松田憲秀の悲劇と柿崎景家の不安
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「そんな…!」
歴戦の将、内藤昌豊をしてあわてふためくしかなかった。
「何でも討てばいいのです!」
「そ、そうか……とにかく敵は少数だ!」
細久手の本陣への奇襲を考えなかったわけではない。
だが千成瓢箪の旗を掲げた軍勢が来るなど、まったく予想していなかった。
「そう言えば羽柴秀吉は兵を消したり出したりできるとか、それで朝倉家もとどめを刺されたと」
「真面目に物を言え!」
幾度も幾度も、敵軍の内訳を調べて来た。
信長軍本隊二万、柴田・滝川・明智・池田おのおの六千ずつ、さらに徳川軍五千。これで計四万九千。
もしかして、五万と四万九千の間の千人の中に……。
「そんな特攻兵などいる訳があるか!」
本陣奇襲とか言えば体裁はいいが、そんな行為に何の意味もないはずだ。
すでに滝川や池田は遠く離したし、これに乗じて来る気配もない。
「狙われているのは誰だ!」
「松田殿です!」
「とりあえず殺せ!」
結局、昌豊をしてそれしか言いようがなかった。
※※※※※※※※※
「大将様ぁ!」
「うるさい!自分で何とかしろ!」
細久手の一歩手前で謎の部隊の攻撃をもろに受けた松田軍は、大混乱の最中にあった。
元からお義理で来ていただけのつまらない役目の上に、ただただ危険で凄惨で大変なだけだったくせに実りの少ない仕事から、ようやく逃げ切ったと安堵した瞬間にやって来た大敵。
千名程度とか言うが、それにしてはあまりにも動きが派手過ぎる。
まるで命を惜しむことなく得物を振り、一人でも多くの敵を殺そうとしている。
大将である憲秀自身にやる気のなかった軍勢にそんな敵の相手などできる訳もなく、五分の一だと言うのに五倍の敵を相手にしているように押されている。
悲鳴が響き渡り、誰も彼もが自分の事で手いっぱいになっている。
「ギャーッ!」
「助けてくれぇ…!」
「バカ野郎、俺を斬るな!」
助けてくれと叫びながら助けを得られず死んだ兵や、目の前の敵を防ぐのに精いっぱいで味方を傷つけてしまう兵まで出るお粗末ぶりであった。
「おいお前たち、滝川や池田から逃げ切ったのを忘れているのか!」
これまで松田軍の人的被害は百もいなかったのに、この数分だけで百近く増えていた。
両家との戦いはこれさえ凌げば逃げ切れると言う「最後の踏ん張りどころ」であり、そこで力を使い果たした兵も少なくなかった。彼らにとってこの謎の千成瓢箪の軍隊は予想外中の予想外であり、話が違うじゃないかと叫びたくなっていた。もちろんそんな逆恨みそのものの訴えが通る訳もなく、次々と北条家すなわち平家の末裔とか言う事で元から赤地だった三つ鱗の旗が余計に赤く染まる。
「もう次はないんだぞ!」
「そうだ、織田はもう迫って来ないんだよ!」
憲秀は側近と共に必死に叫ぶが、そんな言葉で動く兵はもうとっくに動いていた。彼らは必死に敵軍と戦うが、大半が先ほどのように混乱している状態と言うかひどいのになると同士討ちまでやっている有様の中ではさして意味がない。と言うかその懸命に戦っている兵も松田家の直属の家臣か二線級の兵かのどっちかであり、前者はともかく後者はさして役に立たない。
「内藤殿と馬場殿はどうした!」
「同じく混乱中のようで、ああ馬場殿は織田の追撃を気にしているようで来ません!」
こんな場所に引きずり込んだ張本人たちはと言うと片や自分たちと同じように無責任に混乱し、片や馬鹿正直に織田軍の追撃を警戒しているらしい。
「柿崎殿は!」
「ああそちらは必死に対峙しているようです!」
「そうかそうか!
お前たち、ちゃんと味方はいるぞ!気にするな!上杉軍は我らの味方だ!」
松田憲秀は、決して愚将ではない。
どんな発言が必要か否か、わかっていた。内藤や馬場が助けてくれないと言う絶望的状況で味方がいると言う現実は何よりも重要であり、兵たちの心を安堵させるそれだった。
だが、どんなにいい種を蒔いても土壌が悪ければ育ちようがなかった。
「上杉軍は、かよ!」
「武田はやっぱり俺らを使い捨てる気だ!」
「ふざけるなよ…てめえらのせいで俺はこんな所で…!」
北条早雲が小田原城を治めてからもう七十八年経つ。
現在のような大大名になったのは氏康が川越夜戦で勝ってからだが、それとてもう二十七年である。大大名の家臣様だという意識を兵たちが抱くには十分すぎる月日であり、元から二線級のそれだった事もあってその方向の自尊心がかなり肥大していた。
上杉景虎と言う存在があったとしての小田原城まで追い詰められた謙信と上杉家に好感を抱く兵は少なく、呉越同舟だとか言った所でおいそれと仲良くできるような兵は元から少ない。
そんな存在しか助けてくれない自分たちの身の軽さを勝手に恨んだり、武田家の薄情ぶりに八つ当たりしたり、せいぜいが己が徒死を嘆いたりするばかりである。
「死ねやぁ!」
その隙にまた攻撃が加わり、死体が増えて行く。
羽柴軍の死体が一個増える間に松田軍の死体が三つ増え、負傷者が五人増えている。
このまま単純計算で行くと羽柴軍が全滅するまでに松田軍三千が死に、負傷者が五千人出る計算になる。実際には松田軍は死者を除いて四千九百しかいないので、全滅かそれに近い打撃を負う事になるだろう。
