武田勝頼の反抗期
「ええいこざかしい!」
勝頼は叫びながら大槍の石突を地に叩き付けた。
本多忠勝が影武者であったこと、長坂長閑斎が死んだこと、それが味方から撃たれた結果だったこと、そしてそれによりむしろ自軍の士気が上がっていること。
—————何もかもが、不愉快だった。
「まったく、織田信長を斬らねばならぬと言うのに!徳川如きでつまずいていられるか!」
勝頼の最近の言葉は、常に途方もない。
—————この一戦で織田信長を討ち、京まで乗り込む。遠江を確保するだけでなく三河にも尾張にも美濃にも甲陽菱の旗を立て、その上で足利義昭率いる幕府を復興させる。そして武田は三管の一家辺りとして政権の中枢に入り込み、上杉と北条と共に歩む。もちろん本願寺や雑賀衆などの旧勢力とも手を組み、信長が壊した世界を元に戻す。
そんな誇大妄想一歩手前の話を、勝頼はしょっちゅう勝資や長閑斎に聞かせていた。言うまでもなく腰巾着たちは同調し、やがて自家中毒を起こしたように勝頼自身も信じて行くようになった。
さらに、武田信虎である。
信長や秀吉によって生き長らえていたくせに何ひとつ礼を言わないほどには業突く張りな老人は、信玄への反発心と言う共通項により勝頼と言う孫と仲良くしていた。
「あやつは大胆なくせに望みが少ない。言葉は大きいくせにやる事は小さい。わしを放逐した時も平穏無事な国をとか言うもっともらしいぬるま湯でしかなかった」
信虎の言葉もまた、勝頼の耳に非常に心地よく入り込んだ。
信玄が家督を継いでから三十二年、その間の功績は既に家臣たちから嫌になるぐらい聞かされてきた。
甲州一国の小大名に過ぎなかった武田家を四ヶ国の主にした幾多の戦の軌跡。数多の戦勝と、敗戦の記録。
(どう体裁を飾っても人殺しは人殺しじゃないか……!)
一見勇ましく雄々しく聞こえたしその時はあこがれと尊敬の念も抱いたが、今になって思うと気分が悪くなってくる。
その全てが、私利私欲。自分たち武田家のためとか言えば体裁はいいが、その体裁のために何千、いや何万単位の人間を殺して来たのか。
偽善。お為ごかし。屁理屈。
そんな言葉が勝頼の頭に住み着き、すでに根を張っていた。
その泥臭さ、図太さが必要なのはわかっている。
だがそれでもなお、心の中に入って来ない。
「この戦で魔王を討たねば武田に明日などない!」
大言壮語としか思えないような言葉と共に、偽物の本多忠勝を足蹴にし徳川軍へと突っ込む。
死体も他人も武士も無下にした行いをためらわず為すその有様は、信玄のそれとはとてもかけ離れている。
それをいさめる存在は、もういない。
「進め!」
雑兵のみならず平侍までもが、武田勝頼と言う存在の言葉に魅了されていた。
目が爛々と輝き、当たる者すべてを倒す風を吹かせている。
「ええい相手の死に敬意を払う気もないのか!」
「悪辣なる魔王の手先に敬意など無駄!」
「その振る舞いの方がよほど魔王のそれであると気づいていないのか!この大須賀康高がその迷妄を吹き飛ばしてくれる!」
その暴風に立ち向かう葵紋の旗の武者、大須賀康高。
見本的な三河武士である彼は実に真面目な顔のまま、正論と薙刀と言う二刀流で台風の目に向かって突進する。
——————————————もっとも、正義の味方など存在しようがないのが戦国乱世だったが。
「地獄で家康に会って来い!」
その有能なはずだった教師は勝頼と言う名の暴風によって、一刀は空を切らされ、もう一刀を振るべき首は吹き飛ばされ、そのまま横倒しに落馬したこざかしく説教くさい男の亡骸となったのみだった。
その亡骸を一瞥しながら、ふてくされた悪ガキは礼ひとつ言おうとせずに悪態を付きながら人殺しに勤しむ、あまりにも不出来な問題児ぶりを発揮していた。
その問題児は笑いながら人殺しの道具を振り回し、死体を積み重ねて行く。本人からしてみれば純白のはずの風は炎のように真っ赤に染まり、多くの木々を焼き尽くそうとしていた。
「さあ来い!向かって来る奴は全員なぎ倒す!」
大将自ら得物を振り回し、まるで一騎掛けの端武者のように突っ込んで行く。
狙撃と言う二文字をすっかり忘れたかのように走り、当たる者全てをなぎ倒しにかかる。
