第二章1 七年の月日
「――ふっ!」
弾かれた声と共に地面を蹴り出す。緑一色の芝生の上を駆ける自身の両足に力を伝えたまま突き進む。手に握られた木剣と、走り出す身体が向かう先は目の前、ラルズと同じ獲物を握りしめてこちらの動向を窺っている相手、ミスウェルだ。
猛全と進んでくるラルズに対してミスウェルは微笑を浮かべながらも姿勢を正す。ただ木剣を構えているだけだというのに、一切の隙が伺えない。それはこれまで何度も試合を重ね合わせたゆえに蓄積されたもの。屋敷に来て間もないころと比べ、時間とともに技術が磨かれていったものとはまた別の、いわゆる経験値と呼ばれる代物。
剣を覚えた初めのころと比べ、ラルズは確かな成長を遂げている。しかし皮肉なことに、実力がついてしまったがゆえに、目の前にいるミスウェルとの実力差が肌で感じてしまうほど。
無論それは致し方ない話でもある。元とはいえ片や王国の騎士勤め、ラルズは享受してもらったとはいえ、剣の才能は並みかそれ以下、それも特訓を続けるうちに理解してしまった自分の強さだ。
芝生の上を素早く駆け出して木剣を振り上げ、頭へと攻撃を繰り出す。ミスウェルは同じく木剣で攻撃を受け止める。甲高い音が空気中に響き、捌いた彼は剣を上手く滑らせてこちらのバランスを崩しにかかる。
対象に向けた剣が違う標的と激突し、そのまま巧みに勢いを地面へと流されて、その影響でラルズの身体も後を追うようにぐらついた。
その隙を見逃さずミスウェルは剣を振り回す。ラルズは瞬時に倒された勢いのままに地面を蹴って身体を飛ばし、芝生の上で前転をしながら体制を戻す。
見上げる視線の先、攻撃を躱された彼は先程までと打って変わってこちらへと猛全と突っ込む。恐らくはこちらに休む暇も与えないといった心情だろう。
再度立ち上がって迎え撃つ準備を整え、振るわれた最初の一撃を防御する。一撃目を凌いだのも束の間、連続でミスウェルは剣を振るい、考える隙を与えないほどに鈍器の刃がラルズを襲う。
相手の動きや目線、立ち位置から瞬時に攻撃の方向を予見し、それに合わせて身体を動かして間合いを適宜調整。致命傷……今回の場合では完璧な一撃を受けない為の回避行動なのだが、ミスウェルの刃は加速していく。打ち込まれるほどに追い込まれていき、徐々に……だけど確実に攻撃の波に遅れていく。
(これ以上は……っ)
何度も振るわれる刃の数々。それに対して応じ続けるのは遅かれ早かれ先に限界を迎えるのは理解している。だが悪手と分かっていてもせざるを得ない。一瞬でも対応を間違えればミスウェルは確実に、的確にミスを付いてくる。
襲い掛かってくる斬撃に思考を燃やし続ける。早い攻防の中で瞬時に打開策を講じるのは相当に難しく、今の俺に相手をしながら状況を好転させる名案を練り上げることができる冷静で繊細な頭脳は持ち合わせていない。
(――こうなったらっ!)
一か八か、直感にゆだねる。瞬間の瞬間に意識を集中し、チャンスが目の前に転がり込むのを待ち続ける。これほどの速さの中での連撃は、受け続けるラルズもそうだが、打ち続けるミスウェルもそうだろう。
その両者との間に僅かに生じる歪み。それを察知することができれば、この八方塞がりの状況を打開できるかもしれない。
追い込まれている状況の中でチャンスが生まれるのをじっと耐え忍ぶ。どの攻撃も気は抜けないが、そのときが訪れるのは正に一瞬。細い糸のようなものだ。
見極めるのが遅れれば攻撃の嵐は止むことなく、いずれは終止符を打たれるだろう。
――目を凝らし、周囲の空気の変化を機敏に感じながら攻撃を流していく中で、判断するよりも身体が先に動いた。
「むっ!?」
俺の行動に面食らったのか、それとも予想だにしない動きだったか、理由のほどは不明だが、ミスウェルが攻撃を停止。
防御していたラルズは一度大きく剣を弾き返すと、寸前の空白の中身体を低く身構え、そのまま滑る形で彼の股下を通り抜いていく。
剣を弾かれた衝撃が功をなしてか、足幅が先の打ち込みよりも大きく開いたタイミング、これこそがラルズが狙っていた偶発的な好機。
「――もらった!」
身体を抜けた勢いのまま、その場でジャンプしながら身体を反転。動作と一緒に木剣を無防備な後ろ姿目掛けて振りかぶる。実際の鋼の刃とは痛みが天と地ほど違うものの、真面に受ければ相当な痛みは必至。実際に何度も打ち込まれているラルズだからこそ、深く知っている痛みの味。
