第二章3 十五歳の誕生日
時刻は夕刻に差し掛かり、屋敷の面々は一堂に会している。部屋の内装はいつもよりも煌びやかに輝き、部屋の中心で大きく鎮座するテーブルの上には沢山の料理の数々。開けられていない新品なボトルも何本か傍に置かれ、一室は普段の様子と様変わり、パーティ会場へと舞台ができあがっていた。
テーブルを囲むようにみなが立ち並び、グラスを片手に開始の言葉を待つ。やがて準備が完了したのを主催者が確認すると、全員に目配せをしてグラスを掲げる。
「今日は記念すべき日だ。ラルズ君の十五歳の誕生日、それを祝して――!」
かんぱーい!!!!
本日は記念すべき日。ラルズが十五歳となった誕生日だ。年齢が十五歳となり、目ぼしい変化こそないが、王国法で定められているように、子供から大人へと仲間入りを果たす日だ。
数日前から内心心待ちにしていたラルズは今日をずっと楽しみにしていた。例年行われるパーティと比べても、今日はより一層気合いを入れて設営してもらったこともあり、ミスウェルたちには感謝が絶えない。
空中で合わせたグラスをそのまま口元へと運んでいく。グラスの中身は去年まではミルクや飲み水だったが、記念すべき日に合わせてワインを注がせてもらった。
「どうだいラルズ君? 初めてのワインの味は?」
「――! お酒って聞いて身構えていたんですけど、果実の甘さが前面に出ていて飲みやすいし、何より美味しいです!」
味の説明を簡単に受けたワイン。赤と白の二つの内、赤色の方を選択して注いでもらったラルズだが、お酒にあまり詳しくないのと、ラッセルが度々飲んでいた点もあっていい印象は抱いていなかった。
しかし一口飲んでみればそんな後ろ向きで控えめな考えは消えてなくなった。
ミルクや飲み水とは違って、お酒は飲みすぎてしまうと身体に悪影響を及ぼすと聞かされている。
お酒と呼ばれる飲み物にはアルコールと呼ばれる物質が含まれており、体質にもよるらしいが、人によっては一口飲んだだけで酔ってしまう人がいるとか。
過剰に摂取しすぎてしまうと体内の細胞を壊してしまい、眩暈や吐き気といった症状が現れ、泥酔状態にもなってしまえば、前日の記憶が頭から抜け落ちている……なんてこともザラにあるらしい。
お酒は飲めるようになっても適切な量を、それがワインを注がれる前に言われたアーカードの言葉だ。でも思いのほか美味であるため、これに大人がハマってしまう理由も少し頷ける。
他にも種類は様々あり、今飲んでいる赤ワイン以外にも白ワイン、蜂蜜酒、ビールといった代物もあるとのこと。いずれ機会があれば挑戦してみたい。
酒に関して記憶に深く刻まれている身近な事件が一つある。屋敷に来て間もなく、ラルズが八歳の誕生日の際、今日のように会を開いてもらった当時、ミスウェルの自制が効かずにベロベロな状態になったのを目の当たりにした。見た目とは裏腹に酒に相当強く、終了するまで料理よりも酒を好んで体内に摂取していた。
酒に強くても、ずっと飲み続ければ影響も現れる。後半になっていくにつれて呂律も怪しくなり、量に関しても自身の状態との管理の塩梅が甘くなり、足取りもふらふらな様子へ。子供もいる手前、主催者が後先考えずに満足いくまでお酒を飲んでしまったこともあり、アーカードは会が終了したのちに別室に主人を連れて猛激怒。
正座させられ、静かに説教を受けるミスウェルは酷く落ち込み、瞳からは大量の涙を、口からは謝罪の数々を。扉の隙間から伺っていたラルズたちは、ある意味先人から教訓を学んだ形となった。
飲み干した空のグラスをテーブルに置いて料理に目配せする。一口サイズのサンドイッチに、豪快に丸焼きにされた七面鳥、魚の旨味が広がるスープ。どれから口にしようか考える時間も束の間、気付けば手が伸びて並んでいる料理たちを次々と口にしていた。
どれもこれも美味しくて手が止まらず、手が休まる気配が一向にない。皿の上に料理が無くなればまたよそい、それを繰り返す。満足いくまで胃袋を満たそうとするラルズは、ある種誕生日会の主役としての座を見事に堪能していると言えるだろう。
