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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第七章 美濃大激突
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跡部勝資の大笑

「信玄坊主め、どう動く……?」




 勝頼が徳川軍の中で暴れ回っている中、信長は本陣にてじっと前を眺めていた。

 その瞳に動揺の二文字はなく、あくまでも冷静。


 武田勝頼とか言う愚連隊の長が期待するような動揺はおろか嘆息すらなく、ただ昼餉の時の様に落ち着いていた。


「武田軍本隊は未だに不動。勝頼軍のみが徳川軍に喰ってかかっている様子です」

「勝頼か…………」


 信長は副将として側に置いていた池田恒興の報告をじっと聞いていた。


 信長は武田勝頼と言う存在をあまり視野に入れていない。元々は信玄とそれなりに仲が良かったものの最近急に不仲になり、古参の臣からも孤立気味になっている事は知っている。徳川からはあれが家督を継げば武田の瓦解は時間の問題とまで言われていたが、信長はあまり信じていなかった。

「勝頼に独裁権などない。配下の古参の将の言う事を聞かねばすぐさま口を閉じさせられる。武田家には勝頼より人気がある存在は多い」

 勝頼の兄は盲目だから無理としても、五男の仁科盛信は実直な人柄で人気があり、信玄の弟信繫の息子信豊もまた父親のそれから人気があった。半ば傀儡でいいなら盛信の弟の葛山信貞や安田信清、あるいは信勝と言う選択肢もあり、武田家は当主の選択にはさほど困っていないのだ。


「父上!この北畠信雄に勝頼めを!」

「いえ、この神戸信孝めに!」

 だが信長からしてみれば、この次男も三男も正直出来が悪い。次男はこちらの顔色をうかがう事か三男と張り合う事ばかりに懸命で、三男は武勇を振るう事と次男を越える事しか頭にない。傀儡政権の頭に据えるならばともかく、自主的な指導力を期待するなら信忠しかいないと見ていた。


「たわけ。敵はまだ先鋒が動いているにすぎん。こっちの出方をうかがっているだけだ」

「そんな!勝頼は信玄の跡取りでは!」

「跡取りを殺せば武田は立ち行かなくなる、か?残念だがそれは甘い。勝頼は武田に取り大事な存在。だいたい先鋒が突っ込むだけで終わる戦など存在するはずもない。勝頼は適当な所まで戦えば勝手に下がる。そして追いかけて来た所を武田本隊が叩く。少軍が勝つには徹底した攻めか守りかのどちらかしかない」


 武田信玄が近年、暴走とも暴虐とも言えるやり方で兵を進めている事は信長も知っている。だがその二度の戦いはあくまでも自分たちが有利な徳川との戦いであり、この数的不利な状況においてそんな事をする理由などないと見ていた。

「信玄は大軍がやらないだろうと読んだ事を、自らやって見せた。その力で押しつぶすやり方は今回できぬ、勝頼を深追いすれば虎の牙にかかるだけだ」


 信長はあくまでも冷静だった。無論その信玄のあり得ないやり方を見抜けなかった自分に対する悔恨と憤慨もあったが、それでも信玄の事をわかったつもりになっていた。


(信玄はどうせ、この戦いでこの信長を討てぬ。単純に力が足らん。おそらくは自分たち有利で終わらせればそれでよしと言う程度だろう。

 おそらくは明智か滝川か柴田、池田……四名の内一名でも討てればそれでよし、と言った所か)


 織田家の家臣たちの事は良く知っているだろう。将を射んとする者はまず馬を射よと言うが、馬を一頭ずつ射て行くのはまったくごもっともだ。自分だって山県や馬場のような武田の重臣たちを一枚でも剥がし、戦力を弱めてやりたい。

「しかし柴田も滝川も明智も、ましてや本隊も」

「武田の本隊が出るまではあわてる必要もない。ここで動けば負けだ」

 だが、その必要はないと思っていた。



 信長は決して短気ではない。



 沈思黙考と言う訳ではないが脳内の動きが早く、すぐさま正解を導き出せる。そしてその正解を他者に実行させるために強く高い音量の言葉を用い、他人を動かす。桶狭間だっていざとなれば果断に動くがそれまではじっと敦盛を踊って待つ。それが傍から見れば短気に見えるし、信長も否定していなかった。本願寺内部では第六天魔王とか言う肩書さえもまるで自ら名乗るように誘導したとか言う指摘をある坊主がして一笑に付されていたが、その言葉がもし信長の耳に入れば眉をひそめさせるぐらいの力はあった。

 名乗るだけならば虚名だが、それにふさわしい行いをすれば名前に箔が付く。比叡山焼き討ちや伊勢長島一揆虐殺の前科が名を高め、敵を恐れひるませる。今回の相手である信玄はある意味火付け役とも言えるが、信長も信玄もまるで気にしていない。ただ、相手を負かしたかった。


