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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第七章 美濃大激突
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丹羽長秀の大混乱

「どうなっているのですか!」

「敵が来た、と言うだけの事だ……!」


 丹羽長秀は苦虫を嚙み潰したような顔で手を振った。


 間違いなく、信長の五男率いる軍勢が兼山城を目指して来ると言うのだ。


「お館様には!」

「一応伝えておく!」

「柴田様は!」

「わかっているに決まっている!その上で最初から……………………」


 長秀とて戦況はつかんでいる。

 勝頼の猪突も柴田軍への攻撃も、全ては信長五男の御坊丸率いる軍勢をこの兼山城にぶつけるためではないのか。


「どうなさいます、この城に籠り迎撃を」

「できるか!出るに決まっている!」



 長秀は腰を一挙に上げ、背筋を伸ばして城の階段を駆け出した。

 その最中に戸田勝成と長束正家を守備に残し、副官として太田一吉を任命するというこの上なく慌ただしい人事を行った。


「ですがその、お館様は」

「秋山を討てば敵は崩壊する!さすれば御坊丸様を取り戻せるのだ!」


 長秀はあくまでも、人間だった。


 勝家のように忠勇にして猛進的な戦闘兵器にもなり切れず、秀吉のように人並外れた人情家を気取りながらも切る所は切れるような時に非情になれる人間でもなかった。

 織田御坊丸をこんな場所にまで連れ出している秋山信友とか言う男さえ殺せば、御坊丸を取り戻せると思える程度には、真っ正直な人間だった。

「ですがお館様は」

「これはわしの決定だ!」


 長秀は四千の兵で、兼山城から飛び出した。

 兼山城の南の川を渡り、この戦のために兵をかき集めて空城にしていた大森城・久々利城にわずかな兵を残し、三千五百で東進する。


「来たぞ!」



 そこに向かって来る甲陽菱と、織田木瓜の混じった軍勢。


「皆の者!御坊丸様をかどわかした秋山めを討て!」


 長秀はあくまでも、自分の役目を貫くつもりだった。


 真っ正直に、織田の家臣として振る舞うつもりだった。

(万が一この場で御坊丸様を人質に使うなら、それは秋山の落ち度であろう……)

 まだひとけたの年齢の御坊丸様がこの戦場に来ているとは思えないし、思いたくない。織田の旗も囮に過ぎないと思っていたし、思いたかった。もちろん万が一御坊丸様を盾に降伏でも迫って来るのなら、卑怯者と叫びながら秋山を殺すだけだ。


 その丹羽軍に対し、矢の雨が降って来る。想定の範囲内だったから長秀らに動揺はなかったが、それでも怒りは沸いた。


「許さんぞ!」


 こっちが下手に射撃武器を使えば御坊丸様を撃ってしまうだろうと思われているというか読まれているのかと思うと、長秀の頭の血は沸騰した。

 丹羽軍の兵たちがひとかたまりとなって、非道な誘拐犯へと突進して行く。

「来たぞ」

 それに対し秋山軍は盗人の猛々しさを遺憾なく見せつけるように堂々と立ち、冷静沈着に迎撃にかかる。敵陣の中に少数で相当強引に食い込むという明らかに自分が不利なはずの状況なのに、だ。

 言うまでもなく丹羽軍はますます激昂し、一直線に攻撃をかける。

 だが秋山軍はまるで我が家に住むかのように丹羽軍を冷静に受け止め、打撃力を分散させて行く。突っ込めば突っ込むだけ部隊を左右に広げ、追い詰めたはずが横槍を入れられて攻撃を阻止される。


「ああもう生意気な!」

「どこに御坊丸様がおられるかわからない以上…!」

「やかましい!早く前田又左を呼んで来い!」

「しかし柴田様と共に、それよりお館様の」

「聞こえんのか!」


 長秀はここまで来るような軍勢が彼の部隊を押しつぶしていたとか言う発想には思いもよらないまま、前田利家の名前を呼ぶ。実際利家の軍勢はまだ健在だったが、自分の部下はともかく信長の手勢すら頼ろうとしないまま秋山に立ち向かおうとしていた。

(お館様にそんな事やらせるか…!)

