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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第七章 美濃大激突
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前田利家と森長可の落涙

「この野郎……!この野郎……!」


 前田利家は泣いていた。




 この戦いはもはや、織田の負け。


 少なくとも勝ちはない。


 勝ちにするには武田信玄か武田武王丸を斬ればいいが、そこに立ちふさがる壁が厚すぎる。いや山県昌景でも斬れば何とかなるが、その昌景が殿軍を務めながら悠々と下がっている。


 火縄銃でも手元にあれば今すぐ引き鉄でも引いて誰か撃ち殺してやりたかったが、手元にないしあっても肝心な人間に当たりそうにない事を自分自身わかっている。槍の又左とか言われている以上手持ちの槍で何とかしてやりたいが、それを振りかざした所で敵が斬れる訳でもない。


「ああああああ!」


 歯を食いしばり、連戦で疲れているはずの腕を振る。

 秋山軍、いや武田武王丸軍の後続を突く。

 徳川勢さえも追い散らした武王丸軍に、必死に挑みかかる。



 どんなに傾奇者を気取り悪ぶっていても、結局は真面目な男。

 家では盟友の秀吉同様、妻に頭の上がらぬ男。

 嫡子の利長は十二歳、人並に愛も注いでいる。もちろんまつにも、娘たちにも。



 なればこそ、人として許せなかった。

 戦に勝つとか言う理由があったとしても。



「てめえら!てめえらは大事な息子を二人も殺した奴についてくのか!!」

「若殿様を殺したのは森とやらだろ!」


 だから怒鳴ったはずなのに、まったく馬耳東風。

 勝頼の人望のなさを思わなかった訳ではないが、それでももう少し言い方はあるはずだ。おそらくその森長可に責任転嫁して織田への憎悪と言う名の闘志を深めるのかと思うと、策略としていいとか悪いとか以前に虫唾が走る。


「お前はお前の息子があんな風にされても良心が痛まねえのか!」

 利家の怒りの一撃が武田軍の兵士を襲う。

 だがその一撃が肝心の相手に届くことはない。


 風林火山も武田菱も、遠くなる一方。


 親父殿も信長本隊も、魔王よりも度外れた悪人たちを斬る事ができない。


 何が魔王だ。何が魔王の手先だ。


 今更そう呼ばれる事を嫌がる気もないが、魔王だって子供に対する愛情ぐらい持ってしかるべきだろう。



 もっとも、そのせいであんな真似をしてしまったのも自分だったが。



「御坊丸様を返しやがれ!この人さらい!」


 武田武王丸、いやあの忌々しい信玄坊主の跡取りの軍勢の中に混じっていた木瓜紋。


 それを見た瞬間に信長の息子の存在を認めた自分は勝手に頭の中で誰かの懐に抱きかかえられて首に刀を突き付けられている御坊丸様の姿を思い浮かべてしまい、逃げるように山県軍へと向かった。それがこんな結果を生んだかと思うと、なおの事悔しくてたまらなかった。

 後の祭りかもしれないが、とにかく何とかせねばならない。




「前田利家!」




 その利家の耳に侵入する、甲高くも透き通った声。

「なんだ武田の…」

 利家は武王丸めがとばかりにさらに眉を吊り上げたが、すぐさま正体がわからなくなり眉をひそめ直した。


 だがすぐにこんな声を上げられる幼児が二人もいてたまるか、聞き間違いだとばかりに再び前を睨むと、織田木瓜の旗を掲げた部隊とひとつの駕籠が見えた。



「わしはここに自ら来たのだ!」



 その籠から飛び出す、あまりにも自発的な声。


 誰かに言わされたとは思えない声。


 武王丸か。


 いや……!



「御坊丸様!」




 紛れもなく、織田御坊丸様の声!


