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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第七章 美濃大激突
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徳川家の号泣

 織田家の力をもってしても、どうにもならないのか。


「武田は……何という恐ろしい家だ……!」


 怒りとも、無念ともつかぬ声。


 せっかく織田信長自らを含む精鋭が来てくれたと言うのに、それでも信玄の首を取る事ができない。

 確かに勝頼は討ち取れたが、だから何と言う気分にしかなれない。

 下手すれば信玄の理想通りの展開にしただけかもしれない。



 信康は兼山城の東、蒲生氏郷の後方で徳川軍の将兵に囲まれながら唸っていた。


 先ほど武田武王丸の軍勢に追い散らされ、そこまで下がらされたのだ。



「信玄も武王丸も山県も、すでに退却しております……」

「御義父上や柴田殿は!」

「追跡はしておりますが敵の足が速く」

「ああ、織田が速さでも負けるとは…………!」


 酒井忠次の容赦のない現実を伝える言葉に、信康の血圧が上がって行く。

 織田家の用兵の速度は非常識なほどであり、伊勢長島一揆を制圧してから近江まで駆けつけて浅井久政と朝倉義景にとどめを刺したと聞いた時には、これで信玄を討てると確信したものだった。


 だがその織田軍をして武田軍に振り回され続け、明智光秀を失ってしまった。

 そして今、脱兎のごとく逃げる武田軍を捕まえられない。



「このまま、この戦いは終わるのか……!」



 いくら羽柴や丹羽、佐久間や池田とか言う将が残っていると言っても、この敗北は消えない。

 足利義昭を従えた家をして勝てない御家として、武田家の名前はますます膨らむ。

 今の徳川に取り、織田家の打撃は徳川家の打撃とほぼ等しい。このままでは家康の仇討が遅れるどころか、自分たちのお家存続すら危うくなる。


「中央に乗り出した織田軍は!」

「一応武田を追ってはおりますが敵の殿が厳しくにらんでおり正直鈍足で……」

「どうせ連戦で疲弊しているんだろ!」


 信康はここまででもう知った事かと言わんばかりに手綱を引き、織田軍に変わって前進してやろうとする。忠次と榊原康政が必死に馬を止めるが、信康の顔はまったく赤さを失わない。

「伝令!織田軍を阻む敵将がわかりまし」

「で誰だそれは!」

「その、えっと、ば……」

 そこにやって来た伝令の声を聴いて少しだけ赤さが薄れたが、呼吸の荒さは全く直らない。

「落ち着け!」

「あ、ああ……!」

 忠次に怒鳴られて深呼吸してようやく落ち着きを取り戻した信康であったが、顔の赤みが消えた代わりに今度は目鼻立ちの荒けなさが増幅され、余計にひるんでしまった伝令が救いを求めるように康政の顔を見出した。



「敵将は、馬場と…」

「馬場信房だと……!!」


 そんな風に時間を空費した信康の耳に、ようやく馬場信房と言う名前が入り込んだ。


「馬場はこれまでおりませんでした。中央にも南にも」

「チッ……!!」


 最初から全くこの絵図面通りだったと言うのか!

 馬場勢はおそらくまるで疲れていない以上、ぶつかれば数的優位をもってしても無傷でいられるはずもない。織田勢もそのせいで進撃を止められたのだろう。


「おいこら!馬場信房を斬れば此度の敗戦などなかった事にできるぞ!」

「……」

 信康の言葉は正論だったが、まともに動く兵はいない。ただでさえ連戦の上に連敗であり、信康がいくら笛を吹いても踊れる兵がいなかった。肩で息をしている兵が溢れかえり、開戦前の戦いぶりを期待するのは正直無謀としか言いようがなかった。

