第二章5 愚者の旅立ち
真っ暗に染まる世界は、昇る太陽に合わせて徐々に薄い明るさを世界に誇示していく。夜の世界の付き人でもある月の存在が、太陽と称して眩しい輝きを放つ存在と出番を交代する。
朝という始まりを寝静まる人々、はたまた活動を続けている者たちが巣食う世の中に知らしめる。それは夜も同じことではあるが、特段活動を停止している人の割合は、前者の方が遥かに多いだろう。
――部屋で準備を整えている彼は、太陽が昇り始めて直ぐに目を覚ました。普段起きたばかりでは周囲に纏わりつく微量の眠気が嘘のように、意識を呼び起こした青年はベッドから身を乗り出し、窓からの光を遮断しているカーテンを開ける。
まだ本格的な朝ではなく、夜みがかかった朝方早い時間。窓を開ければ肌寒い空気が流し込まれ、室内の程よい温度とのギャップが影響してか、特段大きく身体が震える。
屋敷の住人はまだ眠っている者が数を占めるだろう。朝早くから仕事を開始する老執事と、この日を心待ちにしていた青年になったばかりの少年を除いて、よく知る二人の妹と我が儘少女は勿論、恩人である当主もまだ目覚めていないだろう。
いつもと変わらない屋敷の景色、屋敷の日常、ただ今日という日は、ある青年にとっても、屋敷の住人にとっても、記念日と称すには相応しい一日へと変わるだろう。
背筋を思いきり伸ばして身体の調子を確かめる。具合が悪いわけでも、体調が優れないといった、身体的機能で不安視される要素は一つも感じられない。
前日、緊張とドキドキで眠るのに時間が掛かったのが唯一の引っかかっていた部分だったが、本人の思惑とは異なり、一度眠りに付けばあとはそのまま朝までぐっすりだ。頭の中に蠢いていた様々な感情の端端を引き連れ、現実とおさらばしていた。
「――よし!」
調子を確かめて、十五歳になったばかりの未熟な青年、ラルズは目を見開く。
ここから眺める屋敷の庭の様子も、暫くは瞳に映らないだろう。
約七年間、森で過ごしていたのと同じくらいの時間を共にしてきたこの場所から旅立つまで、あとほんの少しの時間。
感慨を覚えながらも、ラルズは準備を整える。記念すべき当日でもあり、心は踊り高鳴り続ける。衝動を、期待を、内に秘めた火が、身体を駆け巡る血液と一緒に浸透する。
世界がどんな姿をラルズに魅せるのか、ラルズがどんな世界を目にするのか、それはもう少し先の話……
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――よし、これで全部……だよね?」
部屋の自室、窓側付近に設置された机の上に置かれた荷物の数々を何度も確認する。
朝起きて身支度を整えている最中にアーカードと出会い、朝食の準備をいつもの席で待っていたラルズは、次々起きてくる住人に挨拶を繰り返し、何気ない普段の一日が過ぎ去る。
ミスウェルが入り、次にシェーレとレルが一緒のタイミングでやって来て、ノエルが一番最後。余談だが、誕生日のお祝いの一件があって、扉の外でノエルがいつのではないかと注意していたが、どうやら先の失敗で学んだのか、いつも通りの様子だった。
レルも普段この時間はまだ眠そうな印象を受けていたが、パッチリと瞳は開かれ、普段見せる溌溂とした様子そのものだった。
会話を交えて全員で朝食を取り終わり、いよいよ出発の時間が近付く。
最終確認ということでラルズは自室に戻って荷物の整理をしていたのだが、落ち着かないのと不安が重なり、何度も鞄の中に入れては出し手を繰り返している次第だ。
肩から提げて使用する、ミスウェルから頂いたブラウン色のショルダーバッグ。小物もかなり入り、長く使用するのにも向いているのは助かるが、如何せんラルズの身長には少しばかり大きく感じる代物だ。
鞄の中身は大陸の地図、生活に必要な金銭、発行してもらった宿場の許可証に、都市に着いたら付け替える名目で抱えているポーチが幾つかと、着替えも数点仕舞っている。
あまり持っていこうとしすぎると、邪魔になるかもしれないので必要なものは限りなく抑えたつもりだ。
鞄の中身以外のラルズの格好は普段の衣装と同じで変わらない。腰に据えている愛用の代物である木剣を除けば、容姿も見た目も至ってシンプル。