「御坊丸様!何故……!」

「わしは確かに織田の子。されど今は武田武王丸様の配下」

「それは一体!」


 先ほどまでの威勢を失いながらも必死にすがりつく利家に対し、御坊丸は声だけで立ち向かう。

「わしは当初より父上やそなたらを恨んだわけではない。されど信玄公はわしを常に大事にしてくれた。武王丸様や兄弟と共に、人質ではなく仲間として!そのわしからなぜ逃げた!」

「御坊丸様に万一の事があってはと!」

「戦場に出て来ておいて何が万一だ!人をなめておるのか!」


 信長の血を感じさせながら、武田の配下である事をわきまえ、それ以上に武士らしくしている。

 これも信玄の計画通りだと言うのか。


「信玄は我が子二人を殺す親ですぞ!」

「義信様は駿河や遠江に領国を広げるを拒み、勝頼様は家臣を他家に売り渡したゆえ!三介兄上や三七兄上が同じ事をしたら見逃すのか!」



 紛れもない自分の言葉。



「わかりました!私は斬ります!貴方であろうと!」

「だがそれは次の機会にしてくれ!もはや此度はこれまでだ!」


 利家が突っ込むと共に御坊丸の姿が武田軍に覆い隠され、視界から消えて行く。


 まるで、決別の意志を示すかのように。




 —————ほんの少し勇気を出していれば。




 利家は改めて後悔の念を表出させるように泣きながら、捕まえられるはずなのに逃してしまった届きようのない存在を求めた。


 颱風の中で富士の麓の樹海の中にくすぶる煙の中に自ら消えて行った、信長の息子を……。




※※※※※※※※※




「おいこら!好き放題やっておいて逃げる気か!」

「もともと戦など好き放題するためにやる物だろうが」


 中央でも、武田軍は後退を開始していた。


 まだ余力のある長可は内藤昌豊らに激しく殴りかかるが、昌豊は笑って相手にしない。


 松田憲秀はもうこれ以上知った事かと言わんばかりに踵を返し、柿崎景家は真摯に退却戦を演じている。


 元々勝頼軍が全滅したとしても中央の武田軍は一万三千、織田軍は滝川軍、池田軍、明智軍込みでも二万からせいぜい二万五千。七千から一万と言うより、五割から二倍の差でしかない。

 そしてその二倍が、予想外に機能していない。

「滝川様の軍勢はどうした!」

「柿崎勢に受け止められていて強く当たれないんだよ!」

「池田様は!」

「北条がやる気になっていて……!」

 松田勢にやる気がない以上もっとうまく行けると思っていた長可だったが、内藤も柿崎も食い破れない。まるで武田勝頼を食い尽くして腹いっぱいになってしまったかのように刃が重く、いくら押し込んでも穴が開かない。ここに来ての後退に乗じてやろうとかとも思ったが、まったく動揺の気配がなくむしろさっきのような軽口を叩いて来る始末である。

 滝川軍はやる気のある柿崎軍を食い破れず、池田勢は松田軍にぶつかった結果ここさえしのげば逃げ切れるとばかりに腹に力を入れさせてしまった。



(しかし何なんだよ、ここに来て……これが死臭なのか……?って言うかまさか薬とやらのせいなのか……?)



 十六歳の森長可の初陣はこの前の伊勢長島一揆焼き討ち及び朝倉義景強襲戦であり、圧倒的な勝ち戦であった。本人も四つほど首を取ったものの全部雑兵のそれで、この地位にあるのは森家と言うお家の当主だったからに過ぎない。五十二歳だとか言う内藤昌豊がのほほんとしているのに半ばあきれながら鼻に侵入して来る死臭と戦い、威張りくさった男たちを勝頼と同じ姿にしてやるつもりだった。

 その勝頼の首は最後にとどめを刺した自分が叩き斬って大将の蒲生氏郷に預けたが、その首もまた氏郷や側近たちすら顔をしかめるような悪臭をばらまいていた。十八歳の氏郷はともかく、戦場慣れした毛利新助のような古強者でさえも勝頼の首から出る悪臭に鼻が曲がりそうになっていたらしい。


