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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第八章 六度目の川中島
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織田信長の断腸

「どうお詫びを申し上げれば良いのか……」

「良い。信玄が征夷大将軍はおろか我が子すら殺すような男だと読み切れなんだ余の罪科である。ただ日向守のことは純粋に惜しいがな…………」



 織田と武田の和議の決まった翌朝、和議により十日以内の撤退が決まっている兼山城内にて、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・滝川一益ら織田の将が信長に向けてただひたすらに平伏していた。後ろにはさらに多くの将が平伏している。


 信長の寛容な言葉からにじみ出る口惜しさと無念さが、四人たちの頭を強く押さえつける。


 皆それぞれに責めがあった、誰かまともならばこんな事にはならなかった。

 これまで連戦連勝、一回負けても次には勝って来た織田軍にしてはあまりにも大きな敗北に、歴戦の雄でありながら敗北離れしていた四人は深く沈みこんでいた。

 取り分けひどいのが長秀と勝家の後ろにいた前田利家であり、その気になれば今すぐ首を差し出さんばかりの覚悟を決めた顔になっていた。


「御坊丸様はもはや…」

「信玄は武王丸を相当に可愛がっている、御坊丸もまたしかりだろう。武王丸を育てきるまでは御坊丸は決して殺されぬ。

 まったく、信玄坊主めずいぶんと冷たさと篤さを使い分けてくれる……」


 武田勝頼の首を渡した時には表向きだけうつむきながらあっさりと踵を返したのに対し、武王丸は堂々とあんな場まで連れて来た。可愛い子には旅をさせよでもないが、二人への温度差に信長は信玄の狙いを感じ取っていた。

「それにだ犬千代、御坊丸ははっきりと言ったのであろう、今は我らの敵と」

「ええ……」

「あの言葉は嘘も偽りもない自分の言葉……ゆえに犬千代も怯んだのであろう。まだ七つの御坊丸からの言葉を読み切れなんだ浅慮、強いて責める事があるとすればそれだけだ。

 御坊丸がここまで成長したのは、おそらくは信玄の力。

 —————武王丸に最大限の期待をかけている事がよくわかる話だ。その一粒種に花を咲かすまで御坊丸は殺されぬ。あるいは、余と徳川殿のようにな…………」


 信長と家康が主と人質と言う関係を通り越した存在であった事は皆知っている。

 その二十年以上前の話を知った信玄が御坊丸に家康の役目をやらせようとしているのだろう。

 

「御坊丸がどうなるかはわからぬ。だがいずれにせよ御坊丸の命は安らかなる物と思え、何の憂いも抱くな」

「ははっ……!」


 信長からの言葉に、長秀と利家はようやく気が抜けたように倒れ込んだ。

 それこそかつての長政のように、座して死を待つ覚悟すらあったのだろう。

 たらればを口にするには、格好の存在である事を自覚していたのだから。

 


「されど、美濃半国と飛騨を抑えられてはそれこそ岐阜城も危のうございます!」

「案ずるな、当分はできぬ」


 それでも長秀は必死に危惧を吐き出すが、信長はまた楽観論を吐く。


「武田は確実に領国を持て余す。美濃半国と飛騨切り取り次第と簡単に言うが、領国を得たからには守らねばならぬ」



 確かにその通りなのだ。領国を治めると言うのは城に兵だけ置いてはいおしまいではない、国境の防御や民衆の庇護、新たなる城主の決定等々やる事は山のようにある。ましてや美濃は信長の本拠地だから、民百姓がすんなりなつくかどうかかなり怪しい。

「我らにはまだ筑前や奇妙がいるが武田に余分な兵はない。それこそ最悪雌雄を決するまでのつもりでつぎ込んだ以上、しばらくは本領の防備で手いっぱいと余は見ている」

「されど」

「不安でもあるのか」

「その、北条はともかく上杉は」

「それならそれでよかろう」

「でも…」


 足利義昭を殺したとかで、上杉謙信が激高する可能性はある。だがそれならそれで、武田が弱るだけに過ぎない。

 しかしそれでもなお抵抗しようとする長秀に対し、信長は足を組み直した。



「五郎佐、松田の言葉を聞いたか」

「松田と申しますと北条の家臣で此度の北条軍の大将の」

「そうだ。その松田はかなり武田のやり方に辟易していた。それから北条自体がこの出兵に積極的ではなく、こっそり落ち武者狩りでもする程度の予定だったらしい。まあ援軍などそんな物かもしれんがな、武田を恨んでいるのも強引に前に引き出されたかららしい」


 男らしくないというか逆恨みじみた話だが、北条家の姿勢がそれである以上此度の戦は北条にとっても面白くないはずだ。北条が怖いのは関東にこの織田を含む他の勢力が入って来る事であり、それに干渉してこなければどこでもいいはずだろう。

