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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第八章 六度目の川中島
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上杉謙信の決断

「真か!」

「間違いございませぬ…………!」


 六月六日、信玄と武王丸がようやく我が家と言うべき躑躅ヶ崎館で横になっていた頃、春日山城では一人の男の顔色が真っ白になっていた。


「よくわからん、もう一度説明してくれ!」

「ですから、上様が織田の将として我々と戦い、武田信玄により討たれたと……」


 謙信以下、誰も信じられなかった。




 —————歯を食いしばり涙を呑んで織田家に屈服したはずの足利義昭が事もあろうに戦場に将として駆り出され、結果として信玄に討たれた。


 これはまあ、心情的には認めたくはないが理屈としては認められなくはなかった。




 だがその際に、羽柴秀吉の配下として死んだとかいう話は認める事はできなかった。


「入って来る話入って来る話全部そうなのです。上様の御曹司様もその羽柴秀吉の下にあるとか……」

「そんな馬鹿な!上様は小寺に軟禁され嫡子様も殺され死ぬのを待たれていると言うのは何かの間違いか!」


 鬼小島弥太郎がそう上杉家内の公式見解を叫ぶと、景家は首を斜め下に振った。認めたくもあり認めたくもなしと言う心境を雄弁に語るその首振りに、春日山城内は暗澹たる気持ちに包まれた。




 ————————————————————しかも。




「信玄はやはり残酷極まる血も涙もない男だ!」


 義昭が信長に降伏しほしいままにされていると言う情報を寄越した武田の次代の後継者—————勝頼もまたこの戦で死んだ。と言うか、二人の寵臣と共に殺された。

 とんでもない薬を使いまるで悪鬼羅刹のようになっていたとか言うが、それの責任が一体誰にあると言うのか。


 挙句勝頼の訃報を聞いた武田信虎も体調を崩し、三日前にこの世を去ってしまったと言う。



「景家……」


 真夏のくせに新年のような空気の中、謙信がようやく寒々し気に口を開いた。


「お館様……」

「武王丸なる存在はどうであったか」


 謙信が武王丸の名前を出したと同時に、越後の新年を飾るはずの壁が崩れた。

 そこから寒風が吹くことはなく、むしろ本来のこの時期らしい風が吹いた。


「それは……」

「将器のほどを聞いている」

「まだ七つとは思えぬほどでした。戦でも一軍を率い徳川軍を圧していたようでした。それに口舌の方もなかなかの評判で頭の回りもそれ相応かと」

「ふむ…………絹布の如しと言う訳か…………」


 そして絹布の如しと言う謙信の言葉に、上杉の将たちはいっせいに目を見開いた。


「では…!」

「絹布は純白であらねばならぬ。これ以上無駄に染められる前に染めねばならぬ」




 謙信の目つきが、一挙に戦う時のそれになっていた。


「やはり出兵を!」

「うむ…………今から準備を整えたとしていかほどかかる?」

「およそ一万ならば今すぐ、柿崎勢の回復などを五日ほど待てば一万五千」

「武田は甲州や駿河、さらに美濃の事を思うとおそらくは同程度、か…………」


 武田征伐。


 やはりその方向に謙信が動いた事を、家臣たちはすぐさま感じ取った。



「やはり上様の…!」

「無論…」


 謙信は歯嚙みをしながら右手の拳を叩き下ろした。


 長尾景虎から上杉憲政の名を受け継いで上杉政虎になり、さらに足利義輝の諱を受け継いで上杉輝虎になった謙信にしてみれば、単純に義昭を殺した信玄が許せなかった。


「しかしいきなりはしない。景家、下手人は信玄本人だったのだろう」

「命じたのは紛れもなく信玄でございました」

「だから信玄を放逐させる。とりあえず仁科とか信友やらを庇護者として置き、絹布を良き色に染めるように教育させるように説得する」


 説得とか言っているが、それが単なる宣戦布告である事など謙信以下全員知っているし、それが非常に古めかしくかつ礼儀正しいそれである事もよく知っている。


 この時代、戦などどちらかが提案してさあ始めましょうかで始まる物ではない。それこそ相手が動いたと見るや寸刻を惜しんで連絡を飛ばし、臨戦態勢にあった軍勢が動いた結果と言うのがほとんどである。

「かような礼儀作法が必要なのでしょうか」

「要る。これによりお館様は常に正義と礼節を重んずる存在である事を世に示せる」

 だから多くの戦国大名はお為ごかしか挑発のためにしかそんな事などしないのだが、それを真っ正直にやれるのが上杉謙信だった。


「とりあえず十五日としておく。十五日以内にこの春日山城へと単身赴き、これまでの罪科をすべて認め、毘沙門天に帰依するのであれば武田家の保全と武王丸、いや武田信景の相続を認めると」



