズ。ただ、


「・・ティナとリオンを連れて行くのは、ミュゼットとセーラに任せてもいい?」


「え、ラルズはっ?」


「グレンに何かあったときのために残らせてほしいんだ」


「えっ!?」


 危険地帯に自ら残ると発言するラルズを前にして、ミュゼットとセーラが揃って目を見開く。ミュゼットは声を荒げて反意を唱えているが、それに取り合わずにラルズはグレンベルクの方へと顔を動かす。


 ――遠くで、迸る怒りに身を焦がして彼は魔獣と戦っている。グレンベルクの過去を彼の口から直接語られ、親友を殺された恨みを全てぶつける姿。殺意以外の感情を持ち合わせず、亡き友との誓いを果たすためにその力の全てを惜しみなく発揮して命を奪おうとしている。


 負の感情に支配され、自分すらも見失ってしまうぐらいに危ないもの。一人で居続ければそれこそ、本当に闇に飲まれて戻ってこれなくなるような実態。


「・・グレンが心配なんだ。目を離しまったら手遅れになってしまうような気がして仕方がないんだ。足手纏いになるのは分かってるけど、ここに残りたいんだ」


 明確な根拠も、特別な理由もない。ただ、胸の内に蔓延る不明瞭で正体不明の予感に従って、ラルズはここに残らないといけない。そんな場違いな使命感を果たそうと、ラルズは意志を強くミュゼットとセーラに誇示する。


「でも傷だってっ……」


 あくまで残るという意思を頑なに曲げず貫き通そうとするラルズを前にして、ミュゼットはそれでもと食い下がる。ラルズの胸部分、出血している箇所を痛々しく瞳に映して唇を結んでいる。


「――傷なら大丈夫だから、お願いだよ。・・お願い……っ」


 胸部分を手で隠し、微笑んでミュゼットにそう答える。続け様にミュゼットの瞳を見据えて懇願し、説得するラルズ。しかしミュゼットは「でも……」と瞳を曇らせて納得していない様子。そんな中で、ラルズの意を汲んでくれたのはセーラだった。


「――分かったわ。ミュゼット……ラルズとグレンを一度置いて、子供たち二人を地竜に連れて行くわよ」


 諦めてくれた、というよりもラルズの意志を尊重してくれたセーラの態度。そんな同意を示してくれたセーラに物言いをするのは、未だに納得のいっていないミュゼット。


「セーラっ!」


「これ以上押し問答を繰り広げている場合じゃないっ。譲れない気持ちは二人とも同じ。これ以上議論を広げても平行線のまま。今動かないと、それこそ本当に時間の無駄よ。それでもいいの?」


「――で、も……っ」


 強めの口調でミュゼットを説得するセーラ。だが、そんな彼女の強い語気を受けても、ミュゼットの気持ちに区切りがつかない。瞑目して、葛藤を続けるミュゼットの気持ち。本人からしたら、そもそもグレンベルクを一人置き去りにしてこの場から立ち去ること事態にも首を縦に振りずらいだろう。


 彼女の性格上、友達をこの場に残して立ち去ることは認めたくないはずだ。誰も咎めたり、間違っていると罵ることも無いのに、彼女の純粋さが判断を下す際の障壁となってしまっている。が、それでも状況は逼迫していく


 気持ちに答えを見いだせず、踏ん切りがつかない様子のミュゼット。そんなときだった――。


 ・・ふいに目を開いて、視線を下へと落とす。ミュゼットの右手へと手を伸ばしているリオンの姿が瞳に映る。姉のティナに抱き締められて、不安を緩和しようと頭を撫でられている。その傍ら、不安が取り囲む中で無意識の中でミュゼットに手を伸ばしていたのだろう。


 ぶるぶると震えて、今にも大きな声を上げて泣きだしそうな男の子。そんな弱々しい姿をしているリオンの細くて小さな指先が、ミュゼットの指に絡んで伝わる。彼が抱いている胸中の不安と心細さが、今にも恐怖に屈してしまいそうな小さな精神が、震えと共に彼女に伝播する。


