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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第一章 秋葉街道の戦い
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石川数正の最期

「とりっくおあとりーとか、わしは変装などせんよ……」

「まだ来るのか……!」

「ご安心ください!先は見えております!」


 目に浜松城は移っていた。


 だが、あまりにも遠い。



 全速力で馬を走らせるが、なかなか大きくならない。




 自業自得。その四文字で説明が付くのはわかっている。


 延々一刻以上おびき出されて来たのだ。包囲殲滅し、かつ逃げ切らせないだけの距離は十分にやってしまっている。

 行軍の一刻と全速力の一刻は違うとは言え、頼みのはずの味方がことごとく阻まれてしまっているのを思うとますます不安が込み上げて来る。

 浜松城に余分な兵などいない。一応がらんどうでこそないが、新兵や老兵、武器を持たせただけの農民など数に数えにくい存在ばかりで、しかも数は五百もない。



「待て待て待て!」

 武田軍の声が響く。後ろにしかいないはずなのに右にも左にも、前にさえいる気がしてくる。その度に体が震え、また膀胱の中身が飛び出して来そうになる。先ほどのは家康自身その前に厠に行かなかった事が悪いのだと言い訳しているが、その割にかつて信康を生ませた辺りの棒の具合が気になって仕方がなくなる。

(我ながらふざけるな、こんな時に……いや、そんな話、もっとふざけるな!)

 生命の危機に当たり生き物は子孫を残さんと躍起になり、それにより活発になるとか言う色艶話を忠次から聞かされた事もある。

 それなら何だ、今こそ生命の危機だと言うのか。いやそれは正しいが、それが自らの命尽きる前兆だとでもいうのか!


「わしは死なん、わしは死なん……!」

「そうです!どうかお逃げ下さい!」


 歯を食い縛り、全力で馬を飛ばす。信長の指導を受けてたびたび飛ばしていた馬であっただけに足は速いが、それでも敵の足も遅くない。差を開くことはできず、むしろ詰まっている。早馬と言うか疲れていなかった馬が次々に差を詰め、尻に噛み付かんとして来る。

 浜松城に居を構えてからずっと見て来たはずの豊かな平野が、今はただうっとおしくてしょうがない。

 もう少しだけでもデコボコしていれば、武田の進軍を止めるのに役に立つのに。いくら山岳戦は武田に利ありとか言った所で否応なく進軍速度は鈍り、その分だけ時間もとれるのに。



「家康ぅ!」


 そんな益体もない事を考えている間にも武田は迫る。

 前にいた将たちがどうなっているのか、そんな事はもうわからない。武田に飲み込まれているのか、逆に飲み込んでいるのか。あわよくば信玄をもとか言う薄っぺらい欲望を精神安定剤にしながら、必死に徳川家康は逃げる。


「もはやこれまでか!」

 そんな絶望的な声が家康に耳へと鳴り響く。

「徳川家康これにあり!打ち取って手柄とせよ!」


 続けざまに飛び込むその声に、目の湿度は一挙に上がる。


(「わしは……果報者よ……!」)


 何者かが勝手に徳川家康を名乗り、時間稼ぎに励んでいる。

 どう報いればいいのだろうか。いったい何をくれてやればいいのか。


 そうだ。今は彼らに何かをくれてやるために、行くしかない。

 生まれた時から安寧などなかったこの身、今更一つや二つの修羅場で!


 心の中で許せ、許せと叫びながら、家康は手綱を揺らした。



「家康ここにあり!」

「家康を討ちとれ!」

 二百の兵と共に立つ「徳川家康」に襲い掛かる武田軍の兵は、四百にも満たない。悲しい事に、その「徳川家康」こと夏目久三郎は、あまりにも家康と似ていなかった。


 信玄は甲斐忍びを使うまでもなく、徳川家康の顔を知っていた。


 今川領を分割するように出兵した際、まだ年若い家康は自ら交渉の場に出てその力を見せようとしていた。信廉とか言う似顔絵の名手はさておき、そのように必死になっていた存在の事をすでにその時四十半ばだった信玄が目を付けないはずもなかった。

