松田憲秀の嘆息
「明智光秀を討て!」
「行くぞ」
柿崎景家がはりきっている中、松田憲秀はその三文字を大声で棒読みしただけだった。
(全く、上杉謙信も本当に人がいい!その忠臣ならばそれもまたしかりとは言え……!援軍がどんな物なのかわかっていないのか…………)
援軍など本気でやる物ではない事を、景家はわかっているのか。
援軍など適当に動くかハッタリとして控えておき、なるべく労少なくして恩を売るのが最高の展開だと思っている。氏政からも
「いざと言う時、どうしてもと信玄から言われる時までは決して大きく動く事はせず、北条家の名をなるべく高く売れ」
と言い含められていた。
武田軍と織田軍では数が違う以上、武田が勝ったとしても大損害を受けるのは必至。
そんな戦いにわざわざ自分の大事な兵力を割いてやる必要などどこにもない。
この前の遠江だって息子の直秀を送り、始終信玄の暴走を眺めているだけで初陣の真似事を終わらせると、それなりの報酬をせしめることに成功した。直秀が武田に対し過剰なほど不可解な恐怖心を抱いている事ぐらいは気にしていたが、今回もまたそれ以上何もする気はなかった。
「先代様(氏康)はなぜ必死に武田を守ろうとされたのか……!」
関東圏を制覇できればいい北条にとっては、織田の盾になるのが武田だろうが上杉だろうが別にどっちでも良かった。ただ関東管領の名前を振りかざしてしょっちゅう邪魔して来る上杉より武田の方が数段好都合であり、正直とても真摯に働く気になどなれなかった。
ましてや今度の戦は勝ったとしても武田を太らせるだけであり、北条にはほんのわずかな現金か米しかもらえない。武田がいつ何時自分の敵になるかわからないのにあまりにも人が良すぎる。
「松田殿何か」
「いえその、特に何も」
「これより簒奪者織田信長の手下を討つのです!武田と共に!」
道中でも景家はやけに立派なことを言っては笑顔を振りまき続け、武田の連中とも仲良くしていた。
川中島を巡る戦いでずっと因縁深きはずの相手に向かってそんな顔のできる景家の面の皮の厚さを試したくなったのをこらえて無理矢理笑顔を作ると、とりあえず相手の顔色を読めるぐらいの能力はあったらしい景家の眉が垂れ下がる。
「この戦勝の暁には涙で袖を濡らした上様の開放も成りましょう、真の開放と平穏の次代のためには、やはり上様と幕府が必要なのです」
「しかし足利様、いや上様は話によれば」
「織田は織田の流したい情報を流す物。そのような虚報に惑わされてはなりませぬぞ」
風魔忍びにより、足利義昭は京にとどまったままのほほんと隠居暮らしを送れていると言う話が入っていた。さすがにその次の羽柴秀吉を主君として仰いでいるとか言う報告は話半分に聞いていたが、いずれにせよ義昭に今更謙信の傀儡になる気があるのだろうか。
とか言う考えを胸の中にしまい込みながら、憲秀は前進した。
「大将様」
「その方も思うか。柿崎は異常だと。いや、どちらかと言うとこの戦全体が異常だな」
もちろんやる気がないから行動は緩慢であり、愚痴もあふれ出す。武田勝頼の救援と言うのは別にいいとしても、どうして他の武田軍がまるで動いていない中自分たちが何とかしなければならないのか。その愚痴が通じない景家が意気揚々と出て行くのを見るだけで、やる気を削がれて行く。
「まあ、あまり急ぐ必要もあるまい……全軍、明智軍の出方をうかがいながら進むぞ」
ほんのわずかな間に小さくなった景家を顧みる事なくまったく疲れない速さで馬を進め、最初から腰が引けているのを隠そうともしない。情けない援軍だと思うんなら思えと言わんばかりだ。
「ん……」
そんな緩慢な軍勢の前に、いきなり敵兵が姿を現した。
数はおよそ百名。旗印からして織田軍である事は間違いないが、やけに不揃いな軍勢。
「あの、あの男を、殺す……!」
戦場と言うにしてもどこか執念と言うか妄執を剝き出しにしたような、不釣り合いと言うか早すぎる声。
いきなり落ち武者でも現れたかのようにいきり立つ先鋒の男に対し、後続の連中は完全に腰が引けている。
「撃ちますか」
「そうだな」
討ちますか、ではない。
それが、目の前の騎馬武者のすべての価値だった。
「やれ」
憲秀のその二文字と共に、弓兵が次々と矢を放つ。
なぜか一瞬だけ笑顔になっていたその武者の体中に矢は簡単に突き刺さり、そのまま彼を針鼠にした挙句この世から去らせた。
「で、誰だ?」
殺しておいて相当に酷い口上だが誰も何の突っ込みも入れる事はなく、適当に首をもがれ、適当に憲秀が首袋に入れて提げた。
残っていた兵はこの松田軍の緩慢運動の前にとっとと逃げてしまい、松田軍も特に追いかけようともしなかった。
こうして、忙中閑ありとか言うにはあまりにも悠長な時間の流れた空間の中で、跡部勝資は勝頼を遺して彼岸へ旅立ったのである。
「信玄め……」
その亡霊のような武者の死を感じ取った勝頼の目から、いよいよ光と言う光が完全に失われた。