これまでの手合わせの集大成とも言っても過言ではない、努力と執念が生んだ勝利の二文字。その喜びと達成感が、長い年月を共にしてようやく叶うことに成功する……とラルズは確信していたが――
「――残念」
「うそっ!?」
背中に打ち込まれたはずの木剣。そのまま鈍い音を立てて終了すると思われた攻撃は意外も意外。攻撃の先、背中にいつの間にか生み出されている水の塊。それは文字通り水の壁となっており、見事にラルズの渾身の一撃を防いでいた。水魔法による魔法の事象によって、最高の一撃は一手で握り潰されてしまい、木剣は水の中で囚われてしまっている。
――そしてこの攻撃が不発に終わってしまった時点で、勝者は既に決定してしまった。
困惑している様子の中、先程まで燃え滾っていた胸の内も思考も完全に停止してしまい、次の判断に少しばかりの差異が生じた。着地し、捕らえられた獲物を急いで引き剥がそうとするも時既に遅し。
次の瞬間、ラルズの見ている景色が反転していた。
「――あぇ?」
景色が逆転する前の僅かな感覚。それは左足に攻撃されたものだろう。ミスウェルの足払いによって身体を綺麗に浮かされ、そのままラルズは受け身も満足に行えず背中から音を立てて落下。固い芝生の地面が彼を出迎え、汚れた土が背中に付着する。
痛みにもがいて視界が一度閉じられる。そして再度目を開くと……
「――俺の勝ちだね」
眼前、木剣を目の前に突きつけられ、ミスウェルの姿が映り込んでいた。
「惜しかったね。魔法を使わなかったらやられていたよ」
決着がつき、言葉を零すミスウェルの表情は爽やかな笑顔。女性なら誰しもがクラっと来るような男前な表情を前にしてラルズは――
「魔法使うなんてずるいです!!」
盛大な文句をミスウェルと大空に向けて言い放った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
森から外へと世界を広げ、屋敷で厄介になり毎日生活を続けていたラルズ。その日々は今年で七年目となり、今では十四歳となった。そろそろ十五歳に差し掛かる年代でもあり、王国法では十五歳からは大人として認識されるので、大きな節目と言える時期だろう。
実際大人に認定されるだけで、特段何かが変化する訳ではないが、大人という響きには少し憧れを持っているのも事実。ラルズは内心大人に近付いていることを楽しみとしており、あと三日で大人の仲間入りだ。
日数を重ねていく中で当然見た目には変化が起きるもの。七年も時間が経つと変化は人によりけりだが、基本的に多く見受けられるのが主だろう。
当然ラルズも容姿は変化していったわけだが、正直な話あまり子供のころとあまり目覚ましい変化は遂げられていない。
身長は大体百七十あるかないかのギリギリ。着ている服は一目見て気に入っている茶色を基調とした上下に加え、背広の小さい白いマントを首に巻いている。身体は特訓で鍛えられた影響もあって筋肉もそこそこ。目線は若干鋭くなり、髪型は昔と同じく短く整えようとしたのだが、妹二人から散々切らない方がいいと念押しされたのもあり、後ろで結んで纏め、残りの部分はそのまま前へと流している。
しかし髪型が理由なのか身長が理由なのか、原因はいまいち掴めないが、どこか幼い子が背伸びして大人になっているようなか細い雰囲気が付いて回り、ミスウェルやアーカードのようなかっこいい男性像とは少しかけ離れているような気がするが、今更どうこうできる問題でもないので目を瞑って気にしていないふりをすることに。
七年間の間、当主であるミスウェル、執事のアーカードに元気なノエル、それと最愛のシェーレとレル。俺を含めて六人、新しく住人が増えたりといったこともなく平和な日々を送っていた。
今行った特訓もそうだが、ときには村へと買い物をしに行ったり、屋敷内でパーティを行ったりと、日々の中に少しの賑わいを見せつつ生活が続いていった。
両親を失い、ラッセルによって虐げられた都合約一年。両親を失った悲しみを、虐げられた苦しみが嘘のように、屋敷での日々は飽きることもなく、毎日が新鮮だった。
厄介になってから暫くは、時折夜一人のときに枕を涙で濡らす日々もあったが、それは徐々に薄れていく。悪い意味ではなく、過去を自覚したうえで未来を見れている。
妹のシェーレとレルも失ったものを自覚しつつも、前を見据えて歩き続けている。
本当に幸せで、満ち足りている毎日だ。
「・・ラルズ君、大丈夫かい?」
芝生に寝たきりとなって太陽を見上げるラルズを心配し、ミスウェルが声を掛けながら、逆さの状態で視界へと入り込む。