「ねぇ兄貴! お酒ってどんな味なの!?」
料理を楽しんでいる傍ら、レルがお酒に対して興味を持ちだしラルズに質問する。レルはまだ十三歳ということもあって、今グラスを満たしているのは果物の果汁を煮詰めたシロップだ。
「レルたちが飲んでるのと違って味も濃いし、印象に反して口当たりも甘くて美味しいよ」
「えーいいなぁ、あたしも飲みたい!」
他人が飲んでいるものが自分とは違う点において、気になるといった感情を向けてしまうのはある種当然の性だろう。他人が口にしている料理を見るとついつい食べてしまいたくなるのと一緒の現象だ。
「少しなら大丈夫だと思うけど、アーカードさんにばれたら大目玉喰らいそうだし、我慢して?」
飲ませてあげてもいいのだが、アーカードはそこら辺の取り決めや規律には煩い人だ。執事として完璧に仕事をこなす職務柄見逃せないのだろう。バレないようにこっそりと……なんて企んでいても、彼のことだから本人たちの気付かぬ間に視線を送っているなんてケースもあるだろうし、レルには悪いが、大人しくラルズと同じ十五歳になるのを待ってもらうことにしよう。
「――そうよレル。貴方はまだ未成年。駄目と決められている代物には手を伸ばしちゃ駄目なのよ」
「むー、分かったよ……」
会話に割り込んできたのはシェーレだ。両手にグラスを持っている。片方はレルのものだろう。グラスを一つレルに差し出すとそれを一気に飲み干した。
「美味しい!」
先程までの不満げな表情から一転、一息に飲み干したグラスをテーブルに叩きつける。その様子を前にラルズとシェーレの二人はレルに向け、単純だなぁと視線に乗せる。
「・・そう言えば兄さん、今日ノエルから凄い文句言われてましたけど……」
「ああ、あれは――」
「そうよ! 起こしてくれなかったおかげで、一番最後に祝う羽目になったじゃない!」
話を聞きつけたのか、先程までミスウェルと話していたノエルがラルズたちの方へと勢いよくグラス片手に駆けてきた。中身の飲み物が若干波打ち零れそうになるが、全く気に掛けてすらなかった。
事情を知らないシェーレとレルは仲良く同じ角度に首を曲げている。
事の始まりは今朝。誕生日を迎えたラルズはいつもよりも気持ち早めに目を覚ました。着替えて顔を洗いに洗面台へ向かおうと扉を開けたのだが、扉の外に眠りながら座っていたのがノエルだ。
すやすやと幸せそうに眠っているノエルの姿を前にして、起こすよりもこのまま眠らせてあげたほうがいいだろうという結論に至り、彼女を抱きかかえて部屋へと連れて行き、ベッドの上に寝かせてラルズはその場を去った。
そして昼過ぎ、起き上がると彼女は涙目になりながらラルズのもとへと爆走。服を掴んで乱暴に振り回し、脳が揺さぶられる感覚を一重に味わわされていた。憤慨する彼女を宥める為にに事情を説明するも、怒りの留飲を下げるのには相当な時間を要した。
話を聞けばどうやら、一番最初にラルズに誕生日のお祝いの言葉を届けたかった、理由のほどはかなり可愛いものだ。
「えっとつまり、ノエルは一番最初に誕生日のお祝いをしたかったってことですか?」
「そうよ!」
記念すべき日、一番最初に祝いの言葉を送ろうとしてくれたのは素直に嬉しい。事情をラルズも若干申し訳なさが立ち、反省したのだが、よくよく考えればそもそもの話ノエルが—―
「それってノエルが朝早く起きればいいだけじゃん?」
ラルズの思っている心の内を引き継いだようにレルが言の葉を舌に乗せる。正論にノエル以外全員が頷き同意を示す。誰も味方がいない彼女は分かりやすく頬を膨らませ、誤魔化せる為か料理をいそいそとよそい始めた。
ちなみにラルズに十五歳のお祝いの言葉を送ってくれた順番は、アーカード、シェーレ、ミスウェル、レル、ノエルとなっている。
「でもありがとね。ずっと起きててくれたんでしょ? それだけで嬉しいよ」
「ら、来年は一番最初にお祝いするからね!」
感謝の気持ちを伝えると、小動物のように料理を頬張るノエルの表情が少し回復する。
