織田信長の和議
「余は許せぬのだ、三河守殿を殺した信州殿がな」
「な…」
初めて、一撃を入れられた。
武王丸様共々信長と部下二人をもてあそんで来たはずの信玄が、言葉を失った。
武王丸様もまたいきなり出て来た家康の名前に困惑して下を向いてしまい、自分もまたこの不意打ちに対処する術は持っていなかった。
「三河守とは」
「改めて問う。なぜ三河守をあそこまでやけになって殺した?」
「それはその、三河守殿が生きていたら必ずや武田の災厄になると見ていたゆえ」
喜兵衛は信玄に代わってそう言うしかなかった。
家臣の役目と言うのは実に難しい。
主人が言えば傷になる事を代わりに申し述べ、自ら泥をかぶる。あるいは愚にも付かぬことを言い、主にうまい具合に正解を引き出させる。
森長可とか言う青年が前者を見事にやってのけた以上、喜兵衛だって黙っている訳には行かなかった。
「大器を育つ前に潰す、か……確かに正しいかもしれぬ。されど徳川家は決して滅んではおらぬ。我が手により幾倍にもして大きくするつもりだ。武田を滅した暁には、三河は無論甲信駿遠四ヶ国を遠州殿(信康)に与えるつもりでいる」
「それがしには織田様は孤独に怯えているように見えますが」
「今何て言った…」
「文字通りですが」
それに喜兵衛自身、少し気が立っていた。確かに論戦そのものは押し気味であったが、それでも眉一つ動かさない信長の鉄面皮に腹が立っていたし、単純に仏教徒として比叡山や伊勢長島の焼き討ちにも虫唾が走っていた。
だから対抗するように突っかかって来た森長可にも噛み付いたが、信長は相変わらずまともに動かない。
「怯えか……だが怯えのない人間などおらぬ。魔王とて英雄降臨を恐れる、ゆえに眷属を増やす事を求める……」
「その眷属として浅井様を求めたのですか」
「浅井長政をか。まったく、改めて信州殿の嫡孫は頭がよく回る……」
「お爺様とこの武藤喜兵衛が教えてくれただけですが」
武王丸はそんな存在にも果敢に戦いを挑み、信長の顔面を崩させている。
しかしそれが良き敵が現われたと武士らしくしているのか、それともまだ小童だなとなめているのか、さもなくばあくまで冷静におだてるためにやっているのか。喜兵衛は信長の顔に全力で集中するが、その笑顔の正体を読み取る事は出来なかった。一方で森は言うまでもなく蒲生とやらもわかりやすいが、それでも剛の長可柔の氏郷と考えるとなかなか厄介である。ましてや信長の補佐役としては全く不足ではない。
「武藤喜兵衛。なぜ浅井長政に余の怯えを感じた?」
「浅井長政は裏切り者。それをなお求めたのは家康の代償であると見ております」
「千里の馬も良き伯楽に会わねば千里を駆けられず、そして鳶が鷹を生めど鳶は鳶の生き方しか教えられぬ…………。
浅井久政は自分のように阿諛追従を業とする人間に長政を育てたかったのだろう、だがそれが通るにはあまりにも長政は大きすぎた。朝倉義景もまた、平穏な世であれば久政同様に何事もなく生涯を全うした人間だった…………だがそれが良くなかった。ゆえにどうしても荒れようのない場所、決して他人を傷つける事のない姿へと変えた……来世はきっと人に生まれよう」
改めて、相当な物言いだ。
平たく言えば長政が裏切った責任は全部久政と義景にあるから、その二人がいなくなった以上長政まで処罰する意味はないと言っていると言う事である。
だがこれこそ魔王とは思えないような大甘なお話であり、妹婿だから助命したとか言われてもまったく言い返せないお話である。
「で、その二人で酒を飲んだと」
「義景の方はな。久政の方は出さんでおいている、あれでも長政を生む種を寄越しただけの功績はあったからな」
その二人の頭蓋骨を酒杯に加工したと聞いた時には自分なりに血の気も引いたし、まさしく魔王の所業だと憤りも膨らませた。
(この男には迷いがない……)
自分の行いに絶対の確信がある。
それは自分の主だって同じだと言えるが、信長のそれは冷たい。
万事を数字で捉え、感情の行き場はない。
時々怒り狂ったような顔もして見せるが、それが一番有効である事をこの男は知っている。信玄のようにずっととぼけ続けているのもまた正体がつかめないだろうが、信長はもっと別の意味でつかみにくい。
「お館様……」
そんな緊迫した空気に割り込むように、おだやかな風が吹いた。
「忠三郎、話を早く進めて欲しいのか?」
「ええ……」
「案ずるな。信州殿、この戦はどうする気だ」
その風は衝突の気風を弱め、火を消しにかかる。火元たちに消える気がないならどうにもならないほどのそよ風だったが、それでも信長を真顔に戻す程度の効果はあった。
「どうするとは何かね、ここで死ぬまでやると言う事か」