 森に入った目標であり、他の誰よりも先に、いの一番に助けてあげたいと宣言したミュゼット。命は無事であり、あと少しで都市へと帰還して、探し求めている親の元へと送り届けることができる。彼女の助けたいという意思が実を結んだわけではないが、事実子供たちは助かっている。


 まだ安心とは言えない。でも、あと少しで目的を達成する。子供たちが無事に親の元へと戻ることができ、笑って一緒にいられる。幸せを噛み締められる時間が、あともう少しのところまで来ている。


 細い指先同士が絡まる中、ミュゼットが指先に力を注ぐ。きゅっと優しく結んで、リオンの震えが姉とは別の温もりを感じて少しばかり軽減される。閉じられていた瞼はゆっくりと開かれ、瞳の端には相変わらず涙が溜まっており、今にも決壊しそうだ。


 そんな不安の色を多く浮かばしているリオンの顏に、ミュゼットは安心しきれるように笑顔を差し向けた。すると、


「――分かった……。でも約束してっ!」


 笑顔から一転、引き締まった顔。不満を一蹴して、ラルズに向き直って目を真っすぐに見つめる。


「直ぐに私たちも戻ってくるから、それまで無事でいて。絶対にっ!」


 精一杯の譲歩。悩んだ末に手に伝わる感触と存在を優先した結果。無事でいてと約束を訴えてこの場を離脱することを選択する。彼女の約束にラルズは力強く頷いて応える。それだけで、後の行動は素早く行われる。


「ミュゼット、行くわよ。貴方も、あと少しだから頑張ってね」


「貴方じゃなくて、ティナっ!」


「・・まだそんな口きけるなんて、お姉ちゃんは強いのね。本当に……」


 不安でいっぱいいっぱいなはずの少女の啖呵を前にして、セーラは微笑みながら褒めて返す。先にセーラが駆け出して、その後ろをミュゼットとリオンが付いていく形に。


 セーラたちの後を付いていく前にラルズを見る。未だに逡巡しており、決心を付けたのに今にも意思を曲げそうな印象。それでも最後はセーラたちと一緒に森の外へと抜け出すために走り出した。


 これで、この場にはラルズとグレンベルクと魔獣の三名が残る形に。傍観気質だった戦火の場へと再び視線を向けると、ラルズたちの動向を余所にして戦場は更に苛烈さを増していた。


 その苛烈さを引き立てているのは、他でもないグレンベルク自身だ。


「――らぁっ!」


 魔法で牽制し、炎に意識を分散させ、隙を付いて刃を突き立てようと立ち回っている。隙を常に生じさせようとあらゆる角度から攻撃を繰り返すグレンベルク。その最終的な狙いとして、彼が持っている黎導の真意がラルズにも透けて見えていた。


 目に見える鋭い切れ味を誇っている短刀も、真面に直撃すれば肉が焼け焦げるほどの激痛を催させる爆炎。恐らく攻撃力の高い攻撃のどれもを囮にしている。そんな贅沢な攻撃手段を持ち合わせているにもかかわらず、グレンベルクが本当に狙っているのは何も武器を手にしていない左手――黎導の発動を試みているに違いない。


 一瞬でも魔獣に触れることができればその瞬間に黎導を行使。重力という彼にのみ与えられた、魔法の神に愛されている象徴であり絶対的な力。その凄まじさはラルズも身を持って体感している。


 触れられただけで加重圧が全身にかかり、動こうとしても動くことができない。完全に相手の自由を抑制し、その後の結末は黎導を操る彼によって委ねられるほど。他の黎導について味わったことがないラルズからしても、その能力の高さは使用用途の面と能力を考慮しても、相当圧倒的であると考えている。


