第二章34 因縁
最近勉強に集中していて更新が途絶えてしまいました。誠にすみません。完結させないまま終わらせる、といった考えはありませんので、気長に楽しみにして頂けると幸いです。
最後に、更新遅れて本当にすみませんでした。
動け、動け、動け動け動け動け――……!
硬直する肉体。指先一つすら真面に動かせず、視線を目の前からそらすこともできない。身体は現実からかけ離れたようにその場で停滞を続け、動けという単純な行動命令も遂行されない。ただ目の前に映り込んでおり、現れた【それ】に対して支配されていた。
地の底、はたまた湖の底からでも這い上がってきたような異形の存在。深淵から遊びに来た、出会ってはいけない生命体。一度でも出会ってしまえば、命を諦める以外の選択肢など候補に入らない。果てには目の前の相手に命の手綱を握られている感覚に陥り、【死】が身体全体を取り巻いている。
動け、動け、動け、動いてくれっ……!
必死に身体を動かそうと絶えず命令を続けるも、呼吸の仕方を忘れ、半抜け殻と化しているラルズの肉体は、主人の意志とは反対にその場に固まり続ける。まるでグレンベルクの黎導を味わっているような状態に近く、どす黒くて重い空気に上から身体を押さえつけられている気配。
冷や汗が浮かぶ中、視界は一点に集中しており、瞬きすらもできない。一度でも瞬きをすれば、次の瞬間には死が訪れるのではないかといった恐怖が身体を埋め尽くしている。ゆえに何もできない。
叫び声を上げることも、腰に帯剣した剣を振るって抵抗することも叶わない。眼前の恐怖という名前がそのまま姿かたちを模している存在の前では、無力感だとか非力であるとか、そんな力量の問題など些細な問題でしかない。
ただ命の消失を、自らの肉体が死に到達するまで傍観を決め込むだけの、命の観測者にしか成り得なかった。
自らの命の行く末を遠くから見守り死に伏せる、死の傍観者として……
「――……」
影がゆっくりとラルズの方へ向かう。足元の方から伝って上半身へするりと移動。不快な感触と共に寒気が全身に迸る。品定めするように、貴重品を大事に扱うように、珍重で優しい動きがラルズの肉体を捉え、徐々に……段々と這い上がってくる。
音のない静けさが、まるで慈愛のような動作が逆に恐怖を引き立てる。誰の目から認識もされず、静かに殺されてしまう感覚が、より純度の高い死をラルズに刻みつける。
影はそのまま障害も無く昇り詰め、目的の場所へと到達する。ラルズの上半身、その一点の内側、胸を挟んで生命体としての活動を行っている臓腑に狙いを付けた。
――心臓だ。今正に肉体の外、影がラルズの心臓の位置を把握した。ピタリと止まり、数瞬時間が置かれた後に、再び侵攻を開始する。
ぷつりと、胸に圧迫感が押し寄せる。影の先端は鋭く尖っており、意図も容易く肉の壁を貫通して目的地へ向かおうと、邪魔な障壁を壊し抜ける。
――っ、ぁ……
痛覚が細胞を伝って肉体に再起動を催し、凍り付いた喉から微かな声が漏れる。か細く、独り言にすら成り得ない、吐息よりも極小の声。
胸が痛い。自らの肉体に異物が入り込み、中身を這い回っている不快な感覚。体内に侵入した静かな勢いのまま、血と臓腑が満ち足りている世界を進んでいく。
痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い――!
