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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第七章 美濃大激突
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武田勝頼の最期

 戦意高揚と攻撃の合図のつもりだったのに、あらゆる意味で早すぎた弔砲にもなってしまった。


「十兵衛……その才覚、まだ世に生かせただろうに」


 弔砲を図らずして為してしまった信長は光秀の死を人並みに惜しみながら、その上で決して表情を崩さない。

 その上で光秀を一益より先の位置、土岐郡に近い位置に配置した自分を責めながらもなおこの戦いの行く先を思った。


 信玄が、深追いするだろうか。


 確かに明智光秀を失ったのは相当に痛いが、武田勝頼が助かるとも思えない。

 いや、仮に助かったとしてもその名前は上がるどころかむしろ落ちているはず。


「しかし明智様が討たれたとなると」

「心得ておる。だがなればこそむしろわかりやすい、いや満天下に自分の狙いをさらしてくれたようなものだ」

 —————なれば。

「我々自ら押す。又左と共に、そしてもう一人」

「それがしを!」

「徳川勢よ。後で三河殿に詫びねばならぬが、勝頼には徳川殿は合わなかった。あの獣には」


 恒興を押しのけ、信長は徳川の名を告げた。

 徳川は自分のように突拍子もない事ができる家ではない。ただ忠実に命令を受け、忠実に実行するのが取り柄だった。それゆえに勝頼の狂気を読み切れず、あんなあっさりと敗走してしまったのだろう。


「信玄はよくほざいていた、六分の勝ちは上、八分の勝ちは中、十分の勝ちは下と。幾度も言葉を口にする事により皆それを知り、国の外にも流れ出る。余でさえも知るようになる」

「それで……」

「決して無理をしない、強引な手など取らないと思わせる。敵を欺くにはまず味方からでもあるまいが、それでここ最近勝って来たのだろう。余が魔王魔王と言い続けて来たようにな」


 信玄は元から家臣に押されたとは言え父親を放逐し、籠城していた敵軍を脅すために敵援軍の首を並べ、さらに家内の方針で長男をも放逐するような男だった。自分が魔王なら、あっちだって魔王と言われてもいいとまで口にしないだけで信長の家臣たちは思っていた。

 とにかく、信玄が自分の言葉を利用して決して無理をしないと思わせて打って来た一手の前に、徳川も織田も翻弄され続けている—————。

 

「だが事ここに至っては奇策の打ちようもあるまい、ただ用兵が精一杯、なれば徳川勢に真っ正面から当たらせるまで。勝三郎、徳川と共に行け」


 ここで正義の味方になっておくのも悪くはない。千の悪事の中に一つの武士道を見せればそれが数百にもなって輝く事を知っていた信長は、恒興とその手勢を徳川への使者として渡した。


 本来ならば、自ら出向きたかったぐらいだ。


(筑前も連れて来るべきだったか……)

 畿内の国情定まらぬを不安視し羽柴秀吉を置き残し四人の将以外は若い衆ばかりしか連れて来なかった事に嘆息しながら、今自分ができる精一杯の誠意を振りかざす。

「氏郷も長可もよく育っている……」

 その上で若者たちの成長と早熟ぶりに内心目を細め、自分の不完全ぶりを恥じる。



「信玄よ、一人では世は変えられぬ。余でさえもいつかは果てる。その先の事を考えておるのか……?

 まあ、考えておるからこそなのだろうが……」


 武田信玄の狙いを完全に絶つためには、殺さねばならない存在がいる。

 だがそれを殺す事はできない。

 信玄や勝頼のように全力で挑みかかってもおそらくは彼だけ逃がされる。


 そして彼がいる限り、武田は当分倒れそうにない。



 この場での戦いの限界、そして勝頼の行く末とその先の事態。


 見えかけてしまったそれを少しでも自分優位に傾けるべく、信長は必死に力を振り絞った。




※※※※※※※※※



「明智光秀が死んだのか……」



 松田憲秀と言うのは、実に北条家らしい男だった。


(これで武田の勢力は膨らむ。上野にも勢力を伸張させ武蔵や下野を犯しに来ないだろうか……)