生きるのに必要なお金と、宿場にお世話になる証の許可証が最低限手持ちにあれば、最悪都市の方で調達することはできるので、死活問題には陥らないだろう。
無論、与えられラルズのもとなっているお金の方は、無駄遣いするつもりは毛頭ない。どうしても必要だったり、興味が理性を超えて欲求へと変化したのだとしたら購入も視野に入れるが、ラルズが働いて得たお金ではないし、自由に使えるとはいえ、使用は計画的に。
その点は普段アーカードにお使いを頼まれることもあり、物価の値段や価値も勉強させてもらった身である為、散在するような愚かな行為はしないだろと、ラルズは自分を客観的に評価している。
再三確認し続け、そろそろ時間も差し掛かるころ。屋敷の全員が見送る為に玄関口に集合している頃だろうし、そろそろ向かおうと散らばった道具たちを鞄に詰め込んでいく。
「よし、これで――」
準備完了。机から鞄を持ち上げようとして、一冊の本が目に映る。
・・ラルズが少年のころに手に取り、以来彼に少年の心を常に忘れらせなかった思い出の一冊。ボロボロで汚れていて、人から見たらゴミ同然と思われても仕方がない代物。傷だらけで、銅貨一枚分の価値もあるかどうかも怪しい。
だが、ラルズにとっては夢をくれた大切な代物と同義だ。誰かの一言がその人にとっての名言になったり、誰かの行動が自身の目指す道へと志が変化したりと、人によって何に影響を受けるのかはそれぞれだ。
ラルズにとって、外の世界を記したこの本が正にそれだった。宝物と称するには充分すぎて、他の誰かに酷い言葉を掛けられようとも、心無い一言を言われたとしても、最高で偉大な一冊に変わりはない。
「――うん」
持っていこうと悩んだが、この部屋に置いていくことにしよう。
これから先は、自分の目で、自分の足で広げていきたい……
決意を胸に、想像を膨らませてくれた宝物に宣言し、ラルズは部屋の入り口の扉を開け放つ。扉を閉める直前に、最後に部屋の様子を目にする。
この部屋も、与えられてそれ以来使用された、付き合いの長いものだ。怪我の治療から始まり、屋敷で厄介になる話を受けた後、自然と流れる様にこの部屋を頂いた。
自分の部屋を除けば、一番ラルズが入り浸っていた部屋は書庫となるだろう。勉強の名目もあり、かつ読書が好きな一面と合わさり、屋敷の中の棚に並べられた本の数々を大半読破している。
一般常識として浸透している知識や、後世に語り継がせる役割を担っている歴史本。魔獣の生態や精霊と呼ばれる生命への記述と、分野も様々で、読み更けてしまう時間も多かった。
書庫以上に、この部屋はラルズが使用してきたこともあり、やはり思い出は時間の分沢山だ。話し合いの結果、アーカードには掃除をお願いしているので、彼のこともあり、戻ってきた際には今目にしている以上に綺麗になっていても可笑しくはない。
静かに扉を閉め、赤い絨毯が引かれ、どこまでも伸びている廊下を渡っていく。
何度も踏んで歩いてきた廊下を進んでいき階段を駆け下りる。降りた先も景色は二階とほぼ同じで、いつもより小さい歩幅で玄関ホールへと向かっていく。
廊下の端々に設置されている花瓶や骨董品を目にしながら、気付けば玄関口へと到達。一度大きく息を吸ってから吐き捨てる。喉の中の唾を飲み込んで、ラルズは扉に手を掛ける。
大仰の扉が開かれ、その先に待っていたのは出発するラルズを見送る為に待機していた屋敷の人たち。ラルズが姿を現して、五人がそれぞれ視線を向ける。
シェーレとレル、ノエルにアーカード、そしてミスウェル。助けてもらったあの日から、ラルズの周りを賑やかに、和やかに彩る人々の姿。
ただ一人を除いて、ラルズは本当に周りに恵まれていると感じる。優しくて、気を遣ってくれて、与えられたものが遥かに多くて、お礼を伝えるだけでは全然足りない温情をその身に受けてきた。受けた痛みや苦しみが払拭されるほどに、身に余る愛情を注がれてきた。
ミスウェルには文字通り命を救われ、アーカードには身の回りの全てを、ノエルには強くなろうとする切っ掛けと意志を。シェーレとレルは、ラルズの背中を押してくれた。応援してくれて、夢に向かって羽ばたいてほしいと、願いを言葉に宿して伝えてくれた。