「申し上げます!武田軍の攻撃に対し徳川様が援軍を求められました!」

「どこからだ」

「雨乞山でございます」

「そうか、それで良い……」

 そしてこの場合の勝利は、敵軍の撤退であって信玄の死ではない。武田が遠江に行くのは最低限の遠征だが、美濃まで入ってくるのは大規模な長征だ。本気で付き合う事なく流し続ければ勝つのは自分。



 なればこそ、それでいいのだ。



(徳川勢に挑みかかって来ればそれはそれでよし……)



 跡部勝資とかいう男に、そこまでの勇気はない。

 その事を、信長のみならず信雄や信孝さえもわかっていた。


 どんなに勝頼の忠臣を気取った所で、周りには織田の兵ばかり。そんな状況で武田の人間らしいことをすれば即座に首が飛ぶ。それだけの事。

 本人の希望で信玄本隊へと突っ込んでいくかもしれないが、それならばそれでよし。

 勝資と言うのは、その程度の駒だった。




※※※※※※※※※




「どこへ向かうのです!」

「あの糞坊主を討つのだ!」


 その勝資はと言うと、ある意味信長の思惑通りに突撃を開始していた。



 兵たちを置き去りにするように、信玄本隊へと。



(若殿様をこの戦いで織田に差し出し、傀儡でも据えて全てを一手に握る気か!)


 武田勝頼が先鋒だと聞いた時、勝資は絶望した。

 徳川との戦いで戦果を挙げた時、複雑な気持ちになった。


 そして長坂長閑斎が武田軍に殺されたと聞かされた時、完全に妖怪と化した。



 生臭を通り越した血みどろの坊主である信玄は義信のみならず勝頼をも殺し、自分に忠実な仁科盛信や子どもの武王丸を当主として祭り上げて隠居した風を装い、魔王より恐ろしい存在として武田家を蝕んでいく——————————————。


 勝資の中ではここまでが最初から確定事項であり、長閑斎の死によって万人が共有すべき現実になった。



「織田殿は決して裏切りもしない存在をないがしろにしなかった……いや一時期裏切っていた浅井殿でさえも許した。

 なのにあの坊主は自分の言う事を聞かないだけで二人の息子を殺す……どっちが真の魔王であるか答えは明白」


 信長は勝頼の武田家相続と、甲斐・信濃・駿河の三ヵ国の安堵を勝資に約束していた。

 もちろんまるっきりの口約束だったし最初は勝資も真に受けてなどいなかったが、勝資の中で信玄への憎悪が高まるたびにだんだんと信じるようになっていた。

 信長が勝頼の敵となったとしても、決して信玄の時の様なことにはならないだろう。


 ちょうどこの戦場に来ているらしい存在の事を思うにつけ、全ての感情が信玄への憎しみへと変わって行く。


「我々は徳川軍を守るために!」

「武田本隊を叩けば後退するしかなくなるだろう!」

 勝資は自分に付けられている兵が文字通りの雑兵であるとは思いもしていない。

 いざとなれば織田のために命も張るような精鋭であり、信玄と刺し違えるためにこの場に来ていると思い込まされている。実際装備も数打ばかりの貧相なそれであったが、勝資に挨拶した数名にはわざと本物の高級な刀を持たせており、それで他の雑兵さえもごまかしていた。

 だがそんな雑兵たち、正確に言えば傭兵たちにとって重要なのは任務を達成する事と生き残る事であり、信玄を殺す事ではなかった。だから当然の如く徳川を守れと叫んだが、この妖怪にそんな正論と言うより怯懦の声など届くはずもない。


「信玄を討てば功績第一だ!さあ進め!」


 嬉しそうに笑う妖怪が率いる軍勢は、質もさることながら実は量も知れていた。

 数にして千二百、明智・滝川・柴田からすれば五分の一。織田軍全体からしてみればほんのおまけだった。そんな数で何ができるのか。


「ああ……」


 誰か一人がこぼしたその二文字と共に、千二百名の特攻隊は徳川軍など顧みる事なく動き出した。







「そうか」


 援軍を要請した張本人でありながら、酒井忠次が半ば匙を投げたように笑っていた事。

 徳川軍の士気が全く落ちていなかった事。

 誰よりも守りたいはずだった勝頼の目にも入っていない事。


 そんな事のすべてが、勝資にとって枝葉末節だった。


 彼をただ高揚させたのは、憎々しき風林火山の旗の存在と、別の旗の動きだった。



(信玄め……このわしの存在を関知しておきながらなめくさりおって……!)


 山県昌景の、丸に花菱の旗。




 その旗が、徳川勢でも自分たちでもなく、南方美佐野の柴田軍に向けて突っ込み出したのだ。




 わざわざ自分の来襲を前にして軍を減らす愚かさを、勝資は笑った。




 自分一人で、笑っていた。

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