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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第七章 美濃大激突
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武田勝頼の狂騒

「ハア、ハア……」


 信玄が嬉しそうに美佐野に向けて突っ込んで行く中、勝頼はなおも暴れ回っていた。

 父親が死に追いやった徳川家康とその配下たち丹精込めて育てた軍勢を、屍に変える作業を全力でやっていた。


(いまさら期待なんかした方が馬鹿だと言うのはわかっていた……!だがこうも、こうも薄情なのか!)


 山県昌景や秋山信友はおろか、父親まで来ないと言うのか!

 ずっと自分を徳川と戦わせて、その間に南側から行こうと言うのか!

 仮にも跡目である存在を囮に使うのか!




 そして何より、まだ七つの我が子をこんな場所に駆り出すのか!




 その上に、誰もそれを止めようとしない!




「どやつもこやつもさかしらぶって!」


 世の中のすべての理不尽に抗議するように叫ぶ二十八歳の男の前に、徳川軍は次々と倒れて行く。八つ当たりのようなやられぶりに、こっちだってどういう了見だとか言わんばかりに徳川軍も必死に抗う。だがその抗いぶりがいくら言っても聞かないとわかっているのに諦める気のない頑固親父、いや頑迷な老害に見えた勝頼はますます反抗期をこじらせて刃を振るい、信玄や馬場信房をそうする代わりのように兵たちを殺す。


 仲間の愚連隊と一緒に、殺す。

 いや、潰す。


 表向きには徳川とか言う魔王信長の手先だから潰す事にしているが、実際に潰したいのは信玄や老臣たちだった。



「これが、この戦いぶりが誰にできると言うのだ!」


 —————ここで信長を殺せば信玄は否応なく自分を認めざるを得なくなる。

 おそらくは苦虫を嚙み潰したような顔をして自分の力と信玄自身の非才を認め、自ら本格的に隠居して小寺にでも籠ってしまうだろう。

 いや、それこそその際には駿河に居る弟の葛山信貞の下にでも送り付け、祖父信虎にした事への意趣返しでもしてやるつもりだった。

(親を敬えとかどの舌が言う!)

 自分から跡部も長閑斎も祖父も奪った信玄など、絶対に許す気などない。

 信虎はもはや八十路であり、最近では寝たり起きたりになってしまっている。ほんの数カ月前まで征夷大将軍足利義昭様の家臣として命を燃やしていた祖父の有様に、孫は孫らしく心を痛めていた。


「わしは人間らしく、人間として!この世を生きている!その事に一体何の不満があると!文句があると言うのだ!」

 誰に向かってとも聞かせてとも言えぬ叫び声に応える声はない。

「こっちには文句がある!数多の将兵を殺めた罪を思い知れ!」

 それに応えるように酒井忠次が叫ぶが、時も人も不適格だった。


 もしその声を受け取ったのが跡部勝資ならばおべんちゃらを述べて勝頼の自尊心を満たして心を和らげたし、信長ならばなれば来いとか軽く受け止めて勝頼にこれこそ倒すべき敵だと思わせて心を鎮める事も出来た。

 だが叫んだのは酒井忠次、徳川家康と言う真面目が一番だった男が率いていた徳川家の実質的跡目で三河武士を具現化したような男。勝資のような阿諛追従もできなければ、信長のような上から目線ながらも敵の挑戦を受け止めるような男でもない。良くも悪くももっともらしい事を言って、もっともらしく武士として対峙するのが当然だと思っている男だった。

 だが忠次も忠次で、今の敵がそんな言葉をまともに受け取れるほど真摯でない事を忘れていたのだから連帯責任とも言えなくはない。決して頭の悪くないはずの男らしからぬほんの僅かな失態に勝頼の心は深く傷つき、さらに頭を熱くした。


