織田信長の感想
「何者だ」
「森長可とか言う織田の若い将のようです。まだ二十歳にもならぬとか言う」
「そうか」
それ以上の言葉は、なかった。
(すわとした 目を見開いて 晴天を 四方に突き抜け ひしと構える)
それでも脳内では、ひっそりと辞世の句めいたそれも詠んでやりもした。
—————信玄なりに、勝頼の悩みも理解していた。
勝頼が、自分を越えたがっている事。
自分ではない武田を、求めている事。
先祖が何を言い散らかした所で、お家を決めるのは当主。
そんな実に織田家的な考えになってしまった事を自嘲しながら、勝頼を失った中央の戦場を見た。
劣勢の気配はない。
森とか言う織田の男が率いる軍隊が突っ込んで勝頼軍を磨り潰したが、ちょうどそこに内藤昌豊が来てくれたおかげで上杉・北条軍は崩れずに敵軍を食い止めている。
明智軍の残党や滝川一益、あと池田恒興とか言う敵はいるが、両者とも突破力には欠けている。
このまま終われば、こちらの勝ちぐらいの気分ではある。
「丹羽は兼山城に逃げ帰ったようです」
「もちろん向かって来ない訳でもないだろうがな。今はとりあえずあの連中をなんとかせなばなるまい、律義者たちを」
となればまずは自分たちだ。前田利家に徳川信康とかいう二人の男が率いる軍勢により、右翼側が危なくなっている。
山県昌景そのものはまだ元気だが、何せ連戦を重ねて来た軍勢である。どっちもどっちとは言え、このまま戦いが続けば万が一の事態が起こりかねない。
「これがこの戦、最後の一手じゃろうな。後はもう何もできることはない」
「もし仮にこれが失敗したら」
「逃げるだけよ」
同じ手を打つにも、打つ人間の覚悟と言う物がなければならない。
苦し紛れが当たるのはそれこそまぐれであり、苦し紛れに見えても予測の範囲内であればその効果は大きく変わる。もちろん臨機応変も大事だが、偶然の思い付きは思い付きでしかなく、あらかじめ予期していた手とでは兵たちの覚悟も違ってくる。
(戦場でとっさに思いついた手で動かせるのは股肱の臣たちだけだぞ、あとはその股肱の臣の重臣かそれに引きずられるような雑兵かだ。無論信長にそんな家臣がおらんとは思っとらんが……)
その予期していたなりの覚悟で敵を討たせる、それが自分の役目だと信玄は自覚していた。
「出撃命令が出た!」
秋山信友の言葉と共に、小休止を終えた軍勢が動き出した。
数はおよそ三千少々、武田にとっては最後から二番目の予備隊である。
その予備隊が柴田・徳川へ向けて動くと同時に、戦場は一瞬静かになった。
そして静寂を隙と見たかのように、秋山軍は戦場に舞い戻った。
いや正確に言えば、武田武王丸軍が。
「いざゆけ!」
悲愴さがあってしかるべきはずの声に重みはなく、ただ勇ましく甲高いだけ。
まるでついさっき何が起きたかわからない純粋無垢な幼児そのものか、あるいはすべてを飲み込んだ上で気丈に振る舞おうとしているのかわからないほどの声。
いずれにせよ誰かに言わされたとは思えない、戦場に不似合いだと拍子抜けするには似つかわしすぎる声。
「武田の御曹司を討てば武田は終わるぞ!」
それに対抗できるのは、結局同じ立場の人間だけだった。
徳川信康の声と共に、徳川軍が腹に力を入れる。
「武田めぇ!」
本多忠勝と同い年の俊才、榊原康政が徳川軍の先陣に立つ。
もし凡人がこの時の徳川家の人間たちの心を覗く事ができてしまったら、焼死していたかもしれない。
ただでさえ主の仇である武田信玄との直接対決と言う状況で真っ当な闘志の炎が燃え上がっていたのに、武田勝頼とか言う後継者だったはずの男とその側近のあまりにも低次元な行動、さらにそのせいで敗走を余儀なくされたと言う事実。
