第二章6 都市までの道のり
屋敷の住人に見送られ、晴れ晴れとした空模様と相まって、これから身を投じる世界からも祝福されているような感慨に気分は高揚し、足取りも数段軽い。
出発をしてから数時間が経過し、ラルズは屋敷近くに位置しており、買い物や遊びに行く場として頻繁に訪れていたカイナ村を通り過ぎ、竜車の上から眺めてきた、見覚えのある街道へと辿り着いていた。
村の中を通っていく関係上、顔馴染みの店主や親御さんと出くわし、普段に比べて荷物の多いラルズを見て気になったのか質問する村人も多かった。隠す必要もないので、質問されるままに経緯と事情を軽く説明。
この村からも、ラルズと同年代の青年たちがもっといたが、仕事や将来の為に都市の方へ向かったりと、故郷を離れていった息子娘らも数多くおり、親近感が芽生えていたのだろう。村人たちからは応援のメッセージを沢山いただいた。
ラルズのは憧れと未知への探求心が強く、仕事を探したりといった立派な理由とは少しかけ離れているが、旅立ちを祝う言葉をいただいた身としては励みに繋がる。
その後は別れの挨拶を交わして村を後に。地面に沿って作り上げられた街道の分岐点に到達し、ラルズは一度立ち止まる。鞄の中身に手を突っ込んで目的の品でもある地図を探す。丸められた物を引っ張り上げて紐を外して広げる。
地図を広げると、大まかな大陸図に簡略的な建物の図が記され、そこに都市や国の名前。直接目にしているので紙面に記されている大きさ通りではないだろうが、中心に構えるレティシア王国の広さは一目瞭然。向かっている四大都市のひとつであるエルギュラスは、都市の間でも小さいほうの部類に至る。
国が一番繁栄を広げている分、規模の大きさも大陸随一なのは当然として、大きさは次点で西、東、北、南の順番だろうか。
それは実際にこの目にしないと分からないだろう。記述された情報や書面に連ねた文字を拝見しても、実際この目に捉えなければただの思い込みの部類だ。これだけで知った気になるのは早計だろう。
思考が違う方向にぶれ始めていたので、気を取り直して取り出した目的である進路を確認するために現地を確かめる。
地図に記されている通り、大まかな細かい街道沿いは記されていないが、ここから南の方向には見覚えがある。竜車の上で揺られながら見ていた景色とはいえ、何度も通ってきた道でもあるから、自然と判断が付く。
毎回通っている方面はここから南。そっちへ行く目的地はオルテア森林。その奥のラルズたち家族が過ごしていた家と、両親のお墓。普段なら進路が確定しているが……
視線を逆方向へ向けて草原の先を見る。北へ北上する形に進路を取れば、その先にカイナ村と同じ小規模の村が一つ点在しており、その村を渡り歩いた先、ラルズの目的地が見えてくるはずだ。
「――よし、まずは村だな」
広げた地図を再び丸めて鞄の中に戻す。意気揚々と軽い足取りで大通りを歩いていくラルズ。
道すがら、何もない殺風景な景色が続いているが、代わり映えしない景色とは裏腹に、ラルズの視線は感動の色を宿している。
広大な平原を風が限りなく駆け抜け、吹かれる風に合わせ、草木が音も無く同じ方向に踊り出している。顔を覗かせる花たちは、緑が目立つ豊かで綺麗な平原に見事に同居しており、退屈させない目新しさを眺める人々に提供している。
風に運ばれ、鼻孔を掠める土と草が混じった特有の匂いもどこか懐かしい感覚。森で生活していたころは、人知れず身体に沁み付いていた香りだ。ただ同じ自然界の香りとはいえ、微かに芳香が違う。
自然成分が強いのか、群生している土地との相性なのか。評論家を気取りたいわけではないが、ここの空気は森にいた頃と比べてみると、爽やかで新鮮な気分を与えてくれる。
元気が底から湧いてくる、外部から取り入れる酸素や空気とは違う、新しい活動源を身体に注入されているような、不思議な感覚。
景色一つとっても、環境一つとっても、今のラルズには目にする全てが色鮮やかに映り込む。何も記されていない白一色の寂しい世界に色が増えていく。
屋敷の厄介になり、森で生きてきたこれまでと違って、ラルズの住む世界は大きくなったと言えるだろう。森から屋敷へと場所が変わり、滞在する住人。周辺にある村やそこで生活をしている村人と、家族以外との人々との関わりも交流も増え、日常は華やかに。
