第一章幕間 月下の独白ともう一つの誓い
夜は世界を怪しく包み込む。人で溢れかえる昼の街並みは太陽が沈みゆくにつれ、段々と静まっていく。その逆、昼は静かに過ごし、夜こそが我らの時間とばかりに活動を続ける種も当然あり、酒場なんかはそれに当てはまるだろう。
酒を飲み、一緒にいる友達なんかと語らう。中には偶然知り合った他人だったり、尊敬する仕事の上司なんかもそうだろう。大半は話題の内容など二の次。誰かと語らうことを楽しみとして、机に並べられた料理をつまみながら話題に花を咲かせる。
夜は昼とは姿が変わり、大抵のものは寝静まる準備を始め、老人なんかは比較的早く眠りにつく者も多いだろう。時間帯が進み深夜となれば、起きている者はごくわずかだろう。
寝静まった夜の時間帯、飲み潰れた人々以外として、本格的に活動を続ける人々も然りだ。内容も人によって異なる。仕事だったり約束事、その詳細こそ正確に把握はできないが、活動を続けるものはどこにでも、どの時間にでも必ずといっていいほど存在している。
この屋敷の中に住む住人も例外ではなく、眠りにつく住人がいるのに対して、ある一室では……
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「・・これで今日の分は終了か」
自身の部屋で目を通していた書類の山。その最後の一枚を確認し終え、ようやく仕事に区切りがついた。書類に目を通し、不備や連絡を確認するだけの単純な作業ではあるが、長時間瞳を酷使し続けた結果か、目には予想以上に疲れが溜まっているのを感じる。
瞼を閉じて付近に手を伸ばしてつまむ。これで実際に疲労が身体から抜ける、なんて話ではないが、病は気から、なんて言葉もあるからして、こういった行動を自然と取ってしまうのは、身体に沁みついているからなのだろう。
ぐぐっと座っていた身体を上へと伸ばすと、固まっていた骨たちが解放されたように、腰付近で数回気持ちのいい音が鳴る。
伸ばした上半身をだらりと下へと下げ、一つ大きなため息を吐き捨てる。全身の疲労感が少し軽くなるような錯覚を感じつつ、確認し終えた最後の書類を積みあがった紙の山の一番上に乗せる。
椅子から立ち上がり、仕事をし続けていて張り詰めていた空気を喚起しようと窓を開ける。夜ということもあり、冷たい風が一気に部屋の中へと流れ込み、若干の寒気が全身を襲う。
空へと首を動かせば、今日はどうやら満月の日。美しく綺麗な形もそうだが、周りに点在している星々が淡い光を放しているのも相まって、普段の月と比べても、より幻想的な景色が瞳に入り込む。
以前の俺であれば、月の様子なんて大した気にも留めず、関心一つさえ抱かなかっただろう。所詮ただの物体、光を放つだけの天然の光源体、そんな寂しくて無秩序な感想。
信じられるのは自分自身、頼りになるのは自分自身の力のみ。閉鎖的で孤独な当時の私は、周りは全て敵だと認識し、己の為だけに剣を振るい存在を証明し続けた。
拾われた俺が示せるのは、自らの力の価値だけだ。目の前に現れる敵を切り伏せ、血を浴びようと、血を流そうとも歩みを止めない。騎士団の知った顔が地面に転がっていようが、血を吐き出して死にそうになっていようと目もくれず、己が為だけに剣の道を突き進んだ。
その結果、俺の実力は多くの者に広まり、替えのいない存在として確立した。振り返れば私は騎士団の中でも指折りの実力者として認められていた。
しかし誰に実力を評価されようとも、心の内は何も変わらなかった。ただ一つの目的を遂げる為に、己の信念を、己の剣をあの方に届かせることだけを命題として毎日剣を握り鍛錬を続けた。
そんな日々は、あの大戦を前にして終わりを告げた。正確には、俺の心が砕け散ってしまった。掲げていた信念も、自分の生き方全てが、鈍器で叩かれたガラスのように、粉々に崩れて形を失ってしまった。
仲間など所詮足を引っ張るだけのお荷物だと切り捨てていた。誰よりも自分が強いと自負し、自身を気遣い心配する声も無視して、衝動のままに剣を振るえば道は開き続け、迷うこともない。そう信じていたんだ。
――だけど思い知らされた。未熟さを、浅慮さを、あの日ほど突きつけられた日があるだろうか。
敵を切るだけが、目の前に立ち塞がる障害を取り除くことだけが自分の使命であり、価値を示し続ける、最も簡単で単純な行動。
圧倒するほどの卓越された剣の腕? 幾多の魔獣にも臆さず、仲間の死にも感情をちらつかせない冷静な精神?
