武田信玄、織田からの使者に動揺する
死者は武田軍五千、織田軍六千。
負傷者は武田軍二千五百、織田軍六千。
これが、兼山城東の地にて一日に生まれた犠牲者の数だった。
さらに武田軍は後継者の武田勝頼を失い、織田軍は重臣の明智光秀を失った。
そして何より、最も大きな命が失われた。
「それがしは羽柴筑前の家臣と言う宣言……あれほどまでに力強い言葉を聞いた事はございませぬ……」
内藤昌豊は深くため息を吐いた。
—————征夷大将軍・足利義昭。
この国の最高権力者であったはずの存在。
応仁の乱以降百年余りすっかり権威は落ちていたとは言え、それでも公の場ではへりくだった物言いをせねばならぬはずの人間。
それが織田の一家臣である羽柴秀吉の配下として、こんな場所にやって来て、死んだ。
まったく想像もできなかったお話だ。
「あの言葉に噓偽りがあったと思うか?」
「かけらもございませぬ……」
「だな。忠義心とは諸刃の剣だ。いや忠義心に限らず一途な思いとは皆諸刃の剣だと言える。
四郎もわしの墨付き欲しさにあんな真似をしたのだろう。もう二十八だろうし、善悪の区別も付くだろうに……」
勝頼が服用した禁薬の存在を、信玄は正確には把握していなかった。ただ服用してはいけないというだけであり、それ以上の事は知らないし知ろうとも思わなかった。
だがもしどんなものか知っていたとしても、信玄は勝頼を諫める気はなかった。
いい加減元服して十年以上経っているのに、明らかな禁薬に手を出すなどまともな人間のする事ではない。確かに禁薬と知らなかった可能性はあるが、それならそれでなぜ試さなかったのかと言う話でもある。
「四郎の首ぐらいは渡して来るだろう。来ないなら来ないであきらめる。戦場で死んだことには変わらんのだから」
「…………」
「義昭公のように誰かのために死ねるのならばわしとて少しはこだわる。だが四郎は四千人を巻き込み、殺し、そして織田すらも犯そうとした。しかもこの満天下の中で。わしがそんな人間を許せると思うか?」
「ですね……」
武田勝頼と足利義昭。
同じ武士の長及びそれに類する存在でありながらここまで差が付いてしまった事を恨むでもなくただ嘆き、じっとうつむく。
「羽柴秀吉はこれからわしらを狙う理由がいくらでもある。もちろん信長にも。
お互いどちらかが死ぬまで二度と終わらない立場になってしまった同士な」
「これまでは何とか」
「なっただろうな。明智光秀を信長は寵愛していた。その寵愛していた家臣をあんなやり方で殺したのだからな。
もちろん、上様の事もある…………」
足利義昭の存在は、どこまでも遠かった。
勝頼は義昭にこだわっていた節があったが、それが自分の無関心に対する反動である事を信玄はわかっていた。信虎に対してもまたしかりであり、信玄が気にしない反動のように勝頼は幾度も信虎の下へ日参していた。盛信も信豊も信貞も信清もまったく顔を合わせて来ないのにだ。
信玄に言わせれば幕府の存在意義は晴信と言う俗名をもらった時点で終わっており、後はもう時の権力者様の傀儡に過ぎない存在だった。ましてや能動的に権力を取り戻そうとしていた義輝が非業の死を遂げた時点で、もうどうにもならないと思っていた。
政権の晩期と言うのは衰退を感じた権力者が必死になって権力を拡充しようとして、権力を高めている家臣を蹴落とそうとする。だがそれがかなわず逆に放逐されたり、成功したらしたで有能な人材を消したりしてますます国が立ち行かなくなる。仮にその家臣が悪政を行っていたとしても総大将がそれをわざわざどうにかしなければならない、すなわち最終手段を取らねばならなくなっていた時点で民は政権の不安定さを感じ取る。
三国時代、曹丕が漢を奪って建国した曹魏だってそうだ。
魏の四代皇帝曹髦は権威がすっかり移行している現状を憂い、司馬昭を粛正しようとした。だが結果は失敗に終わり、逆に殺されて曹魏の終わりを示すだけとなった。
もちろん今後織田が、足利義昭を殺したとか言って騒いでくる可能性はある。それならそれで、もう素直に受け止めるまでだ。
「わしはこれまでいかほどの人間の血で手を汚して来たかわからぬ。そしてこれからもなおそれは変わらんのだろう」
ありきたりを極める文句をこぼしながら、信玄は顔を上げて歩き出した。
他に、何をする事もないからだ。
(この戦いは、勝ちでも負けでもない……ただ単に人殺しが行われただけだ。
信長、おぬしはこの戦をどう思う?)