しかし本当の意味で世界が広がっている訳ではない。自分のしたいことを無意識のうちに抑えていたラルズにとっては、何も塗られておらず、白色だけが埋め尽くすキャンバスの面積が広がっただけ。他でもない本人が描こうとしない、空白が全体を占めて支配している。
心から喜び、感動を味わえるようになったラルズは、ようやく色を灯すことができていた。新鮮さを、目新しさを、目にする全てが新しい色となり、絵画を塗り上げる。
芸術品や宝石など、美しく人々の心に深く刺さる代表物たちに引けを取らない。
堪能し続け、感情が膨れ上がり。限界値や天井など存在せず、どこまでも伸び続ける。
都市を目指して出発して数時間、足に溜まる疲労や疲れとは関係なく、踏み出される両足は羽毛のように軽いまま。
都市までの道、辿り着くまでのラルズの足取りは、今と変わらぬ様子を保ち続けているのだろう……
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
・・甘く見積もっていたかもしれない。
出発してから体感時間で恐らく六、七時間近く経過している。順調な滑り出しとなったラルズの旅立ちは、彼自身の認識の甘さが原因なり、そして今時点で後悔として自分自身を責め立てている。
期待を足に乗せながら、鼻歌交じりに道を進んでいくラルズの行く手を阻むものも現れず、トラブルといった問題事項も転がり込んでくることは無かった。
歩くままに景色を堪能し、途中道に咲いている綺麗な花に目を奪われて足を止めたりと、何でもない只の道の中で些細な発見をしつつ、目的地目指して両足を前に出し続けていた。
途中にカイナ村と同じ規模の村、ライナ村と呼ばれる村に立ち寄ったのだが、早く都市に向かいたいという逸る気持ちが先行していたのもあり、滞在もそこそこに村を後にした。
端物に目を奪われ、興味を移して道中足を止める回数は何度かあったものの、寄り道らしい寄り道は一度もなく、歩き出す足を遮るものも現れず、道中は順調そのものなのだが……
「・・お腹空いた……」
風の音にラルズのお腹から発せられる音が紛れ込む。空腹感を当人に知らせるお腹の音が耳を通って脳みそに信号を伝え、一層食事への欲求が人一倍強まる。
朝食を頂いたのが出発する前の朝早い時間帯が最後で、それ以降は何も食べていない。歩き続けて喉が渇きを訴える時間は何度もあったが、道中で川が流れているのを発見し、掬って口に運んでいたので水分は問題ない。
しかしいくら水を飲んでも、空腹を誤魔化せるのは一瞬だ。数分経過すれば思い出したかのように音は鳴りだし、肉体が主人を訴える。
何か口にしようと思っていても、出発する直前に荷物を鞄の中に入れ込んだのは他でもないラルズ自身だ。ミスウェルに鉄製の剣をいただいたことを除いて、バッグの中には湧き上がる空腹感を満たす代物が入っていないのは、中身を確認するまでもない。
今からライナ村に進路を戻すというのも一つの手段ではあるが、そうしたら到着は明日になってしまう。別に期限を設けているわけでも、今日中に到着しなければいけないといった規則は存在していないが、村を離れてからかなり時間が経過していることもあり、今から引き返すよりは都市に向かった方が恐らく早い。
休憩の途中で地図を一度開いたが、カイナ村からライナ村への距離と、ライナ村から都市への距離は後者の方が目算で短いのは明らか。
距離は確実に狭まっているし、恐らくあと数時間で都市には到着する。夜になる直前、夕暮れ時には目標としている場所には辿り着くはずだし、正念場というところだ。鍛錬の成果もあり、体力面に関しては心配するような事態には陥らないだろう。
ラルズの甘さが引き起こした現状だ。村に立ち寄った際に何か軽い食事でも取っておけばよいものを、都市へ早く到着したいといった気持ちが先行してしまい、己の行動を反省することに。
今更過去の自分を嘆いても仕方がない。ラルズは気合いを入れ直して都市を目指す。再び歩きだし、お腹のことは二の次。考えないようにしながら前だけを見詰めて街道を渡っていく。
意気込みを入れ直して足に力を入れていたのだが……
「――ん?」