先の立ち合いで少し肩で息をしているラルズと違い、彼は額に少しの汗を浮かべるだけで呼吸は正常。まだまだ体力には余裕が見て取れる。出会ったときは確か二十五歳で、七年経過して今では三十を超えている。よく体力も落ちてきたなと口にしていているが、体力の衰えが毛ほども感じられず、大人としての貫禄が尚も伸びている印象。
ラルズが尊敬している男性像の一人ではあるが、天と地ほどの差がそこには広がっているのだろう。立ち合いを続けるラルズだからこそ、計り知れるものがある。
人としての器量も、剣の腕一つとっても、備わっているものが違いすぎる。遠すぎる憧れ、だからこそラルズはミスウェルを尊敬している。
助けて頂いたあの日から、ラルズは彼を目標に据えてひた走っている。
「いえ、少し考え事をしていて……」
「そうかい? それとは別として、水分はちゃんと取ったほうが良いよ」
手渡された水の入った容器を受け取り、お礼を伝えて中の液体を体内へと注ぎ込む。動き疲れて熱くなっている身体の中を冷たい水分が勢いよく通り抜け、いつもよりも長く容器に口を付けていた。普段生活する中で水は当然飲む機会が多いのだが、身体を動かした後の水は格別に美味しいものだ。
「――兄さーんっ!」
口の端に付着した水滴を袖で軽く拭うと、遠くの方でラルズを呼ぶ可愛らしい声が聞こえた。方向を見ずとも分かる妹の声。そちらへ視線を向けると手を振りながら走って近付いてくる最愛の妹の一人、シェーレの姿が映る。
「二人ともおはようございます」
先ほどのラルズを呼ぶ少女じみた一面から一転、被っている白のシルクハットを胸の前へと持っていき頭を下げる。所作の通った一流の貴族のような畏まった挨拶を交わすシェーレ。その様子は、自身の容姿と相まって、他者から見たらその場にいるのは、絵画から抜け出してきたような美しい女性の佇まい。
自身の纏う雰囲気に合っている、主張の少ない青色の装飾が垣間見える白を基調とした服。身体の線は細く、小さい身長と相まり、薄く微笑むだけでハートを射抜かれるような可憐さ。道行く人の視線を一身に集めてしまうような、妖しくも魅力が迸る美しさ。空色の髪色と、世界を覗く黄色い双眸は、彼女以外に、彼女以上に似合う人物などいないのではないかと、そう錯覚してしまう。
シェーレはこの七年の間で、女性としても魔法使いとしても、両方の面で自身の魅力を上げ続けていた。村へと買い物をしにシェーレと一緒に向かうと、村へ入り人目に触れた瞬間、その場にいた人々は彼女の魅力に飲み込まれてしまっていた。
買い物を続けている中で男女問わず、それこそ老人や生まれたばかりの小さい子供も、村にいるほぼ全ての住人がシェーレを目で追いかけていただろう。その場にいるだけで絵になるとは、正に彼女のことを指すのだろう。肝心の本人は周りからの視線をあまり気にしている様子ではないけれど。
容姿もそうだが、魔法の腕前は更にその上を超えていく。
火と水の魔法、両方においてシェーレの繰り出す魔法はどれも群を抜いている。火の魔法を扱えるアーカードからは驚嘆の声を、水の魔法に関しては、去年レティシア王国から来られた、アイリスと名乗る女性騎士から騎士にならないかと誘いを受けるほどだ。もとはミスウェルに用事があって声を掛けに来たが、たまたま魔法の練習をしているシェーレを目にしたときの反応は凄かった。
ただ結果としてシェーレはそもそも騎士団に入るつもりはこれっぽっちも無かったので、この話は白紙となったのだが、諦めきれないアイリスは、王国に立ち寄ったら一目会いたいので、庁舎を尋ねて欲しいと念押しするほどだ。
といった具合にシェーレは中々に自身の引き出しを広げつつ、目覚ましい進化を遂げている。その成長具合には、兄であるラルズが情けなくなってしまうほど。
少し話が変わってしまうが、ラルズは相変わらず魔法が使えない状態だ。七年の間にラルズの命を救うのに尽力してくれたグラムさんにもう一度診てもらったのだが、手紙での返しの連絡同様、やはり原因は判明されず、魔法は相変わらずだ。
魔法を使ってみたい気持ちは当然持ち合わせてはいないが、どうにもならないのであれば騒ぎ立てても仕方ないだろう。最初に比べればそこまで毛落ちすることもなかった。そもそもの話、魔法が使えないからこそミスウェルに剣の指導をお願いしたのもあるので、切り替えや踏ん切りは早めに自身の中で片づけることができた。