 唯一の懸念点として、本人が口にしていた通り直接触れなければ魔法が発動しないこと。加えて、相手によっては内側から魔力を弾かれて縛りを解かれるといった事例があると口にしていた。後者については目に見えてわかる代物でも無いため、完全な感覚頼りと経験則からの発言だろう。


 その二つの欠点を有していても、決まれば勝ちだと断言できるほど有力な魔法である。こと敵を捕縛、捕らえることに関して言えばこれ以上ない魔法と言える。


 ――が、そのグレンベルクの試みは一度として成功していない。


「くそっ! ちょこまかと動き回りやがってっ――!」


「――……」


 強い警戒。眼獣は黎導の真意を把握していないはずだ。一見すれば武器も手にしていない只の左手。触れられようが何が起こるかなんて予想もつかないだろう。しかし眼獣は左手もそうだが、頑なにグレンベルクから接近されることを強く拒んでいる戦い方をしていた。


 火の魔法に対しては地面を滑るようにして影が移動――回避を行う。短剣を差し向けられれば、同質以上の切れ味を誇っている先端部分で向かい打ち、鋼の剣と剣が交わるような甲高い音を立てながら短剣を弾き返している。


 俊敏性と殺傷力の高い影の軍勢は、勢いが衰える片鱗も無く、更に在庫が底を切らす、といった様子も見当たらない。足元に広がる影水は本体とも呼べる眼球の意に沿ぎ、一挙に移動と攻防を担っている。これまでの戦闘の間、まだグレンベルクの刃も魔法も、眼獣には届かずじまい。


 焦りと込み上げる怒りによって、普段の冷静さが影を潜めるグレンベルク。対して、淡々と来る刃と魔法を捌き切り、実力の差を思い知らせるような眼獣の動向。


 変化は一瞬、試合が動くのは正に瞬間の出来事だ。


「――……!」


 影が先程よりも素早く加速して、動きのギャップにグレンベルクの対応が一瞬遅れた。捌き切れない影の数本が迫り来て、後ろに跳躍して範囲外へと逃れる。責め立てられて思わず引かざるを得なかった行動に対して、その隙を逃さないとばかりに眼獣が文字通り攻め手を増やした。


 繰り出される影の本数が倍近くにまで膨れ上がり、二十本近くまでに。いずれも人体を易々と貫通して大きな傷を付与する恐ろしい攻撃。他にも足首や手首、縛られればその時点で回避も難しくなり、行動は後手に回ってしまう。


「グレンっ!」


「――舐めるなよっ!」


 咆哮――次にグレンベルクが起こした行動。それはこれまで黎導の発動のみを考えていた無手の手に変化を起こした。変化と言っても大きなものではない。だが、相手の攻撃の手が増えたことに対する解答として、それに応じる形。腰に据えていた予備の短剣を引き抜いて、右手左手両方に短剣を構えた双剣状態。


 剣戟の波。手慣れた武器を動かし、身を翻して次々と影を切り伏せるグレンベルク。あれほどの猛追を、一撃貰うことも無く、また掠ることも無く全てねじ伏せていく。圧巻な動きはラルズから驚きを引き出し、思わず称賛の声が上がった。


「凄いっ――!」


 達人の領域。誇大でもなんでもなく、今のグレンベルクの姿はラルズからは達人の域に身を置いていると感じられるほどだ。身を回して危険が近まる攻撃を順次判別、そして優先順位を一瞬で定めて影の弾幕をことごとく切り滅ぼす。攻撃に回した影が全て霧散し、眼獣の見開かれている瞳たちが一斉に細まる。


「喰らえっ!」


 攻守交代。今度はグレンベルクが仕掛ける。咆哮と共に現出される特大の熱球。拳大よりもさらに大きく、人の身体に放てば全身余すことなく炎の餌食になる大きさ。直撃すればどんな生物も焼き尽くされる感覚に絶叫――果てに焼死は免れない代物。


 これまでで一番の火球が、差し向けられる掌に呼応して射出。対象でもある眼獣へと直線的に、真っ直ぐ進んでいく。放たれた火球は迸る熱気を放出しながら対象を燃やしにかかる。だが惜しむらくはその軌道が直線的であること。悪く言えば単調であった。