遠く、目を細めると正面に何かが横たわっている。街道を通る人々を遮るように倒れている存在を前にして、ラルズは直ぐに駆け出す。
影は段々と輪郭を帯び、傍に近付くごとに正体が現れる。
ラルズの目の前にいるのは鹿だ。全身が青色に近い翠色で染まり、大きさは横になっているから正確には図りずらいが、二メートルはあるだろう。両耳の間には鹿の特徴でもある長い角が二本伸びている。力なく倒れている様子とは裏腹に体躯に視線を移せば、見事且つ立派な筋肉が備えられている。
「だ、大丈夫? どこか痛いの?」
「――ッ……」
動物と人とでは会話は成立しないが、ラルズは言葉にして鹿に状態を聞き出そうと試みる。訴えが言葉よりも態度によって通じたのか、円らな瞳を原因と思われる方向に逸らした。
見れば後ろ脚が僅かに出血している。何か鋭いもので切ったのか、どこかにぶつけたのか、じくじくと滲みだす血が脚元を濡らしている。
「さ、触るね?」
一声掛けて傷の状態を確かめる。痛かったのか触れた瞬間にピクリと脚が動いてしまい、短く謝罪をしながらも手で様子を窺う。実際に確認してみたところ、傷はそれほど深くは無いし、出血も大きさにしては少量のもの。応急処置でも施せば大丈夫な浅い傷だ。
「・・何とかしてあげたいな」
都市へ向かう途中の一件。ラルズからしたら関係なくも思える内容だが、こうして人目が少ない広大な平原の中でそのままというのは後味が悪すぎる。偶然遭遇したとはいえ、少しでも力になって上げたい。
鞄を地面において中身を取り出す。とはいっても、中に入っているのは地図に光源、ポーチに金銭と、治療を行える道具は入っていない。
周辺にも人の姿は映らないし、都市や村で道具を揃えようとしてもいかんせん距離が遠い。
「――! そうだ、確か……」
押し黙り考えを広げるラルズはハッとして思い出す。確か鞄に入れていたポーチには、覚えてはいないが小物が少々入り混じっていたはずだ。
可能性を信じてラルズはポーチの中身を開いて逆さまにする。ボトボトと色んな小さい品々が落ちていき、その中には――
「・・あ、あった!」
正に今探し求めていた数ある治療道具の一つ、包帯を発見する。やや小さめだが、これで傷面は覆うことはできる。
後は軽く血を洗って綺麗にすれば……
「川も近くに流れてる。ちょっと待っててね」
ポーチの中身を全て落とし、中身を空にしたラルズは鹿から離れて近くの川へと駆け出す。到着し、何も入っていないポーチを容器代わりにして水を含ませる。
他に水を運べる道具が無かったのが悔やまれるが、ポーチ一つでどうにかなるなら安いものだ。
中に水を含ませたポーチを手にして先程の場所まで戻る。
「少し沁みるかもだけど、我慢してね」
忠言し、ラルズはポーチの水を傷跡に当てる。痛みが生じたのか小さな声が鹿から洩れるが、暴れたり身をよじったりはせず耐えてくれている。
血を洗い流して綺麗にした後は、傷部分を包帯でくるんで処置を施す。解けないように包帯同士を交差するように巻いて包ませれば、紐や糸なんかで縛らずとも固定性は十分だろう。
「どうかな、歩けそう?」
処置も完了し、鹿に状態を尋ねる。ラルズの声に反応し、徐々にだがゆっくりその身体が起き上がりを試みる。確かめる様に足を地面に立たせると無事だったのか、スッと流れるように立ち上がる。動物の治療なんて初めてだったが、どうやら処置は上手く行われたみたいだ。
「よかった! 平気みたいだね」
眼前、その場を立ち上がったラルズよりも背丈は大きく、先程の弱々しい印象と比べて迫力も風格も段違い。こちらを見下ろすその姿にはどこか大人びた気品さが醸し出されている。
・・と思えば、途端に頭をこちらに差し出して頬ずりしてくる。感謝を伝えているのだろうか。目の前の巨体から感じていた威厳も尊厳も引っ込み、愛くるしくて可愛らしい仕草。
「ちょ、くすぐったいってっ……!」
ラルズが嬉しそうに顔を歪ませているのを感じ取っているのか、鹿は何度も頭を擦り付ける。味わった事のない肌触りと、無邪気に甘えてくる様子が心地よくて、ついつい頭を手を伸ばして撫でてしまう。