挨拶を交わすとシェーレはこちらの様子を確認し、内情を把握したのか質問を口にする。
「どっちが勝ちましたか?」
「残念ながら、俺の勝ちだな」
「ですよね。もし勝っていたなら兄さんのことだから、庭一杯に大声で喜んでいたでしょうし」
「うぐ……っ」
庭での立ち合いも、一緒に住んでいる屋敷の住人からしたら何度も目にしてきた光景の一部だ。だが決まって勝利するのは迎え撃つミスウェルの方であり、敗北者は決まってラルズだ。
奮起して何度も練習を続け、果敢に挑戦を続けるも結果はいつも同じ。さしものシェーレも口にする前から大体の察しは付いていたのだろう。その事実が更に悔しい。
「そう言えばシェーレ、レルは?」
「レルならまだ夢の中です。いつまでも子供なんだから、まったく……」
ここに顔を出していないラルズのもう一人の最愛の妹、レル。彼女はまだベッドの上ですやすやと眠りについているのだろう。レルは朝には滅法弱く、昼まで眠りについている日だって珍しくはない。朝食の場に出てくるのかは、彼女が見ている夢の内容次第だろう。
苦笑いするミスウェルとラルズに対して、頭に手を当てて呆れている様子のシェーレ。彼女はレルに対しては昔から中々に厳しい態度を示してしまうが、それも全部はレルに対しての優しさの表れだ。
しっかり者のシェーレと、大雑把なレルは、ある意味バランスが取り合っていると思う。ときには喧嘩だってするし、口論もする。だけど時間が経てばいがみ合っていたのが嘘のようにまた言葉を交わし、一緒に時間を過ごす。
レルに対しての言葉遣いは若干刺々しいが、それもきっとシェーレの優しさの裏返しなんだ。だからこそ、二人のやり取りは見ていて微笑ましく、兄としても安心する。
「・・? どうしたました兄さん?」
「――ううん、シェーレは厳しいなって」
「そんなことありませんっ レルが甘すぎるんです!」
頬を膨らませるその様子を目の当たりにして、先程までの貴族顔負けの立ち振る舞いなど身体から抜け落ち、家族を心配する姿が曝け出されている。
こっちが本当のシェーレなのだろう。変に気を遣わずに、内面をこうして包み隠さず曝け出すシェーレの姿を前に、俺は口元が自然と横に広がってしまう。
「――さて、じゃあそろそろ朝食だろうし、屋敷に戻ろうか」
「そうですね、行きましょう」
緩んだ口元を但し、ミスウェルの提案を受けて賛成する。朝の手合わせも終わり、庭に集まっていた三人は一緒に屋敷へと戻っていく。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
芝生の上を駆け回って汚れた状態で住人が集う食事場に顔を合わせるのは、見知った間柄といえども失礼なことに変わりはないので、浴室へと向かって軽く汗を流して身体を綺麗にする。濡れた身体をタオルで拭き取って水分を飛ばし、新しく用意した着替えに袖を通す。
清潔な身体へと様変わりし、浴室を後にする。
「――ラルズ様、お預かりしますよ」
「ありがとうございます、アーカードさん」
廊下で待機していた屋敷の住人の一人。この屋敷において必要不可欠な人材であり、ミスウェルと同じ尊敬の念を抱いている、執事のアーカード。
仕事の腕前はどれも素晴らしくて、周囲にも気を配ることができる、隙の見当たらない完璧な人物。この屋敷で過ごしている中で、一番お世話になっているのが誰かと聞かれると、ラルズは直ぐにアーカードと答えるだろう。
屋敷に並ぶ料理の数々、隅々まで行き渡っている掃除、それをたった一人で補い、この屋敷を支えている一家の大黒柱のような人だ。
屋敷の仕事と、住んでいる住人のケア、そのどちらの面においてもアーカードは求められている以上の働きぶり。その仕事ぶりから、当主であるミスウェル以上に存在を住人に示している。
今もこうしてタオルを貰う為だけに廊下でラルズを待っていたのだから、アーカードの気遣いの底が見えず、少し申し訳ない気持ちの方も膨らんでしまう。でも当人の彼はそんなことを表に出さず、執事としての仕事を全うしているだけだと態度に表す。
手にしていたタオルを渡して再びお礼を口にする。
七年経過したアーカードは見た目にはさほどの変化は見当たらない。年の影響もあり、当初知り合った顔と比べて、皺が増えたりと老化の陰りが映る。しかし年老いていく見た目に反して、肉体の方には衰えが見えず、むしろ引き締まっている。
もう七十近くになるはずだが、将来年老いて動けなくなるような姿ははっきり言って想像つかない。