(北条か、上杉か……どちらかに殺させれば角は立たない……と言うか「裏切り者」を始末したとして名も売れるか……そうか、どこまでもわしの上を行く気だなあの男は……)
勝資が織田方に居る事も、実は勝頼は気づいていた。あえて長閑斎らには伝えず、内心で助けなければならない対象として追い求めていた。
すでに処刑されていれば諦めも付くし、拷問でも受けていればなおさらやる気も出る。
さらにこの場において「敵将」として駆り出されているのを知っていてなお、信長か誰かを討つために服従したふりをしてくれていると信じていた。
そしてすべての予測が当たった上でこんな結末になってしまった事を勝頼は悲しみ、同時に信玄に対しての恨みをますます深くした。
「明智光秀を殺せ」
「はっ!」
口から出た言葉はそれだけだったが、勝頼が殺せという対象が無限大とでも言うべき程に肥大している事を知らない人間は誰もいなかった。
「しかし殿、上杉軍が」
「挟撃にでも利用してやれ。あの説教を垂れるのが趣味な老害を取り除くためにな」
その言葉のまま勝頼軍は北東からやって来た明智軍に攻撃をかける。
無言のまま攻撃を放ち、次々と人を殺す。当然と言えば当然の行動だが、先ほどまでの狂騒ぶりとは全く違う戦いぶり。
「徳川軍は後退していますか……いったん下がりなさい!敵を引き付けてまとめてしまうのです!」
これに対し光秀はすぐさま後退命令をかけさせ、柿崎軍と勝頼軍による挟撃を防ぎにかかった。じっと防備を固めた上で引き付け信長本隊や滝川軍の到来を待つというやり方はまったく正確なそれだし、実に見事な判断だった。
だがこの時の光秀の相手は信玄でも内藤昌豊でもなく、勝頼だった。
その勝頼に取り理路整然としてご立派な判断など、火に枯れ木をくべるが如しである事を光秀はまだ知らない。
「……………………」
勝頼は無言で明智軍を追う。柿崎軍の事など知った事かと言わんばかりに進み、地を焦がしながら明智軍の血を焼きにかかる。
その有様を見た光秀が内心しめたとと思った事を、勝頼は誰よりも敏感に感じ取った。
実際光秀に言わせれば短気突撃とでも言うべき勝頼の愚行は絶好の機会であり、このまま勝頼を釘付けにすればその首を取れると言う確信まで得られそうになっていた。
そして思惑通り、明智軍六千は戦傷などにより減少した勝頼軍三千五百との正面衝突に持ち込めた。
後はあくまでも守りを固め、援軍に横っ腹を突かせるまで。それで勝てると、光秀は確信していた。
「………………」
「………………」
しかし、勝頼軍の戦いぶりは何も変わっていない。徳川軍との激闘で疲弊したはずなのに、まるで変わる事なく命を顧みない攻撃を続けている。
一撃のお返しに一人の命を奪いにかかり、一人の討ち死にに三人の死をもって返そうとする。
しかも無言で。
この勝頼の戦ぶりを見ていた景家は、数秒の制止ののち首を大きく横に振った。
(これが、これが、武田の跡目なのか……)
信玄とは全く違う、冷たくも鋭い刃。先ほどまでは燃え上がっていたのに、ここまで鋭くなれるのか。
「北条勢に伝えよ!早くこちらへ来いと!」
それでもなお、その言葉を口にした。
上杉謙信の家臣として。
そして、この場にて「武田軍」に属する存在として。
※※※※※※※※※
「若者にも良い経験になろう……」
男は全く柄にもなく年寄り臭い事を言いながら兵を動かしている。
「まだ敵軍は残っておりますが」
「内藤に馬場か……だが彼らとて信玄とは違う。信玄にはここまで肥大化したそれをまとめ上げる器量がある。だが勝頼にはない、いや内藤にも馬場にも山県にもない。彼らはそれを食い止めるのがせいぜい」
武田勝頼をも囮に使い、さらに精鋭であったはずの柴田軍を山県軍の用兵ひとつで分断釘付け状態に仕立て上げ、挙句丹羽長秀にさえも敗軍の将の烙印を押させる。
ここまでできる人間がいったい何人いるのかなど、織田信長をして数える気もなかった。
「信玄の後に信玄はない、信長の後に信長なきようにな……」
すべてはそういう事だ。
この武田家の強勢を作っているのは信玄であり、その信玄がいなくなれば元の甲州一国の存在に戻っても何もおかしくない。あるいは信州ぐらいは保てるかもしれないが、信玄がいなくなれば徳川を復活させて攻撃をかけさせ、さらに今川氏真でも駆り出して遠江や駿河ぐらい攻撃することはできる。
「この魔王、俗物の王が天台座主とやらの首を取ってやるまで……」
信長がやる気になって軍を進める中、ついにその視界にあの旗が入った。
—————疾きこと風の如く、静かなる事林の如く、侵略する事火の如く、動かざる事山の如し。
「ようやく来たか、織田信長よ」
「信玄坊主めが、まったく暇な男だ」
総大将同士らしからぬ口上と共に二人の軍勢が隊を組む。
兼山城の南東、中山道の御嵩。
その地にて、信長と信玄による直接の戦いが、ついに始まろうとしていた。
松田憲秀「ああ、中間管理職ってつれーわー…」