「――兄さん、どうしました?」
「・・いや、何でもない」
目の奥に温かいものを感じて、ラルズは大丈夫だと嘘をついて引っ込める。
「ラルズ君、本当に竜車は手配しなくてよかったのかい?」
都市までの距離は歩いて向かうにはかなり離れており、この時間に出発したとしても、到着は恐らく夕方近く、場合によっては夜になっていても可笑しくはない。
「折角の提案ですけど、最初は自分の足で向かいたいんです」
地図もいただき、大きな街道はある程度利用する人や竜車が踏みしめる為に自然と道が出来上がっている。万が一にも迷ったりといったことは無いだろうし、鞄の中には光源代わりとして、手にした持ち主の魔力に反応して光を灯す魔道具も持っているため、心配しなくても大丈夫だろう。
「そうか。君がそう言うなら、これ以上は言わないさ」
納得してくれたのか、それ以上ミスウェルが口にすることは無かった。彼はその代わり腰に携えていたあるものを外すと、それをラルズに差し出した。
「これを、受け取ってくれないか?」
「これって……」
手渡されたものは剣だ。ラルズが腰に据えている木剣とは違い、鉄製の本物の剣だ。鞘から刀身を軽く引き抜くと、美しい銀色が太陽の光に反射する。剣に視線を向けていると、ミスウェルの両手がラルズの方を掴んで、意識を自分に引き寄せる。
「君は優しい。誰かを傷つけようとする行為そのものを嫌う君からしたら、不必要なものかもしれない。でも、どうか持っていて欲しいんだ」
両肩を掴まれ、屈んでラルズと同じ位置に瞳を置きながら、真っ直ぐ見詰めてミスウェルが忠告する。真剣に訴えていることが、周りの空気と低くなる声の調子からも明らかだ。
「どれだけ気を付けていても、どうにもならない事件や事故が世の中には蔓延っている。自然現象と一緒で、不意に目の前に障害が現れたり、犯罪に巻き込まれることだって、多くないだけで充分にあり得る。それは、他でもない君が一番良く分かっていると思う」
両親を失うことも突然の出来事にさることながら、一番はやはりラッセルの話だろう。両親を亡くして心が疲弊している中で、まるで追い打ちをかけるかのようにラルズたち三人を襲った最悪の一件。
大人の理不尽、正確には悪人の悪辣な趣味の玩具として、人の形をした道具として痛めつけられ、非条理を受け続けてきた。
偶然の産物、避けられない事象、それはミスウェルの言う通り、他でもないラルズたちが身を持って理解している。あんな日々は二度と御免だし、二度と味わいたくない。
だけど世界はそんな一個人の事情や背景なんてまるで気にしない。というよりも気にも留めていない。ラルズたちが辛い現実を目の当たりにしている頃も、世界は素振りを見せない。そもそも関心が耳に入らず、情報が入らなければ認知もされない。
ミスウェルがラルズに渡した本物の剣も、いついかなる状況下に陥るか分からないラルズの立場を心配し、鑑みてのことだ。本人が必要ない、持ちたくないと嘆いても、使わざるを得ない状況が目の前に転がり込んでくれば、引き抜く覚悟はしておかなければならないだろう。
周囲の状況や情報の欠片を拾い上げて、予測や予見といった能力が優れている人がいるとしても、その先の未来を見通すことは不可能。
使わないならばそれに越したことは無いし、使用しないのが一番だ。ただ使用するつもりはないのと、使用するつもりはないけど準備しておくのは話が別だ。
最悪の為の保険変わり。身を守れる武器が一つでもあった方が、送り出す方も安心するだろう。渡された本人の自衛の為にも。
「いざとなったら使うことを躊躇わないで欲しい。自分の命を、大事にして欲しいんだ」
「・・はい、有難くいただきますね」
鞘から抜き出た僅かな中身を仕舞い込んで、そのまま剣を受け取って腰に提げる。素早く取り出せるような場所に準備しておいた方が都合が良いだろう。
都市について時間ができたら軽く素振りをして慣れておこう。木剣とは材質も重さも違うからして、感触から始まり相違点が多いことは容易に想像がつく。
「――ラルズ様。私からもお言葉を」
「アーカードさん」
当主に続いてアーカードからも言葉をいただく。スラッと伸びた長身が膝を曲げ、先のミスウェルと同じように互いの瞳が交差する。
