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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第八章 六度目の川中島
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北条氏政の一手

「どうしたと言うのだ」


 「武田信勝」が誕生したちょうど一刻前、小田原城では汚れた甲冑とうつむき顔で城門をくぐって来た松田憲秀を前にして北条氏政が目を丸くしていた。


「とにかく体を清めろ、話はそれからだ」

「はい……」


 足を引きずりながら去って行く憲秀に、小田原城全体が不穏な空気に包まれていた。

 元々氏政も憲秀も乗り気でなかったとしても、この落胆ぶりは半端ではない。


「父上、直秀に続きこのような事になってしまうとは、松田家に相当な加増をすべきでしょうか」

「ありきたりだがそれがよかろう」


 氏直の言葉にそれ以上の反応ができる人間は、誰もいなかった。

 

 戦場に出て行ったのだからそれ相応の汚れ方をするのは仕方がないとしても、憲秀が追った打撃はそれ以上に思える。

 もちろん将兵の犠牲も出るのはわかっていたが、皆一様に暗い。二線級の兵を集めて送ったのだから死傷者が出るのは仕方がないとしても、戦場での経験を積んでたくましくなった兵と言うのが予想外に見えない。


 武田家からすでに援軍を送った分の報酬は受け取っているとは言え、それにしても打撃が大きすぎる—————。



 そう感じた氏政・氏直親子は、憲秀を待つかのように小田原城の広間へと足早に向かった。













「征夷大将軍様が身罷られたと…」

「ええ、恥ずかしながらわが手勢の死傷者の大半はその征夷大将軍様が軍勢により生まれてしまった物で……」

「そうか、征夷大将軍様が織田に味方をしていたとはな……」


 半刻後、ようやく落ち着いた憲秀から話を聞いた氏政と氏直は口を大きく開けていた。

「しかし羽柴秀吉とかいう農民上がりの男の部下になっていたなど信じられん。しかもその羽柴の部下であると声高に叫ぶなどもっと信じられん」

「拙者も含め北条軍の将兵全員見聞いたし申した、間違いございませぬ」


 氏政も氏直も、秀吉が義昭を降伏させたと言う話は聞いていた。

 でも所詮降伏先は信長であり、その家臣である秀吉に心服するなどとはみじんも思っていなかった。せいぜい、羽柴秀吉が手柄を立てたと言うだけの話だと思っていた。


「で、その征夷大将軍様を討つように命じたのが武田信玄だと」

「いかにも。あと一歩で戦いが終わる所に乱入したゆえに必死になったのでございましょう。それに拙者としてそれが本物の征夷大将軍様であるなど思いも寄らず……」

「当たり前だな、しかし二つ引き両の旗とか」

「いえ、羽柴のそれとおぼしき旗だけでございました」

「うむ…………それで、本当にそれだけなのか」


 氏政はおだやかながら、さらに真相に向けて突っ込んで行く。

 北条家は元から関東管領と言う名の室町幕府が作った権威を踏み付けにして大きくなった家だから、幕府に対する忠誠心などない。憲秀だってまたしかりなはずで、征夷大将軍様の死如きでここまで打ちひしがれる事もないはずだ。



「武田勝頼、でございます…………」



 その憲秀の重い口から出た人名は、氏政たちにとって拍子抜けだった。


 確かにこの戦いで勝頼は死んだ。だがあくまでもただの討ち死にであり、戦場に出た以上よくある事のはずだった。

「武田がぐらつくのが恐ろしいのか」

 もちろん武田家が跡目を失い混迷に陥れば北条だって面倒だが、関東制覇が第一の北条からしてみれば武田だろうが織田だろうがちょっかいを出して来なければそれでよかった。


「いえ、武田がまったく混乱していないのでございます」

「武田が?」

「ええ、武田勝頼軍を潰した織田勢の防備のために武田軍の内藤に前線に出てくれと言われたのですが、まったく勝頼の死を悲しむ様子がありませんでした。ああ勝頼を討ったのは森とか言う織田の若造でしたが、その名前すらもさほど意識していなかったようでございました」


 確かに、おかしい。


 武田勝頼と言えばもう五十路を過ぎた信玄の後継者であり、そんな存在を討たれれば例え混乱しなくても相当に闘志を燃やし無念の涙を流してしかるべきだろう。


 まさか見限られた、いやとうに見限られていたと言うのか。


「信玄と勝頼の距離は」

「相当にございました。もちろん山県や内藤など信玄の取り巻きたちとも」

「すると勝頼は意図的にやられた可能性があるな……。武田はまったく因果な家、と言うか信玄も相当に業深き男だな」



 信虎と信玄、信玄と義信、信玄と勝頼。

 三代どころか、三度にわたって起こる家督争い。そんな傍から見ている分には面白い争いに、氏政は自分で言っておいて笑っていた。

「松田…」

 一方で氏直は十二歳の年齢相応に無邪気な顔をして憲秀に声をかけるが、その未来の主の無邪気な声がますます憲秀の顔を曇らせた。



「お館様、これは若君様に話してよろしいのかわかりかねますが……」

「なんだ」

「それなりの覚悟はある。戦場の中で死んで行く将兵の存在は枚挙に暇がないのであろう」

「では……」


 氏直の了解を得た憲秀は足を組み直し、一段と深刻な顔をして深く頭を下げた。




「勝頼はとんでもない薬を使っていた可能性が高うございます。

 斬られても痛みを感じず、幾度戦おうとも疲労する事もなく……」

「まさか!」


 憲秀が話を盛っているのはわかっていた氏政だったが、だとしてもそんな軍隊が実際にいたら恐ろしいを通り越しておぞましいとしか言いようがない。氏直も否定の意を込めて声を上げるが、憲秀はなおも視線を下に落とす。