「この後は朝食になりますので、ラルズ様もお先に。ミスウェル様にシェーレ様、ノエルもお待ちになっている筈です」
「レルは……まだ寝てるんだ」
名前が挙がらなかったもう一人の妹。声に上げたラルズの疑問をアーカードが無言で肯定する。
屋敷に住んでいる住人の中、例外はあるにしても一番最後までベッドの上で眠りについているのはレルだ。シェーレと同室ではあるのだが、シェーレが何度か起こしにかかるのだが、目を覚ましたと思えば再び夢の中へと戻り始める。
二度寝三度寝と繰り返し、人よりも活動時間が遅く始まる日は何度もある。昨日も朝食の際には眠っていたので、このまま昨日と同じであれば、堪忍袋の緒が切れて怒りが頂点に達し、シェーレの怒号が屋敷に響くことになるだろう。
実際レルが遅く起きることはそれほど問題ではない。ただ、夜寝静まっている際、寝付けないと文句を言い、シェーレに夜更かしを強いるのが一番苦だと話していた。
少し甘いかもしれないけど、シェーレに説教を食らう前に起こしに行ったほうが良いだろう。
「俺、レルのこと起こしに行くので、先に待ってもらっていいですか?」
「構いませんよ。シェーレ様の方は、私がどうにか留めておきましょう」
「すみません」
怒りのボルテージが上がるシェーレをアーカードに宥めてもらい、ラルズはレルの部屋へと向かうことに。廊下を渡って階段を登り、再び廊下へと躍り出ると、レルのいる部屋へと進んでいく。シェーレとレルの部屋はラルズと同じに階に位置し、一部屋空き部屋を挟んだ先にある。
目的の場所へと直ぐに辿り着き、ラルズは部屋を二回ノックする。扉を叩いた後に返ってくるのは無音。起きているのであれば何かしらの反応は返ってくるはずなのだが、予想通りまだベッドの上なのだろう。
「――レル、入るよ?」
このままでは埒が明かないので、扉を開けて直接声を掛けることに。ガチャリと扉を開いた先、視界に広がるのは可愛らしい女の子の部屋。
ラルズの持つ部屋に比べて更に大きい一室。ベッドは二つ、机も椅子も二つ分。他にはクローゼットにソファ、ベッド近くに置かれている座高の高い置物。二人分の部屋となると小さいように感じるかもしれないけれど、実際七年間この部屋で暮らしてきたのだから、不平不満などは無いのだろう。
最初はシェーレとレルはそれぞれ個別で部屋を設けようと提案されたのだが、同室で構わないと本人たちも口にしていたのでそのままに。
ちなみにラルズの一室は治療を行っていた簡易的な部屋をそのままに頂いたものの、内装自体はあまり変化がない。絵画や高価そうな代物は気が滅入ってしまうと進言して撤去してもらい、代わりに大きめの本棚や小さなソファを貰い受け、読書スペースを作り上げている。
部屋の中を少し観察しているが、当初の目的を思い出して視線をベッドの上に。身体の上を覆い隠すように掛けられていた布団は、ベッドから床へと垂れ落ちそうになるギリギリの状態。頭を優しく迎えるふかふかの枕は、本来の場所から反対の足元の方へと移動しており、一瞥しただけで彼女の寝相の悪さが容易に窺える。
本人は何か良い夢でも見ているのか、表情は幸せそうだ。何だか起こそうとするこちら側が申し訳ない気持ちになるが、このまま寝かしつけていると来た意味がない。
「レル、そろそろ起きて?」
手を伸ばして肩を軽く揺する。外部から眠っている意識を促され、うわ言のような寝言のような声が口から漏れ出し、徐々に意識が身体に入り込む。
「――……ぅぅ……?」
呼ばれた声が届いたのか、段々と閉じられていた瞼が開かれ、綺麗な赤い瞳が露わになる。まだ眠気を帯びている両方の眼は朧気ながらも俺の姿を捉える。数秒ボーっとした状態が続き、互いが互いに視線を動かさずに見詰め合う中で、レルが上体を起こし始めた。
「おはよう、レル」
「ほはよう兄貴……」
呂律が周っていない挨拶を交わしながら、眠たそうな目を指でぐしぐしと擦る。
「ほら、これタオル」
「へへ、あーがと!」
アーカードと別れる前に持参していたタオルだ。水で濡らしているとはいえ、人肌に合うように水気は絞って調整しているから、温度差もそこまで激しくない。本当なら洗面台で顔を洗うのが一番いいだろうけど、今はこれで充分だろう。
「うん、目ぇ覚めたよ!」
「そっか、なら良かったよ」
タオルから顔を話して笑顔をこちらに向ける。見ているこちらも思わず笑顔になってしまうぐらいに眩しい。
「朝食の時間だから一緒に行こう?」
「うん、分かった!」