そして今、信玄の孫が自分たちの面前にまで出て来ている。
その全てが心に火をくべ、徳川軍全体を燃え上がらせていた。
もっともこの時徳川軍が対峙していた山県昌景は安易な突破を許すような軍勢ではなかったし、武田武王丸の存在を知って気合を入れ直さない人間でもない。
「ここは絶対に通さん!」
昌景自ら先頭に立ち、康政ら徳川の将たちと打ち合う。まさしく武芸の達人と言うべき振る舞いであり、武田家の強さは一体誰のおかげなのか全力で主張している。
「くそ!貴様のような男ばかりなら!って言うか信玄はどうして!」
「お館様は勝つために四方八方手を尽くし泥水を呑む覚悟を背負っておられる。それだけの事!」
山県軍も援軍の存在に勇気を受けているのは当たり前であり、いくら疲弊しているとは言え崩れる要素は薄い。徳川軍は小休止してある程度体力は回復しているが敗戦ゆえにその点の恩恵はあまり受けておらず、連勝とまでは行かないにせよ敗戦していない山県軍とは勢いに差がある。
時折織田方に援護射撃の銃声が混じるが、ここまで取っ組み合いになると銃はもはや脇役でしかない。狙おうにも味方撃ちにしかならず、そうならないようにするためには相手に突破されるしかない。横に回れればいいが、そんな隙間はもうない。
もはや戦場は斬り合いではなく殴り合い、それこそ力と力の戦いになっていた。
それは中央でも同じであり、内藤昌豊が凄惨なる戦場を楽しむかのように暴れ、森長可や蒲生氏郷ら若者たちはおろか、滝川一益と池田恒興さえも柿崎軍と松田軍を生かして互角以上に戦っている。
「武田の小僧などにひるむな!」
「先ほどひるんでおったぞ、前田とか言う犬男は」
「前田殿は犬ではない!勇猛なる狼だ!」
そんな激戦の中でも信康は吠え、昌景は信玄を見習ったかのように軽口を叩く。
その間にも血は流れ、指の一本や二本軽く飛ぶ。正気の人間など、何人いるかわからない。文字通りの修羅場、いや地獄。
「勇士を救え!」
そこに飛ぶ七歳児の声。
それに伴う兵士たち。
徳川勢に向けて折り目正しく襲い掛かり、家康を焼いたようにその命を奪おうとする。
若き俊才に焚き付けられた兵士たちが山県勢をも上回る勢いに、徳川勢は再び退かされそうになる。
「何をやっている!こうなればわし自ら!」
「おやめなさい!この大叔父の言う事を聞きなされ!」
「今はただの従兄弟だ!」
「しかし今のあなたは織田奇妙様の義兄弟!義父上に!」
信康を忠次は必死に食い止め、信長の娘婿と言う立場を持ち出して信長の裁可を仰ぐと言う名の時間稼ぎにかからせる。
だが、間に合わない。
「忠次!山県を頼む!」
信長本隊・柴田軍と武田本隊の戦いもまた一進一退。
織田軍は武田軍に比べ急速に兵を増やしたためか上層部はともかく中層部が弱く、そのためどうにも押し切れない。下層部の兵は尾張時代からの兵や腕自慢の傭兵が多いからなんとでもなったが、信玄はそんな弱点などとっくに見通していた。武田もだが、織田も余分な兵などほとんど残されていない。
—————いや、となろうとした所で徳川勢がいきなり停止し、そのわずかな時間と共に数十名の兵士が戒名を求める身となった。
信長の「五郎左を呼べ」と言う言葉をかき消すように上がった旗。
手勢を分割した徳川信康の前に立ちはだかった、一本の旗。
高々と上がったその旗を見た事がない人間など、せいぜい柿崎軍と松田軍だけだっただろう旗。
その旗が秋山家の三階菱と甲陽菱の間に混ざり、先鋒の一角となっている。
そう、織田木瓜の、旗が。
※※※※※※※※※
