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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第七章 美濃大激突
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長坂長閑斎の姦計

箱根駅伝の結果はどうだったっけ?

「武田信玄め!今日こそ大殿様のため、その首取ってくれるわ!」



 中央の徳川軍から飛び出して来た、一人の青年。



 とても大きな槍を持ち、面頬をしたその彼を、武田軍は良く知っていた。




「あれは本多忠勝か!」




 ましてや武田軍の先鋒・武田勝頼など、言うまでもない。

(まったく、恨みつらみなら父に言え!)

 忠勝とひとつしか違わない勝頼からしてみれば、忠勝もまた不愉快の対象だった。


 織田信忠・徳川信康、彼ら織田や徳川の次代に対して悪い評判はまるで上がって来ない。

 温厚篤実な好人物で万人から嫌われない信忠、勇猛果敢で真面目な信康。

 遠江ならまだともかく、甲信でさえもそんな情報が広まりまくっている。

 言い換えれば優柔不断で八方美人・猪突猛進で融通が利かない堅物となるが、それでももう少し物言いとと言う物があるだろう。


「本多忠勝だかなんだか知らんが所詮は信康とか言う小僧の家臣だろうが!」


 家康が自分と五つしか違わない事をすっ飛ばしたこの発言に対し戦場で武を振るう分には主君も家臣もあるかいと突っ込みを入れるような人間は、もう勝頼軍にはいない。

 信玄はもちろんその手の存在を送り込んで来たつもりだったが、勝頼はここ数ヶ月の間に自分の派閥を固め、自分に迎合しない存在を除外して来た。言うまでもなくその派閥争いにおいて最大限の功労者となったのが跡部勝資と長坂長閑斎であり、両名を通して次代の当主である勝頼に取り入らんとする存在により両名の権威は膨らんで来ていた。



「あれが徳川一の猛将とかほざいている本多忠勝だ!皆の者、引き付けて撃て!」


 その長閑斎は、ごく一般的な指示を出す。その一般的な指示に応えるように勝頼軍の兵士は弓を構え、一斉射撃する。

 勝頼軍四千の内、弓兵は五百。五百本の矢が宙を舞い、本多忠勝を狙う。

 だが人に刺さったのは十分の一以下であり、本多忠勝にはゼロである。

「ああもう!弓兵は後方に下がり槍兵出ろ!」

 またもやごく当たり前の言葉を叫ぶ。

 その言葉と共に槍歩兵が飛び出し、忠勝に襲い掛かる。


 長閑斎が吠えると同時に出て来た兵は千。


 二百もいなかった忠勝軍にはこれで十分だと言う事だ。


「こざかしい!こんな程度の数でどうにかできるものか!」

「なればやってみろ!」


 長閑斎は政治的な振る舞いはできても軍事の才能はなく、また六十一歳と言う年齢からしても個人的武勇も知れている。その上に山県や内藤などと言った武臣たちを忌避しているゆえに信長とは別の意味で個人的武勇を軽視し、数を重視していた。兵の質はともかく将の質は二の次三の次と言う方針そのものはダメと言う事もないが、その条件が合うのは元から圧倒的な国力を持つ軍勢、つまり織田軍の考え方であり少軍の武田家には合わない。


「何をもたついている!すぐ行け!」


 そして、兵士たちはそんな将の方針に従っていない。

 いくら中間層の心をつかんでいた所で、末端の兵士の心をつかむのは難しい。


 長閑斎も勝資も、兵士たちに人気がなかった。


 信玄もいわゆる武田四名臣も家内の兵士や領民には人気が高く、勝頼は不人気ではなかったがどこか頼りなく思われていた。信玄や領民が期待していたのは冷静沈着に兵法を使いこなして領国を守ったり広げたりする信玄であり、敵を倒す事に腐心し猪突猛進気味な勝頼ではない。


 ましてや、跡部や長坂のような舌先三寸で主に取り入るだけが取り柄と思われているような人間ではない。



「馬鹿めが!」


 その不整合から生まれたわずかな怠慢を逃す本多忠勝ではない。勝頼を傀儡にしていると信じている長閑斎を困らせるつもりだった武田軍の槍兵に向けて、二十六歳の猛将が突進した。


「あぐ!」

「がぁ!」


 二文字言えただけ健闘したと言えるほどの武勇。付き従う二百名ほどの兵士たちも鬼の形相で長閑斎に向かい、その血肉を食らいつくさんとしている。

「防げ!」


 長閑斎は当然の言葉を口にするが、兵士たちの動きは相変わらず遅い。一秒遅れるたびに犠牲が増すと言うのに、兵士たちは進んで犠牲になるかのように遅延行為を繰り返す。俺たちは勝頼様の声でなければ動きませんと言わんばかりに「ごく当たり前」の指示にも従おうとせず、犠牲を出している。