そう言って寝巻の状態のレルの着替えを外で待とうとし、部屋を後にしようとしたら……
「んしょ……」
「――ちょ、ちょっと待って!」
「ん?」
いきなり服を脱ぎ始めようとするのに驚き、慌てて声を挙げる。動揺しているラルズとは対照的に、レルはどうかしたのかと言わんばかりに視線を向けていた。
「部屋出るから、その後に着替えて!」
「え、別にいいじゃん……」
「良くないから! 外で待ってるからね!」
視線を腕で隠したまま部屋の入り口まで向かって扉を開ける。振り返らず扉を乱暴に閉めて息を吐き捨てる。
・・子供のころとは違って、ラルズたちは七年の月日を経て成長している。ラルズは十四歳、妹のシェーレとレルは十三歳。年齢的に大人の手前であるからして、身体が大きくなってしまうのは仕方のないことだ。
シェーレが魔法に磨きを、容姿が更に美しくなっているように、レルだって当然成長している。
血の繋がっている実の妹に対して劣情を催している訳ではないが、レルの身体は既に大人の女性の一歩手前として成熟し、一言で言えば一人前のレディなんだ。
そんな女性の着替え模様を本人が気にしないとはいえ、こちらもそうとはならない。邪な気持ちがあるなし以前に、兄としても男としてもよくない行動だと思っている。
レルのことだから変な気持ちなど無くて、同じ家族同士だからこその行動なのだろうけれど……
「もう少し自重してもらえると嬉しいんだけどな……」
子供のころからレルは何かとラルズと行動を共にすることが多い。本を読んでいる途中で遊ぼうと誘われたり、一人で特訓をしていると顔を覗かせたりと、頻度は沢山だ。無論時間を共にするのはラルズとしても楽しい。
急に抱き着いてきたり、後ろをついて歩いてきたりと、子犬のような可愛らしい一面を見せて兄を慕ってくれる。その面からしたら特に不祥事なんかもないのだが、互いに年齢を重ねて大人に近づいているのだから、節度は守って欲しいと感じてしまうのが、胸の秘めている正直な気持ちだ。
その辺は今度シェーレにも頼んでみよう。男性からよりは、同じ女性である彼女の方から言われた方が、言葉の意味を理解してくれるかもしれないし。
レルに対する心配とは別の気遣いを興している中、扉がガチャリと開かれる。部屋から出てきたレルの姿は、先程までのだらしない格好とは一転し、目の前に映るのは美少女の姿だ。
黒のスカートは丈が短く、膝近くすらも隠せていない。上半身も無地の白いシャツを羽織っているだけの簡易的な服装。。肌を多く晒している褐色の肌からは健康的な印象を感じるのと同時に、女性として伸びるところは伸び、引っ込むところは引っ込むといった、プロポーションは大人の女性と言っても過言ではないだろう。
子供じみた幼稚さと無邪気に笑う屈託のない笑顔。加えて無防備に相手との距離を詰める無自覚の感性は、相手に危ない感情を引き出させる。
「おまたせ!」
「うん、大丈夫なんだけど……」
「?」
まじまじとは見ていないが、やはり布面積が少ないのがどうしても気になる。屋敷にいる際の格好としてはそこまで悪いとは言わない。実際村へと出たりする際には上から黒のマントを着て隠しているからいいのだが、いくら身内同士しかいないとはいえ、心配になる。
前に一度シェーレみたいにドレスとか着てみたほうがレルには合うのではないかと提案をしたのだが、返答は「ひらひらしてるのは動きづらいからやだ」と言われる仕末。
まあファッションだったり小物だったり、好きなものは人によって通りが違うのもあるので、そこまで過剰に訂正させようとするのは過保護気味だろう。まだ子供とはいえ年齢としては十三歳、善悪の分別だったり最低限の判断能力はレルにも備わっているだろう。
先にも悩んだ異性との接触の仕方さえ考慮してくれれば、兄としてはこれ以上深く言わなくても問題ないだろう。
「――いや、大丈夫。今日も似合ってると思ってさ」
「ほんとっ!? ありがと!」
「じゃあそろそろ行こうか。そろそろ行かないとシェーレにまた怒られちゃうしね」
朝食の場にはもう全員揃っている。無理を言って待ってもらっているのもあるし急いで向かおう。駆け足気味に廊下を渡って階段を駆け下りる。住み始めたときは同じような景色に戸惑う日々が続いたが、七年も住んでいるのだから屋敷の部屋割りは全て把握している。
目的の場所へと迷わず一直線に辿り着き、そのまま扉を開ける。