・・そんなもの、私には何もなかった。他者を超越するほどの力も、死を前にして動揺しない、無情とも呼べるような鋼の心など私にはない。
――何一つとして俺には無い。ただの、一人の弱い生き物だった。
あの大戦が終わって、俺は世間では英雄として認知され、溢れんばかりの称賛を……賛辞の声を浴び続けた。
でも違う。英雄なんて、呼ばれる存在なんかじゃない。本当に英雄として呼ばれるべきは、真に正当な評価を頂くのは俺なんかではなくて――
・・彼等なんだ。彼等こそが世界を本当の意味で救った、英雄と呼ばれるに相応しい存在なんだ。
だがどれだけ声高に反論を口にしても、所詮力のない弱者の戯言。結果として主張を覆すこともできず、世界は俺を英雄として迎え入れられた。
偽りの称号を与えられ、本当に貰うべきだった彼等二人は、世間に名を遺すことなく、ひっそりとその姿を消した。
あの大戦から十年。生き方を変え、騎士としての自分の本分、そして己自身を見詰め直した。周りに声を掛け、支えてくれる全ての人に感謝し、困っている人々を救う為に尽力した。
性格は苛烈さが抜け穏やかに、鋭い牙が取れた獣のようになったと周りからは囁かれていた。
実際その通りであろう。誰の目から見ても、変わりようには目を疑うだろう。
だけど本質は少し違う。もともと今の俺が本当の姿なんだ。両親に見限られるあの日まで、俺は俺のままでいられたはずなんだ。
身近にいた大好きな家族。自分を支えてくれる人物に裏切られ、そこから俺の心は荒んでいった。周りなど信用するに値しない。家族など、身分が一緒なだけの仮初の愛情を謳った偽りの姿。
そう心に刻まなければあの日、とっくに俺は一人寂しく死んでいただろう。可笑しな話、憎しみや恨みといった負の感情が、俺を今日まで生かし続けるきっかけとなった。
それが幸いしたと言っていいものかは分からないが、結果として俺は生きている。そして、今までの自分が信じていた道を進むと同時に、いつの間にか歩いてきた道が間違っていると気付くのは、あの大戦が終わるまでだ。
「・・騎士団にいた自分と、今こうしている自分……」
どちらが正しいのか、どちらが正解なのかなんて、未来は誰にも分からないし答えもない。選択を誤ってしまったかもしれないと、自責の念に駆られる時間もあるだろうが、後にその選択こそが成功に結び付く可能性だって存在するだろう。
大事なのは今の自分を誇れるかどうかだ。今の自分を己が認められるかどうかだ。
その点で自分を客観的に判断して評価をつけるとするならば、選択に悔いはないと心から言える。
――ただそれは、ついこないだまでの話だ。
森へ入り、彼等兄妹の両親に対して誓いを立てたいと口にし、ラルズ君から名前を聞いた際には、耳を疑ったと同時に時間が止まった。
揺れ動いた感情を彼に悟られないように努めるのが精一杯で、その後の祈りは真面に行えたかもわからない。
二人の名前を聞いて、封じられていた過去の蓋が強制的に開かれ、過去の残留が自身を包み込んで教えてくれた。
あの過去からは、逃れられない。全ては繋がり、巡り巡って俺の目の前に彼らは現れたんだと。
――これはきっと罰なんだ。
あの日見捨てた自分に対する運命からの贈り物。自分を責め続け、それを払拭するように騎士団にこの身を捧げている間の中、いつの間にか薄れていった過去からの清算行為。
真に助けたいと決意したにもかかわらず、当事者の二人は死んでおり、代わりに自分が出会ったのは、幼くて可愛らしい三人の子。
――愛されてこの世界に産み落とされた、二人の大切な宝物。
その二人が既にこの世にいないのだとしたら、彼らを守るのは誰になるのか。その答えは既に俺の中で決まっている。
運命からの贈り物、過去の自分に対する戒めと祝福、その両方が今俺の中にある。
「・・墓の前では上手く誓えなかったが、今こそ二人とラルズ君たち三人に対して誓うよ」
窓から顔を出し、見上げる先には見事な満月。二人とは一切関係ないが、今この場で俺を見てくれているのはあの月だけだ。
お互いの姿を晒し、嘘偽りない胸の想いを、誓いを、二人の代わりに月に対して宣言しよう。
「・・アルバート、ロゼ。二人が残した最愛の子供たちは、お前たちに代わって俺が護るよ。この身を犠牲にしてでも、必ず……!」
返事は当然ない。無機質な月に対して誓いを口にしようと、夜の世界は独白を黙って聞き流し、静寂の夜にさざ波を立てることもない。
窓を閉め切り、それと時を同じくして部屋に暗がりが生まれる。隙間からもう一度外を覗けば、いつの間にか雲が現れ、月の姿が隠される。
隠された月を最後に横目にし、俺は部屋のベッドで眠りにつこうと足を運ぶ。そのまま身体を潜り込ませると、身体の疲れが思い出したかのように自分を支配し、自然と瞼が勝手に閉じられる。
そのまま意識は解け剥がれる。月と太陽が交代し、新しい一日を紡ぐまで……
これで第一章は終了となります。これまで閲覧してくれている方々、本当にありがとうございます。これからも見て頂けると幸いです。見返してはおりますが、誤字や脱字、気になった部分がありましたら連絡いただけると嬉しいです。