「この…!」
徳川軍も負けじと突っ込んで来る。
単純な怒り、家康を殺された怒り、単純にあまりにも暴虐な敵に対する義憤。
幾重もの怒りが積み重なり、康高の上官である酒井忠次も目を見開く。
「武田勝頼!貴様は自分が何をやっているかわかっているのか!」
四十七歳の次期当主の実父はそれらしい言葉で目の前の若者、いや馬鹿者を怒鳴りつける。
いくら家康に大恩があるからと言っても、従兄弟だからと言っても、もし信康がこんなになってしまったらそれこそすぐさま殺すか追放して家次を当主にして家内の綱紀粛正を行うぐらいのつもりだった。
武田勝頼と言う男は、本来ならば御曹司と言う肩書相応の美形のはずだった。
なのに今の彼の顔は醜く歪み、迎えに来た地獄の使者が恐れひるむほどになっていた。
「ああまた小うるさいのが来た……!」
そんなある意味あまりにも不甲斐ない敵に対して怒った忠次の言い草に、勝頼はますますふてくされた。
「誰だか知らんが旧世代の老いぼれはこの地の土くれとでもなれ…………」
年齢も立場も尊厳をも破壊するような言い草を低い声で吐き出しながら、葵紋の旗を掲げた兵士たちを冥土に送り込む。
刃はあっという間に血まみれになり、その刃からまき散らされるまた飛び散って戦いもしていない兵を赤く染める。ひるめばますますいい気になり、ひるまねば不機嫌の力を増幅させてますます熱くなる。頭が熱いだけならばむしろ好都合だが、体まで熱くなっている。熱い体から放たれる刃には血と混じって炎が上がり、切れ味が鈍ったと見るやあっさりと投げ付けて隙を与えないまま次の得物を取り出す。
そう、彼には仲間の愚連隊がいた。愚連隊は暴走族の頭のような主に従い、徳川軍と言う清く正しいお武家様に斬りかかる。
「ヒャハハハハハハ!」
徳川軍そのものが精強なため押し切られる事はないが、それでもかなり押しているのは勝頼軍だった。けたたましく笑い声が響き渡り、戦場の空気を締め上げようとする。
だが、締め上げきれない。あまりにも品がなく、どこか浮ついている。笑い声が大将と言うより、雑兵じみていた。
その品のない笑い声が掻き立てるのは、怒りと侮り、それから来る屈辱感だけだった。
「ふざけるな…!」
「ふざけてるのはお前だろうが!」
侮辱された酒井忠次と言う名のご立派な大人からの、まったく妥当なその言葉を耳にした愚連隊たちはますますつむじを曲げ、徹底的に気に入らないやつをぶちのめしにかかり出した。
「お前たちのような舌しか動かせねえようなやつらはとっとと死ね!」
「貴様らのような存在は戦場における恥辱だ!」
「うるせえ!」
雑兵とは言え言葉がどんどん荒くなり、揃いも揃って品性下劣ぶりを発揮し出す。
だが品性を失った代わりのように刃は鋭くなり、死体は増える。
あまりにもやるせない、戦場の現実だった。
(どうする?ここはあえて勝たせるべきか……?)
もっとも、忠次がまだなおそんな事を考える程度には彼らはなめられていた。
この戦で莫大な戦果を挙げれば、いや挙げなくとも武田の次期当主は勝頼。それがこんな醜態を犯したとなれば、武田家の求心力はぐっと低下する。だがそのためにわざとこんなのに負ける道理はないし、何よりも腹立たしい。
「あの男に援軍を頼むか」
「そんな!」
「あれもあれで一応武士だ、こんな主を見れば失望しない方がおかしい」
だから忠次は、一枚の札を使った。
(あんな男でも制止していたのか……)
長坂長閑斎とか言う、六十にして耳順うとか言う論語を全力で踏みにじる勝頼の腰巾着たる事しか取り柄のないと思っていた男。
だがその長坂長閑斎を射殺した結果がこれだとすれば、いっそ生かしていた方がましだったかもしれない。私憤に駆られてあんな真似をした自分の読みの甘さに対する腹立ちもあるし、それ以上に身内の不始末をきちんとつけた存在に対する感心もあった。
その存在を失った勝頼に取り、最後に頼れる存在は誰か。
本当なら存在も忘れたかったような卑怯者だが、それでもこの場においては使えるかもしれない。
(動揺すればよし、さもなくばその名は完全に雲散霧消する……)
忠次は跡部勝資率いる手勢を呼びつけることを決めた。