恐怖とは別の感情が押し寄せる。脳内に痛覚が発信して生じる痛みの叫び。その声なき叫びは、恐怖に飲み込まれていたラルズの肉体を解放する僅かな取っ掛かりと成り得た。
――影が最深部、心臓へと辿り着いていた。ドクンドクンと鼓動を鳴らす生命源が、外敵の魔の手が直ぐ傍まで迫ってきていると報告する。危険であると、激しく拍動を繰り返して対処しろと警告を発する。
生じた痛覚と肉体の報せを受け、意識が停止していた肉体……右腕に乗り移る。考えて命令を下すよりも先に働いた防衛本能。腰に据えていた剣の柄を掴み、
心臓に影の先端が当てられ、そのまま心臓を一突きに――
「うわぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
される寸前、ラルズは絶叫と共に剣を振るっていた。
命が亡くなる目前、生命の灯が消えゆく直前の弱者の抵抗。
絶叫が、夜のバルシリア小森林に轟いた――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
脳が拾った痛覚の叫びと肉体の叫び。両者の声なき悲鳴を拾い上げて、ラルズは命途切れる刹那の前、腰から剣を引き抜いて横に一閃。
身体に這い上り、文字通り体内に侵入してきていた影、触手のような形状をしている物体を切り落とす。ぐちゃりと、そんな手応えが刃越しにラルズに伝わる。まるで実物ではなく、水物を断ち切ったような奇怪な手応え。刃の伝わり同様、切られた触手は地面に落下すると、そのまま本体である魔獣の方へと吸収、取り込まれていった。
胸の内に入り込んでいた異物感も宿主と切り離されたおかげが消滅を始めて霧散していく。
――死んでいた……。命を握られていた。あの魔獣が数瞬でも早く、ラルズの心臓を貫いていたならば、大量の血を流して絶命。呆気なく死んでいたに違いない。
抵抗され、反撃をされたからか遠ざかる魔獣の姿は闇の中へと飲まれて消えていく。脅威が、命の捕食者が眼前から姿を消した今でさえ、ラルズは落ち着くことができなかった。
「――! ――が出て……っ!?」
「――が……! ……い、て……のか!!」
周りの雑音がうるさい。風の音だろうか、はたまた獣の泣き声だろうか、そんな雑音を理解するほど、今のラルズは周りに配慮が向けられない。周りの音も遮断し、胸の痛みにも気にせず、ラルズは握っている獲物に力を加えている。
動悸が乱れて荒い呼吸を繰り返す。先の傷の余韻が遅いながらに実害として生まれており、口の端からは微かに血が零れ落ちているが一切気にしない。胸の内からどくどくと血が内側から漏れ始めていても軽症と断定して視線を働かせる。目を血走らせ、神経を張り詰めさせて奴の存在を確認しようと試みる。あの魔獣の眼核からの視線が恐怖を助長させ、生命体としての規則を遥かに逸脱している容姿からは計り知れない嫌悪感が生まれている。もう一度目にしたら恐らく再び恐怖が取り巻くが、今は何よりも姿が見えない事実が他でもなく恐怖の代物であり続ける歯と歯の根が合わない口と胸付近からの出血痛い苦しいどこかで奴が見ているどこからどこに潜んで観察してまた狙われて殺される寒い怖い助けて死にたくない震えが怖い止まらない助けて生きてる?実はもう死んでいるどっちどっちどっちどっち――
「――ラルズっ!!」
「――っ!」
一際大きな少女の声が、ラルズの鼓膜に衝撃を与える。鼓膜に留まらず強烈な音波はラルズの全身に滞りなく流れゆき、ハッとして世界がゆっくりと姿を形成していく。
焦点の定まっていなかった瞳が落ち着きを取り戻し、ラルズの目の前に映っているのは白髪の少女、ミュゼットの姿だ。
「・・・・ミュゼット……っ?」
「そう、私だよラルズ! 落ち着いて、落ち着いてっ」
未だに荒い呼吸を繰り返すラルズに、ミュゼットは言葉を投げ続ける。肩に手を置かれ、目を真っすぐと見つめられ、彼女の息遣いが夜の冷たい空気を通して伝わる。