 どこか棒読みめいた武田軍の声に、夏目久三郎はいら立ちを隠しながら武器を振った。バッタもイナゴもあったもんかと名前もないような目の前の害虫どもを殺し、それから先の事を考える暇もなく戦う。だが殺されこそしないが破る事も出来ず、他の将たちと同じように釘付けにされてしまう。

「聞こえとらんのか!」

 それでも一応本隊を追跡する軍勢の数を減らしたと言う戦果はあったが、久三郎にとっては不本意であった事は言うまでもない。その無念が彼の刃を鈍らせ、相手に抵抗できる隙間を与えてしまう。ある意味どっちもどっちとは言え、どう考えても武田に有利徳川に不利な展開だった。



「ああもう!いい加減死ね!」

「お前こそ死ね!」


 その有利な武田軍とて、決定打を打てないことには変わりない。各所で徳川軍の必死の抵抗を受け、半ば望み通りとは言え足を止めさせられている。


「内藤め!」

「貴様こそ!」

 大久保忠世は刃を振りかざし、甲陽菱の旗共々敵を斬る。内藤昌豊も負けじと葵紋の旗共々敵を斬る。


「もう、これ以上抵抗するな!」

 昌豊もついに堪忍袋の緒が切れたかのように忠世に突っ込んだ。数名の兵士と共に、厄介な頭を叩いておかないと進めないとばかりに大将様の頭を叩き割りに来る。

「ついに来たか!内藤昌豊を討てば情勢は一挙に傾くぞ!」

 忠世もまた待ってましたとばかりに勇んで刃を握る。内藤昌豊と言う金銀財宝を前にして欲望が沸き上がり、欲望が力となっていた。

 先ほどまでの悲愴感に満ちた笑顔ではなく、本物の口角を上げた笑顔のまま、忠世は名将・内藤昌豊へと立ち向かう。


「命知らずめ!」

「主君のためなら命など惜しくないわ!」


 忠世の不敵な笑みに昌豊も負けじと笑う。

 二人の男たちによる一騎打ちが始まった。

 これまでずっと戦ってきたにもかかわらず二人とも太刀筋は全く衰えず、ぶつかり合う火花から火が点きそうなほどだった。

「その腕前!家康のような小僧のために浪費することなかれ!」

「貴様こそ信玄のような老いぼれ坊主にささげるのか!」

「お館様の次にもささげるまで!」

「殿こそ尊崇すべき主君よ!」

 お互いの主を自画自賛し相手の主を落とす醜くもあるがきれいでもある言葉と共に、歴戦の雄たちは戦う。

 昌豊が忠世の胸を狙えば、忠世はそれを弾き返しつつ肩口を狙う。雑兵が一太刀放てる程度の時間で四発放ち、まさに武芸と言うべき戦いぶりを見せる。あるいは戦場の華となるべきかもしれなかったこの一騎打ちに目を止める存在はいない。誰も目の前の敵を討つので精一杯だからだ。


 一人だけそっぽを向いている人間がいるとすれば、それは大久保忠世だった。


「どうした!家康が愛しいか!」

「当たり前の事を抜かすな!」

「安心しろ、家康を後で送ってやる!」


 ほどなくしてその事に気づいた昌豊がからかいながらも斬りかかるが、忠世は真顔で忠誠心を吐露すると言う天然返しめいた反撃を飛ばす。五十二歳の内藤昌豊と四十二歳の大久保忠世と言ういい年した中年男性同士の、かつ戦場でなければあるいは微笑ましかったかもしれないこの間に、忠世の胸は膨らんでいた。


「大久保め!甘いぞ!」

「原殿!」

 その胸をしぼませたのは、言うまでもなく武田だった。

「味方を当てにするからだ!」


 昌豊の副将となっていた原昌胤により、忠世が頼りにしていた弟の忠佐もまた足止めされていた。

 二対一でも何でも敵将を討てば流れは変わると見ていた忠世の狙いはくじかれ、その分だけ刃も鈍った。

「しょせんはその程度と言う事だ」

「なぜだ……なぜだ!」

「自分で考えろ」


 忠世の叫び声に大した意味はない。単に目の前の自分の運命に腹を立てているだけだ。だがそんな叫び声に対して冷たく昌豊は揚げ足を取り、当てが外れて気合の抜けた忠世を押し込む。ほどなくして、忠世は防戦一方になった。