「他に言う事はないのか!」

「あるか!これが大殿様を死に至らしめた武田の跡目か、ああ嘆かわしい!」


 忠次は平気で地雷を踏み抜き、決して恥じる事も悔やむ事もない。家康を殺した武田家に対する恨み、そしてその家康への忠義心が一周回って武田家に尊敬すべき敵である事を期待する心理が混じり合い、忠次の頭をも熱くしていた。


 そしてどっちも熱くなった場合、力を持つのは暴論を吐く側である。

 元々暴論である時点で底辺なのだが、それと同じ程度の調子で吐かれた正論は落差の分だけ悪い印象を与え、逆に暴論を吐く側を勇気づけてしまう。ましてや相手が馬の耳に念仏だとわかっているのにそんな事を言うのは馬鹿正直を通り越した馬鹿であり、それをやっている忠次の評判は芳しくならない。戦場で評判も何もないが、少なくとも相手の士気を高揚させた馬鹿と言う謗りぐらいは受けてしかるべきかもしれない。


 そんな愚か者と愚か者が率いる軍勢同士の戦い、と言うか殴り合いになった時勝つのは、数と意地と気合に優れている方だった。そうなると有利なのは言うまでもなく勝頼軍であり、酒井忠次により理性的に動くはずだった徳川軍は押されている。

 そして援軍のはずだった跡部勝資の軍勢は勝頼の目に入らないまま、そこにいない信玄を殺すべく武田本陣への特攻兵になっていた。




「徳川様!」




 そんな勇者の軍勢を救う存在。




 それこそ、明智光秀だった。




「明智殿か!」

「滝川殿にも援護を要請しました!我らが襲われれば滝川殿、いやお館様の精鋭自らが勝頼を討ちます!」


 跡部勝資の暴走を目の当たりにした光秀が、動いたのだ。

 信玄が柴田軍を攻めている事を理解した上で。


 もし本当に勝頼を信玄が見捨てているのならばそれでもよし、ならば一人でも多くの敵兵を討ち武田の体力を弱らせるまで。



「さあ敵を討ち徳川殿を救うのです!」


 光秀は武器を高々と掲げ、徳川軍本隊を突き破りかけていた勝頼軍の横を突きにかかる。

 これまで控えていたそれにふさわしいきれいな鎧を着た軍隊が、それにふさわしい正確な攻撃をしている。そうしない兵は徳川軍の後退と態勢の立て直しをすべく防衛戦を張り、正確に敵を待ち受ける。

「邪魔をするな!」

「邪魔をするためにここに来ているのです!」


 勝頼に対し、光秀は揚げ足取りとも言えなくはない言葉をぶつける。

 戦場に来ると言う事自体人殺しかその手助けをするために来ている訳であり、邪魔とか言うのは相当に美化された単語だった。もちろんこれは武士なりの礼節であり、そういう口上を用いる事が勝頼への礼儀だと思っていた。

「邪魔、か……」

「そうです、邪魔をするためにここまで来たのです!さあ行きなさい!」


 その言葉遣いは、明智光秀にとって全く日常の言葉遣いだった。

 そして彼は将軍や朝廷と会う中でずっとその丁重な言葉遣いをやめる事なく、真っすぐに貫き、そして磨いて来た。

 秀吉や勝家とはまったく違う気品が、魔王率いる織田軍の中で彼の存在を高めていた。

 三つ子の魂百まででもないが、まったくいつも通りのそれに過ぎなかった。


「……そうか。邪魔をしたいのか」


 光秀はこの時、顔にまで返り血を浴びていた勝頼の顔を見ていなかった訳ではない。

 目が据わっていたのも、戦場ゆえ仕方がないとしか思わなかった。

 野太く低く殺意に満ちた声も、敵だから当然だとしか思わなかった。



「わしのやっていることが、邪魔するにしか値しない、と……?」



 殺してやるとか、討ち取ってやるとか、あるいは死ねとか言われた方がまだ、今の勝頼にとって温かい言葉だった。

 邪魔をするだけならば、追い払うだけでも成功だと言えた。

 実際光秀はこの戦の勝利が敵軍全滅ではなく敵軍撤退である事を理解しており、そのまま信濃へと引っ込んでくれるのならばまったく追う機などなかった。もちろん岩村城についてうんぬん言いたい事はあったが、最悪そこまでくれてやってもいいぐらいまでは思っていた。