開かれた視界の先、長机の前に置かれた椅子に座りこちらに視線を向けるのは三人。一番奥に鎮座するミスウェル。少し離れて対面気味に座るシェーレとノエルの姿。アーカードはラルズとレルが来るまでの間に準備をしてくれているのだろう。扉の先からはカチャカチャと食器を動かす音が聞こえる。
「お、これで全員揃ったね」
「レル遅い! ノエルお腹空いてるんだから―!」
「いい加減一人で起きれるようになりなさい、みっともない……」
「ごめんなさーい」
一名は感情を動かさずに、揃ったことに対する自然な物言い。残りの二名は遅れたレルに対して少しばかりの不満を混じった言葉をぶつける。それを受け取るレルの方はいつも通り軽く謝罪をする。もう何度も見てきた朝のやり取りだ。
「さ、集まったことだし朝食にしようか。ラルズ君もシェーレ君も座って」
促され空いている二つの席にそれぞれ座り出す。シェーレの隣にレルが、ノエルの隣にラルズが座る形は、初めに座ったその日から続く席順だ。
座って料理が並ぶまでの間、正面ではシェーレとレルの姿が映る。
先の言葉だけでは言い足りず、小言を言い続けるシェーレに対して反省の色があまり見られないレル。その様子を前にして更に言葉が鋭くなるのに対し、言われ続けて露骨に不機嫌そうな表情をする。一度始まると中々収まる気配が見れず、朝食が並ぶまではこの調子だろう。
「ねぇ、ラルズ? ノエルに何か言うこと無いの?」
やり取りを優しく見守っていると、隣から声を掛けられ視線を声の方に。見れば頬を膨らませているノエルがじっとラルズを見詰めている。その様子からは容易に機嫌が悪いと察することができるのだが、その内情までは分からない。
「えっと……遅れてごめん?」
「そうじゃない!」
どうやら遅れたことに対しての不満ではないみたいだ。見当違いの謝罪を受け、更にその顔には不満の色が濃く見える。
椅子から勢いよく立ち上がりこちらに身体を向ける。腰に手を当ててふんぞり返るような姿勢でラルズを見下ろすが、相変わらず原因が分からない。
「何かノエルに言うこと無いの!?」
「何かって……」
そう言われてノエルの姿を頭から爪先まで視線を向けるが、長年目にしているノエルの姿そのものだ。
本人の明るさと同居している杏子色の髪の毛。出会ったときから印象付けられている、光り輝く宝石のような綺麗な色をした水色の瞳。寒色が目立つチェック柄のスカートに紺色のトップス。腰裏には自身の小さな身長とはかけ離れた大きめで水色の可愛らしいリボンが添えられ、それがかえって本人の意思とは裏腹に子供っぽさを助長してしまっている。
当初出会ったぶかぶかの茶色のコートは今でもたまに着ているが、やっぱり服に着せられている感が凄く、今の服装の方が個人的には似合っていると思う。
同じ屋敷にいるからこそ、成長するシェーレとレルのようにノエルの成長も目にしてきたが、今こうして上から下まで見てみたが、どこもかしこもいつも目にしているノエルと同じではないのだろうか。
目を細めて注意深く見るものの、どこも目に見えて変化は見られ……
「――ん? もしかして髪留め?」
一際きらりと光に当てられて輝く小物に目が届き、そのまま口から言葉が漏れ出した。半信半疑で口にした内容、当たっているのかどうか少し迷いもあったが、ラルズの言葉を聞いたノエルの表情が明るい方向へと様変わり。どうやら正解のようだ。
「流石ラルズ、良く分かったわね!」
自身の変化に気付いてもらった乙女心か。ノエルは満足げなご様子だ。こうゆう小さな変化を見つけてもらえるのは、女性としても嬉しい部類に入るのだろう。
・・正直自信がないのと、偶然言葉にした内容が一致していた件は言わないでおこう。言えば今のご機嫌な状態から再び急降下しそうだし。
言葉通り髪留めに視線を注目させると、前まで紐で纏めていた髪留めが、青い色をした蝶型の代物へと変わっており、確かにこちらの方がノエルにはぴったりだと思う。
「もし間違っていたらまた悪戯をするつもりだったから、今日は無しにしておいてあげる」
「またアーカードに怒られるよ……」
昔からの悪戯好きは収まることもなく、この七年間何度も悪戯を食らい続けた。悪戯の内容はどれもこれも受けたことがあるものもあれば、新しいことに挑戦してレパートリーを増やしていたりと多岐にわたる。何回も受ける中で多少の耐性はつくものかと思われたが、これがどうして毎回ノエルの喜ぶ大袈裟な反応を示してしまう。
