大久保彦左衛門は抱かれる
「ハア、ハア……!」
浜松城が大きくなって行く。
何としても逃げねばならない。
全体で一万、自身は四千を率いてきたはずの兵が、今はどれだけ側にいるのかわからない。
武田軍に討たれたのか、それとも討たれに行ったのか。いずれにしても、多くの兵が帰って来ない。
「大丈夫です!命さえあれば!」
必死に励まされるが、後ろを振り返りたくない。
部下たちが自分などのために必死に戦っている。
おそらく血煙が飛ぶと共に得物も転がり、その得物によって足を切ったりつまずいて倒れこみそれによって死に至る人間もいるだろう。武田もそれは同じとは言え、気分のいい話ではない。
石川数正が死んだとか言う情報まで入ってくる。
覚悟していなかったわけでもないが、実際に聞かされると虚報であってもらいたい気持ちがこみ上げてくる。
「待て待て!」
執念深く追い上げる武田軍。その度に徳川軍の数は減る。
援軍はとかありえないことを考えてみたが、その援軍となるべき存在はほとんど浜松城にかき集めてつぎ込んでしまった。いや実際には兵が残っていたが、目一杯かき集めた所で二千人どころか千人もならない農兵と言うか新兵など何の意味もない。
ただでさえ、この戦で無駄な犠牲を生んだ。この敗戦で民が武田を恨むならばまだともかく、徳川を恨む事にもつながる。
—————馬鹿な事をしたせいでおらの親兄弟が死んだ。家康のせいだ。そんな奴の言う事聞けるか。
それこそ最悪の負の連鎖であり、そんな事になったら民自ら武田に乗り換えられる。そうなったらもう大名でも何でもない。
「武田め…………!」
恨みがましく唸る。それで何が改善するわけでもないが他に何ができるわけでもない。
数正だけでなく、忠次も敗走させられたらしい。馬込川を渡河し、姫街道沿いの平野で休んでいるとも言う。とりあえず命は保っているが、この戦ではもうほとんど役には立たないだろう。
それで忠世や忠佐はどうなっているのか。忠勝は無事なのか。
ふと後ろを振り返ると、真後ろだけでなく右側からも来ている。一応左側は少し空いているが、酒井軍を追い払った軍勢がいつ何時戻って来ないとも限らない。
何と言うあつい攻めだ。
火の如く熱いだけではなく、文字通り十重二十重とも言うべき分厚い攻め。
(その厚みに数正は殺されたのか……いや、おそらく数正はついでだ!)
狙いはこの徳川家康ただ一人。
家康さえ死ねばそれでよしと言わんばかりに、こんな攻め方を考えた。
信玄は戦略の天才であっても、戦場では上杉謙信のような天才的軍略を発揮できた話を聞いた事がない。だがあらかじめ狙い通りだったとすれば。
「ここまでか!この徳川家康の首を取って見せよ!」
また別の「徳川家康」が名乗り出て来るが、どれだけ効果があるのかわからない。
これまでと同じように適当にあしらわれ、すでに所在も顔もわかっている本物の徳川家康を狙いに来るのではないか。
いつ自分はここまで恐れられるようになってしまったのか。
織田信長と手を組んだからか、その信長に付き合って姉川でひと暴れしたからか、二国の大名になったからか。
そんなありえないはずの後悔が頭を巡る。
何としてもとばかりに駒を動かすが、結果が付いて来ない。
いや実際にはすでに三十分以上距離を開けると言う形で付いて来ているが、その感触が微塵もない。
呼吸が荒くなり、そして膀胱の中身がまたこぼれた。
もし仮に戦に出がけに空っぽにしていたとしてもこの時間でたまっていたそれがなくなり、武士の誇りと引き換えに体が軽くなる。
早川殿のせいだとでも言うのか。彼女をどう責めよと言うのか。
出陣直前に築山殿共々氏真が待つ岡崎に向けて送ったはずの彼女が今どうしているのか、どんな気持ちでいるのか。そんな益体もない事を考える程度に自分が落ち着いているのか乱れているのかすら、家康はもうわからなくなっていた。
ちなみにこの時早川殿は浜名湖の側におり、三河と遠江の国境にいた夫により出迎えを受ける所であった。なおその夫が率いていた人数は百数十人であり、しかも武士は五十人もいない。
「もう、もうダメなのか……!」
「信玄はもうダメです!」
「そうか…………!」
三河武士にしては珍しく茶化しめいた檄も家康の心を休めはしない。
救いは大きくなる城門、それだけだった。
「西だ、西へ!」
そして遠くから響く叫び声が家康の心胆を寒からしめる。
青くなるのを必死にこらえる。
西側。信康か。いや岡崎まではまだ遠すぎる。
「ただ前だけをご覧ください!」
主を救うべく、馬を同じ速度で走らせ、人間も全力で走る。力尽きて倒れる者もいたが、決して家康は振り返らない。誰も振り返させない。
そして。
「やりました、やりましたぞ!」
「逃げ、切った、のか……?」
浜松城の城門をくぐったことに家康が気付いたのは、実際に城門を通過してから二分後の事だった。
「…………我ながら、まったく、みじめだ……」
袴と下帯を換えてもらい、顔を赤らめながら本丸へと戻った家康はすっかり悄然としていた。
「生きて帰って来ていただけただけで十二分でございます!」
「彦左衛門……お主は実にありがたい男だ」