 美濃まで来ておきながら心配するのは関八州の事ばかりで、その上自分たちが武田家と同盟を組んでいる事も忘れている。自分たちが信玄に三国同盟をぶち壊しにされたからでもないが、今更同盟相手とか名乗っている武田家の事など信頼する気などなかった。ゆえにあそこまで損害を受けた徳川を切り捨てる様子のない織田家の事が理解できず、いずれは配下として吸収する気だったと本気で思っていた。


(実際家康が生きていた頃から、徳川家内部でもこのまま同盟を続けていれば織田家に吸収されるという声も強かったはずだ……)


 嘘ではない。


 ただ、それは築山殿と言う声ばかり大きな人間がわめき続けていた結果だからよそにも聞こえただけで、徳川家内部はまとまっていた。その上徳川の情報操作も相まって正確な所を得られなかった北条家では、今すぐにでも織田のくびきから逃れたがっていると思っていただけの事だ。

 家康の出撃を促し結果的に戦犯となった北条の現当主氏政の妹は夫と共に京にいるが、その際に築山殿が罵詈雑言をわめくにあたり息を荒げ顔を赤くし、その上に口元をゆるませていた事など憲秀は知る由もない。



(しかしあの薬……風魔が信玄に渡した薬とは一体何なのだ?)


 憲秀にとっては、織田よりもまだ徳川の方が重要であり、それ以上に「風魔の秘伝」の方が重要だった。

 氏政からその存在を教えられたその秘薬が、本当に信玄のために使われたのかはもはやわかりようがない。わかるのは、その薬を受け取った翌年以降信玄が急速に侵攻を速めた事だけ。

 まさか性格すら変えてしまう薬なのか……




「そうか、薬か!」

「…………んっ……!?」


 そんな所にいきなり薬と言う言葉が出て来たから憲秀は慌てて息を呑み、叫んだ景家の方を振り向く。


「松田殿、何か」

「いえ特に、その……それで」

「その話は二人だけで」


 景家が舞台から離れたのに付き従い自分も部隊から離れ、馬を降りた。さっきから浮かれていた景家も憲秀の態度と話の重大さに気づいたのか同じく馬を降り、耳元に口を近づけた。




「おそらく大夫殿は薬を飲んでおられた。

 聞いた事がある、一時ながら力を与え痛みも苦しみも感じぬ薬があると」




 —————聞くだけでも恐ろしい。


 そんな物が普及すれば、一向一揆のように信仰の力を得なくとも絶対に逃げないし死ぬまで戦う最強の軍勢が出来上がりそうだ。

「そんな……」

 ととぼけたようにこぼしてみるが、実際その力で徳川軍を追い払い明智光秀を討ち取ってしまったと思うと敵でなくてよかったと思うしかなくなる。しかも、勝頼だけではなく兵全体があんなになっている所を見ると相当な量があるようだ。あるいは今後も、と考えるには十分なお話かもしれない。




 しかし

「ひゃはははは死ぃねぇ!」

「ああ、ああ、お前を、殺しぃぃ……!」

「痛い、痛い、イダイィィィィ……!」

 多くの兵士たちがけたたましく笑ったり、もがきながらも殺意をむき出しにして吠えていたり、さらに急に倒れ込んでもがいているのを見るにつけ、その薬の恐ろしさを深く胸に叩き込まれる。


 まさか信玄が—————いややりかねないと思わなかった訳でもないが、逆に信玄が関わっていないとしたら話の辻褄が合ってしまう。


 その事実から逃げるように憲秀は織田援軍の方に兵を向けるが、ある意味もっとおぞましい事実がそこにあった。




「お前たち!明智様の仇を討て!

 武田勝頼の首を取れば千石、いや万石は固いぞ!」

「敵はただの兵士だ!皆と同じように手柄の快感に笑い、相手を討つと言う職務に忠実であり、さらに相手からの打撃に苦しみもがくただの兵士だ!」


 織田方の若き先手大将と、指揮官。まだ二十歳にもなっていない二人の声。



 まったく、動揺がない。

 目の前の狂乱を素直に受け止めている。


「お前らなんかにぃぃぃぃ!!」

「お前らなんかにぃぃぃぃ!!」


 先手大将の方は武田軍の狂乱をおちょくるように真似をして見せ、指揮官の方はこちらに兵を向け明智軍を支援しながら攻撃にかかっている。


 憲秀は急ぎ部隊に戻るが、寸刻の間に押され出していた。




 —————先ほどまで明智軍を蹂躙していたはずの勝頼軍の後退、と言うより壊滅。




 単純に体力と薬が切れた事による停止もあったが、それ以上に敵の質の差もあった。

 徳川軍も明智軍も、折り目正しき軍勢。一方で今の織田軍、と言うか先手大将の軍勢は文字通りの乱暴者の集まり。怒る理由があるのにそうせずにいた分別臭が、薬とは別に勝頼軍に嫌悪感と力を与えていたが、今回の相手はそれがない。


(薬とはむしろ、本音を引き出すそれではないのか……?)