「蒲生殿にも滝川殿にも!」

「既に両軍とも攻撃を停止しており、一部は南の信玄本隊を狙っているようですが間に合う見込みは薄く」

「徳川単独では馬場軍と大差ない数しかない!まともに正面衝突しても勝てるか否かわからん!」


 忠次と忠勝が、必死に信康と言う暴れ馬に現実を教え込もうとする。

「おい彦左!」

 その真横では今回の戦いで十人の勝頼軍を討った大久保彦左衛門が両目で戦場の血を薄めながら、暴れ馬の乗った馬を抑え込んでいた。


「それがしとて悔しゅうございます!されど酒井様がおっしゃる通り此度はもう!」

「このまま勝ち逃げを許す気か!」

「わかっております、わかっておりますが……!」

「この腰抜けが!」


 家康の最期を見届けた彦左衛門からの制止に、信康は薬など使っていないのに勝頼のように吠えた。

 彦左衛門に負けじと涙を流しながら、右手に持った槍を彦左衛門に突き付ける。

「この命は惜しみませぬ!されど殿の命は!」

「うるさい!」

 自分がここまでやってもひるまない存在を本当に突き殺してやろうとする自分をにらみ付ける彦左衛門が、かすんだ眼のせいで信玄か勝頼に見え始めて来た。


「お前、お前は、お前……!」

「おい馬鹿!」

「誰が馬鹿だぁ!!」


 そこに乱入した馬鹿と言う単語に破裂しかかった信康の背中に、木の棒がぶつかる感触が襲って来た。当然の如く修羅の顔になって後ろを向こうとした信康の視界に、一人の騎馬武者が入り込んだ。


 武田軍に向けて突っ込んで行く一人の騎馬武者。


 誰よりも気高く、誰よりも勇ましい存在。




「お前は……」




 その姿を見た瞬間、いっきに信康の頭が冷えた。


「わかりましたか」

「いかん!止めろ!誰か止めろぉ!」


 自分の代わりに、突っ込もうとしている男がいる。

 どんどん小さくなって行く。


「あの男はおそらく死にます」

「そんな!」

「自分の意志で、死にに行くのです」


 おそらくは自分の代わりに、武田を討ちに行く気なのだろう。

 たった一人でも。




 あるいは自分の目を覚ますために、突っ込んで行くのだろう。




 自分が血気に逸らねば、こんな事にはならなかったのに。




「ああ、あああ……!」


 血気に逸り正しき判断を取る事ができなかった、それに対する罰がこれだと言うのか!

 忠次たちの言う事も聞かず、一人の男を無為に……!


 再び泣きわめこうとした信康の耳に、一発の銃声が届く。



 滝川軍かと思ったが、よく見ると東から、馬場軍からだった。



 銃声と共に放たれた鉛玉は騎馬武者の胴を捉え、めり込んで消えた。


「それで安心したのか下がって行きます」

「くそっ…………なんとか勇士を救え……!」


 全速力で飛ばす事もできないまま、馬上で胴を抑える勇士を救いに向かう。



「殿……」

「すまなかった、わしが血気に逸らねば……!」

「すべてはそれがしの独断です、悪いのはこの榊原小平太とた…………いや、武田です」


 武田の存在に憎しみを向ける事により自分たちを奮い立たせるしかない事を、この榊原小平太康政は理解している。


「まったく、武田め、その方がよほど恐ろしいらしいな……だが次会った時が、貴様らの最期だ……!」


 簡単に取り囲んで殺せるのに、銃弾一発で厄介払いされた屈辱。


 信康はその全てを受け止め、改めて武田を滅ぼす事を決意した。


 血潮に満ちた康政に、抱き付きながら……。







※※※※※※※※※







「まったく、徳川信康も果報者よ……」


 馬場信房は、不敵に笑っていた。


 今まで一度も使った事のない銃とか言う武器をこの手で使い、適当にもてあそんでやるつもりだった。


 そこに突っ込んで来た一人の男の足でも狙って討ったつもりが胴にめり込んでしまい、顔を必要以上にしかめさせた事については少しだけ罪悪感も覚えた。

 だがとりあえず、殺さなくてよかったとは思っている。

「今日の戦はもう終わりだ。いったん細久手の本陣に引き上げる。修理(内藤昌豊)も松田殿も柿崎殿も逃げ切っただろう」

「お館様は」

「大事あらばとっくに入っている。若殿様や秋山、山県殿とてまたしかりだろう」



 もはや、これまで。



 織田信長にも森長可とやらにも、これ以上戦う気などない事はわかっている。もちろん明日以降は別の話だろうが、いずれにせよ気が付けば日も落ち始めている以上この後はもう夜戦になってしまう。大軍同士で夜戦など、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。