肩に触れる手の感触が、真っ直ぐと射抜かれる視線が、自分ではない別の人の温もりが、静かにラルズの意識を安定させていく。
恐怖で揺れていた瞳が正常に景色を把握している。彼女の声が鼓膜を通して伝わる。荒い呼吸は段々と平静を装っていき、空気を肺に取り込んでまた吐き出す。震えは収まっていき、心は平静に傾いていく。
身体的機能が恐怖から解放され、正常な働きを行っている。違和感はない。呼吸は安定して行われ、塞がっていた暗闇の視界は明るくなり、周囲の音も拾えている。
胸に手を当てる。当てた部分からは血が流れているが、その向こう側。心臓の部分はドクンドクンと、今尚もうるさいぐらい鼓動し続け存在を主張している。その音を感じ取れることが、感じられることが、どれだけラルズにとって安らぎとなることか。
「・・い、生きて、る……っ」
「生きてるっ。生きてるから、落ち着いて……っ」
再三ミュゼットから声をかけられ、心臓が問題なく機能している点を理解し、恐怖に包まれていた世界の濃度が薄れていく。彼女の気遣いと時間の経過も相まって、隔離されていた世界、現実に意識が追い付き始めてきたラルズ。
周りを見ればラルズとミュゼットを庇うようにグレンベルクとセーラが周囲を警戒しており、隣では身を小さくしているティナとリオンの姿が映った。
「大丈夫か、ラルズっ」
「――……。だ、大丈夫っ……」
「なら良かったわ。いきなり叫び声を上げて、びっくりしたんだから」
時間にして数十秒にも満たない一瞬の出来事。視線を感じて振り返った瞬間、ラルズの目の前には暗闇からこちらを文字通り見つめ続けていた魔獣の姿。
深淵の向こう側から覗かれる巨眼。その中に蠢く大小様々な大きさをした多眼。異物感と嫌悪感が混ざり合って人の恐怖を助長させるその存在を前にして、死がラルズを大きく飲み込んでいた。
間一髪のところで命は拾えたものの、ひどく動揺して心が乱れていた状態であれば、そのまま意識を失っていた可能性も考えられていたし、死から逃れることはできなかったに違いない。
「・・ありがとうミュゼット。おかげで、助かったよ……」
「そう、よかった。でも胸の傷がっ」
「血は流れてるし、放っておけば出血多量で死ぬかもだけど、即死じゃないだけマシな方だよ」
誇張抜きに、今こうして命が繋がっていること事態は奇跡に等しい。
「無事とは言い難いが、とにかく安心だ。・・それでラルズ、お前が見たのは……魔獣なんだな?」
ラルズの傷の具合を確認し、声の調子を落としてグレンベルクが質問を投げる。半分確信を持っている質問にラルズは「うん」と頷き、それから、
「グレンたちは、見てない?」
「いきなりラルズが叫んだからな。いち早く対処しようと振り返ったが、暗闇の奥地で何かが動いていた、って具合だ。姿かたちまではわからなかった。そのあとはお前を守りつつ周囲に警戒を向けて今に至る。」
絶叫を上げたラルズ以外からしたら、いきなりラルズが叫び出して困惑する事態となっていただろう。加えて真面に会話や事実確認もできない精神状態であったことからも、異常事態であるという認識だけはグレンベルクらにもあったのだろう。
迷惑をかけてしまった件については後で謝罪するとして、今は他に目を向けなければならない。
「セーラ、周囲の反応は――」
「もう視てるわよっ。でも、魔獣の魔力が視認できない。暗闇に溶け込んでいるとかの問題じゃないわ。それにラルズが襲われたときだって、周囲はちゃんと警戒してたものっ」
グレンベルクの尋ねたい内容を先に答えるセーラ。しかしセーラの瞳には魔獣の魔力は感じられず、魔力の残留情報も入ってこない。加えてラルズが襲われる直前も周囲に気を配っていた。己の瞳の力を過信せず、部分的に適切な評価を下しているセーラであるが、その監視網からも奴は逃れて姿を晒した。
原理は不明。そして今でさえその正体の片鱗も、謎も掴めていない現状。暗闇という不利な状況を逆手に取られ、頼みの綱でもあるセーラの瞳の力も、どういうわけか有効な手段としては確立されていない。