 馬鹿馬鹿しいにもほどのあるお話だが、これが現実だった。


「何をやっている!本多忠勝を討てば徳川軍を全滅させたのと変わらんほどの戦果がある!討て!討て!」

「はっ!」

 勝頼の指示に伴いようやく兵たちも動き出すが、その数秒の間にまた多くの犠牲が生まれる。


(長閑斎はここまで嫌われていたか……)



 勝頼は必死に前を向く。

 自分が信頼していた長閑斎を自分の副将扱いする旨は出立前に伝えていたはずだった。それなのに兵たちは長閑斎の言う事を聞かず無駄に犠牲を出した。


 そう言えば勝資が行方不明になった後も兵たちの間にその存在を惜しむ声が上がらず、総大将である信玄すら無視した使者だったため大っぴらに探し出すこともできないまま時ばかりが流れる間に、勝資が握っていた権力は長閑斎に集中し、兵たちの嫌悪感も長閑斎に集中していた。


「織田に与するならば容赦はせぬ!」

 勝頼の必死の檄により二百に押されていた千はようやく押し返し出し、互角の勝負になった。だが二百対千で互角など、明らかに二百の側に面白い話でしかない。



「どうして!これが殿様の仇か!」

「魔王の手先め!」


 本多忠勝の刃は冴え渡り、さらに死体を増やしていく。

 数人の足軽を率いる平侍が必死に得物を振るが、簡単に忠勝の大槍に弾かれる。そこに大槍が振り下ろされ、男の体は真っ二つになる。


「ああもう!一人に何を手こずっている!」

「しかし敵は本多忠勝!名うての」

「二十半ばの若造の何が名うてだ!進め!進め!」


 後方で吠えてばかりの虎の威を借る狐の声は、かえって士気を落とすそれだった。


 兵たちの動きはむしろ鈍り、本多忠勝と戦うのを避けるようになっている。

 結果として敵兵の数は減り忠勝を包囲しやすくなっていたが、もっけの幸いと言うよりただ無能も一周回れば役に立つと言うただの皮肉だ。



「まったく、身内に敵を持つのもあるいは悪くないのかもな!」



 忠勝の痛烈な一撃に、長閑斎は顔を強くしかめる。


 実際問題、もし長閑斎が最初から何もしないでいればもう少し勝頼軍有利で戦いは進んでいたはずだ。それが下手に、いやある意味極めて上手に威張りくさる物だから、士気は見事に低下した—————



「そうだな。お前のような頭の軽い猪突猛進男がいては勝てる戦も勝てなくなるな!」



 もっとも、長坂長閑斎とか言う男は、それで反省するような人間でもない。



 自分に向けられる憎悪は嫉妬かやっかみだと考えるほどにはうぬぼれがあり、それ以上に彼自身に山県やら内藤やらばかりもてはやされる事に対するひがみ根性もあった。

 そのひがみ根性とうぬぼれが凝り固まり、今の長閑斎が出来上がっている。


「まあいい。お前を討てば徳川は崩れる。つまりはそういう事だ」



 冷静沈着ではなく、冷酷無比。

 貼り付けたかのような笑顔に、嘲笑と侮蔑以外の視線が飛んで来る事などない。恐怖すらなかった。




「ゆけ……」




 だがその長閑斎が、ついに自分なりの切り札を切った。




 五十名ほどの、兵。


 自分の側にいた、兵。


 彼らが一気に、本多忠勝に向けて迫る。



「そんな程度!」


 忠勝は当然の如く、これまでと同じようにその五十人を殺しにかかる。

 ただの敵兵として。


 当然のように、斬った。




 —————だが。







「あ、え、そんな、そんな……!」




 その忠勝の胸から、あっという間に数か所の出血が始まった。




「思い知ったか……これが、これが戦場の、恐ろしさよ……!」




 長閑斎は、笑った。


 この上なく愉快に、笑った。




 そしてそのまま落馬し、喉から手ではなく二本の矢を出しながらこの世を去った。







「…………」


 長閑斎殺しの下手人たちは、満足そうに逝った長閑斎を物理的にも心理的にも徹底的に見下した。


(これがもし切り札だと言うのなら、座して死を待った方がましだ……!)


 自分のために死をいとわぬような存在をひそかに育てるのはわかる。


 それをこの場に投入したのもわかる。本多忠勝にぶつけるのもわかる。



 だが、その股肱の臣たちを後ろから撃つ感覚だけは死んでもわかりたくない。


(これが勝頼の重臣だと言うのか……だとすると早まったかもしれぬ。だがそれは武田にとっても同じだったようだな……)


 下手人の一人こと酒井忠次は私憤を戦場に持ち込んだ事を一瞬だけ後悔し、次の瞬間には仕方がないと言う諦めの心境に変わっていた。


 そしてあえて顔をさらし、そのままの状態で叫んだ。




「武田軍を討て!」

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