「さらに言えばおそらくこの戦いを北条に伝えられるのは松田だけ。松田は武田を言いくさすのは目に見えている。そう言えば浜松城を完全に焼いた戦いでは松田の息子が出て来たらしい、まだ幼子に近いはずの松田の息子がだ。そのせいで松田の息子は精神を病んでいるとも言われている」


 松田憲秀が何歳なのか信長は知らない。だが仮に氏政と同い年だとすれば三十六歳であり、大道寺政繁と同い年だとすれば四十一歳である。その子供、しかも次男である直秀など下手すれば十以下であり、強引に対象として据えられたとしてもせいぜい十三から十五歳ぐらいだろう。

 武王丸や御坊丸が異常とは言え、親子揃ってあんな恐ろしい物を見せられたとあれば武田にはなつきづらいだろう。



「では武田は」

「当分は動けぬ。動けたとしてもその反動を収めるのに二年かかる。その間に我々はまた動くのだ。今こそが優位であると考えよ」


 美濃半国を失ったとしても、織田は尾張・伊勢・志摩・伊賀・近江・越前・若狭・山城がある。依然として戦国乱世最大勢力である事に変わりはない。



「なればこの丹羽長秀に新たなる出兵の!」

「落ち着け。それぞれにはそれぞれの役目がある。


 まずは権六、そなたは又左と共に越前へ戻り加賀へ攻撃せよ」

「はっ」


 そしてこの流れのまま、作戦会議が始まった。


 あまりにも唐突な命令に動ずることもなく、勝家は静かに頭を上げる。


 朝倉家治世の時代から加賀一向一揆は越前を攻撃していた。正直この情勢ではむしろ織田こそが攻撃される対象であるはずなのに、攻撃せよと命じるのはなかなかに過酷である。それでも命令できるのは、勝家だからだった。


「されど長政はおいてゆけ。此度の働きからしてもはや禊は済んだ。もちろん所属としてはそなたの配下ではあるが、その身は余自ら預かると伝えよ。足りぬ兵は斎藤利三に任せる。あの猖獗を極めた中から生き延びた者たちだ、あれより恐ろしき物もそうはあるまい」

 

 そして信長の人事は唐突だが、実に適切だった。

 この戦いで明智軍は光秀以下多くの兵を失ったが、当然生き延びた者もいた。その生存者の代表格である斎藤利三と言う存在が旧明智軍を率いる事には、おそらく何の問題もない。

「利三。勝頼と言う名の狂信者を相手にしてよく生き延びた。その無念を別の狂信者にぶつけよ。無論十五郎や左馬助(明智秀満)の功績にも加味する」

「ははっ…」

 光秀の嫡子の十五郎はまだ五歳であり、利三は無論京に残っている重臣の存在が欠かせない事を信長は把握していた。

 自分が聞くべき言葉が終わったのを感じた勝家は足を崩し、勝家らしく胡坐を組んだ。



「さて次は五郎左だが、そなたには兼山城からの撤兵と岐阜城の守りを命じる。そなたなら決して粗略にすることはなかろう」


 人選の把握も正確に行う、それが信長だった。

 長秀と言う温和な好人物ならどんなに厳しい役目でも人心を確実にまとめてくれるのを期待しているからこそ、長秀にそんな役目を与える。勝家には勝家らしく、一騎に敵を殲滅させる役目。

 その高速の理性的な判断こそが、信長だった。



 そして一益と恒興に次なる遠征のための自分への同行を命じると、信長は座の解散を命じた。


 この後将たちは信長からの指示を兵に伝え、一般兵たちはその指示に従い動く。

 柴田軍は我先にと越前へと帰り支度をし、池田軍と滝川軍は信長本隊と共に遠征の支度を整える。一日しか休養していないとは思えないほどの速度で準備を整えて行く姿こそ織田軍のそれであり、軍勢の姿だと確信していた。


(どうせ行軍速度は落ちる。その代わり毎晩潤沢な物資で丁重に休ませ、ゆっくりと疲れを取ればいい)



 自分ができて、相手にできない事は何か。




「この織田信長、また魔王とならねばならぬようだ……」




 信長は次なる戦いの行く先を感じ、そしてそれにより自分が何と呼ばれるようになるか、すべてを予期するかのように西を向いた。


「その先の未来を担う、二人…………」




 信長は二通の書状をしたためると、重臣たちが次々にいなくなって行く兼山城の一室に入った。


 ひとつはその一室の主となっていた娘婿の徳川信康への、ずっと織田の物になっていた三河刈谷領の譲渡と武田滅亡の暁の旧武田領四ヶ国進呈の約束。


 もうひとつは、信康に見せた上で届けるべき相手に届けるための書状。




 すべては二年後の勝利のため、織田信長も和睦の翌日から動いていたのである。







 そして六月六日、武田信玄が嫡孫武王丸と共に躑躅ヶ崎館に帰っていた一方で、また別の火が燃え上がろうとしていた。

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