「御坊丸様まで利用なさるとは!武田め、どこまで道を外れれば!」
「構わぬ、討て」
織田木瓜の旗に怯んだ徳川勢が崩れかかる中、信長は極めて冷静かつ淡々と命令を下す。
(犬千代め、さすがにそこまでは読み切れなかったか……)
信長はこの時、前田勢がある意味簡単に崩れた理由にようやく思い至った。
表向きは山県軍を防ぐとか言いながら、御坊丸との戦いから逃げたのだろう。
だが自分をして、武王丸や御坊丸をこんな戦場にまで連れて来るとは読めなかった。
ましてやこんな風に指示を出させるなど、予想外にもほどがあった。
「しかし御坊丸様は本当に武田に」
「信玄は当初から目を付けておったのだろう。おそらくは自らの孫の道具としてな」
信玄はどこかで、勝頼を見切っていた。
こうして明智光秀を道連れに散るのが似合いの華々しい最期だと。
「信玄坊主も無茶をする。自分を意識しない人間を後継者に据えようなど」
そして嫡孫である武王丸とやらを後釜に据えるために、功績を上げるおぜん立てをしてやろうとでも言うのか。
だが、現状を見る限り成功中と言わざるを得ない。
今から丹羽勢を駆り出した所で、武王丸や御坊丸を討てるとは思えない。せいぜい、秋山信友が犠牲になって逃げられておしまいだろう。
「しかし信虎を追い放ち、義信を斬り捨て、今勝頼まで捨てた信玄など正直」
「余は弟を斬り、信虎も叔父を斬り、謙信とて兄を追いやった……」
信長の言葉は、今までになく弱かった。
信長は家内の安寧と今川や斎藤と言う大敵に立ち向かうために弟たちを殺した。信虎も分裂していた甲斐をまとめるために叔父を斬り、謙信も長尾家の安定と越後の安寧のために自ら刃を振るい兄のために働いたがその兄に裏切られて結果的に兄を凌いで長尾家の当主となった。
すべては、理なのだ。
比叡山焼き討ちだって現世の人間から搾取を行う宗教組織の腐敗を正すためにやった事だし、桶狭間だって今しかないと言う時期を図って行っただけに過ぎない。
それこそが信長の揺るがぬ信念だった。
「信玄は自らの名前にすべてを賭けたのかもしれぬ……甲州の小大名から三国、いや今や六カ国にまたがる大大名となった自分の名に…………」
信長をして、それ以上の言葉は出て来ない。
別に恐れひるむつもりもないが、それでも改めて武田信玄の力を思い知った気分にはなった。
「五郎左には酒席の準備を整えておけと申せ」
「それでは……!」
「余はこれより徳川勢を救いに参る。その必要もないかもしれんが」
信玄が次に何をするか、もうわかっている。
わかっているが阻止する手段はない。
なればどうすべきか。
そこまで寸刻の間に考えた信長が動くと同時に、柴田軍からざわめきが起きた。
「コラ!何のつもりだ!」
急に、武田軍が踵を返し出した。
もちろんみっともなく背中を向けての敗走ではなく、整然とした後退。
「もう十分武田の強さを思い知らせたからな!また勝負してやるから腕を磨いてかかって来い!」
勝家が吠えようとも構う事のない山県昌景の口上が武田軍の兵を動かす。
信玄も織田勢の健闘を称えるかのように軍配を扇ぎ、憎たらしいほどの笑顔をこちらに見せつける。
「権六、又左、追え」
対して信長は、それ以上の言葉を口にすることはなかった。
表情もまともに変えることはなく、ただ淡々とそう告げた。
武田信玄と言う、兵の強さや運用能力、総大将としての心根のすべてに長けた存在。
だがその上に乗っかっている、それらだけではない、凄み。
実績とか年齢とか、そんな理屈の産物ではない何か。
そのような存在が確かにあると言う事を理解した信長は、この場における最善手を打った。
それだけの事だ。