「貴方の命は一つだけです。それはミスウェル様も、私も、ノエルやシェーレ様、レル様と、今を生きる全ての人が有する命の形は……魂の形は決まって一つだけです」
人に宿る魂の色や形は、周囲の環境に影響を受けて成長を遂げる。幼少のころから時間と共に積み重なった命は人それぞれであり、成り立ちも千差万別だ。
情に熱い人もいれば冷めてる人。好きなものや嫌いなもの、価値観の相違と、人は人の数だけ思考や好みがバラバラで、完全に一致する人なんてそれこそ世界中探しても見つかるか怪しいだろう。
「繰り返しですが、貴方の命は一つだけです。そして同時に、ラルズ様という人物の魂も一つだけです」
「アーカードさん……」
「限りある命は唯一であり、魂の大全。貴方が死んでしまったら、涙を流して悲しみに暮れる人が、今目の前にいることを、どうか忘れないでおいて下さい」
それは重くて、重圧を感じそうになるも、忠言する本人を包み込む優しい言葉だ。人の命は一つだけであり、そしてそれは何者にも変えられない、不変の価値を備えている。
「一を宿すは命、全を宿すは魂……どうか、この言葉を忘れずに」
魔法は万能であり叡智の賜物でもある。だが、及ばない力や事象も当然備わっている。死んだ故人をこの世に生き返らせたりといった死者蘇生は、世界中の全ての人が求めてやまない代物の一つだろう。
大切な人を亡くし、深い絶望に落ちる人々だって当然いる。それはラルズたち家族や、ノエルにも言えることだ。
亡くなってしまえば、魂が消滅してしまえば、そこにあるのは空っぽの肉体だけだ。どれだけ祈りを捧げても、願いを嵩じても叶わない、自然の摂理。
「・・分かりました。肝に銘じておきます」
「はい、私からはそれだけです」
少し難しいけれど、同じ一つずつ備わっている命と魂。この二つは等分ではないということ。アーカードさんが伝えたかったことは、そう言うことなのだろう。
大人組二人からの出発の言葉を頂いて、あとはシェーレとレル、ノエルの三人だ。
ノエルの方をちらりと見るが、彼女は自身の肘を抱きかかえてふんぞり返っている。
「・・約束、覚えてる?」
「勿論。十五歳になったら教えてくれることだよね」
数日前にノエルと村へ買い物をしに行った帰り道、彼女からされた夢についての話が膨れたときのこと。医者や薬剤師を候補として絞っていたノエルが、別の選択肢も考えていると口にした際、詳細は確認することはできなかったが、本人から十五歳になったら教えてあげると約束をした、といった内容だ。
「覚えているならいいわ! 外を楽しむのは構わないけど、それでノエルとの約束忘れてたりしたら、怒るからね!」
「大丈夫、忘れないって」
約束事も勿論だが、ノエルはかなり個性的な人物だ。強烈すぎる第一印象と何度怒られても悪戯を実行し続ける図太い胆力も備わっている。万に一つ頭から抜け落ちていても、ノエルの姿を一目見れば記憶の引き出しが自動的に開かれるだろう。
「次会うときまでにはこれまでで一番の悪戯考えておくから、楽しみにしておいてね!」
「それはちょっと……」
次会うときがいつになるかは分からないが、ノエルには注意を払っておいた方が良いだろう。再会を喜ぶよりも、ラルズが悪戯で驚く姿を優先するのが簡単に浮かび上がるのだから。
だが、暫く会えないことを考慮しても、いつも通り接してくれているノエルの態度は、いい意味で見送られるラルズ側としても嬉しいものだ。いつもの可愛らしい笑顔が、普段通りを助長してくれている気もする。
「・・兄さん、身体には気を付けて下さいね」
ノエルとの挨拶も済んで、最後は最愛のシェーレとレルだけだ。いつもと変わらない様子で声を掛けてくれる彼女だが、その瞳の端には涙が溜まっているのが見て分かる。普段涙の素振りを見せない彼女の変化に気付き、ラルズの瞳にも温かいものが昇ってくる。
ここで涙を流してしまえば、決壊した川の氾濫のように溢れ出てしまうだろう。誤魔化す代わりと暫く会えない代わりに、シェーレを抱き寄せて頭を撫でる。
「シェーレも元気でね。シェーレはしっかりしてるから、俺が居ない代わりにレルのこと頼んだよ?」
「・・兄さんは甘いですけど、こういうときは甘くないんですね」