他にも他愛のない話が続き、特定の誰かを指した議題で盛り上がったり、端の方に用意されたテーブルゲームで賑わいを見せたりと、楽しい誕生日パーティが続いていく。
楽しい時間は一気に進んでいき、料理も段々数を減らしていき、終わりへと近付いていく。
この後に、誕生日プレゼントという一大イベントを潜んでいることを、主役のラルズが知らない間に……
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
大いに楽しい時間を過ごしている屋敷の一同。時刻も夜深くとなり、日付が変更される一時間前ぐらいだろうか。
設置された魔刻石が時間の変化を静かに伝える中、ミスウェルがラルズに向かって口を開く。
「――ラルズ君、君の時間を少し借りたいんだが、構わないかな?」
「はい、何ですか?」
いつもと比べ、少し声の調子を低くしたミスウェルの声。どこか楽し気だった空気に少しばかりの緊張さが生まれ、声を掛けられたラルズも微妙な空気の変化を前に、目の色が少し変わる。
「――誕生日プレゼント、まだ渡していなかったからね」
「・・プレゼント?」
目を細めるミスウェルの口から出た言葉は、ラルズの予想したものとは遥かに違うものだった。何か重要な、重苦しいような話なのかと覚悟していたのが冗談だったかのように、周りの空気が弛緩されていくのを肌で感じた。
「ああ、君の為に俺から、いや正確には、屋敷の人全員からの贈り物だ」
「全員って、何やら凄いですねっ」
去年までは個人個人からラルズに対して贈り物がされていた。ハンカチや手袋、手帳に羽ペンと小物系が数を占める中で、突如としてその規模が大きいものに。
「きっと喜ぶと思う。本当に……」
「どんなものでも嬉しいですよ」
人からいただく物で、嬉しくない物の方が珍しいだろう。どんな物を頂けるのか分からないけど、個人的にはあまり高価な代物だったりは遠慮したい。そういった値入の高い品は身の丈に合わないし、宝の持ち腐れになってしまうからだ。
大きい期待と少しばかりの不安、対照的な感情を胸に抱きながら、案内されるままにラルズたちは会場を後にしてミスウェルの後を付いていく。
場所は移り変わってミスウェルの私室。開かれ順番に中へと入っていき、促されるままにソファに腰を落とす。
正面にはミスウェル、右隣にはアーカードとノエル、左隣にはシェーレとレルが同じように座り、一同は視線をラルズに向けている。
全員から集中して見られており、何だか落ち着かない。一言もしゃべらず、静かに時間が流れる。これ以上の沈黙を嫌い、ラルズが口を開いた。
「あの、一体何を……」
「待たせて済まない。これが、俺たちから君への、十五歳の誕生日をお祝いしたプレゼントだ」
飲み込めていない状況の中で、ミスウェルがそれぞれ手にしているのは二つ。
片方は封蝋を施され中身を隠している手紙で、もう一つは大きな革袋だ。外から見ただけでもパンパンに中身が詰まっているのが手に取るように分かる。テーブルの上に置かれた両者の内、片方だけが甲高い音を室内に響かせた。
その音を耳にしただけで、実際に中身を確認しなくても、ラルズは中身が何なのか容易に想像がついた。理解が及んだと同時に動揺を周囲に晒し、身体を理由のない震えが襲う。
「――。あの、ミスウェルさん、この袋の中って……」
「開けてみてくれ。君の質問には、その後に答えよう」
・・恐る恐るラルズは目の前のテーブルに置かれ鎮座し、存在感を放っている袋の縛り口に手を伸ばす。結び目を慎重に解き、中身がご対面。予想通り、むしろ外れて欲しかった予感が見事に的中し、ラルズは息を呑んだ。
目を疑った。袋の中に手を伸ばして軽く掻き回す。動かすたびに行商人や店を構える人たちが快楽を感じてしまう魅惑の音が連続して響き渡る。その音に反応を示さず、どれだけ手を動かそうとも、金一色の中身が変わることはなかった。
どこまでいっても眩く光り輝き、存在を知らしめる大量のお金。銅貨や銀貨といった、貨幣の価値において黎金貨を下回るものは一枚も見当たらない。五十、百、正確の数は把握し切れていないが、贅沢をし続けても問題のない量。