 これまでにもまして昌豊の速度は上がり、忠世は受け止めるのが精一杯になる。力量はともかく、心理的に大差が付いていた。

「このまま死んでもらう!」

 好機と見た昌豊の一撃が忠世の手元を狙う。間一髪で避けたが反撃の暇はない。

 次の一撃を叩き付ければ帰趨は見える。


 そのはずだった。



「くぅ!」

「大久保殿!」


 その昌豊の一撃に重たい負荷がかかり、突き出したはずの槍が叩き折られそうになる。


「平八郎か!」


 本多平八郎忠勝。まだ二十六ながら徳川一の武者と言われるその存在の到来に昌豊は余計な事をしてくれたと口をへの字に曲げながら四歩下がった。


「大久保殿!ご無事で!」

「感謝する!だがこれ以上は!」

「拙者が食い止めまする!」


 忠世は忠勝にこの場を任せ、昌豊が下がったように自分も下がった。

「逃げるのか!」

「今は殿の命より惜しき物はなし!」

「次会った時が貴様の最期だ!」



 忠世が尻を向ける中、昌豊も気分を害されたとばかりに大久保軍から逃げた。

「逃げ足の速い軍勢だ……!」

 前進する時と変わらない速度で消えて行く軍勢の背中をにらみながら、とりあえずの敵である原昌胤軍へと兵を向ける。

「チッ、本多忠勝か……!」

 だが昌胤もまた、忠勝の存在を知るやあっという間に大久保忠佐を捨ててしまう。

 侵掠する事火の如しのくせに、疾き事と言うか逃げる事風の如しな戦いぶりである。


「とりあえず目前の危機は去ったか……!」

「ではすぐさま殿を!」

「平八郎、頼むぞ!酒井殿をして持ち応えられなんだからな……!」


 内藤軍と原軍をとりあえず退けた忠勝は後方へと駆け込み、大久保軍は酒井軍の敗走により手空きになってしまった山県軍を止めに向かう。

 もう少しだけでも粘り、酒井軍のように抵抗力を残して退きたい。とりあえずの戦勝を盾に山県昌景何するものぞと気合を入れ直し、無傷の人間など半分もいない軍勢でなおも戦うつもりだった。



 だが、来ない。いったん下がっただけだったはずの山県昌景軍が来ず、大久保軍は数分近く前を見つめているだけだった。

 もうあきらめたのかと思ったがそれにしても動きが遅く、小休止にしても長すぎる。


 どうするか。下がるか。休むか。あるいは。







「石川数正めはこの馬場美濃(信房)が討ち取ったぞ!」







 とか言う迷いと一時の安楽を叩き壊す叫び声。


「ああっ!」

「ええい!石川殿の仇を討て!」


 兵士たちが愕然とするのに構う事なく、大久保兄弟は右翼を攻めていた馬場信房へ向けて突っ込む。



 内藤軍は退却でも休止でもなく、ただ横へ向かっていただけ。

 左側の大久保軍から右側の石川軍へ、馬場軍の増援として。

 中間にいるはずだった本多忠勝は左翼に行ってしまい、空白地帯になった中央部をすり抜けて悠々と石川軍に衝突。

 それまでギリギリで形勢を保っていた石川軍はこの乱入者に対応できず一挙に崩壊。

 そして兵たちは家康を追うとか言って逃げ出すか馬場軍に無理心中を図るか、さもなくばその前に内藤軍の刃にかかるかの三択でしかなかった。


 そして石川数正もまた、体勢を崩した自軍をまとめきれないまま馬場軍による攻撃を受け負傷。

 そこに防備をくぐってやって来た馬場信房の刃により死亡———————。




 そんな耐え難いはずの事実を飲み込み、その上で後退する大久保兄弟。


 同様にその事を知りながら必死に主を追う本多忠勝。




 なおも、三河武士たちの闘志は萎えていなかった。

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