実際にその汚れ仕事を行った彦左衛門こと大久保忠教は、十三歳にしてずいぶんと意気軒高だった。
忠世の息子忠隣より七歳年下のこの少年は、既にこの年にしてかなり有名人になっていた。
「こんなわしでも良いのか」
「そのような事をおっしゃられず!」
声が大きく、挙動が早く、どこまでも真面目で一本気。兄たちの素質を濃く受け継いだような根っからの三河武士。
ただ惜しむらくはあまりにも全身男臭く、そして本人にそれを隠す気が全くない。もしこれで美少年だったら家康の夜伽の相手を務めていたかもしれない、って言うか家康から誘われたらやりそうだと陰で噂もされていた。
「それでこの城を盾に武田を食い止めるのですか、小休止だけして出るのですか!」
「情報をつかんでからだ。そなたの兄たちがどうしているのか」
「なればこそすぐ!」
その若武者の意気に応えてやりたい。
だが、この浜松城に逃げ込んで来た兵の数もわからないし、逃げ込んで来た兵の疲弊ぶりも半端ではない。
「何人ほどが逃げ込んだのですか!」
「確認できる限り、三千と、二百……」
「それならば!」
「数だけで戦はできんぞ」
燃え上がる忠教を、まだ三十一の家康は必死になだめる。確かに三千二百と言うのは戦えそうな数だが、実際にはその三分の一近くが負傷兵であり、残る三分の二もひどく疲弊していて立ち上がれない人間も多い。無傷でも侍女や小者たちに抱えられて雑魚寝しているような人間を数として数えるのは無理であり、早くとも一晩はかかる。今現在その気になれば戦えそうな兵は、それこそ千人いるかいないかだった。それにこの城にはまともに戦える兵は五百程度しかおらず、合わせて千五百ではどうにもならない。
「なれば籠城ですか!」
となればとばかりに動こうとする若武者が言うまでもなく、元気な兵たちは城門を閉め弓矢を構えている。来るなら来いと言わんばかりに、足弱なりに気合を入れていた。
「しかしそうなるとそなたの兄たちは」
「逃げ伸びていることを祈るしかあるまい……」
「どこへですか!」
「おそらくは岡崎方面だろう」
北は論外、東は天竜川、浜松城より南はそれこそ海か砂浜。
逃げるとすれば西側しかない。
「しかしそれは逃がされていると言うのでは」
「ああそうだ。武田が逃がさせたのだ」
武田にしてみれば、あまり強引に諸将を追い詰める気もなかったのだろう。
邪魔者には文字通りどいてもらうだけで良く、それこそ徳川家康さえ討てばいいのかもしれない。だからこそわざと逃げ道を作り、決してやぶれかぶれに陥らせないようにした。逃げ道がなくなれば最後の抵抗をするが、あるとなればその方向へ向かって進むのが人間だからだ。
「ですが、と言う事は」
「彼らとてわしらとそう変わらん。一昼夜は経たねば動けん。
それこそ織田様に頼るしかない、のだが……まったく、体が熱いわ!」
家康はあてにならない遠江の寒気を恨んでいた。
一応冬ではあるがまだ十月、初冬と言うより、まだ晩秋。ましてや甲斐信濃と言う産地育ちの武田軍は三河遠江育ちの徳川軍より寒さに強く、当然その対策も抜かりなかろう。どこまで本気なのかはわからないにせよ街道に陣を張り、西からくる織田の援軍を受け止める事だってできるはずだ。
「ああ、もう……!あのくたばりぞこないの田舎爺め!」
どうにもならない気持ちを吐き出すかのように彦左衛門は床を鳴らす。天守閣にあった灯台が倒れそうになり、部屋の中の変な所が照り出す。
「おい彦左衛門」
「くたばりぞこないはくたばぞこないでございます!信玄はこの数年体を悪くして今回の出兵もギリギリだったと耳に挟みましたが!」
「そのはずだ」
「なればどうして殿や石川様と無理心中など!迷惑極まる行いを!」
「無理心中か……」
向こうが向こうがそう思っているかは別問題だとして、それなりには適切な表現だった。
この戦に置ける武田の攻めは、あまりにも過激だった。
それ以上に正確だったからその事を忘れていたが、これだと思いきや一挙に攻撃をかけ、次々に将たちを釘付けにする程度には強引に攻撃を行った。そのために多くの犠牲を生んだようだが構う事なく攻めかかり、結果として狙い通りになっていた。
いやその前に、二俣城と言う堅城であったはずの城を一日で陥落させる程度には強引な攻め方をしたのが信玄だった。
(どうする……!)
いずれにしても、無理心中同然に攻めかかる信玄を前にして、家康は、敗軍の将はどうすべきか。
「人は危機に際して本性をむき出しにする……」
家康は自ら口にしたその言葉に従うかのように、一つの命を下した。
忠実なる三河武士たちの下、すぐさま策は実行に移された。
「殿……!」
「これが通じねば同じだ。普通に構えても来るものは来る。その時は……」
「そのような!」
「わかっている、だがその際は……」
二人っきりになった家康は、彦左衛門を抱いた。
萎えた力を目いっぱい振り絞って必死に抱き、そしてその口に何かの言葉を投げ付けた。
少年は涙を流しながら首を振り、必死に耳へとしまい込んだ。
しまい込みたくもないのに、しまい込んだ。
愛している存在の、最期の言葉であることを認めたくないように。
井伊直政じゃあるまいし、大久保彦左衛門が家康と18禁めいた事をするなんてちょっと……ねえ。