 だがこういう場合、中身についてはあまり重視されない。


 単純に戦をするために送るのだから、考えうる限り最も失礼な条件を書いてその気にさせるのが当たり前の展開である。送っただけで礼儀としては十分なのだ。


 毘沙門天への帰依はまだともかく、敵本城へと一人で乗り込み屈従するなどまともな武士のできる事ではない。ましてや嫡孫に謙信の俗名から一文字名前を与えるなど全く論外である。浅井久政が長政に初名として「賢政」と名付けた事があるが、これはまったく六角信賢に屈従した意を示すそれであり、その後朝倉べったりになっていくくせに「景政」ですらない名付けに、本人はおろか国人からも批判が集まった。

 ましてや諱を直接呼ばれるのは、武士にとってかなり危険だ。諱を知られると言う事は呪詛の対象となると言う意味であり、普通主が部下を、それもかなり目下の部下を呼ぶ時ぐらいにしか使わない。謙信が謙信と呼ぶことを許しているのは法名だからであり、俗名の輝虎と呼ぶことは上杉憲政にしか許していない。信長が明智光秀を十兵衛や日向守と呼んだように、普通は通称か官職で呼ぶのだ。


「とは言え」

「どうした大和守」

「武田に下手に打撃を与えると織田の支えにならなくなる危険性がございます」

「中枢だけを狙えば良い。信玄と言う責任者さえ引っこ抜けば武田が一気に入れ替わる。何せ陸奥守(武田信虎)も大膳大夫(武田勝頼)ももういないからな」


 景綱の危惧を謙信は笑い飛ばす。

 今の武田家を支えているのは信玄一人であり、その信玄さえ死ねば武田は一挙に屋台骨を失い、そうなればどうにでもしようがあると言う訳だ。

「何なら仁科や葛山でもいいのだぞ?我らと共に歩むのであれば?」

 そして謙信はらしくもない人の悪い笑みを浮かべる。武王丸を半ば取り込む気満々とか言っておきながら、勝頼の弟たちを担ぎ出しても別にいいと言っているのだ。


「責任は責任者に負わせれば良い……ただそれだけの事……」

「もしかしてその、織田信長さえ屈服すれば織田家をも」

「許す。無論本来は織田一党を殲滅したいが、悔い改めし者まで殺める必要はないし時間もない。清く正しき存在を頂点に据えれば家は変わる、そのために戦うのだ」



 北条家がただの小田原城の主なら、謙信はさほど文句を言う気もない。

 由緒正しき関東管領の地位を踏みにじり、追いやったからこそ目くじらを立てている。



「わかりました。謙信公のため我らも戦いましょう」

「うむ…!」


 鬼小島弥太郎の言葉に謙信は強くうなずき、家臣たちも深々と頭を下げた。



 ここに、上杉家の方針は一致団結したのだ。




「しかし十五日もあれば武田も態勢を整えてしまうのでは」

「そうだな、十日にしよう。弥次郎(景家)、十日で何とかなるか」

「なります」


 その後は軍議のようになり、細かい所を詰め出した。


 そこで書状と言うか戦書の内容とか、誰を連れて行き誰を残すかとか、出撃の日取りとか、謙信を筆頭に皆が雁首揃えて言葉を投げ付け合った。幸い上杉軍は大戦をしていなかったので兵糧はあるし、六月と言う事で蓄えこそ少ないがほどなくして収穫があるはずでありさほど問題は感じない。

 そんな中で軍議は和やかに進み、結局半刻ほどで決着はついた。



 出征は六月十八日。軍勢は一万五千。

 総大将はもちろん上杉謙信本人。

 部将として斎藤朝信、柿崎景家、鬼小島弥太郎。


「景虎、共に来い。景勝は春日山を守れ。この戦は北条にも正義を示す戦であらねばならぬ」



 さらに、上杉景虎。


「はっ!」


 景虎と景勝は力強く頭を下げた。


 そんな事をすれば信長の息子を担ぎ出した信玄と同じだとか言う文句を付ける輩がいるのはわかっていたが、謙信はこの行いになるべく多くの存在を巻き込みたかった。北条家生まれの景虎をも加える事により北条家も信玄を糾弾している事にさせ、信玄及び武田家への圧力を高めたい。それには景勝より景虎の方がいい。だが本城の守りには甥と言う名の親族である景勝の方がいい。

 実に正当な人事であった。







 軍議が終わったのを感じた謙信はまたいつものように、毘沙門堂に入った。




「オンベイシラマンダヤソワカ……!」


 毘沙門天の真言を幾度も叫びながら、象の前に手を合わせる。



 上杉謙信、時に四十四歳。

 今まで幾度となく正義のために戦って来た彼は、此度もまた正義のために戦おうとしていた。


(生きんと欲して戦えば死する物なり、死なんと欲して戦えば生きる物なり…………)


 今回もまた、自ら命を懸けるつもりである。


 これまでの幾度の戦と同じように。







 そして、これまで幾度と戦ったあの地にて。







 そう。決戦の舞台は、川中島————————————————————

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