武田武王丸の舌鋒
「本当に来るのでしょうか」
「来ぬと思うか?」
織田信長は、美佐野の地へと向かっていた。
伴は、娘婿の蒲生氏郷・ただ一人。
「信玄が約定を守るとは思えませぬ。そう池田様や柴田様も」
「なれば尻尾を巻くまで。武田が会談など要らぬと言うのであれば勝蔵(長可)の首だけを寄越して来るに決まっている。丸腰のな」
そんな事ができる程度には信長も人が悪いし、大胆でもあった。もちろんそんな命令を聞き入れられる森長可でもある。
「勝蔵は言っておったぞ?死にかけの獣、いやけだものが空腹を満たすために我が子をも食べようとしていたと」
「それがしは明智様がかような男に殺されたのかと思うと腹立たしいのです」
「良き敵により生涯を終えるなど贅沢と言う物……十兵衛の無念は勝蔵が晴らしてくれたと思えば良い。
その目で信玄を見ておけ、新たなる織田を担う存在としてな」
森長可に比べれば冷静沈着な蒲生氏郷も十八歳であり、戦歴も知れているし苛烈な戦いとも縁がない。ましてや娘婿とか言うのを差し引いてもここまで言われるような幹部候補生からしてみれば、武田勝頼の戦いぶりは正直予想外にもほどがあった。
「おそらく信玄と勝頼は何の関係もない。聞かれても長坂とかいう男のせいにしてしまうだろうし、それを追及する意味もない。忠三郎(氏郷)、わかったな」
勝頼などと言う過去より、信玄と言う現在を見ろ。本来なら逆の立場のはずの二人の名前を出しながら、二本の旗が据えられた陣へと信長は入った。
西側に織田木瓜、東側に風林火山。
その風林火山の方からやって来たのは、武田信玄と武藤喜兵衛、そして森長可。
さらに、ひとりの幼児。
「信州(信玄)殿……彼が噂のか?」
「いかにも、わが嫡孫ぞ」
「武田武王丸にございます」
よく通る声で返事をした武王丸なる幼児に、信長は息子たちの姿を見ることはなかった。
長男の奇妙丸は氏郷と同じような優等生で、真面目で才能はあるが弾けた所はなかった。次男の三介はどこか気弱で、三男の三七は声量は高いが自己主張が必要以上に激しすぎる。
その誰とも、この武王丸は似ていない。
「確かに余も二十歳にもならぬ二人を連れ込んで来たが、まさか十にもならぬ幼児をこんな血なまぐさい場に連れて来るとはな……」
「ここはそんなに血なまぐさいのでしょうか」
「ここを選んだのは余であるぞ?魔王であるこの織田信長が、聖人君主たちに配慮して少しでも血の臭いのない場所を選んだまでの事……」
信長は口を一文字に結びながら万人が恐れひるむだろう面相を武王丸に突き付けてやったが、武王丸はまったく動じない。
「その配慮、深く感謝いたしております」
むしろ逆にそう言い返されただけである。
その武王丸に対し長可は憎々し気に睨み返すが、やはり動じることはない。
目が笑っていないとは良く言うが、この場合の信長は「目だけが」笑っていなかった。
鋭い目つきをしながらも口元は勝手に緩み、目の前の器を骨董収集家のように楽しんでいる。
「余はその方の父を殺したのだぞ?」
「しかしこちらはそちら様の重臣だという明智様を殺しました。それは見合いと言う物だと祖父からうかがっております」
「祖父から……か。父上は何か言わなかったのか?」
「父上はずっとお爺様と戦う事に夢中で、母上とさえもあまりお話しになりませんでした。母上はずっと寂しがっておいでで、私の近習ともよくお話になっておりました」
「信玄よ……ずいぶんと孫を思い通りに育てたものよ……」
その上で軽く指ではじいて音色を確かめに行った所思わぬ答えが返って来たのでわざとらしくそっぽを向いてやった。
「急に何だね」
まだ七歳だと言えここに来て急に信玄の英才教育を受けていることが見えてしまったのに失望したのか、それとも単にそっちの出方をうかがったのか。
「信州殿」
信玄が信長の出方をうかがうようにいつも通りの調子で割り込むと、蒲生氏郷が眉を上げて話に割り込んで来た。
「忠三郎、どうした」
「私は信州殿にうかがいたき儀がございます」
「何だと言うのだね」
「武田大夫(勝頼)殿が禁薬を服用していたと言う噂が流れているのです。その真偽についてうかがいたく思いまして」