まったく馬鹿馬鹿しいお話だが、算盤の上では成り立ってしまうのだ。
「誰かおらぬのか!」
一万近い軍勢の中で救いを求める憲秀の姿は、とことんまでに滑稽だった。
「北条軍の松田憲秀だな!」
そんな状態の憲秀の名を、一人の男が呼ばわった。
面頬を被った男、おそらくは敵将。
「名を名乗れ!」
「それがしはただの羽柴筑前殿の家臣!名乗るべき名はない!」
「ならその面頬を剥いでやるわ!」
至極当然の質問に対しずいぶんな口を利いた敵将に向かって憲秀は真っ赤になって突進する。
この男を斬ればこんな戦いは終わる、もう無駄に犠牲を出さなくて済むとか言うほんのわずかな殊勝な心掛けとこんな所で死にたくないと言う保身の気持ち、さらにこの騒乱を起こした張本人の顔を見てやりたいと言う気持ちが重なり合い、胸や腕に向くべき刃は頭の方へと向いてしまう。
単純に頭狙いならそれでもいいが、今回はよくなかった。
「見切った!」
ついさっき面頬を剥いでやるとか言いながらそんな所を狙えば、それこそ見え見えである。
その羽柴秀吉の家臣は憲秀の刃を簡単にかわし、返す刀で自分の薙刀を大きく振り上げた。
「ぬぐっ…!」
憲秀は得物を飛ばされはしなかったものの手首を斬られ、腕に力が入らなくなった。
あわてて三歩ほど後退して誰か討てと叫ぶが、反応はまばらだった。
「敵はここにいるのだぞ!」
しかもそう叫んでも寄って来るのは千成瓢箪を差した兵ばかりで、三つ鱗の兵は寄って来ない。
「くそぉぉ!」
そんな状況で憲秀が取れる答えは、結局敗走の二文字しかなかった。
武田も自軍も当てにならない形での、あまりにもみじめな顛末。少しでも気合を入れていればとか言う理想をくっちゃべる機会もないまま、松田憲秀はみじめに細久手から数百名の兵と共に岩村城へと逃げ込んだ。
※※※※※※※※※
「…………」
で、その憲秀が当てにしていた景家はと言うと、西を向きながら福笑いのような顔をしていた。
何も口から言葉を出そうとせず、松田憲秀を逃がした男の事ばかり考えていた。
「大将様!」
「将を射んとする者はまず馬を射よ……馬を狙うのだ、馬を」
そう言ったきり、積極的に動こうとしない。
バラバラになった目鼻で強引に空を見ながら、要するに殺すなと言っているだけ。
そんな大将の下で、どれだけの兵が積極的に動けると言うのか。
「しかし松田殿は!」
「松田殿を守れ。そして大将を捕らえよ」
討てとは言わない、あくまでも捕らえろ。
確かにそれができれば文句はないが、実際問題戦場で相手を捉えるのは殺すより難しい。
殺さないように適当に傷を付けなければ、まず戦意が萎えてくれないし縄で縛ったり押さえつけたりできない。ましてや今回の場合文字通りの死兵であり、そんな人間を捉えるなど疲れ果てるまで待つしかない。
「ですがそれでは!」
「むやみに犠牲を増やす必要はない!」
適当なことを言っているが、詰まる所先延ばし以外の何を望んでいる訳でもない。
景家は過去の記憶を必死に探りながら、自分の考えた正解が不正解である事を願っているだけだった。
(そんな馬鹿な……)
「羽柴秀吉の家臣」と名乗る声は、実に堂々としている。この場に飛び込むに当たって自分が何者かを雄弁に示すが如き、勇ましいことこの上ない言葉。
つい先ほど武田武王丸や織田御坊丸がそうしたのと同じような、主体性に満ち溢れた「自分の言葉」に、噓偽りはないように思える。
だが、その言葉の主は、景家には耳慣れ過ぎていた。
自分があのお方と共に一緒に、京に行った時に聞いた声と。
本人か。
そんな訳はない、もう六年前に死んでいるのだから。
では誰だと言うのか。
—————その彼の血を濃く継ぐ存在。
だが彼には子どもは女児でさえいない。
しかし、父を同じくする子はいる。
それがまさか、この場に。
確かめねばならない。確かめねばならない。
まさか本気で羽柴秀吉の家臣とかになった気もないだろうに。
万が一その通りならば、なんと報告すればいいのか。
捕らえるだけでもまずいのはわかっている。それでも確認しない事には何も言えない。
—————そんな訳で時間稼ぎと言う名の防備に入ってしまった軍勢では、「羽柴軍」を減らす事は出来ない。
一応松田軍を守ろうとはしているが、ただでさえ憲秀の撤退と共に総崩れに近くなっている軍勢を守った所で、敵の数は減らない。
「おい話が違うじゃないか!敵を斬れよ!」
「犠牲者は少ないに限るだろ!と言うか柿崎様から大将にだけは手をかけるなと!」
「大将以外は斬れよ!」
その言葉通り大将である面頬の男以外にはそれなりに攻撃を加えているのだが、そんなのがどれほどの意味を持っているのか柿崎軍でさえも分からない。
馬場軍はともかく内藤軍まで何をやっているのかと言う不信がたまっているのは景家にもわかるが、それでも最期の一手を下し切れない。
このまま相手が疲弊するのを待つのか。
さほど疲れているように思えない相手を。
「まったく、最後の最後まで油断ならんな」
そんな彼らの空気を一気にゆるめたのは、やはりこの男だった。
武田信玄。
信長との対決から、帰って来た男だ。