なのでノエルの悪戯の手は基本的にはラルズに集中してしまう。ノエルからしたら理想的で格好の餌のようなものだろう。たまにアーカードに見つかって怒られてはいるけど、何度怒られても辞めないあたり、心に付随した辞められない行動なのだろう。甘んじて受け続ける側にも問題はあるだろうけど……
そのまま椅子に座り直してご機嫌なご様子。コロコロと表情が変わるところはレルに似ている。シェーレとレルの一つ下の十二歳。何だか新しい妹ができたような感覚だ。
そんな感慨を横目に眺めている中、台車が引かれる音が聞こえる。朝食の準備が終わり、料理が並ぶ時間だ。
「お待たせいたしました」
台車は各自の席へと周り、食器を置くのと同時に料理も次々にテーブルの上へと並んでいく。バケットに置かれたパンの山。野菜の旨味が溶け出し、美味しい香りが鼻を通る温かいスープ。彩り豊かで噛み応えのありそうなサラダ。皿の上で存在を主張する大きいお肉は掛けられているソースと相まって、見ているだけでお腹の音が鳴りそうだ。
全員のもとに料理が並び食卓の場が完成する。その様子を眺め終えた当主のミスウェルが食事の挨拶を口にする。
「よし、じゃあいただこうか」
「――いただきます」
目を瞑り、両方の掌を合わせて祈りを捧げる姿勢。挨拶をそれぞれ口にし、目の前の料理に手を伸ばす。スープを最初にいただく者、パンを手ごろな一口サイズに千切って口へ運ぶ者、メインでもあるお肉を食べる者と個人によってバラバラだ。
いずれも食事を行う全ての人々は、喉を通る美味しい味に舌がご満悦。舌の上で広がる味に絶賛し、一度口にすればあとはお腹が満足するまで食事が続いていく。
比較的ゆっくり食事をするのはラルズとミスウェル、シェーレの三名。レルとノエルはひたすらに胃袋を満腹にするまで食事を堪能しており、一番食べるのはこの二名だ。
ちなみにアーカードは一緒に食事を取らない。傍でお代わりやグラスに飲み物を注いだりと、執事の働きに徹している。それだけでなく、自身の作った料理を美味しそうに食べているみんなの様子を遠くから見守るのが好きだと言っていたので、本当にこの人は仕事が出来すぎる。
料理を楽しむ傍ら、談笑し合い食卓の場には賑やかさが宿り、楽し気な日常の一ページとして刻まれる。シェーレとレルの喧騒も、ミスウェルとノエルの他愛もない雑談も、端で柔らかい眼差しを向けて見届けているアーカード。
こんな幸せな日々が、七年間ずっと続いている。たったそれだけのことなのに、ラルズは嬉しくて仕方がない。希望なんてとうに失われ、枯れ果てるだけの毎日とは雲泥の差。望み焦がれた景色が、幸せな日常が広がっている。
(父さん、母さん……見てくれてる?)
シェーレとレルもすくすくと大きくなった。周りにも恵まれて、毎日が幸せだ。あと一年と少しすれば、二人とも十五歳。大人の仲間入りだ。
心の底から妹の成長を間近で見ることができて、これ以上の幸福があるだろうか……
「・・大丈夫。これからも、俺が一番近くで二人を護るから、安心しててね」
届かない呟き。それはこの場にいない父と母だけでなく、屋敷にいる住人にも。ラルズにしか聞こえていない独り言。
それはあの月が綺麗な夜の日に誓われた約束。
――同時に、知らず知らずのうちに戒めへと変わっていることをラルズは気付いていない。いつしか戒めは呪いへと変わり、身体の内側を鎖で繋がれてしまっている。
シェーレとレルに向けた愛情が強いからかラルズは、沼に漬かっている事実にも気付かない。
森で過ごしていた幼少期のころ、ラルズは外の世界から持ち寄られた本によって、外への関心は人一倍強いものとなっていた。何度も読んだ旅人の冒険録、それは幼い彼にとって宝物に等しいものだった。
砂漠が広がる土地に、暗闇で光る宝石が埋め込まれた星の街道。寒波が年間激しく襲う雪原と、目にしてきた内容のどれもに目を光らせていた。
両親からの言い付けを守っていたラルズにとっては、外の世界の全ては未知の宝珠。屋敷で厄介になり、新しい人々との交流や、村へ買い物をしたりといった普通の行動のどれもが、心震える知らない領域だった。
しかし長い年月の間でどっぷりと沈んでしまった心には既に、元あった世界への憧れが薄れてしまっている。幼少期に夢見た世界を知りたい欲求も、好奇心も、全ては妹二人の為にと切り捨てられ、覆い隠された本音。
その心の内は、知らぬ間にラルズ自身も忘れてしまう。心の奥底に、シェーレとレルの為と理由付け、無意識のうちに箱の中にしまい込んだ感情。
その箱の中身が開けられる日はいつになるのか、ラルズを含めて誰にも知る由は無かった――