「え? それってどういう意味?」
「ふふっ、内緒です」
言葉の意味について尋ねるラルズだが、答えのほどは秘密と言われて質問はばっさり切られる。腕の中から離れてシェーレが口元に手を添えて優しく微笑む。実の兄ながら、惚れ惚れしてしまうほどに魅力的で、美しい笑顔だ。
「レルも元気で――」
「――っ!」
シェーレ同様、声を掛けて抱き締めようとした腕の中にレルが飛び込む。後ろにぐらつき、倒れそうになる身体をどうにか踏ん張りを効かせて体制を維持。肩付近に当たる顔から熱を感じ取って、ラルズはそっと頭に手を伸ばした。
「・・ほんどは、行ってほしぐないっ! 兄貴と離れるなんて、本当に、嫌だっ! 一生兄貴と一緒にいだい!!」
「うん、分かってる」
「でも、でも……! 兄貴から夢を奪いだぐ、ないし、邪魔に、もなりだぐなぃ、からっ!」
「うん、うん……」
頭を撫でるレルが想いの丈を全て打ち明けてくれる。離れたくないと、一生傍にいたいと言ってくれる。妹にこれだけ慕われて、嬉しくない兄がいるだろうか……
ため込んで抑制していたシェーレとは違い、レルは啜り泣きながら大量の涙を流していた。言葉を口にする度に涙が流れ、右肩はもうずぶ濡れだ。
「だか、らさ! 時間が、経っで、ね! どうし、ても寂しく、なったら、会いに行っても、いいっ?」
「――うん、待ってる。いつでも会いに来て」
レルの言っていることは大袈裟かもしれない。大陸の反対から反対まで距離が離れていたりするならいざ知らず、屋敷から竜車なら半日ぐらいと大したことない距離だ。会おうと思えばいつでも会える。
でも、生まれてきたからずっと時間を共にしてきた。その時間の間には、一言で語るには少なすぎるぐらい、濃密な時間が生み出されていた。
冗談でもなく誇張でもなく、流れる涙に宿っているのは、確かな想いの結晶だ。それは涙を分かりやすく流していないラルズも、シェーレも同じだ。
腕から離れて、隠れていた顔が露わになる。涙で表情が崩れていても、一度笑って見せれば、現れるのは正に太陽の申し子。見ているこちらが安心してしまう、元気を分け与てくれる最高の笑顔だった。
――全員と言葉を交わして、肩に提げていた鞄を今一度持ち直す。いよいよ、お別れの時間だ。
前へ踏み出して、全員の顔を一瞥する。見送るみんなの顔は、優しく旅立つを見守る形相。
十五年の月日を経て、ラルズは踏み出す。焦がれた先を、未知を、知らない世界を。
「――行ってきます」
「「「「「いってらっしゃい」」」」」
先日両親の墓の前でも伝えた言葉。そのときは、辺りの風が幻聴を引き起こしたが、今回は違う。言って欲しい言葉が、反応がラルズに返り、旅の始まりを祝ってくれる。
――ラルズは世界を知るために渡り歩く。その足で、その目で、彼は進んでいく。渇望し、焦がれた憧れの外へと。夢にまで見た世界へと……
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
背中が見えなくなるまで一同は見送る。シェーレは泣き崩れるレルを宥めており、ノエルは叱られた犬のような悲しい目をしていた。ちらりとアーカードを見れば、普段崩れたりしない彼の瞳に変化が生まれており、寂しげな影が目に宿っていた。気持ちは全員同じなんだ。
「いいのかい、ノエル?」
「――。な、何をよ……っ」
頭に手を置いて、ノエルに話しかけた。
「ラルズ君に伝えておかなくて」
「つ、伝えた、じゃないっ! 全部ちゃんと……っ」
屋敷で長い間一緒に住んでいるからこそ、ノエルがラルズに対して、特別な感情を抱いていることをミスウェルは知っている。
最初は意識していなかっただろうけど、長い間生活する内で、段々とラルズの存在がノエルにとって大きいものと姿を変えているのは分かっていた。
詳しい経緯は知らないが、恐らく最近になって感情の正体に気付いたのだろう。いや、あるいは芽生えたといった表現の方が正しいだろうか。
「後になって後悔しても、手遅れなんだぞ」
「・・だって、一番行って欲しくない人が、最後には笑って見送ったのよっ」
「――そうか、ノエルは強いな」
シェーレの胸を借り、再び泣いているレル。一度は抑えたものの、離れていって小さくなる姿を瞳映し、決壊したように涙を流している。
