足利義昭、羽柴秀吉の家臣であると叫びながら散る
「しかし羽柴軍がいるとは聞いておらんかったがな」
「それよりまずは!」
「わかっておる。皆の者、これが最後の一働きだ、羽柴軍を一人残らず討て」
信玄は、極めて正確に指示を出す。
「はっ!」
そしてそれに従う兵士たちの声は、極めて明るい。
松田軍よりもずっと疲弊しているはずなのに、あくまでもさわやかだった。
(昌景らにはまた面倒をかけさせてしまったからな……わしの尻はわしが拭かねばなるまい)
羽柴秀吉の軍勢を確認できなかったのは自分の落ち度でしかない。その自分の落ち度により内藤や松田、柿崎が乱れたのならばその責任を負うのは自分だと言う訳だ。
まったくご立派な理想を掲げながら、それでもすることは決まっている。
人殺し。
それが戦争だからだ。
ましてや今目の前にいる敵は絶対に逃げない事がわかっている。そんな存在の望みを叶えてやらなくてどうするのだ。
信玄の言葉と共に、兵たちは動き出す。一部は内藤軍をたしなめ、一部は松田軍や山県軍の撤退を補助し、残る大半で敵に当たる。
見事なほどの用兵ぶりであり、武田信玄がどこまでも武田信玄である事を容赦なく示すそれだった。
「武田信玄だと!」
「あの男を討てば一発逆転だ!」
そして、風林火山の旗を隠さない程度には大胆な事ができるのも信玄だった。
自らと言う名の餌をぶら下げ、死兵たちを一点集中させる。一見恐ろしく感じるが、一点に集中すると言う事は他が見えなくなると言う事でもある。
「お館様を守るのだ!」
その通り、自らが盾になった事を察した内藤軍がようやく立ち直り、敵軍に横から攻撃をかけ始めた。
すると今まで羽柴軍一方的有利であった戦況が、五分か武田側に傾いて行った。
所詮は命知らずの勢いだけで突き進んでいた軍勢であり、それがなくなれば強くない。
いや、勢いは失われていないが攻撃一本槍ゆえに隙だらけだった防御面が露呈され、次々と犠牲者が増え始めたのだ。
「この野郎、武田信玄を殺す邪魔をするな!」
「敵は他にもいるのだぞ!」
信玄しか見えなくなった兵たちに横槍を入れさせ、傷を負わせていく。
羽柴軍は当然反撃しようとするが、寸刻の遅れが命取りとなり、山県軍も信玄軍も倒せないまま死ぬ。
文字通りの犬死だ。
この流れで一人、また一人と数が減って行き、犠牲者もさほど増大しなかった。
これで士気が萎えてくれればとか言う淡い期待こそ裏切られたが、流れとしてはさほど悪くない。
「やれやれ、このまま全滅させたいな。明智光秀を斬ったのだからこちらの勝ちと言う事にしてな」
「しかしお館様、勝頼様は本当に禁薬を」
「わからぬ。本当にわしに対する敵愾心だけでああなっていたのか、それとも禁薬を呑んだのか、それが自分の意志なのかあの跡部に呑まされたか、そんな事などうでも良い。肝心なのは勝頼が森とやらに討たれたと言う事だけだ」
「首級は織田の手にあるようですが」
「返してくれと言っておく。もちろん諏訪御料人の隣に埋めさせるためにな」
勝頼の事を既に話せる程度には、信玄も楽観していた。確かにこちらの犠牲も少なくはないが、それはもう戦による仕方がない犠牲だと割り切れる程度には信玄の心も出来上がっていた。
「あの大将を斬らないでください!」
そんな完成形のはずだった信玄の心に入り込んで来る、間の抜けた中年男の声。
その声相応に間の抜けた顔になった信玄は、声の主を見てなおさら拍子抜けした。
「柿崎殿、どうしたのだ?」
信玄がそう平らに聞き返すと、景家は両手を頭にやりながら首を横に振った。
説得力に乏しい、一軍の将らしからぬ振る舞い、どちらかと言うと駄々っ子のそれ。
「あの大将、おそらくは、それがし及び謙信公の顔見知り……!」
「具体的に誰だと言うのだね」
「上、様…………!」
上様。
他ならぬ、室町幕府征夷大将軍足利義昭。
「まさか義輝公が蘇って羽柴秀吉の配下になったと言うのかね」
いや、おそらくは足利義輝。
かつて謙信が上洛して名前をもらい受けたほどの存在。
だが義輝は八年前、三好氏によって殺されており、男子は一人もいない。
義輝が生きているのならば驚天動地の大事件であり、それこそ国全体がいっぺんにひっくり返ると言うか、八年間も何をやっていたのかと言うお話である。
「それはございませぬ!ですがその、その気配、その声色、間違いなく上様と同じそれで……!」
「わしとて義昭公が羽柴秀吉の配下になったとか言う話は聞いておる。されど義昭公は信長にとっても切り札。いざとなれば征夷大将軍の五文字を盾にわしらを逆賊に仕立て上げる事もできる。こんな所で使わんよ」
「ですが、その、それがしとて羽柴秀吉の配下になったとか言う与太話を信じている訳ではございませぬが、しかし、その……」
景家はもちろん義昭が羽柴秀吉の配下になったとか言う話を真に受けてなどいない。
されどもしここで何らかの理由によってこんな役目を背負わされているのだとしたら、何とかして助けてみせたかった。
「そうです!そう言えば上様には赤子がいたと!しかも男子の!その存在を人質に取られ!」
「信長がその上様の子を守るほど殊勝だと思うのかね?