「それが望みならば一向に構わぬ。されど信州殿は足利義昭を討ってしまった、羽柴筑前の家臣のな。筑前は情に篤い男、そなたへの怒りは余以上であろう」
そして再び出て来た足利義昭と、羽柴秀吉の名前。
その名前が何を意味しているのか、喜兵衛はすぐにわかった。
「わしに生きていて欲しいのか?」
「戯れるな。余は十兵衛のためにも今すぐ信州殿を斬りたい。できるか否かは別問題としてな。だがここで信州殿を殺せば、そこの武王丸やその家臣たちがその命と引き換えにこの織田信長を斬りに来る。その結果織田も武田も消えるだけ……」
その上で刃の上を渡るかのように二人は言葉を交わし合う。
武王丸は無邪気に感心し、氏郷は息を呑み、長可は憎々しげに信玄を睨む。
そして喜兵衛は、何も言えなかった。
「なればわしに従うか」
「二年ほど時間を寄越せ、その間に考える」
「二年か……で、何をする気かね」
「三つほどある。まず兼山城より東の美濃はくれてやろう。
二つ目に飛騨は武田家の切り取り次第とする。
三つ目に、御坊丸はその方に完全に預ける。」
その上で出て来た和睦の提案。
それは予想していたが、予想できなかったのが二つ。
—————あまりにも気前の良い条件。
そしてそれ以上に驚くべきは、あまりにも華麗な右手の人差し指の動き。
武王丸でさえも射貫かれた瞬間目を見開いてしまったほどの信長の挙動に、喜兵衛ごときがどうこうできるはずもなかった。
「それは本当かね」
信玄は信長ではなく氏郷と長可を見ながら返事をする。
長可は相変わらず眉を上げながらこちらを睨み、氏郷は机の方ばかり見ている。
おそらくは予想通りか、予想の中で一番下かぐらいの結果。
「美濃の半分をくれてやってまでも二年間が惜しいのかね」
「素直に言おう、惜しい。されどこの約定は満天下に広めねばならぬ。上杉と北条の人間を呼んでもらいたい」
敗北宣言ですら、全くためらいがない。
(足元を見ているのは間違いないが、それでもこれが今回の戦における、こっちにとって最高の勝利だろうこともわかっている……)
織田家にはまだ羽柴秀吉と織田信忠、さらに佐々成政などの軍勢がある。それらをまとめればまだ三万近くの兵がいる。一方でこの場にいない武田の兵はせいぜい仁科盛信と高坂昌信・小山田信茂ぐらいで、目一杯見積もっても一万もいない。
この戦いすら、織田にとっては全力ではない。
そんな全力にはほど遠い軍勢と必死に戦って、勝頼まで殺してやっと得たこの結果。
—————————————————————————逃すなどと言う選択肢は、最初からなかった。
「少々待たれよ、松田殿と柿崎殿を呼んでくる」
「心得た。されど二人とも丸腰で来るように伝えよ。我が重臣、明智十兵衛を討ち取った功績を盾にな」
そしてその後半刻後の署名捺印、翌日の撤退を仮約束して六人の男は天幕を後にした。
「申し訳ございません、少し尿意を覚えまして……」
「フフ、当然の事よ……」
去り際に武王丸が尿意を訴えた事で場はわずかに和んだが、それでも戦場の真ん真ん中らしい緊張感だけは消えなかった。
「お爺様……粗相をしてしまい申し訳ございませぬ」
「良い良い、よくも堪えた物だ」
「それで、あれが織田信長なのですか」
「うむ……今のわしらではこれが精一杯だ。二年と言うが、その二年の間に敵は膨らむ。この勝利はもちろん完勝ではない、ただ負けなかっただけだ」
信玄の好きな六分の勝ちと言えば体裁はいいが、そのために払った犠牲はまったく少なくない。気を引き締めて次に備えようにも、立ち直るのにどれだけかかるかわからない。
二年間と言う時間でどこまで立ち直れるのか、それこそ勝ったはずなのに追い詰められている気分になって来る。
「されどまあ、わしにはわしの手がある。おぬしもよく見ておくがいい。甲斐の虎と呼ばれる所以をな。それから喜兵衛……」
そんな不安感に包まれた喜兵衛に向かって、信玄は急に楽しそうになって耳打ちをする。
喜兵衛は一言漏らさず聞き届けようと耳を傾け、時が経てば経つだけ顔色を悪くしていった。
「そんな…」
「これはお主を信頼しておるからこそじゃ。山県や馬場とは違う、お主への信頼の証だ」
「でもそれでは…」
「武王丸。万一の時はこの喜兵衛の言う事をよく聞け」
「はい!」
そんな戸惑いをぶち壊すような信玄と武王丸の快活な声に、喜兵衛はただうなずくよりなかった。
そして半刻後、信玄は武王丸を本陣に帰し武藤喜兵衛、やたら笑顔の柿崎景家と困惑しきった松田憲秀と共に陣に入り、信長共々遺体の回収や城の引き渡しを含む和議の書面に署名した。
これにより兼山城東の戦いは、わずか一日で終わったのである。