「――でも、嫌な空気は凄い伝わってくる。何て言えばいいのかわからないけど、まるで色んなところから覗かれているような、身の毛がよだつ感じっ」
「俺も同感だ。こっちからは見えていないのに、向こうからは覗かれているみたいだ。いずれにせよ、気分の良いものじゃないな」
ミュゼットの感想にグレンベルクが同意する。その同意と同じくして、ラルズも周りに視線を向ける。だがいずれの視界にも新しい反応は入らず、沈黙という名の重い時間が過ぎ去っていく。
このまま何も起こらないなどと、そんな甘い考えは既に頭から抜け落ちている。あの魔獣が、このままラルズたちを逃がして終了することなど、決して、
ありえないと、そう思った次の瞬間――背後から音が聞こえたっ。
鞭を振るったような勢いのある音を鼓膜が拾い上げ、風を切る音に瞬間的に反応したラルズ。が、所詮は反応止まり。行動を起こすより先に違和感がラルズの足首を襲っていた。
「――っ……!?」
音の正体。死角外から這い寄ってきた影は先程ラルズの胸を貫通して心臓を貫こうとしたものと同一。しなって伸ばされた黒い鞭状の代物は足首を正確に捉え、対象者の自由を抑制する。当然、掴まれたラルズは引っ張られる力にバランスを崩し、地面に背中から倒れ込んだ。
そのまま暗闇が続いている森の奥地へと引きずり込まれていくと――、
「――っ!」
「グレンっ!」
ラルズの足首を掴んでいた黒い鞭は、グレンベルクの振り抜かれた銀閃によって本体と切り離された。ぶつりと宿主との繋がりを断ち切られた物体は地面の底へと飲まれるように消えていった。
「ありがと、グレンっ」
「礼はいらない。それより――」
超自然的な現象を前にし、グレンベルクにお礼を伝えて急いで身体を起こす。ラルズの様子に取り繕う暇もなく、また本人であるラルズも、お礼を伝えて再び周囲を注意深く観察する。
暗闇に長く身を投じていることもあるし、夜目が利かないことはない。月明かりが木々の切れ間からも降り注いでいるし、視界も恐怖に飲まれたころと比べれば遥かに正常である。しかし、それでもこの場のフィールドは敵に味方をしている状態だ。
闇に紛れ、気配を隠し続け、安全圏から影を飛ばして仕掛けと攻撃を両立する魔獣。自身の強みとラルズたちの置かれた状況を完全に計算している。魔獣の中には知能が優れている種もいると本で勉強したことがあるが、完全にその類であることは疑いの余地も無い。
「ど、どうするのグレンっ!? このままじゃ私たちっ……!」
「お姉ちゃん……っ!」
ミュゼットやリオンと、段々と状況が切迫し続けていく。暗闇と得体のしれない魔獣。この二つの要因が合わさって、恐怖は膨れ上がっていく。慌てふためき、視界も右往左往。焦りが胸中を満たして、不安が取り巻いてしまっている。
このままでは遅かれ早かれ、魔獣の餌食になってしまう可能性が高い。
「グレンっ。ここは一端この場から離れ――」
一か八か魔獣の魔の手より先に森を抜けて、この場から立ち去った方が良いと助言を試みる。切羽詰まった声を上げてグレンベルクに提案を伝えようとするが、
「――グレンっ?」
ラルズの言葉は中断された。誰かに遮られたわけでも、声を被せられたわけでもない。ただ、ラルズはグレンベルクの横顔を見て、言葉は完成せずに無言へと落ち着く。
・・片方だけ覗く右目は大きく見開いてぎらついており、口元には悪辣な笑みを浮かべて……。
ぞわりと、横顔を見ただけで寒気を覚える素顔だった。普段時間を共にしている中で一度も目にしたことのない、どす黒い感情を宿している顔だった。ミュゼットを失礼女と呼んで小馬鹿にする類のものとも、普段の冷静で理知的な印象を受ける素顔とも違う。
初めて見るグレンベルクの表情。見間違いでもなんでもなく、はっきりと笑っている様子。まるで、この瞬間を待ちわびていたような、長い時間の間で育てられてきた感情が一気に彼を染め上げている。
「・・セーラっ、失礼女。周囲の木々を魔法で切り崩せっ」
「えっ……っ」