動きを止め、袋から手を離してラルズは、目の前の光景を現実なものと受け止められなかった。いきなり誕生日プレゼントと言われて差し出された品が、思いも知らないものであったのに加え、一生遊んで暮らせるような規格外のお金。
これを素直に貰い受けられるほど、ラルズの心は甘くはない。どころかむしろ逆だ。何か嫌な予感がラルズの全身を包み込み、冷や汗まで出てきてしまう始末だ。
「こ、こんな立派な物頂けません!」
「いや、君に必要なものだ。それと、まだもう一つの中身を見ていないだろう。お金は言ってしまえばおまけのようなもの。本命を開けてから、改めて話をしよう」
この沢山の金銭がおまけ……そんな馬鹿な話があるのだろうか。
指で示されるのはもう一つの贈り物。既に頭の中は疑問で埋め尽くされ、正常な判断が難しくなってしまっている。固まっている脳みそで先程のミスウェルの発言を拾い上げ、視線をそちらに。
何の変哲もないただの紙切れが、ただ単に怖い。場の空気は静まり返っており、その様子とは反対にラルズの身体は、心は激しく取り乱している。
震える指先で手紙をつまみ、それを手元に運ぶ。若干汗の浮かんだ指で封を剥がして中身を取り出す。
綺麗に折り畳まれた紙を広げ、書き記されている文字を目で追う。焦りと不安、様々な思惑が影響しているのか、必要以上に瞬きを繰り返して手紙の内容を吟味する。
契約、在住、不備、そういった単語の意味を掬い上げ、ラルズは目にしているものが書状ではなく、個人同士が取り決めを約束する契約書であることを理解した。
――同時に、頭を支配するのは先程と同じかそれ以上の疑問。記されている内容を把握できず、正常な働きを行えずに、視線はプレゼントと称してラルズに手渡したミスウェルへと向けられる。
「・・これ、何ですか……?」
「見てもらった通り、南の都市エルギュラスの在住契約書だ。期間は一年間。宿場の店主とは既に話を付けてあるから、あとは君がサインをしてくれれば、契約は完了。自室のように使用してもらって構わない」
淡々とラルズの質問に答えるミスウェルはいつもと変わりない。まるで知らない知識を与えようと、道に迷った人に目的地を教えてあげるように落ち着いた声音で説明する。
「――そ、うじゃ、なくて……!」
求めているのは今し方話してくれた内容についての確認ではない。ラルズが求めている答えは、何故自分が南の都市に行かなければいけないのか。仕事や私用で現地を利用するという事情なら致しかねない。でも一日二日宿を借りるのとは訳が違くて、一年間も……?
「お、俺は都市なんかに行きたいなんて一言も話していません! どうしてこんな一方的に決めるんですか!?」
内容は勿論、本人の意思も無視して準備をしていたのは、単純に失礼に値するだろう。話し合ったり事情を窺って、内容を互いに擦り合わせて進めていくのならばまだ話は分かる。
ラルズに内緒で一方的に……それが正しい事じゃないことなんて、ミスウェルが分からない訳じゃない。彼だけでなく、ここにいるアーカードやノエル、シェーレやレルだって、誰だって理解が追い付く。
「無理矢理だったのは否定しない。強引だと君が文句を口にするのも当然だ」
「じゃあなんで――!」
「他でもない、シェーレ君とレル君からの頼みだからだ」
普段の様子とは一転、檄を飛ばし、乱暴な口調になるラルズに静かな空白が作り上げられた。ここまで様子を窺っていた二人の名前が、ラルズの眼前に差し出された一枚の紙切れの発端と知り、視線はそちらへと向けられる。
「シェーレと、レルが……?」
訳が分からない。今回の件は、都市に在住させたいとお願いをしたのが、シェーレとレルの二人。再三頭がフリーズし、ただじっと両者に視線を固定している。
沈黙を断ち切るように、シェーレがあるものをテーブルの机の全員に見える様に置いた。動作につられて首を動かすと、中央に置かれた本を見て、ラルズは瞳を大きく見開いた。
「勝手に部屋から持ち出してごめんなさい。でも、兄さんの気持ちを引き出すのに、必要だったので」