自分が止めておきながら、その話題を氏郷が出したことについて信長は評価していた。
実際問題、勝頼を含め勝頼軍の兵たちの死体はものすごく臭かった。死体をかぎ慣れているはずの柴田勝家でさえも、明らかにこれまでとは違う臭いだったとこぼしていた。たとえはぐらかされるのがわかっていても、誰かが言わなければいけない事を氏郷は理解しているのだ。
「第六天魔王と書いて果実と読む……かつて斉天大聖はその果実を求め追放され封印された。一口食するだけで千年寿命を延ばせるとあらば、いかなる手を用いてももぎに行かざるを得まい」
「天台座主と言うのも果実です」
そして話題を逸らした信玄に対し、「私はその手を誰が用意したのかと聞いているんです」と迫らなかった事にはさらに高い評価を与えた。
信玄がどうせまともに答えない事はわかっている以上、自分たちだってまともに投げ付ける必要もない。信玄は無駄だとは思うが武王丸やもう一人の男から何らかの失言でも引き出せればそれでよしと言う判断を取った事に、氏郷の器を感じた。
それと同時に長可に左目で目配せを行い余計なことを言わないようにしつけつつ、右目で二人の男をにらんだ。
「その果実をもぐため、人は木を慈しみ育ってくれるように祈ります。ゆえに木は果実を幾度も幾度も実らせます。されど強引に奪えば、よほどの事がない限りその一時で終わります。もちろんその木に二度と期待しないのであれば話は別ですが」
「木に期待しないとは」
「正確に言えば木になる果実をもげる自分にです。幾度も幾度も果実をもぎ、その味を家族や領民に味わわせる。もちろん自分にもです。こんな素晴らしい話はないと思います」
「貴公の父は期待していなかったと?」
「ええ。一刻も早く奪いたくて仕方がなかったのだと思います。誰だって欲しくてしょうがないのですから。私だって欲しいのですから」
「ふむ…」
「何を!」
その相手だった武王丸の見事な物言いに信長が感心していると、長可が武王丸に向かって身を乗り出した。元より長身の長可は座っている武王丸と比べると倍の背丈があり、文字通り巨人が見下ろしているような状態である。
「勝蔵」
「お館様の首は取らせねえ!……わかったな!」
「そう簡単ではない事は心得ております。しかしそれはこちらも同じ事。お爺様、いえ武田のお館様の首は決して差し上げるわけにはまいりませぬ」
「信州殿、お互い強き武士を抱えている事、改めて分かったであろう」
長可も自分がやっている事に気づかない人間ではないから信長が注意されて手を引っ込めたものの、それが武王丸の存在をより一層高めてしまった事に内心歯嚙みしていたのを感じた信長はすぐさま長可をなぐさめた。
「ふふ、此度はわしの勝ちにしておきたいが、そうもいくまいな……」
もちろん信玄もすぐさま言い返す。
まさしく丁々発止の口舌戦であり、ある意味昨日以上に熾烈な戦いが繰り広げられている。
信長もこれまでの全てを生かして戦っているつもりだが、信玄の連れて来た二人がかなり手ごわかった。
(勝九郎(池田恒興)でも連れて来るべきだったか……?だが相手が小姓頭だとか言う男とこんな小僧を持って来た以上そんな事をすればなめられるのはこちら、いやなめられるのはいいとしても勝てないのはまずい……)
こんな相手達と舌戦に持ち込んで勝てる相手が、いったい何人いるのだろうか。
柴田勝家は論外だし滝川一益も口がうまい訳ではない。つい先ほど名前を出した池田恒興も真面目ではあるが奇想の思い付く性質ではないし、前田利家では勝家と大差がない。
出来るとすれば羽柴秀吉だが、この場にいない。
—————そう、羽柴秀吉と言えば。
「しかし余も正直驚いている。まさか足利殿が行方知れずになったと思ったら兵を率いてかような事をしておったとは……」
「なぜに」
「すでに存じているかと思うが、足利殿はすっかり羽柴筑前に心酔しておってな……」
「わしもただただ驚いておる。なぜそうなったのか」
「なればこそ、余は許せぬのだ。
三河守殿を殺した信州殿がな」
「な…」
あまりにも意外な所からの一撃に、信玄さえも動けなくなった。