交流もそこそこにラルズは鹿を離し、鞄の中に荷物を入れ直す。水を含ませてしまったポーチをそのまま鞄の中に入れてしまえば、水気が他の私物にまで及ぶかもしれないので、衣服のポケットの中に入れて持ち運ぶことにしよう。
鹿も元気になったことだし、これで安心して都市に向かうことができる。
「じゃあね。気を付けないと駄目だよ」
別れを告げてラルズはその場を後にして進んでいく。少し立ち止まってしまったが、当初の予定にはさしたる影響は現れないだろう。
再び歩き出して都市を目指すして進むのだが、足音が二つ静かな空気に響き渡る。1つはラルズ本人のものだが、もう一つは……
振り返れば、治療してあげた鹿が後を付いてくるように歩いている。一定の距離を保ち、ラルズが立ち止まると同じように立ち止まる。再び歩き出そうとすると同じように歩き出す。
「――付いてきたいの?」
鹿は短く首を縦に振った。問い掛けに対して首を動かし、肯定の意思を見せる。
「・・ごめんね、連れていくことはできないんだ」
が、それでもラルズは目の前の子の想いには応えられない。
一見薄情と捉えられても可笑しくはないが、動物を飼ったりお世話することは、軽々しくその場のノリと感情で決めてはいけないと、ラルズは取り決めを課している。動物は好きな部類に位置しており、懐いてくれたのは素直に嬉しいが、それとこれとは話が別だ。
お世話しようにも知識は乏しく、この子を預けて置ける場所も確保すらできていない。先行きが分からず、無責任に動向を許して連れて行ったとしても、その後上手くいく保証はどこにも無い。
人から視線を向けられる環境、好みの食べ物に散歩の頻度と、言葉が離せない間柄ゆえに、互いのことを深く知るには時間が必要となる。会ったばかりの浅い関係性しかないラルズとこの子も例外ではない。
気合いとやる気だけでどうにかできると勘違いして、この子を不安にさせたり、過度なストレスを与えてしまうかもしれない。
不安材料が数多く考えられる今の状況からしても、連れていくことはできない。
動物を飼うことは、【命】をお世話することと同義。軽々しく、興味本位や面白半分、その場のノリで面倒を見るのは間違っている。
「手当てしてあげたのは、あのままだと君が可哀相だったから。懐いてくれるのは嬉しいけど、一緒にはいけない」
はっきりとラルズの想いを伝える。この子は賢いのだろう。言われた内容を理解しているのか、瞳が微かに細められる。その様子を前にしてこちらも寂しい気持ちが芽生えるが、だからといって意思を曲げることはできない。
ラルズの言葉を、意思を汲んでくれたのか、それ以上は付いてくる素振りは感じられなかった。代わりになのか、ラルズに何かを伝えようとしてくれている気配だけが、空気を通して肌で感じられた。
大声を上げると、そのままどこかへ走り出した。言葉は通じないけど、ここで待っていて欲しいと言われている気がして、ラルズはその場で待機することに。
数分待機していると、あの子が口元に何かを加えてこちらに近付く。目の前で立ち止まり見てみると、真っ赤で美味しそうな林檎が咥えられており、そのままラルズへと差し向ける。
「――もしかして、くれるの?」
「――……」
肯定するように更に口を近付ける。手を伸ばして両手で器を作ると、ポトンと林檎が落とされる。先程の傷の手当のお礼をしてくれたのだろう。もしかしたら、ラルズがお腹を空かしているのを感じ取ってくれていたのかもしれない。
「・・ありがとう」
「――……」
短くお礼を伝えると、鹿はラルズの周囲を回り出しながら鼻を近付ける。匂いを嗅いでいるのだろうか、その行動の意味するところが分からず、少し恥ずかしい気持ちだ。
嗅ぎ終えたのか、それを機に鹿はラルズのもとから離れ、草原を元気よく駆け出していった。後ろ姿は直ぐに小さくなり、やがて影だけの姿に。
持ってきてくれた林檎を一口齧ると、果汁と身の甘さが口の中に広がり、長らく口にしていなかった反動もあり、いつも以上に美味しく感じる。
偶然遭遇したアクシデント。怪我のお礼と称して頂いた林檎を口にしながら、ラルズは再び歩きだす。時刻は夕暮れ時を周り、世界は茜色に染まり出す。
そこからは出発同様にトラブルも問題ごとにも遭遇せず、ラルズはついにその姿を眼前に捉えた。
――ラルズは無事に、南の都市エルギュラスへと到着した。