 勝頼が何を望んでいたのか。何を求めていたのか。もうそんな事は知りようもない。


 だがおそらくは—————



 とか言う事を考える間もなく、北条軍が本格的に押され出した。

 元より明智軍の前に腰が引けていたような軍勢が本格的な攻勢にかなう訳もない事は自分でもわかっており、損害を出さないようにゆっくりと後退を始めた。もう武田も上杉も、正直どうでもよかった。

 早く小田原に帰り、武田の恐怖を氏政に伝えたかった。




「ぐうるぁーっ!!」




 なのにそれを許さじとばかりに、これまでにもまして耳障りを極めた音声が入り込んで来る。人間の喉から出ているのに野犬のそれとしか思えない音声。

 しかも、一つや二つではない。


「ヒヒ、ヒヒヒ、ヒヒヒヒヒヒ…………!」

「じぃねぇぇぇぇ!」

「ああ、いだい……いだ、い……!」


 いや全盛期に比べればケタ一つ違う数しかないのだが、それでもその唸り声と同時に重なる笑い声やうめき声。

 戦場だからで割り切るにはあまりにも醜悪な音楽。

「ゆっくりと、ゆっくりと……!」


 憲秀は必死に後退する。

 すべては、今まで幾度も踏み込んできたはずのどの「戦場」よりも恐ろしい「地獄」から脱出するために。



「どこへ行こうと言うのですか?」



 だと言うのに、後ろから来る太い声。


 腹が立つ事に、耳慣れてしまっている声。


「ああいやその、少し押され気味なので後退しようかと」

「そうですか、ではこの内藤が敵を食い止めますので」


 内藤昌豊とか言う、すまし顔のままとんでもない言葉を口にする男。まるで信玄の第三の目の役目をするかのようにへばりつき、逃げる事など許さないと言わんばかりに真横に並ぶ。

 憲秀が全ての希望を失った顔をしながら昌豊の方を見ると、笑っていた。


 目の前で、武田家の後継者が孤立無援で暴れ狂っていると言うのに!








 ………………………………そして!







「あがごがぐげぇー!!」




 何の意味があるかのかわからない喚き声と共に武器を振り回し、道連れを作ろうとする武田家の後継者がいると言うのに!




 そう、わずか数十秒から一分少々の間に勝頼軍の兵士は次々と力尽き、四千近かったはずの兵はもはや千もいなかった。


 元から乱暴な突撃を繰り返して来たから傷が多かったのは言うまでもないが、それにしてもあまりにも一瞬にして崩壊した。薬—————とか聞くには昌豊の存在は恐ろしすぎたが、そういう物が関わっているとすれば合点の行く死に方。


「しかしその、武田の!」

「織田信長め、万死に値する!」


 口ばかり大層な事を言い、わざとらしく織田軍との戦いに忙殺されている。


 ここまで嫌われたと言うか見捨てられた勝頼に同情を禁じえずにいると、また悲鳴が飛んだ。




「わしはぁ!わしは武田家の後継者ぁ!武田ぁ、四郎ぅ、勝頼ぃ!

 わしの力ぁ!何故にぃ、何故に、認めぬのだぁぁぁぁぁ!!


 父上、いや、信げぇぇぇぇぇぇぇぇぇん……………………!」







 直接姿を見る事は出来なかったが、その悲鳴に続くように大木が転げ落ちる音と、首を取られる音がした。




 父親を呼び捨てにしながら、勝頼は義信と同じ場所へと旅立った。




 父親はおろか、祖父よりも先に。







「おのれ織田め!若殿様の無念を晴らすのだ!」

「おう!」




 昌豊のあまりにも白々しい言葉と共に、武田軍は織田軍を本格的に殺しにかかる。




 一刻も早くこの場を去りたがっている存在の意志など、まったく無視して。

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