武田信勝の誕生
六月八日早朝、躑躅ヶ崎館。
細久手から帰って来た将兵が疲労困憊だった肉体を休めている中、武田信玄は一人の女性に詰められていた。
「では父上は兄上がそのような禁忌を犯したからこそ廃嫡したと言うのですね」
勝頼の妹の菊姫は、目を三角にして信玄をにらみ付けていた。
勝頼の正室で武王丸の生母である遠山夫人はすでに二年前に亡くなっているし、菊姫の上には長女の黄梅院を含め三人の女子がいるが三人とも武王丸が生まれた頃には各地に嫁いでおり、まだ十六歳ではあるが未だ嫁入りしていない彼女は信玄の娘としては最年長であり、その分だけ大きな顔もしていられた。
「廃嫡ではない、ただの討ち死にだ。ただし」
「人倫を軽んずるような薬を服した故にですか。なぜそれを取り締まらないのです」
「知っておれば取り締まったわ」
信玄は仏頂面のままそう答える。
実際、知っていれば教えたつもりだった。服用すればこれこれこんな症状が出てしまう、と。
だが勝頼に聞く耳があったかは別問題だし、もう二十七の人間の父親にそこまでの責務を問うのは酷である。
「無論すでに四郎の部下たちを取り押さえ話を聞いておる。いったいどこでそんな物が取れるのか、誰があれほどの数を手に入れるように命じたかなどな」
「後者は無駄だと思いますけどね」
それでも菊姫は突っかかる。菊姫とて好き嫌いはあるが、信玄がどんな調査をしようが答えはある程度見えているのが丸わかりだ。
責任はすべて、跡部勝資と長坂長閑斎の二人。
勝頼はせいぜい二人の奸臣を見抜けなかった間抜け扱い。
ある意味一番正しい結論だが、同時に一番安易な結論でもある。
「では叔母上の望む回答とは何でございますか」
「武王丸、あなたは黙っていなさい」
「黙りませぬ。答えもなしにただ相手を責めているだけでは言葉は軽くなり誰も信用しなくなります。
かつて唐土にある蜀漢と言う国の姜伯約は漢室復興のために幾度も戦を仕掛けましたが成果は上がらず、戦場の将兵を疲弊させてしまいました。劉公嗣もまたその有様に政治への意欲を失い蜀漢は滅んだのです」
武王丸が割り込むと菊姫は不機嫌になるが、武王丸はまったくひるむ気がない。
戦をするためだけに戦をした軍隊がどうなるか、武王丸は知っている。
姜維が強引に出兵を繰り返さなかったとしても蜀漢はいずれ滅んだだろうが、強引な出兵が寿命を縮めたと武王丸は思っていた。
「ああもう本当に口が達者なのだから!」
「それで叔母上の求める答えとは何なのですか」
菊姫は面倒くさいと言わんばかりに叫ぶが、武王丸はなおも食い下がる。
「わざわざこんな風に戦を吹っ掛けたのですから敵前逃亡などみっともないですよ」
信玄は菊姫が自分の口の軽さを後悔している事を簡単に理解した。
幼い姿をした甥御が自分の愚痴を挑発と見なして正々堂々と立ち向かって来るのを見て、正直怖くなって来たのだろう。蛮勇とも言えなくはないが、それ以上にその目が真剣すぎる。幼い子供の屁理屈とか言うには、背筋がごく自然に伸びている。対照的に菊姫の侍女たちは目を泳がせ、武王丸の方を見ないようにしている。
「私は、その、兄上が、兄上が本当に怪しき薬を服用していたのか」
「武王丸、よせ。調子に乗りすぎだ」
「申し訳ございませぬ、つい父上とお爺様を侮辱されて腹が立ってしまいまして」
「武王丸、私は侮辱などゆめゆめ!」
「獅子は兎を狩るにも全力を尽くすと言う。だが我々はしょせん人間、獅子のように兎に全力でかかっていては身が持たぬし、何より体裁も良くないぞ」
菊姫の目はすっかり丸く、と言うか楕円形になっていた。
自分からしてみればほんの少しぼやきたかっただけなのに、それに相対するかのようにぶつかって来る巨岩を前にして木っ端微塵に打ち砕かれた十六歳の女性は、ただただ気の毒なだけの存在だった。
「申し訳ございません、つい血気に逸って時間を奪ってしまいまして……」
「こちらこそ頭を下げるべきです。私もまだどうも血の気を抑え切れず…………」
結局二人して頭を下げ合う事でこの場はお開きになり、後には涙目の菊姫と武王丸の粗野な栄光だけが残った。
「武王丸……おぬしには勝頼の」
「父上の事は尊敬しておりました。しかし最近はつとにお爺様に勝つ事ばかりを考えておりました、織田にでも徳川にでもなく」
信玄自身、武王丸を勝頼から取り上げるような真似をしていたのは認めている。