こんな生還の望みなき場所に配置するなどそれこそこの場で殺す気だったと言う事だろう、あるいは勝てたならばとどめの一撃でも加えさせる役目でも与える気だったのかね。
わしが信長ならばとっとと逃がすかそれとももっと早く貴公らの背を突かせておるよ」
身振り手振りを繰り返すばかりで理路整然と話せない景家と筋が通っていて冷静沈着な信玄では舌戦にも何にもならない。
ましてや景家の言う上様がとか言う言葉を真に受ける人間など、柿崎軍の中でも少数だった。上杉軍の中でも実際に足利義輝と出会った人間など、それこそ上層部の数名しかいなかった。
そんな存在の声など、誰が覚えていると言うのか。
「柿崎殿には悪いが、わしはその男を討たせる。もちろん救えるならば救うがね、できるとは言えんぞ」
信玄には、それ以上の返事ができなかった。
元より「羽柴軍」の殲滅を指示した以上、今更止まりようもないと言うのもまた事実だった。
————————————————————もう、賽は投げられてしまったのだ。
「このぉ……!」
実際問題、戦況はかなり武田軍に傾いていた。
信玄軍だけでなく立ち直った内藤軍まで加わり、さらに敵の追撃がない事を確認した馬場軍の後衛までもが羽柴軍攻撃に回っている。
もともと千人程度だった所に一万以上の軍勢が襲い掛かっているのだから、結果は火を見るよりも明らかである。
「誰か一人でもいい!信玄か内藤か馬場を斬れ!」
それでも大将の檄に従い必死に抗い目の前の敵を斬らんと欲するが、その欲望が叶う人間は少ない。相打ちになれば幸運であり、多くの兵は三人の一流の大将の率いる軍勢によって殺されるだけ殺されて傷を与えるのがせいぜいである。
「これが馬場信房かぁ!」
かなり運の強い人間が馬場信房の姿を捉える事は出来たが、そこで運を使い果たして配下の兵に斬られるのが落ちである。
「敵は強くないぞ!」
その上に武田軍がそんな事を定期的に叫び出すものだから、羽柴軍はますます追い詰められて行く。
「強くないかどうか試し…っ!」
「ごまめの歯ぎしりとはこの事だ!」
激高した所で胸を斬られて倒れ込むだけの、千成瓢箪の兵。死にかけてなお抗おうと刀を投げ付けるが、地面以外の何にも刺さらない。
最後の最後まで一所懸命な忠義の士だったのか、それともただの悪あがきなのか。武田軍の兵は後者である事を喧伝し、必死に士気を左右しようとする。
そう、必死に。
「皆の者!武田を最後の最後まで苦しめた我らの名は永遠の物となろう!」
だがその必死さに気づかぬ敵ではなく、敵将もまた自分たちの強さを示すが如き言葉を吐く。実力差はともかく気合だけは負けていない。今更犠牲を惜しむ気もないが、こうも千人の兵に押され続けるのは後味が良くない。
なればこそうるさいとばかりに武田軍も襲い掛かるが、大将の口を塞げない。兵たちの死体は増えるが依然として大将は元気であり、元から疲労していた三軍と比べてもまだ十分に戦えていた。
「ハァ…ハァ…」
まだ馬場軍は元気な兵も多かったが、内藤軍や信玄軍はもう腕も上がらなくなってきている兵もいた。特にきつかったのは内藤軍で、信玄軍のそんな人間はあらかじめ後ろに下げられていたが、内藤軍は半ば混乱状態だったためそんな暇はなく次々と倒れる兵が出始めた。
「内藤だ!内藤を狙え!」
そしてその流れを感じた羽柴軍が目標を内藤軍に定め、最後の力を振り絞り出した。
「うぐぐ…!」
内藤軍の犠牲者が増え始めた。昌豊の側近たちにも負傷者が増え始め、昌豊の姿がむき出しになって来る。
「命を大事にしろ!」
「黙れ!ここで死ぬのが我らの定めだ!」
「羽柴筑前は逃げる達人だったはずだぞ!」
「逃げるにも犠牲がいる!そのために死ねるならばこの上ない幸福だ!」
面頬の大将の心酔に満ちた声が、昌豊の五臓六腑を重くする。
一体どこまでこの大将は羽柴秀吉とやらを慕っているのか。
確かに今や近江一国を治めているも同然とは言え、たかが織田家の一家臣にここまでの魅力があると言うのか。
「それがしには義務がある!武田の大将、いや満天下に羽柴筑前殿の魅力を伝える義務が!」
「おいどうした!」
「文字通りだ!」
その上にこんな愛の言葉まで投げかけられてはもはやたまったものではない。
のろけとも思えるような言い草に適当に反発しながら、昌豊は改めて武器を構え直す。
「この身は羽柴筑前殿に屈したのであって織田に屈したつもりなし!
