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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第七章 美濃大激突
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明智光秀の確認事項

箱根駅伝往路の王者はどこか?

「上様……」

「足利殿で良い。なんなら義昭でも良いのだが」

「ああはい、足利、様……」


 昨日、明智光秀は全く慣れない口調で義昭の上座に座っていた。


 この時の義昭は本人の希望もあって羽柴秀吉配下であり、秀吉がこの場に居ない以上光秀からしてみれば客将扱いである。

 当然格としては斎藤利三や溝尾重朝、京に残していた明智秀満から比べれば下と言う事になるが、それでも明智陣は異様な空気が漂っていた。義昭本人としてはあくまでもそれ相応の扱いで良かったのだが、光秀がそれを許そうとしない。


「わし、いやそれがしがここにいることがそんなに不満か?」

「不満など滅相も!」

「それがしが信玄にでも一筆書けば恐れひるむと思ったか?」

「それは…………思って、おります……」



 明智光秀は美濃にいた時から尊王の志ある人間であり、京の守護を任された時もかなり乗り気だった。朝倉家にいた時も京の都に近く教養ある家としてその方向に進むことを期待していたのだが、義景は一揆との戦いや自分の遊興にきゅうきゅうとして至近距離のはずの京へ進む事を考えなかった。今朝倉家は景鏡が事実上継いでいるが、前田や佐々などの柴田配下と比べてもごくわずかな存在でしかない。

「お館様は足利殿を丁重に扱っております、少なくともそれがしはそう心得ております」

「丁重に扱われるのと軟禁されるのはまるで違う。書状を書いて寄越すだけならば幕府などあろうがなかろうが変わらない。武士は武士らしく戦場に出ねばならぬ、鎌倉殿も尊氏公も皆そうして来た」

「そうですね」

「今のそれがしはただの羽柴筑前殿の配下に過ぎぬ。筑前殿は今頃近江を肥沃なる地に作り替えようと腐心しているのだろう。それがしは筑前殿の奥方や御母堂様にも面会し愚息を任せた。

 さすがは筑前殿の御母堂と奥方だ、しっかりと腰を据え決してへつらわず、それでいて威張る事もなく接してくれた。武田にあんな事ができる女人はおるまい」



 その義昭が秀吉とその家族をべた褒めしているのを聞くのは、なかなかに戸惑いを生む案件だった。



 光秀と秀吉の仲はあまり良くない。


 織田家の内部では柴田勝家が年齢的には筆頭だが一時信長に反していたためやや立場は低く、核としては佐久間信盛の方が上である。

 他に古参として川尻秀隆、滝川一益、池田恒興、丹羽長秀と言った辺りがおり、成り上がりの秀吉は前田利家らと同じく新参と言うか中堅の部類で、明智光秀はそれよりさらに新参の部類に入る。新参も古参も気にしないのが信長であるが、それでも将たちの折り合いと言うのはある。

 秀吉はあの性格からして好かれる人間も多いが、成り上がりと言う立場と膂力のなさゆえに柴田勝家などはよく思っていない。光秀もまた、よく言えばすばしっこく悪く言えばせせこましい秀吉との折り合いはあまり良くない。さらに言えば、最近側室を囲うなどとみに好色家になりつつある秀吉に対し、光秀は妻の煕子一筋である。ついでに言えば秀吉の妻は秀吉にもずけずけ物を言うと評判であり、これもまた光秀の好みには合わない。


「農民を守るのが武士の役目です」


 さらに言えば、いわゆる兵農分離の浸透した中にいる光秀からしてみれば農民は守ってやるべき存在である。元とは言え農民が前に出て来るのは気分的に面白くない。

 武士としての自尊心もあるのだ。







「それで戦場は兼山城の東ですか」

「いかにも」



 すでに配置は行われている。



 信長本隊二万は兼山城の北東に陣を張っており、その南すなわち兼山城の真っ正面に滝川軍六千が置かれている。

 さらに信長本隊の前に池田恒興軍やはり六千。兼山城の南東に柴田勝家軍、やはり六千。

 それで徳川軍五千は織田三将の中央にて陣を張っている。




 そして、明智軍は滝川軍の東にある高根権現山と言う山にいた。




「信玄はさすがに早いようで、細久手は抑えられておりました」

「甲斐の虎とはよく言ったものか」

「我ながら未だ熟しておらぬと言う事なのでしょう」


 光秀は岩村城の街道の北西にある細久手の入り口で必死に受け止めている間に左右から叩くべしと進言していたが、信長は首を横に振った。

「信玄が細久手の重要性に気づかない訳もない、細久手の左右から攻撃をかければさらに横を付かれる、と……」

 奇襲とか横撃とか言えば体裁はいいが、読まれてしまえば自分が的になるだけである。

 武田信玄の事だから、どうせそれを読み切った上で隊伍を組んでやって来る。読まれた奇襲は奇襲ではないのだ。



「それでこうしてこの場に構え、真っ先に受け止めよと言う事ですか」

「全ては敵があってこそです。私はどうしてもその点甘くなってしまいます」

 光秀は顕如や孫市から言われるほど、戦達者だと言う自覚はない。基本さえ押さえておけばどうとでもなると言う感覚で、あらゆる意味でお手本通りだった。ただその手際が優秀なだけで、提案したそれもあくまでも基本通りの奇襲だった。