それはラルズが幼少期のころから何度も目を通してきた一冊の宝物。外の世界を、実体験のもとで文字に書き起こした冒険録のようなもの。ページ数もさほど多いわけではない、日記にも劣る薄い蔵書だ。
「――これと何の関係が……!」
「兄さん、言ってましたよね? 昔から、この本を目にしてからずっと、いつか外の世界を自分の目で見てみたいって」
「――っ!?」
シェーレの言葉にラルズが反応を示す。掘り起こされるのは、初めてこの本を目にしたときの記憶。
父さんと母さんが外の世界へと出掛けに行って、退屈を紛らわせる為に持ち寄られた絵本の数々。その中でも、絵も描かれていない文字一辺倒の本をラルズが手にして、本を開いたその瞬間、世界が広がった。
未知なる世界が本を通して広がり、幼いラルズに想像力を与え、頭の中で思い浮かべた想像上の世界は、閉鎖的で狭小の森の中とは違って、憧憬を抱くのには充分すぎるほどのものだ。
辺り一面が砂で覆われ、太陽が照り付ける激しい土地。雪が年間通じて吹き荒れ、足を踏み入れることも厳しい氷の雪原。見渡す限りに宝石が埋め込まれ、見渡す限りの全てが輝いている宝石の洞窟。
「楽しそうに話してくれてたじゃないですか? いつか、外の世界を見に行きたいって。自分の目と足で、世界に触れたいって」
「む、昔の話だよ! 今の俺はとっくに外の世界になんて興味は――!」
「こんなに……ボロボロになるまで読んでいるのに?」
本の中身をパラパラと捲ると、何度も見た部分には自然と隙間が生まれている。破れているページや、しわしわになっているページ。中には掠れて読むのが難しい部分も、眠気が迫る中でも手放さかったのか、所々には涎の痕も見つかる。少し中身を見るだけで、第三者からもその本に対しての読者の想いが伝わる。
否定の姿勢を見せるラルズを、他でもない自らが宝物と称した一冊が否定する。
「兄さんが自分の気持ちを偽って誤魔化しているのは、全部私たちの為ですよね。強くなろうと剣を教わった理由も知ってます」
シェーレの言葉通り、ラルズが強くなろうと決意したのは、その原点にいつだってシェーレとレルの姿があるからだ。ラッセルの一件と両親との死別、その二つはラルズの生き方を変えるには充分すぎるほど濃密で、同時に寂しいものへと変わっていった。
極めつけはあの月の夜。あの日に誓いを立てたラルズは、その日から外の世界への羨望を、情熱を封印し、自らがシェーレとレルに全てを捧げると、亡くなった両親に誓いを立て、約束を交わした。
二人の為なら、自分の身を犠牲にしても厭わない。命一つで二人が助かるのであれば、安いものだと考え、誰よりも真剣に、そして怖いぐらいの愛情をラルズはシェーレとレルに注いでいる。シスコンや過保護といった表現が可愛く思えるほどに、二人のことを最優先に考えてきた。
呪いよりも鮮烈に、愛情の枠を超えていつしか【狂愛】へと変貌を遂げ、幼い頃に夢見た外の世界への欲や憧憬は心の奥底に封印していた。
そしていつしかラルズ自身も気付かぬうちに蓋をする。二度と開かないように深い所へ。
そして蓋の開け方も分からず、いつしか抑制された己の好奇心は、二度と表には現れることは無いように。
――ただその想いも完全には塞がれず、無意識の中でラルズは何度も憧れの世界が記された本を手にしていた。断ち切れない未練が行動に伴い、火は完全には消えて無くなっていなかった。
「シェーレの言ってることは半分正しいよ。強くなろうと思ったのは、実際その通りだし。でも、誤魔化すも何も、俺は自分の気持ちにいつだって正直だよ!」
「兄さん……」
ラルズの言葉を信じてくれず、細められた瞳からは不安さが垣間見える。その視線に居心地の悪いものを感じ、耐えられないラルズは視線をテーブルへと逃がした。
「ラルズはこないだノエルと話したわよね。お互いの夢について」
しかし、そんなラルズの現実から眼を背けようとする弱い心を、一人の少女が逃さない。捕まえて、一度離れたフィールドに再び戻し、会話を続ける。
夢について、ラルズはノエルから伺われたときは、既に解答を口にしている。