 確かに信長には秋山来襲を伝えたが、それでも信長自ら手を汚すような真似はさせたくない。魔王とか言っていてもあくまでも限度がある、主に変わって汚い事をするのも家臣の役目だと長秀は割り切っていた。

 比叡山焼き討ちの時も、表には出ないだけで丹羽軍の兵士たちにかなり火を点けさせていた。表向きには温厚な良識派を装いながら、そんな事をするぐらいの覚悟と忠誠心はあった。



「さあ来い!」


 そんな覚悟に満ちた好人物丹羽長秀に対し、信友は大将らしくもなく後方に引っ込みながら遠吠えし、丹羽軍を誘っている。信長でも秀吉でも勝家でも戸惑いそうなほどには油断も隙もない兵法であり、まことに嫌らしい奸計だった。

 無論長秀とて奸計だとわかっているが、それでも引くに引けない。何を言っても無駄だとわかっているからこそ、他に何のしようもあるまいとばかりに得物を振り上げる。

 他に何もできる事などない。

「秋山ぁ!」

 とりあえず憎むべき存在の名前を喚き、甲陽菱の旗を掲げた連中に斬りかかる。

 だが突進をかけようにも、秋山の居場所が分からない。最後方かと思ったが、それにしてはやけに視界が開けている。視界が開けているなら見えそうな物なのだが、兵士に囲まれていて場所がわからない。

「落ち着いて下さい!」

「うるさいわ!」

「鶴翼の陣のようになっています!」

「そんな事はわかっている!」


 秋山軍がいつの間にか鶴翼の陣めいた構えを取っている事はわかっていた。その中央に下手に突っ込めばそれこそ両翼の翼に押しつぶされて殺されるかもしれない。


 ……とは言え、数の差はない。

 仮に三千でやったのなら、中央にはせいぜい二千しかいないだろう。三千五百全軍で攻撃をかければ突破は可能なはずであり、そうなれば秋山軍など壊滅だ。残る敵が兼山城に攻め入った所でどうこうなる訳もなく、全滅が待つのみ。


 あっという間にそこまで考えがたどり着いた長秀は全く構う事なく、秋山軍の中央に突進した。


「わしに向けて翼が襲い掛かったらその翼をもげ!」


 そのたった一言で作戦を説明しきった長秀と共に、次々と兵士が突っ込む。

 仇敵を求め、その首を叩き落とす事だけを求め、温厚な律義者の本性も覆い隠し、冷酷な武士として。




 だが。




「あまりにも早すぎる!?」




 先鋒の三百名ほど入った所でいきなり翼が閉じられ、長秀はその手前に置き去りにされた。

「馬鹿め!」


 本来なら早とちりもいい所だが、この予想外の挙動に丹羽軍が崩れた。


 長秀がこの失策に真っ正直にもろ手を上げて喜ぶ中、兵士たちの動きが止まってしまったのだ。



「おい何のつもりだ!」

「何のつもりもあるか!ただ敵を討てばいいのだ!」

「それが、その!予想外に敵が固く!」



 あまりにも愚に付かぬ指示を出されたはずの秋山軍の動きが、予想外に良かった。



 高揚していた長秀の気分に乗っかろうとしていた軍勢が、秋山軍の速度も固さも優れた防御によって弾き返されそうになる。勢いに乗って一撃を加えに行ったはずなのに、これまで同様全くひるみなく切り返して来る。

 しかも鶴翼の陣を組む事によって分裂していたはずの軍勢が再び一体となったものだから、数的な優位もなくなってしまった。

 ただ普通にやられたらならともかくさあここからだとなっていた所を叩かれてしまったものだから、丹羽軍は逆に押されそうになる有様だった。


「ああくそ!裏の裏を読まれたのか!」


 副将の太田一吉が歯嚙みしながら戦うが、まるで防備が敗れる気配もない。

 前の柴田が戻って来るか織田本隊が来るかすれば鎧袖一触のはずだが、どっちが来る気配もない。

 丹羽家一の猛将であったはずの一吉も数によって押され、後退させられそうになる。

 もう少しで援軍が来るとか吹くにはめどが立ちそうもなく、浅間山の方に目をやってもその通りに皆前ばかり向いている。確かに山県軍を止めるのは重要だが、それでも誰かに何とかして欲しくなった。