「もしこの山を狙ってくるのであれば受け止め、さもなくばじっと機をうかがい横撃せよ……」


 光秀自身、来ないとは思っていた。

 武田は上杉や北条をかき集めても三万少々で実際は二万ほど、織田は徳川軍および丹羽軍抜きでも三万八千で実際は五万以上。

 少軍が大軍に勝つには一点突破しかない。

 だが、来たらどうするか。いつも通りでいいのか。



「そう言えばこの美濃は明智殿にとっては故郷でありましょう。それに武田が入り込んで来ると言うのはなかなかに辛いのではないですか」

 そんな風に逡巡していると、義昭が温かい声をかけて来た。

「上様」

「まったく、習いは既に性となっておられるのですか。後で織田様に申し付けますぞ」

「それは……」

「いえいえ、お気になさらず。


 ほんの戯れだ、ああ相当にぶしつけだが」


 その口ぶりが、光秀には心地よかった。

 義昭はもはやこれまで以上に名目上でしかない征夷大将軍ではあるが、それでも四十六年間敬って来た存在に下からの物言いをされるのはとても落ち着けなかった。


「私はどうしても慣れないのです。この環境に」

「そうか。なればほんの少しだけ室町幕府の征夷大将軍をやらせてもらうが」

「お言葉に甘えさせていただきます……」




 幕府滅亡について心底から納得できた人間は、実は織田家内にもそれほど多くなかった。


「すると、何だ、幕府はもうないと言う事か。これからお館様が天下に号令をかけると言う事か?でもまだ織田家の領国はせいぜい数カ国だぞ?」


 柴田勝家ですらこんな風に戸惑ってばかりであり、事実を飲み込むのに二月いっぱいかかったと言われている。

 当たり前だが幕府滅亡と言うのをこれまで鎌倉幕府の滅亡一度しか知らない勝家たちにとってみれば、新田義貞や足利尊氏が暴れまわったような激しい戦も何もなく、あっさりと政権移譲が行われた事に対する戸惑いの方が大きかった。

 ましてやその対象が信長ではなく、秀吉。

 秀吉とか言う個人はさておき、信長ではなくその部下すなわち自分とほぼ同格と思っている存在に降伏した、つまり自分の足元に征夷大将軍と言う肩書を持つ存在が入って来たと言う現実を受け入れるのはかなり困難だったはずだ。


「だが征夷大将軍だとしても、余は百姓である羽柴筑前殿を尊敬している事に変わりはない。その事だけは申し述べておく」

「肝に銘じておきます」


 言われるだけ言われてようやく肩の荷が下りたような表情になった光秀に、斎藤利三も苦笑していた。



「しかし光秀よ。その方は美濃生まれの美濃育ちなのだろう。そんな地を荒らされている事に不安や憤りはないのか」

「結論から申し上げればございますが、それでも勝てればよろしゅうございまず」

「それもまた織田家の教えなのか」

「かもしれませぬな」


 その上で光秀は、信長を信じていた。


 どこの田んぼでも米は米と言う発想の信長にしてみれば、清州でも岐阜でも便利であればどうでもいい。戦場もまたしかりであり、勝てれば別にどこでもよかった。

 もちろん美濃に入り込んで来た信玄以下武田軍を許せない気持ちはあったが、それでも敗戦に比べれば大した問題でもなかった。


「ほどなくして戦が始まります。出来うるならば上様なしで」

「光秀、余は今こうして甲冑を見にまとっている。甲冑を飾りにさせるな」

「世の中ままならぬ物です」



 戦なしで物事が進むなら、これほどまで楽な事もない。もちろんそれが絵空事だからこそこうして武士たちがいて武器があり戦がある訳であり、ほどなく多くの人間が死のうとしている。



 あと、有能な仲間がいればいい。


 それだけは信長をしてどうしても補い切れなかったこともまた、光秀を嘆息させていた。


 この高根権現山の少し北の雨乞山。




 そこには二千の兵と、武田の降将・跡部勝資がいたのである。




※※※※※※※※※




 その勝資のはりきり様に、眉を顰めなかった織田・徳川の将など一人もいない事など気付いていないのだろう。


 同時に、あれを殺そうとした信玄の手腕に対する恐怖心を必死に抑え込みながら光秀は南方を向いた。




「……来ます!」

「向きは!」

「徳川様!」


 だがすべての迷いを許さぬとばかりに、甲陽菱の旗が視界に、鬨の声が耳に入り込む。




 のちに兼山城東の戦いと呼ばれる事になる死闘の、開幕の合図だった。

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