「武士の心を踏みにじるか、明智とやらめ……」



 邪魔をするなと言う言葉は、今の勝頼にとってお前など殺す価値もないと言われているに等しかった。

「は?」

「死ね……むごたらしく…………死ね…………!」



 その一瞬の隙を突くかのように、勝頼は徳川軍を薙ぎ払い明智軍へと突っ込んだ。


 勝頼の配下の愚連隊たちは折り目正しき明智軍を徳川軍、ひいては信玄の軍勢と同じようにみなし、逆恨みをぶつけるべくさらなる武勇を振るった。

 当然明智軍も予想の範疇だったからしっかりと対応するが、それがますます勝頼軍の闘志を掻き立てる。疲労と言う言葉を忘れたかのように武器を振り回す集団にとって折り目正しき対応は全て憎悪の種であり、力の源だった。


 もしこの時光秀ではなく滝川一益だったら、まともに口上を言う事もなく単純に突撃して撃破していたかもしれないし、あるいは今の勝頼に見合った口上を述べていたかもしれない。


 だがそれはただの運でしかなく、信長にも光秀にも全く責めのないお話だ。




 無理矢理信長を責めるとすれば、勝頼がそこまで世間的に言って愚かな情念に凝り固まっていたと読み切れなかった事だろう。




 この点、信長は家康と同じ失態を犯していた。


 家康は信玄が上洛を第一と読み、上洛のためには尾張の織田信長を倒さねばならず、枝葉末節のはずの遠江三河などに全力を注ぐ事はないと思っていた。

 だが信玄は多くの兵を盾にして強引に浜松城へと突っ込み、多数の犠牲を生んだ挙句家康を殺すだけ殺して甲州へと帰ってしまった。


 どう考えても愚かな話だったゆえ、その可能性を家康は排除してしまった。そして酒井忠次以下の宿老も同じようにその可能性を脳内で勝手に排除し、誰かが言い出したとしても一笑に伏すつもりだった。


 信長と言う天才や家康と言う真面目な優等生は、「予想の下を行く」行動を読み切れない所がある。それでも信長は現状を把握した上で作戦を高速で切り替える事ができるが、家康にはそれができなかった。

 そして信長でも、勝頼の中にあったどす黒い感情までは読み切れなかった。

 信玄を出し抜くために功名心に逸るのまでは読めていても、酒井忠次や明智光秀と言った優等生に優等生の対応をされるだけでも前後の見境を失うほどまで壊れているなどとは思っていなかったのだ。



「明智光秀……上様を返せ…………」

「上様はもう、上様と呼ばれる事すら好んでおりませぬ。もはやただの足利家の当主に過ぎぬのです」

「黙れ偽善者…………いつまでその取り澄ました上っ面のままでいられると思っている、この老害が……」


 まだ四十六歳の光秀を老害呼ばわりする程度には幼い男の軍勢が、これでもまだ最後の一歩を踏み出していない事など信長はおろか光秀も忠次も気付いてはいない。




 そんな二人にとって、次の報告はある意味で天恵だったかもしれない。


「武田から援軍です!」

 ようやくまともに勝頼を守りに来た軍勢がいるのか。

「誰だ!」

 わずかに口を弾ませた光秀だったが、すぐさま微妙な表情になってしまった。




 三つ鱗と竹に雀、いや二重直違いと蕪。




 北条と上杉と言うか、松田直秀と柿崎景家。




 そんな存在しか寄って来ないのが勝頼の現実だった。




 勝頼はその感情を飲み込むように、腰に付けていた竹筒の中身の液体を飲み干した。

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