「ノエルも聞いたでしょ? 俺は、シェーレとレルの元気な姿が見れればそれで――!」
「そうやって、シェーレとレルの名前を挙げて、ラルズの意思はどこに入ってるのよ?」
「だ、だから今言ったみたいに……!」
「言い方は悪いかもしれないけど、夢を諦める口実の為に、シェーレとレルの名前を言っているようにしか聞こえない。都合のいいように名前を挙げて、否定の材料にしているように聞こえる。言い訳を通り越して逃げ道を作り上げているようにしか聞こえないの!」
「――そんなことっ……!」
立ち上がり、机を叩きながらそんなこと無いと口にしようとした瞬間、ラルズの意思とは反対に言葉の先は出てこなかった。反論をノエルにぶつけようとしたのに、肝心の内容が組み上がらない。
空白の間に時間を用いても空白が変わらず形成され続け、中身を持たない空虚な隙間が出来上がるだけで、何も言えずにラルズは固まっていた。
「そんな、こと……」
「正直に言いなさいよ! 本当は焦がれて、求めてやまないんでしょ! 夢についてノエルに話してくれたときのラルズの顏、本音とは裏腹に、苦しそうで、どこか無理をしているのが、嫌でも伝わってきた」
「俺は、俺は――!」
あの日に誓ったんだ。シェーレとレルの、二人だけの為に生きるって。お姫様を護るナイトのように、両親が亡くなって取り残された三人の家族。父さんと母さんの代わりに妹を護るのは、兄であるラルズを除いて他に誰がいるのだろうか。
義務感を、使命感を超えて、愛情が別の意味で進化を遂げてしまったラルズの心。それを再び動かせることができるのは、護られている彼女ら以外には存在しない。
「兄貴はさ、あたしたちと一緒で楽しい?」
「当たり前だよ!」
「・・質問代えるね。兄貴はあたしたちと一緒で幸せ?」
「幸せに決まってる! 嘘偽りなんかじゃない! 毎日幸せで、笑顔を見るだけで俺は癒されてた。喧嘩している様子も、昼寝をしている様子も、兄と慕ってくれる可愛らしい様子も、全部が全部大好きなんだ!」
「へへ、あたしもだよ」
「私もです」
赤裸々にラルズはシェーレとレルへの胸の想いを素直に告白する。恥ずかしそうに頬をかく二人も、ラルズと一緒だ。同じ幸せを、同じ苦しみを、同じ痛みを味わって、同じ時間を過ごしてきた。
「でも、一緒にいるからこそ分かるんです。今言った兄さんの言葉は嘘ではない。でも、それは私とレルを見通した幸せで、兄さんの自身の幸せとは、意味合いが違うんです」
「兄貴は優しくてかっこよくて、自慢の兄貴だよ。ずっと一緒にいたいに、傍にいて欲しいのはあたしたちも同じ。だからこそ、兄さんから【夢】を奪いたくないんだ」
シェーレとレルは兄に対して罪悪感を感じている。
両親を失って、ラッセルに標的にされ、半年間もの時間を暗闇の世界で過ごされた。
兄であるラルズは、妹であるシェーレとレルに危害が加えるのを防ごうと、自ら進んで悪辣な男の玩具に成り下がった。
連れていかれた部屋の奥から響く悲鳴の声。痛みにもがき、空気を震わせる絶叫は、塞いだ耳の中へと簡単に侵入してくる。
部屋へと戻ってくるラルズを前にして、言葉を失った。自分達も背負わないといけない苦しみと痛みを、兄は小さな身体一つで受け止める。
怖くて震えて、何もできないシェーレとレルとは大違い。ただ時間が過ぎるのを待っている弱い二人とは違って、兄は勇気を持っている。
魔獣に襲われた際も、大怪我をする自分を置いていって欲しいと口にしたのも、妹を逃がす為。力を付けようとするのも、妹の為に。
ラルズの行動の原点にあるのは、いつだってシェーレとレルなのだ。そしてそれは兄の可能性を縛り、夢を強制的に抑圧し、制御を図る縛り。
夢の道に配置された障害物のように、邪魔者のように、シェーレとレルの存在はラルズから夢を奪っていると、彼女らは理解している。
「我が儘になっていいんです。夢を見て、追い掛けて、飛び立って欲しいんですっ」
「シェーレっ」
「応援したいの。兄貴の夢を、諦めさせたくないのっ」
「レルっ……っ」
「「夢を駆けて、兄貴(兄さん)」