生母を五つで失った武王丸から父親まで取り上げる格好になった事に罪悪感もあったが、勝頼自身の焦りがちょうど芽生えていた時期でもあった。
(ただの数千石の諏訪家の当主から、いきなり武田家の次期当主にされたのだ。まったくわしのせいとは言え)
義信が自害を命じられてからひと月もしない内に武王丸が生まれた。巷では次期当主になった祝いだとかも言われていたが、勝頼はなおさら混乱していた。武王丸は義信の生まれ変わりだとかいう与太話を真に受ける人間でもなかっただろうが、いきなり責任が数十倍になった所で背負える人間などそういるはずもない。
「どこでそう思った」
「先の戦いの前に父上に会いました。その時父上はお爺様に何を教えられたか聞きたがり、その代わりのように曾祖父様の話をなされました。勇猛果敢なる曾祖父様の武勇伝を、二千で一万五千の敵を討ち破ったとか」
「それで父上はわしに勝ちたがっていると思ったのかね」
「いえ、お爺様が徳川家康を討ち取った時から事あるごとにあんなやり方では遠江の民が懐かぬ、甲信から租税をかき集めてでも遠州の民に施すべきだと」
正論かもしれないが、ずいぶんとなめられたお話だ。
その程度の民生など、こちらは十分に配慮しているつもりだった。実際、旧浜松城以東の武田領遠江は、二年間租税を三公七民にしている。あれほどまで苛烈な作戦を前後わきまえずやっていたと思われるのは単純に不愉快だ。それに甲信から租税をかき集めると言うのは租税を上げると言うのと等しく、戦勝記念にそれをやっていては兵の士気が上がるはずもない。
「その時感じたのです、幼心に。父上はお爺様が気に入らぬだけだと」
勝頼の焦燥と嫌悪は、武王丸にさえも見抜かれていたと言うのか。
母親を亡くした幼子に看破されてしまった勝頼に信玄は器の限界を感じ、改めて自分の決断の正しさを知った。
————————————————————そして、その先の一手を下す決断もできた。
正午の躑躅ヶ崎館の広間に、いきなり武田の主だった者たちが集められた。
内藤昌豊や仁科盛信こそいないが、高坂昌信や馬場信房を始めとした武田の上層部たちがずらりと並んでいる。
何の軍議かと沸き立つ兵もいる中、部屋に入って来た二人の男が上座に向かって一直線に歩き出した。
「お館様…」
武藤喜兵衛は当然のようにお館様こと武田信玄に声をかけようとするが、信玄は何の反応もしないまま上座の一歩手前で右にそれ、そのまま着座した。
そしてもう一人の男こと、武田武王丸は止まる事なく上座に座った。
「よもや…!」
「ああ、この日をもってわしは隠居し、この武王丸に家督を譲る」
あまりにも突然な、七歳児への家督相続宣言。
だが武王丸にまったく取り乱す様子もない事から、家臣たちのざわめきも一瞬で消え失せた。
まったく信玄の予想通りの展開である以上、今更口を挟む余地もないと言う次第だ。
「御名の方は」
「かつてより決めておる。太郎信勝とな」
太郎とは信玄も名乗った武田家長男の名跡だし、信勝の信は武田家の通字、勝は勝頼の勝。まったく隙の無い名前だ。
「しかしその、えっと、まだ……」
「至らぬところがあれば何でも申して下され。私はどうも血気にはやりやすいようですから」
「いえその、なんとお呼びすればよろしいのかと……」
「父上がそうであったように十七になったらそう呼んでください。それまでは信勝殿でどうかお願いいたします。様と呼ばれるのはどうも……」
今まで武王丸様武王丸様と呼ばれて来たくせにと難癖の付けられる話だが、誰も突っ込もうとする人間はいない。自分たちの様付けが御曹司扱いのゆえであり、これから武田家当主の座を背負おうとする人間にはあまりに失礼な「子ども扱い」である事をわかってしまっているからだ。
「では信勝殿、今後ともよろしくお願いいたします!」
ためらいながら呼び方を問うた喜兵衛に続くように、重臣たちも一斉に頭を下げた。
ここに、甲斐武田家十七代目当主武田信勝が誕生したのである。
————————————————————そして。
「それではわしは隠居させてもらう。自由気ままにな」
隠居人となった武田信玄は、足取り軽く走り出した。
もはや何の憂いもない、ただの隠居人として。
従う人間を引き連れて、信州の寺へと向かったのである。
父と息子の供養のため————————————————————に。