「それから突然高笑いをしたり、急に無口になったり、突然うめき出したり……」

「いったいどこの誰から聞いたのだ!」

「勝頼は織田の明智光秀と言う将を討ち取り申した。その後逃げ遅れた兵を数名捕虜にしており、拙者はその兵から話を聞いたのです。まるでけだもののような面相で襲い掛かり、敵とみなした存在を一匹残らず食い尽くしたと」


 —————後半はわかるが、前半がわからない。


 話を聞く限りでは、倫理と犠牲を鑑みなければ凄まじいまでの兵器でしかない。その二つの犠牲が多大だとしても、なぜそんな物を今まで誰も使わなかったのだろうか。



「おそらくは長坂……」



 そんな氏政の疑問に答えるように、いつの間にか増えていた大広間の四人目の住人が口を開く。


「小太郎?」

「長坂長閑斎は勝頼の側近であり、勝頼が当主となれば跡部と共に武田家を担うは必至。されど信玄は長坂と跡部を好かず、両名を排除する機会をうかがっていたと思われます」

「ではわざと信玄がその長坂とやらに教えたと」

「あるいは武王丸が自分を飛び越して後継者となるを恐れたゆえに、戦果を上げんと欲した可能性もございます」


 風魔小太郎がこれまで持ち込んだ情報から、勝頼が跡部と長坂の二人を当てにしている事は氏政も知っていた。そしてその二人がさしたる武勲もなく信玄を支える宿老たちに好かれていない事もまた知っており、それが信玄と勝頼の不仲の火種である事も承知していた。

「わしは信玄がわざと教えたとにらんでおるが」

「それがしには何とも申し上げかねます。確かなのは表向き、これで信玄は長坂長閑斎と言う存在を絶対の奸臣として決めつける事に成功した事だけです。

 ああそれからついでに、跡部勝資は何を思ったか織田に寝返り、先の戦いで討ち死にしたとの事で」

 それでも、跡部が織田方に走っていたと言うのにはさすがに驚いた。勝頼の腰巾着である事を誇りに思いそうな男が、なぜ信長の尻などなめに行ったのか。



「風魔殿、武田はやはりあの武王丸を跡目に据える気であろうか」

「武王丸は戦場にいたのか」

「それどころか一軍の実質的大将となり、柴田勝家や徳川信康をも追い返したと武田の人間が喧伝しておりました」

「………………………………」



 憲秀の言葉に対し長い沈黙が立ち込めると共に、氏政はゆっくりと立ち上がって憲秀の後ろに回り、両肩を強く揉んだ。


「その方の労苦は本当によくわかった。とりあえず当座として千石、最終的には二千五百石を加増いたす。これよりも我が北条のためにどうか頼む」

「えっ?」


 ありえない体勢からの論功行賞に憲秀は思わず間抜けな声を上げ、ほぐれた左肩越しに主君の顔を見た。



 —————あまりにも優しく、あまりにも真剣な顔を。


「ありがたき幸せ……」

「幾度も面倒をかけて本当に済まぬ。どうか兵士共々ゆっくりと休め」


 氏政の真剣さにほだされたように憲秀が深く頭を下げると、氏政は安心したように右手を前に差し出した。


「さすが父上」

「国王丸(氏直)、功ある物には報いねばならぬ。これは当然の行いだ」

「わかり申した、どうか北条のために働いてくれ」

「ははっ……!」


 ようやくやる気を取り戻したような顔になって背を向けた憲秀に、氏政は安堵した。


 そして小太郎がいつの間にかいなくなったのを確認して氏直を下がらせるとひとりくつろいだように座り、その上でじっと北西の甲州の方角を向いた。




(だが実際問題、勝頼が死ねば武田の跡目は誰だ?仁科か?葛山か?後典厩(武田信豊)か?いやまさか……)



 その上で武田の将来を思うと実力はともかく、信玄ほどの支配力を持った人間がいない現状が気になってしょうがない。







(父上、本当に信玄を生かして良かったのですか……?)







 二年前、風魔小太郎が持って来た、風魔の秘伝。







 それが肉体に活力を与え寿命を延ばすと言う秘薬であった事を知るのは、小太郎を除けば氏政しかいない。


 氏政は氏康に飲んでもらいたかったのだがその氏康が信玄に渡すように命令し、氏政も結局それに従った。


 その結果信玄は好き放題に暴れまわっている。織田でさえも翻弄され続け、重臣を失ってしまっている。

 このままでは西からの風を守る壁どころか、自分たちが押しつぶされてしまうのではないか。




(今動かねば手遅れになる可能性がございますぞ……!)




 氏政は天上の氏康をにらみながら、再び膝を立てた。



 —————そして。



「誰か!」




 北条家は次の一手を打つ事を決めた。




 北条氏政率いる北条家の、一手を。

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