 先ほど松田憲秀が薬とか叫んでいたが、仮に何らかの薬を服用していたのであればあんなに臭いのも合点が行くと言うのか。




 いや、それ以上に—————




「うぐ……!」


 そんな余計なことを考えていた長可の右肩に、一本の刀が刺さる。

 すぐさま長可は刀の主を死体に変えたものの、それでもその兵の犠牲により敵はどんどん遠くなって行く。


「大丈夫ですか!」

「大事ない……畜生、いい顔をして死にやがって……!」


 自分を傷つけた兵士のこの世界に悔いなしと言わんばかりの死に顔を見ているとそれだけでイライラする。

 これでさっきまで殺しまくっていた勝頼軍の兵士たちの顔よりましなのだから、なおさら腹が立って来る。


 勝頼を含め誰も彼も面相が歪み戦場で殺し合いをしておいてこっちを呪いそうな顔をしたり、あれほどまで斬られまくっていたのにまるで急に痛みが襲い掛かってような顔をしたり、まともな死に顔をした連中はほとんどいなかった。


 それらが全部その薬のせいだとでも言うのか!



「お前たち……武田はとんでもねえもんを兵たちに与えている…………俺はそんな奴らを生かしておけねえ……!」

 長可は勝頼勢が何らかの薬を信玄により処方され、あのようになってしまったと確信した。

「明智様もそのせいで死んだんだよ……!あの糞坊主め…………!」


 長可は純粋な憤りだけを糧に、両眼を光らせた。同じように闘志を燃やすにしてももう少し方法があったはずだ、あるいはこれが一番正しいやり方だろうと言わんばかりに武田勢をにらみ付けるが、ひるむどころか向き合う奴もいない。



 しかも森長可負傷を確信して追跡が弱まると見た憲秀と景家がここだとばかりに後退を始め、池田勢も滝川勢も足が止まってしまった。



「森殿!」

「忠三郎殿!武田を追わなきゃいけねえ!」

「これ以上の追撃はもう難しい!」

 それでますます憤りを膨らませた長可は駆け寄って来た氏郷にも吠えるが、その光っていたはずの目に入り込んで来た存在を見て腰が砕けそうになった。


「あれはおそらく武田の猛将馬場美濃……今の疲弊した軍勢では突破はできないぞ」


 武田の最後の部隊である馬場信房軍が、内藤や松田らの撤退を支援するかのように飛び出して来た。

「俺たちはそんなに…!」

「勝頼軍は命を惜しまず戦って来たゆえにこちらの打撃も小さくない、松田軍は決して損害を出さないように戦い、柿崎軍は内藤軍同様士気旺盛。滝川様と言えど簡単ではない」

 滝川軍も池田軍も数も疲弊度も問題ないが、ここに来てまったく疲れていない馬場軍に正面衝突を仕掛けるような兵法もない。確かに馬場信房や内藤昌豊の首は安くないが、すでに明智光秀を失ったのにこれ以上の損害を出す事は出来ない。


「松田や柿崎なら斬れなくもない。だがそれらを斬った所で武田の打撃は知れている。上杉謙信も北条氏政も援軍が戦場で死ぬのを覚悟しないで送り出す馬鹿だと思うか」

 確かに両家に対する武田家の心証は悪くなるが、だからと言ってそれ以上の打撃を与えられるとは思えない。まだ松田ならば武田の同盟相手を叩けたと言えるが、柿崎など斬ったら武田の敵を弱らせただけと言うとんでもないオチになりかねない。

「また次の機会にかけるよりない……そういう事だ!」


 氏郷が自分と同じように泣いている事に気づいた長可の心が、ついに折れた。


「覚えていろ……!主君の我が子を見殺しにした罪、必ずや償わせてやるからな!」



 長可は痛みと悔しさに顔を歪ませながら、目線だけを馬場信房にやっていた。













 前に向かっている存在と、後ろから来る存在に、気づかないまま。

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