「早くしろっ!」
「わ、わかったっ」
「了解よっ」
グレンベルクの横顔を前にして呆然としていたラルズ。悪辣な笑顔がふいに終わりを告げ、張り上げた声でミュゼットとセーラに指示を飛ばす。ラルズの困惑をよそに、各々役割を任された二人が左右対称、別々の方向に向けて魔法を展開する。
「「リーフっ!!」」
両者同一の風魔法。風の刃が周囲の木々をなぎ倒し、細い木も大木もお構いなしに、揃って見事に緑刃の切れ味を味わう。切れ味抜群の威力を前にして、抵抗もなく木々は音を響かせながら地面に倒れ込んでいく。
「これでいいのっ!?」
「上出来だっ」
ミュゼットとセーラの仕事ぶりに褒め言葉を送り、指示を飛ばしたグレンベルクは両の掌を左右に振るう。既に火の魔法を準備していた彼は火球を辺り一面に投下。着弾した木々に炎が打ち込まれて燃え広がり、森の一面を焼き尽くす。
視界を塞いでいた木々は物量が減少。更に炎に包まれて燃え広がる範囲が加速的に広がっていく。辺りは熱という名の光源で光が灯されており、あっという間に炎の庭が完成する。
「――視界がっ……」
煙が上へと立ち昇り、熱波が周囲の空気を押し流している。息苦しいが、その代償の対価として視界は先までの暗闇とは雲泥の差。炎が辺りを照らし、闇を払って光が領域を拡張している。
「隠れてこそこそするなっ。あのときみたいに、俺の目の前に姿を現せっ!」
「ちょ、ちょっとグレンっ。 挑発してどうするのよっ! 早く逃げないと――!」
怒号。グレンベルクの口から放たれる言葉は、魔獣に対して向けられている類の代物だと直ぐに理解できる。が、それでもなぜ彼があの存在に執着し、逃げるよりも姿を見せろと公言するのか不思議で仕方がないミュゼット。
ミュゼットの動揺も最もだ。危険が生じて、正体不明の魔獣に命を狙われているのだから、普段のグレンベルクからしたら戦わずして逃げることを第一に考えるはずだ。森で魔獣と遭遇して戦ったときはティナとリオンをそれぞれ発見して、守るために致し方なく戦闘へと発展してしまったが、今は少し状況が異なっている。
森の奥地とは違って、森の入り口までは残り数分で辿り着く。全速力で走って森を抜けることに集中し、急いで地竜に乗り込んで都市へと帰還を目指せばそれで解決する。
炎や風の魔法で防御を行い、逃げることに徹すれば生存確率は段違いのはず。こんなところで律義に相手取る必要なんてどこにも、
「――ぁ……」
必要ない。必要ないのだ。ここでラルズたちが魔獣と相対することも、ましてや構う必要も。地竜に乗ってそのまま都市へと帰ることができれば、それで問題ない。
・・ただひとり、この場で誰よりもその魔獣と相対を望んでいる人物が一人いること。そして、目撃した魔獣の姿を、遅いながらに既知の存在であることを、ラルズの記憶が物語った。
多数の眼球、呼吸器官も四肢も見当たらない化け物の存在。一度だけ、そう一度だけラルズは目にしていた。実物ではなく、正に因縁の相手として復讐を誓っている一人の青年から……
「――! 正面、何かいるっ!」
奥底に仕舞われていた記憶の引き出しが開かれ、ラルズが確信に至ったと同時にセーラが叫ぶ。彼女の瞳の先、炎で燃え広がっている敷地に全員の視線が一点に集中する。
周囲を燃やしつける炎。それを背後に、変化が生じたのは炎の前方付近。なんてことないただの地面が突如として暗くなっていく。大地も草木も全てが真っ黒な影に飲み込まれて、影の範囲は広がり続ける。小さな水たまりぐらいの大きさにまで膨張を続けて動きが停止、途端に影の奥から【それ】は再び姿を顕現する。
音も無く浮かび上がってきた巨眼。暗闇と同化して判断がつきにくい黒い瞳孔も、赤く縁取られた虹彩が存在を際立たせる。多数の眼球が中で入り乱れているにもかかわらず、なに不自由なくその狭い空間を行き来しつつラルズたちを視界に収める。蠢いているという表現がなによりしっくりくるものであり、まるで蓋をされた瓶の中で虫が暴れているよう。