――最期の一言を聞き、ラルズは鎖から解放される。母さんが死ぬ前に託された約束も、月が綺麗な月下のもとでの誓いも、己に課した使命も、鎖と化したその全てが、ラルズの心に繋がれている一本一本が、音を立てて断ち切られていく。
蓋を閉じられ深淵に放り込まれた、二度と開かれることのなかった心の箱。
一度開けば漏れ出してしまうのは当然の性。抑えることもできず、長きにわたって塞がれた世界への欲の全てが、ラルズの身体全体を支配し、直ぐに兆候が現れる。
瞳に涙が溜まる。制御もできず、律することもできない。一瞬で溜まった涙が瞳で受け止めきれず溢れ出す。視界がぼやけ、周りの人の顏も真面に認識できない。
「――ラルズ様にお茶をお持ちになった際、その本を目にする貴方の表情は、英雄に憧れる少年のように、希望に満ち足りていました」
「純粋さを、混じりけのない本人の意思が、俺だけじゃなくて、屋敷のみんなが目にしている」
「自分を一番よく知っているのは自分です。今の貴方が流している涙は、今し方言葉に押されて急遽作り上げられた、偽物のものではありません」
「君が焦がれて、霧散して消えてしまったと勘違いしていても、奥に秘めていたのは、まだその在り方を、夢を諦めたくないともがいて灯していた、微かな炎だ。再燃して、今胸中で燃え滾っている」
「・・アーカードさん、ミスウェルさん……っ」
子供たち同士のやり取りを静観していたミスウェルとアーカード。揺れ動き、瞳に変化が生じて想いの淵を形にして流すラルズに、優しい言葉が投げられる。
――願ってもいいのだろうか。望んでも、良いのだろうか……
「――いいん、ですか? 夢を、見て、もっ……夢、を、めざじ、ても……!」
涙ぐるか弱い声から、絞り出すように放たれた、ラルズの意志。止める者はいない。周りの人も、本人であるラルズ自身も……
「誰にでも夢を見る権利はある。目指して、意気込んで、努力して、叶える自分を信じて、夢に向かって走っていく権利は、本人しか持っていない。だけど――」
言葉を一度区切り、再びミスウェルがその先を口にする。
「夢を諦める権利も当然ある。迷って、悩んで、後悔して、挫折して、叶えるはずにあった自分自身を否定して、夢を捨てる権利も、本人しか持ち合わせない」
どの道を進むのも、本人の意思だ。無理だと周囲の人から言われても奔走する者もいれば、周りの言葉に感化され選択肢を変えるのもあり得ない話ではないだろう。
一度夢を捨て去ったラルズも、良い悪いは関係ない。本人の決めた選択肢の一つだ。声を大きくして非難するのも、責め続けるのも筋違いであり、大事なのはいつだって自分の意思だ。
「ここで君が夢を捨てても、誰も文句は言わない。決めるのはラルズ君、君自身だ。どんな道を選んでも、どんな選択をしても、それが意思に基づいた結果ならば、咎めるのは間違っている」
「――俺は……」
「でも、君がもしもまだ夢を諦めたくないんだったら、夢に続く道を進みたいと願うのなら――」
立ち上がり、ラルズの隣へ移動する。テーブルの上に寂しく置かれ、若干涙で端が濡れてしまっている契約書を手に取る。
一枚の書状を、ラルズに差し出す。
「受け取って欲しい。君の十五歳の誕生日を祝福する、屋敷の全員から、ラルズ君へのプレゼントを」
涙は流し尽くされ、はっきりと視界に映り込む。
人に危害を加えたり、約束を破ったりしてきたことは、ラルズには一度もない。綺麗な心の状態のままに成長を続け、十五年間生きてきた中で、恥ずかしくない生き方を貫いてきたと思っている。
言い付けを守り、妹の面倒を見て、約束を破らず、迷惑を最小限に抑えて生活を続けていた。
(――母さん、父さん、ごめんなさい……!)
亡くなった両親に謝罪をし、ラルズの腕は一枚の紙にゆっくりち両手を伸ばす。見守る視線の中、ラルズの手を伸ばす先に、求めるものがぶら下がっている。
(人生で初めての我が儘を、どうか、許して下さい――!)
日付が変更する最後の瞬間の直前、十五歳の誕生日を祝われた彼の手には、最高の贈り物が握られていた……