一万を超える命が失われ、どっちも得た物は何もない。
武田信玄と言う人間が珍しく殊勝なことを考える程度には、この戦の打撃は小さくなかった。
「お館様……」
「葬礼はどうする」
「この場で行うしかないでしょう」
「明日にでも遺体の回収を行うか」
馬場信房もまた、無言で頭を下げる。
日は沈みかけ、遺体を集めるのにはすでに時間が経ちすぎている。
「とりあえず……」
信玄たちは、足利義昭の遺体に近寄る。
まったく、綺麗な死に顔だ。
おそらく勝頼のそれとは比較にならないほどに、武士らしい死に顔。
「御仏の 道を歩めぬ 定めにて 生まれの道に 死する喜び……」
追悼のつもりもない、ただの短歌。
元々征夷大将軍と言う名の武士としての頂点のお家に生まれた、はずなのに元から傀儡政権の主がせいぜいの身分でしかなくその上に兄を殺され従兄弟との勢力争いの道具にされ、僧侶でしかないのに征夷大将軍に「させられた」。
それが、足利義昭の人生だった。
「使者はやったのか」
「いえまだです」
「すぐに送ってくれないか」
自分が命じていなかった事を忘れていないことを示すように丁寧な言葉づかいをする信玄は、いかに自分がとんでもない男か理解していた。
またこんな自分でも勝頼に言わせればどこまでもええかっこしいの偽善者であり、もっと人間らしくしろとなるのだろう事も理解していた。
勝頼が求めた自分は、おそらく誰よりも勇猛で、誰よりも強く、誰よりも家臣への愛を示す人間なのだろう、決して後ろでふんぞり返って家臣に死ね死ねと言うような人間ではなく。
だがそんなのは、十二年前の川中島で終わっていた。
大将が出なければ勝てない戦など、それこそお家の存亡の危機でしかない。後方でふんぞり返っているのもまた勇気であり、何でもかんでも前線に出なければならないと言うのはそれこそ蛮勇ではないか。
「武田様」
我が子に対してそんな冷静な批評を下しながら義昭の遺体を布に包ませていると、一人の男が近寄って来た。
無表情で、無機質で、ただの兵士然とした男が。
「柿崎殿」
「それがしは越後へ帰りたいのですが」
「なれば修理を付けましょう」
その男こと柿崎景家に対し、信玄は深く頭を下げた。
「ありがたく思います」
命を受けた昌豊が口を大きく開ける中、景家は特に何の反応をする訳でもなかった。
ありきたりなお礼の言葉を口にし、そのまま踵を返しただけだった。
信玄もまた、それ以上何か言う事もなかった。
「お館様……」
「さすがに出立は明日か明後日だろう。それまではゆっくり休んでおけ」
柿崎景家がつい先ほどまで義昭の遺体に縋りつかんばかりに泣いていた事を知らない人間などここにはいない。松田憲秀でさえも景家の泣きっぷりに啞然として言葉を失い、つられるように数滴ほど涙を流した。
景家が何を考えているのか、何を望んでいるのか。
「人間は感情が行きつくとああなるのだろう。ああなれるのだろう」
隠せないのか、隠す気がないのか。そんな事はどうでも良かった。
その先の事を考えられてしまう程度には、信玄は勝頼の死にも義昭の死にも衝撃を受けなかった。
宵闇が支配者となる頃に武田本陣に帰って来た使者の存在に気づく事もなく、高いびきをかいて眠れる。
そんな人間だった。
その信玄をある意味一番強烈に叩き起こしたのは、朝日でも織田軍の奇襲でもない。
翌朝に飛び込んで来た、織田家からの一通の書状だった。
「信長からの書状……?」
朝餉を口に運びながら書状を開いた信玄の目が、一気に覚めた。
「どうなさったのです!」
「……いや、何、信長め、わしと話がしたいそうだ」
「はぁ……?」
いきなりの対談の申し込み。
それもつい昨日まで殺し合った相手との。
「お館様……」
朝餉を共にしていた武藤喜兵衛が口を大きく開けて驚く中、馬場信房が喜兵衛と同じような顔をして天幕に飛び込んで来た。
「どうしたのだ」
「使者が、その……」
「使者がどうしたのだ」
「その顔、それがし見知っておりました!」
「ほう……どんな男だ」
「間違いございません、森です!」
森。
その一文字で全てを察さない人間など、この場にはいなかった。
森と言えば、あの男しかいない。
武田勝頼にとどめを刺したも同然の男、森長可———————————。