 まあそのために相対的に疲弊していない自分たちが寝ずの番をするぐらいのつもりではいるが、もうまともな余力を持った兵などいない事はとっくにわかっていた。

 織田信長本隊及び柴田軍は信玄との、蒲生や森が率いた部隊及び滝川軍は内藤や柿崎・松田との戦いで疲弊し、明智軍は光秀を失った。徳川は勝頼にも武王丸にももてあそばれ、残っているのはせいぜい丹羽軍ぐらい。


「南からの敵軍は」

「ございませぬ」


 それでも念には念を入れて南こと尾張からの敵軍を警戒させていたが、それもまた梨の礫だった。美濃と言う敵本拠地に入った以上、民は敵だと考えて良い。一応織田御坊丸とか言う信長の五男坊を連れては来たが、それにどの程度の影響力があるかはわからない。

 そのために岩村城を落としてからずっと懐柔策に務め、その上で此度も尾張について警戒もした。だが駿河や遠江を警戒してか織田信忠は動こうとせず、と言うか三河の岡崎城で徳川家次を守っていると聞いた時には心底から安堵した上で出兵の成功を確信もした。



(四郎様…………あなたはなぜあんな薬を……。お館様と戦って一体何が得られると言うのか……)



 勝頼が禁断の秘薬に手を出そうとしていた事を真っ先に知ったのは、信房だった。


 ある草をある量で配合すると生まれると言う、痛みを忘れ、戦いに対する恐怖心が失せると言う薬。

 だが摂取してしばらくするとその効果が消え、一気に痛みが襲い掛かる。次に薬を求める願望が一気に膨らみ、言動からも落ち着きがなくなる。最後には文字通りけだもののようになってしまう。


 文字通りの禁薬の存在を最初に勝頼に知らせたのが誰なのかはもうわからない。あの二人なのか、それとも勝頼自身なのか。だがその禁薬を事もあろうに兵糧に混ぜていたのは勝頼であり、その部下たちにも食べさせていたのは確認していた。


 もし勝頼が、少しでも自分たちに反発するばかりでなければ。

 信玄の側近たる自分たちの存在を老害の一言で否定し、ただただ逆らう方向ばかりに向かなければ。


 そんなたらればを思いながらも、ある意味公開処刑にように死んだ御曹司の事を思っていた。

 戦が終わり次第、何もかも信長のせいにして討ち死にした事にする。

 さらに追及されれば、死人に口なしとばかりに跡部勝資にでも押し付けてしまえばいい。




 そこまで考えが進む程度には、信房は安心していた。




 後は前から来る敵だけに気を付けていればいい。




 そのはずだった。







「大変です!」


「何だ!お館様や武王丸様に何かあったのか!」


 だから、突然の悲鳴にもその方向の言葉しか出て来なかった。


「細久手の本陣が襲われています!」

「なっ…」




 百里を行く者は九十里を半ばとすと言う訳でもないが、最後の最後に敵も手を打って来たらしい。




「この機に乗じて来る可能性がある!我々はあくまでも西を見据えろ!」




 信房は最後の好機を与える訳には行くまいと、自分の役目を貫き通した。







 襲撃者の正体にも、それがこの場にいる誰にとっても不意打ちである事にも気づかないまま。







 何より、その襲撃者が掲げている旗に気を配ることなど、まったくなかった。

ダメ。ゼッタイ。

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