 影の動きと比較すれば遥かに見劣りする直情的なルート。魔力を多く注いで威力が高まったのは良しとして、極端な話当たらなければどんな魔法も攻撃も残念な形に。打ち出された爆炎は、眼獣にとっては避けるのにさしたる労力を割く必要も無かった。


 何の苦労もなく、足元の影が回避の意に乗っ取り横へと流れる。そのまま方向を変えられない爆炎は遠くの方で着弾。大きな爆発を引き起こしながら森を更に焦土と化した。が、肝心の眼獣には残念ながら命中せず、魔法は不発に――、


「――……!」


 驚愕。魔獣の蠢き合っている眼球たちが揃って目を見開いた。その視線の先は、避けた先から向かってくる一つの銀閃。遠くから見ていたラルズだからこそ理解でき、その銀閃が避けた先でグレンベルクが投じた短剣であると直ぐにわかった。


 先の特大の炎も、この攻撃を通すための伏線だったのだ。


 勢いを付けて投げられた短剣は刃先をそのまま本体――巨眼の中に吸い込まれるように煌めいていた。光を反射する刃先が、眼球を正面から潰していくと思ったラルズであったが、


「弾かれたっ!?」


 本当にあと少しであった。眼球に突き刺さる直前、足元の影が素早く動いて短剣を弾いてしまったのだ。弾かれた短剣は空中でクルクルと回転しながら、甲高い音を立てながら地面にだらしなく転がる。


 魔法と不意の投刃。これらを駆使しても、魔獣には届かない。持てる力の限りを全て費やしたグレンベルクの攻撃は、魔獣の反射神経に凌駕されて失敗に終わった――、


「――かかったなっ!」


 その声には魔獣の動きを先読みしており、且つ目論見通りに動いて対処してくれた魔獣に対する逆の賛辞の意味が込められていた。声のする方向――グレンベルクは今の一瞬の間に魔獣の背後へと移動しており、その差は数メートルにも満たない位置へと迫っていた。


 火の魔法も、短刀での不意を突いた攻撃も、全部が全部近付くための策略。避けられることも、対処されることも全て計算し尽くしていた。戦略の組み立て、そして己の組み立てた戦略を遂行する肉体。


 その姿を前にして、ラルズが抱いていた不安も心配も、全て杞憂であったのだと胸を撫で下ろした。


 完全に背後を取り、空となった左手を魔獣に向けて近付ける。触れれば相手の動きを停止させ、あとは煮るなり焼くなりグレンベルクの自由だ。


「これで――!」


 復讐を完遂させる勝利の一手。触れれば黎導が発動し、滑るように移動して攻撃を回避することも出来なくなり、致命傷を負わせることなど造作もない。魔獣が倒されればそのまま森を抜け、全員で無事に都市へと帰還できる。そんな未来が浮かび、ラルズも嬉々として笑顔を浮かべていた。


 ――勝った!


 自信が戦っていない中での勝利宣言。疑うこと無く、完全にグレンベルクが魔獣の力量の上を飛び越え、五年間の間進んでいた復讐の道のりが終わりを告げる。亡き親友との誓いが果たされると、確信していた。


 ・・だが、その勝利宣言は早過ぎたものであると、思い知らされた。


 突然、だった。恐らく、遠くから戦いを眺めていたラルズよりも先、戦っていたグレンベルクが一番目の前の光景に驚いているだろう。


「なっ――!?」


「消え、たっ?」


 そう零すことしかできなかった。消えたのだ……突然ラルズとグレンベルクの目の前から、魔獣が姿を消したのだ。命を刈り取られそうになって反撃した後の、暗闇の奥地に身を移動させて存在をぼやけさせたのとはまるで違う。