手や足と思われる部分も付随しておらず、鼻も口も、顔部分にすら瞳以外の要素は見当たらない。呼吸の方法も、命の仕組みも根底からして不可解を極めている生命体。理解できないという事実が理解できる、不可思議で異形の生物。嫌悪的な情動が生まれ、真面に姿を見ることすらも拒否したくなるほど。
「お、ねぇちゃ、ん……っ!」
「だ、だいじょうぶ、だからっ」
臆病気質なリオンは目をつぶり、姉であるティナにしがみついて震えてしまっている。ティナの方はリオンを守るように抱き締めているが、こちらも弟までとはいわないが同じく身体が小刻みに揺れている。そしてそれはラルズたちも同じである。
「な、によあれっ……」
「こ、こわいよあんなのっ……!」
ミュゼットもセーラも、互いに魔獣の姿を正面から映して動揺している。ミュゼットに至っては隣のセーラに身体を寄せて恐怖を緩和させている。一度近くまで迫られて姿を目にしているラルズも、再び姿を前にしてなお、恐怖やそれに類する感情が胸中を埋め尽くしている。
全員が全員、魔獣の圧倒的な存在感に気圧され、身動きが取れないでいる。互いに睨み合いの状況が続き、ラルズはどうしたものかと足りない頭を回転させて打開策を講じる中、
「俺を、覚えているか――?」
低く、乾いた声がこの場を埋めた。感情が宿っていない、淡白な声音。静かすぎるその言葉は、小さく、しかしはっきりとこの場の空間を通して鼓膜に入り込んできた。木々が焼ける音も、微かに吹く風の音も全てねじ伏せて、確かな痕跡を残す。
「――……」
魔獣に対する文言。人と魔獣の間柄、言葉の意味をそのまま理解しているのかどうかは不確かなところ。魔獣側はまるで人間のように瞬きを数回繰り返す。質問者であるグレンベルクの顔を何個もある眼球で凝視し、場違いな沈黙が経過する。
そんなコミュニケーションの取れない両者の間の中で、魔獣はグレンベルクの姿について思い至ったのか、目に見える形の変化を眼獣が指し示した。言葉は無く、魔獣が行動したのはたった一つの動作。
見開かれていた眼球たちが、揃いも揃って一緒のタイミングでその形を横に広げる。上まぶたと下まぶたの位置が近付き、愛だの中心に位置する黒い瞳孔は小さくなる。
・・笑っているのだ。にやりと、人が人を小馬鹿にするような意を含んでいる笑い目。嘲笑の意を含み、心の底から侮辱している意図が見て取れ、グレンベルクの心を踏み躙っていた。無言であるものの、その動作一つが、その動作一つだけがグレンベルクの問いに対する答えとして証明されていた。
「覚えてくれてたか……っ。安心したよ、本当にな……っ!」
最大限の侮辱と態度。嘲り笑っている魔獣の姿勢。それを前にしてグレンベルクは唇を噛み締め、握られる拳に爪が食い込んで血が滲み滴り落ちるほどに、憤りを抑え込んでいた。
「五年も、俺はお前を探し続けたっ。あの日から、あいつを殺された……あの日からずっと!」
五年の年月。詳細を把握しているラルズにとって、彼が踏みしめてきた道の重さが、想いがどれほど大きくて深いものなのかは欠片程度であるものの理解している。
一言一言言葉を発するごとに、グレンベルクの闘気が膨れ上がる。闘気はそのまま熱へと形を変え、黒い感情となりて熱をも無理矢理包み込んでしまう。
「運命っていうものがあるのなら感謝するっ。この日を――」
血走るぐらいに目を見開き、
「お前を殺して誓いを果たせるっ、今日という日をっ!!」
激情の咆哮。呼応するように、拳大の火球が八つ生み出され、主君の怒りが向けられている対象に放たれる。熱源が容赦なく魔獣を燃やしにかかり、爆炎が大きな音を立てて爆発する。放たれた爆炎の波とともに、グレンベルクは短剣を握りしめて魔獣に猛然と立ち向かう。
「――グレンっ!」
ラルズの声、仲間の言葉は既にグレンベルクの耳に届いていない。文字通り負の感情に心を、魂を囚われ、衝動のままに因縁深い敵に仕掛ける。
既に、グレンベルクの意識には、ラルズたちの仲間の存在など、微塵も頭には残されていなかった……