偉大なる元水呑百姓、羽柴筑前守!
武士が武士で居られるのは全く民のおかげだと言う事を忘れたのか!」
「静まれ…!」
これ以上自慢話など聞きたくないとばかりに斬りかかるが、面頬の大将の刃は正確に昌豊の一撃を受け止める。
「この内藤修理とて民の事を忘れておらぬ!忘れているような男がこんな場に立てるか!」
「わ、たしは忘れていると見ている!それだけの事だ!」
昌豊と面頬の男は互角に打ち合う。
決して太刀筋は良くないが、それを補うほどの力を持っている。昌豊をして対峙した経験の少ない、と言うかした事のない相手、
「ええい手こずらせてくれる!」
「上等!」
お互いの刃が激しくぶつかり合う。中にはこの一騎討ちに見とれてしまう兵もおり、まさに名将と名将でなければありえない風景だった。
「良き最期の敵となれ!」
「わしはまだ生きたいのだ!」
だが形勢は正直昌豊不利だった。
ここを死に場と見た面頬の大将とこんな相手に巻き込まれて死にたくない昌豊とでは気合が違い、どうしても後者が押されてしまう。
面頬の男の一撃が昌豊を襲い、必死に昌豊が凌ごうとしている。
昌豊をして体験した事のない気迫。
これが、羽柴秀吉の魅力だと言うのか。
「うぐっ…!」
だが、信玄は家臣の危機を黙って見過ごす人間ではない。
一騎討ちの始まった頃から羽柴軍を一人ずつ減らし、既にこの時には数名の兵を面頬の大将の真後ろにまで持って来ていた。
その兵たちが一斉に槍を突き出し、大将の背中に多数の穴を開けたのだ。
「一騎討ちなど所詮、お互いの了解ありきじゃぞ。修理がそれを望んだのか?」
自分の寵臣の意向をくみ取り、意図的に水を差した。それだけの事だった。
大将はゆっくりと落馬し、地に叩き付けられた。
面頬が転がり、顔面があらわになる。
「ああっ…………!」
そして、柿崎景家の悲鳴が戦場に響いた。
「上様……!」
「上様…!?」
上様と呼ばれたその大将。
松田憲秀を追い払い、内藤昌豊と互角に渡り合った大将。
それが紛れもなく、足利義昭だったと言うのだ。
「そんな馬鹿な、どうしてこんな」
「いかにも……余が、足利義昭、である……!」
甲冑を血に染めながら、義昭はこの国で最も高貴なそれのはずの名前を名乗る。
細久手の本陣を一気に静寂に染めながら、自分の舌一枚でこの場を支配する。
「なぜこのような!」
「余は、羽柴筑前殿の家臣……なればこそ、ここに来て……」
「意味が分かりませぬ!」
「文字通り、そなたらを、どうにかして、倒すために…………」
敵として。
ただ敵として。
この場に来たと言うのか、
「羽柴筑前が、なぜに!」
「先も述べたであろう……武士が威張れるのは一体、誰のおかげか……余、いやそれがしたちはみな百姓の作物を食んで生きている、だけ……。
百姓が作物を寄越さなくなれば武士は終わる、なればこそ百姓の戦い方で幕府を負かした筑前殿こそ、我が、主にふさわしい……!」
「その…よう、な…!」
口から血を吐きながら、義昭は必死に秀吉の素晴らしさを述べる。
これまで武田家の人間を差し置いて迫っていた景家が涙声になって言葉を詰まらせると共に、信玄が倒れ込む義昭の前でひざまずいた。
「信玄、か……」
「上様、この先この信玄は織田や羽柴を殺すか服属させる気でおります。その事をどう思われまするか?」
征夷大将軍様を殺したも同然と言うこの状況を前にして、信玄はどこまでも冷静だった。
決して冷淡でも冷酷でもなく、あくまでも必要なことを求める。
そんな自分の信長的な思考に苦笑しながら、死にかけの要人に答えを求めた。
「それを決めるのはおぬしでも信長でもない……二人の子よ……」
「子とは」
「いや、そなたは孫か……とに、かく…どちらが勝とうが、関係はない……余は、羽柴筑前殿の家臣として、織田の勝ちを、願う、が…………!」
「…………」
「亡骸は、筑前殿の、長浜、に……!」
その言葉を最後に、足利義昭は目を閉じた。
享年三十七歳。
長くない人生の中で十二分に波乱にまみれた人生を送った人間は、幕府のある山城からはるか東であり、足利家の故郷である下野からはるか西である美濃の地にてその生涯を終えたのである。
「うっ、上様……!」
細久手の武田本陣に柿崎景家の泣き声が響き、それにつられるように武田の人間たちの泣き声が響いた。
幕府の長らしく、武士らしく死んだ、足利義昭と言う英雄の死に、信玄すらも涙した。
第八章は1月20日までお待ちください。