 だがその間に軍は大きく押し返され、と言うか激しく兼山城に迫られている。



「敵にはよほどの知略を持った軍師が!」

「知略以上に胆力が違うのだ!」



 こんな場所でここまでの用兵を為せるのは誰か。


 秋山信友か。信友が思っていた以上の器だったのか。

 いや、違う。もっと、重大な力、いやカリスマ性を持った人物だ。


 内藤昌豊か、馬場信房か、あるいは信玄自らか。




 そこまで思いを巡らせている内に、軍が再び開いた。

 丹羽軍はその隙を突ける状態ではない。


 まるで総大将が顔をさらけ出してこっちを笑いに来てやると言わんばかりのやり方に、長秀の頭にますます血がたまる。


 それでも必死に頭を冷やして前を眺めると、出て来たのはやはり、秋山信友だった。


「御坊丸を取り込んだこの秋山が憎ければ今すぐ来い」

「うるさい!後ろをまるっきりないがしろにしておいて何のつもりだ!」

「何の不安があると言うのかご教授願いたい」

「何を言うかこの腰巾着めが!」

「まあそうかもな」

 その張本人のすっとぼけた言い草にますます腹を立てたくなるが、そうなった所で何一つ解決しない。腰巾着と言う悪口にわずかに動揺するそぶりは見せたが、それでも信玄の姿は見えない。

 腰巾着である事は認めているらしい、では誰のだ。虎の威を借る狐とか言うが、甲斐の虎こと信玄ではない何者かがいるのか。


「ならばその虎を狩ってやるわ!」



 長秀は再び突進した。

 左翼に太田一吉を添え、左の翼を防ぎつつ右の翼と胴体を食いちぎりにかかった。

 そして秋山軍の胴体も、突っ込んで来た矢を受け止めるべく前進する。


 長秀は言葉通りに右の翼を必死に削り取り、秋山へと迫る。


 憎たらしい事に踵を返し出す秋山を追いかけ、その喉笛を食いちぎる夢を見ながら、長秀は手綱を引く。

 立ちはだかる存在はすべてなぎ倒し、前へと進む。



 その目、いやその刃に御坊丸の姿を捉える事までは、覚悟していた。


 まっすぐ前を向き、目を光らせる。まさに、戦う男の顔をして。


 太田一吉と共に。







  —————————————————————————————だから。







「下がれ!」







 その目線よりずっと低い所から飛んで来た甲高い声に、長秀も一吉も反応できなかった。








 その一瞬のためらいと共に、長秀に向かって矢が飛んで来た。


「しまっ…!」


 あわてて叩き落としたものの右足首に一本の矢が刺さり、血が甲冑に滲んだ。




「殿!」

「大丈夫だ、あの駕籠を!」




 声と同時に下がって行く、やけにきれいな駕籠。


 声の出どころと思しきその駕籠を狙わせるが、先ほどにもまして増えた矢の雨が丹羽軍を襲い、次々と犠牲者が増えて行く。囮とわかっていてもやらねばならぬとばかりに迫った騎馬隊はなぜか籠担ぎたちに追いつけず、被害が増幅して行く。


「ああもう!わしがやる!」


 長秀は自分の得物を一吉に渡して弓を構え、自らの手で討ち取ってやると言わんばかりに弦を引いた。

 長秀の手から放たれた矢は二本、三本と駕籠に向けて飛び、弾き落とされながらも必死に迫る。




 そしてそのうちの一本が、駕籠の幕をかすめた。




「私は大丈夫だ!足を止めるな!」




 なんだ、この冷静な反応は。


 あわや死ぬと言うほどでもないが自分が狙われたと言うのに、駕籠の主は冷静だった。



 まさか…!



 と考えた長秀が的を担ぎ手たちに変えた途端、先ほど落ちた幕の中から乗客が見えた。




 予想通り、ひとけたの年齢の少年。


 予想通り、決意に満ちた横顔。


 予想通り、幼さを残しながらも才智に満ちていた。




 だが、一つ違った。







 長秀ほどの重臣ならば、少なくとも一度は見ていたはずだったその顔。







 正直、似ていなかった。




「そんな……!」




 そこから姿を見せたのは、甲陽菱の袴を身にまとった少年。







 いや、あまりにも小さな、総大将。




 まさか、その少年の采配なのか!




「さあ下がれ下がれ!丹羽長秀、この私を討って見せろ!」




 長秀は何とか力を振り絞りその口に矢を放り込もうとしたが、全く届かなかった。




 そしてその間に幼き総大将は、丹羽軍の視界から消え去った。




 ————————————————————敗軍の将だけを残して。

少年強すぎ!

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