レルを宥めている彼女の方も平静を整えているようで、内心恐らくダメージが大きいだろう。
三人の兄妹愛は、世界中探しても匹敵する人がいないくらい、互いが互いを信頼し、愛情を向け合っている。兄は妹を愛して、妹も兄を愛している。
笑って見送ってはいたが、いざ別れが訪れた手前、この瞬間から両者とも深い悲しみに覆われているだろう。暫くは疲弊している様子が続きそうだが、二人とも両親を失っても前を向いている強い子たちだ。心配せずとも立ち直っていくだろう。
ノエルも、シェーレとレルの心労を把握しているからこそ、自分の気持ちを優先しなかったのだろう。ラルズが彼女のことをどう意識しているのか分からないが、いい結果になってくれれば、面倒を見ている手前嬉しい限りだ。
――背中がだいぶ小さくなり、ほとんど形も映らないぐらいにまで遠くに行ってしまった。その背中を瞳に映して、ミスウェルはただ一つの後悔に苛まれる。
・・すまないな。アルバート、ロゼ。
護ると誓いを立てたにも関わらず、違えたことに対して、心からの謝罪を伝える。本来なら、ずっと傍で見守るつもりだったけど、他でもない当人からの意思だったんだ。どうか許してほしい。
ミスウェルはノエルを始めとして、シェーレとレル、ラルズのことを実の息子娘のように慕っている。剣だけを見据えて戦場を駆け続け、恋愛事など眼中になかった。女性に恋をすることも、結婚しようといった願望も持ち合わせず、この身を戦場に投じていた。
親元の気持ちが分からない彼にとって、出会った四人の存在は何よりも眩しい存在だった。剣しか持たないミスウェルに新しい生き方を、喜びを与えてくれた。
その価値観を僅かでも理解できたミスウェルだからこそ、心から当人が望む夢を追わせてあげたいと思っていた。
可愛い子には旅をさせよと耳にしたことがあるが、正にその通りだ。
大事だからこそ、愛しいからこそ、応援してあげたい。
血に囲まれた生涯だったからこそ、自分のように狭い世界の中で囚われていて欲しくなかったのだ。
(怒るなら俺を怒ってくれ。剣の道も、約束も、誓いも、全部中途半端なこの俺を……)
何もかも満足に成し遂げない。進んだ先で挫折し、投げ出し、今再び過去に味わった後悔の味を思い出している。ノエルに対して放った言葉が、自分の首を絞めつける。
一体、あと何回後悔をすれば俺は許されるのだろうか。
(教えてくれないか、アルバート、ロゼ……)
答えは分からない。当人でさえ、彼の中での英雄でさえ、誰にも答えは分からない。
未来なんて、誰にも知ることはできないのだから……
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
未来は誰にも知ることはできない。
――もしもの話だが、未来を目にしたとき、その人物は違う道を進むのだろうか。未来を見通すことが可能として、起こり得る惨劇を、悲劇を、事件を、未然に防いだり回避したりすることはできるだろうか。
答えは否、だ。
未来を予め把握していても、内容を知ることが出来ても、それはただの情報としての価値を有しているだけに過ぎない。
過程や道筋を多少歪曲したとしても、それは所詮結果に続く端物であり、一番重要な結果を変えることはできないからだ。
結果という名の終着点を変えない限り、どれだけ進む道を変えようとも、終わりは常に変わらない。
それは生まれ持つすべての生命に刻まれた、運命と呼ばれる絶対的な力だ。
運命に抗っても、運命に牙を立てようとも、定められた運命を変えることは叶わない。不変性の絶対君主に位置するその存在は、この世に産まれた命全てに平等に降りかかる。
平等に、振り分けられる面で見ての平等。無慈悲であり、不条理であり、同時に善導でもある。そこに大小の有無は考慮されない。
――かくしてラルズは……愚者は進んでいく。
逃れられない運命の上を、本人の知らない間に。
運命に導かれる愚者の姿は、愚かであり滑稽であり、何より虚しい……
万人に讃えられる英雄にも、偉業を成し遂げ歴史に名を連ねることもない。
愚者はただ導く為に歩き出す。運命の終焉を迎える、そのときまで……