 文字通り、消えたのだ。それでも消えた瞬間は音も無く、且つ説明できる代物であった。


 足元の影――影水の中に沈んでいったのだ。まるで水の底――深い湖の底へと引きずり込まれるように、音も無く静かに、一瞬の内にその姿は足元の闇に飲まれて抹消していた。広がっていた影はそのまま小さくなり、完全に姿が見えなくなると同時に影も消え失せた。残っているのは何の変哲もない地面と、グレンベルクの黎導と作戦が失敗に終わった事実のみが残っていた……。


「あの影……ただ移動できるだけじゃなくて、身を隠す手段にもっ」


 その光景を前にして、ようやく理解できた。セーラの瞳の力が及ばなかった原因が、はっきりと理解できた。研究者なわけでもないし、出会ったのも僅かなものだからこそ、原理など未だに理解の範疇へと及んでいないが、これがセーラの瞳に反応が映らなかった答えなのだろう。


 同時に、ラルズがあれだけ近付かれても気付かなかったのは、それも当然の話だ。背後、密接した近くでいきなり影から生まれてきたのだ。そして何度も感じていた視線の正体も、影の底からこちらに視線を向けていたと考えると、辻褄が合う。


 だが、そんなことよりも、肝心なのはどこへ消えたのか。それが一番重要であり、考えながらラルズは辺りに視線を向ける。グレンベルクも標的を見失って苛立ちが募り、どこに隠れ潜んでいるのか周囲を睨み付ける。


 決着がついたと半ば確信していた状況が一転し、慌てふためいて首を辺りに向ける。こうなってくると、この場に居合わせているラルズも安全圏ではない。先に弱い人物から仕留めようと考え、グレンベルクより際にラルズを仕留めに来ることだって十分に、


 可能性としては考えられる。緊張感が走って周囲に意識を張り巡らせており、警戒していた矢先であった。


 ・・ラルズの視界に、渦巻く黒い影が範囲を広げているのが目の端に映り込んだ。


 それはグレンベルクの背後。視界が働いていない、死角とも呼べる致命的な部分。影は段々と広がり、渦の中から這い上がってくるのは、光彩が赤く幾重にも一つの物体の中で同居し合っている大小様々な眼球たち。


「グレンっ! 後ろ――!!」


「――っ!」


 瞬間的なラルズの叫び。危険を知らせる声にいち早く反応して、グレンベルクが振り返ろうとする。だが振り返る直前、既に魔獣の攻撃は放たれていた。


 ・・放たれた影の先端。質量は小さいが、人体を軽々しく貫通せしめる攻撃。その影が、互いに無傷の状態で続いてきた戦局に、風穴を開けた。


「――グ……」


 乾いた空気がラルズの口から漏れた……


 胴体、二の腕、太腿、足首……全身の至るところを貫かれて、グレンベルクの身体が勢いを殺しきれずに吹っ飛んだ。空中で自らの身体に空いた穴から鮮血をぶちまけて、血の雨が辺りに降り注いだ。


 数メートル先まで吹っ飛ばされ、大木に激突して、そのままグレンベルクは動かなかった。ラルズの負っている胸元の傷よりも深く、甚大な被害。全身から血を流して、彼はそのまま動く気配を見せなかった。


「・・グ、レンっ――、グレンっ!!」


 光景に意識が付いていかず、遅れてラルズが叫んで駆け寄る。


 眼獣は再び笑っていた。自らに挑んだ愚か者を。矮小な存在が血に伏して敗北したことを馬鹿にしているような気配。それを助長するように、瞳たちは揃って上まぶたと下まぶたが近まった。


 眼球たちは、揃って一つの空間の中笑っていた。瞳たちの様子はご機嫌だと伺えるほどに、その動きを激しくしていった。ゲラゲラと言う笑い声が聞こえるように、盛大に眼球たちを歪ませて、眼だけで奏でていた。


 眼球同士で奏で、眼球のみで奏でる、最悪の喝采。


 眼球の合唱が、音も無く声も無く嘲り笑っていた……




 





 


 






 



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