表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第六章 幕府のその先に
61/159

丹羽長秀の不穏

「鎌倉を 踏みにじる時 蹴飛ばして 平になれども 甲斐はあらずや……か。


 ずいぶんと名家らしいことだな」



 岐阜城の守将で、この時信玄動くの報を受けより前線に近い兼山城にいた丹羽長秀は信玄が寄越した歌を苦笑しながら読んでいた。




「鎌倉」は鎌倉幕府の創始者、源頼朝。

「踏みにじる時」はおそらく北条時政・義時で、これが平氏。

 さらに「蹴飛ばす」のは「足」であり、これは源氏である足利家。

 それで今は織田家が「平」にしているがその行いは「甲斐がない」ゆえに「甲斐なく」潰れ、「甲斐」源氏である自分たちが勝つと言う事か。




「返歌でもなさいますか」

「やめておけ。こんな歪んだ名族意識の発露に付き合う必要もない」


 長束正家の言葉に、長秀はらしくもない言い草で反論する。

 天守閣は夏の風が吹き渡り、本来ならこの場にいる存在を和ませるはずだった。


「お館様は源平藤橘とか言う体裁、いや旧弊を打ち壊したいのだ。なんなら征夷大将軍の座を得てもいいとかおっしゃられていた」

 征夷大将軍は源氏の肩書であり、信長が名乗るにはふさわしくない。

 いつのまにか源氏は征夷大将軍、平氏は太政大臣、藤原氏は摂関と決まっており、織田家の人間が頂点に立つならば太政大臣になるのが流れになっていた。

「お館様がどれほどの事を考えておいでなのかそれがしにもわからん。だがそれがしはあくまでも支えるのみだ」

「凡人にできるのでしょうか」

「小石を取り除くぐらいの仕事はできよう」


 玉砂利や赤じゅうたんを敷いた道を歩くのを信長が好むとは思えないが、肝心要の時に戦えるだけの体力を少しでも残しておくのが部下の役目である事も長秀は知っている。

 余計な節介かもしれないが、それでも信長の現在の年齢と好みはわかっている。



 十三年前の桶狭間の前に舞った「敦盛」の一節に曰く、

「人生五十年、下天の内を比ぶれば」。



 信長は今四十歳。人生五十年まで、あと十年。

 ここまで来ておいてあと十年で終わる気もないだろうが、それでも信長にしてみれば目の前の些事などに関わるより先にあれもこれもしたいだろう。


「お館様は明や朝鮮だけでなく南蛮、いや西国とも仲を深めたいと思っている。日ノ本六十六カ国のさらにその先へ、この世界すべてと向き合いたいと」

「途方もない話ですね」

「ああそうだ、信玄にその事でも伝えてやるか?」

「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんやでしょうけどね」

「我々とて燕雀に過ぎん。その事を忘れるな」


 武田信玄も上杉謙信も田舎侍に過ぎないと長秀は信長から聞いていた。


 甲州も信州も山地であり、越後も冬の厳しさから活発さのない国であり、産物も米ぐらいしかない。そんな地では甲斐源氏や関東管領のような古臭い権威が力を持つのもむべなるかなであり、それに対するのもかつての鎌倉幕府執権の名を借りた北条家。名前が古臭いのはまだともかく、関東を制覇すればそれでよしの北条・関東管領と言う名の幕府の職掌にしがみつく上杉謙信など目的そのものも古臭い。


 それは確かにそうだった。


「だがその燕雀が鳳凰の志を解せず下衆の勘繰りを起こし、あるいは叩き落としに来るかもしれぬ」




 だが、武田信玄は危険だ。


 謙信や北条の様に志が古臭いくせに力があり、その上能動的だった。


「お館様にはその危険性を申し上げたのだが……」

 家康を殺されてなお、信長はあまり信玄の危険性を把握していない。

 伊勢や近江、伊賀など西ばかりに目を向け、東の武田は信忠や徳川に丸投げ気味で、信玄とあまり真剣に向き合おうとしていなかった。


「武田を圧するには幾倍もの力が必要だと言うのはわかるが……」

「信玄ならばできてしまっている、信玄でしかできないとお考えなのでしょうか」

「かもしれんな。

 まったく、仮にそうだとしても信玄にならできるとお館様にならできるでは全然桁が違うのに…………」


 信玄は確かに甲斐一国から甲斐・信濃・駿河三カ国の主となり、遠江の大半と上野や美濃の一部を手に入れた。だがその拡大政策、とりわけここ数年のそれはかなり急であり、その分だけ敵も増えた。

 信長だって美濃を制覇し上洛してからここ二、三年はかなり敵が多かった上に高速の用兵を含む実力で潰したのは同じだが、それだけにその力が恐ろしかった。



「お館様はなぜ浅井長政を許したと思う」

「誰が有責か否かを見極めていたからですか。あの杯のように、罪を犯した人間には容赦しない代わりにそうでない存在には優しくすると」

「杉谷と言う男の事もそうだしな」

 三年前信長を狙撃した杉谷善住坊とか言う近江に潜伏していた男が羽柴秀吉により発見され信長によりノコギリ引きで処刑されたのは先月であり、浅井久政の処置に続くその残忍な処罰に近江の民は震えた。もっとも、織田家と言うか秀吉の統治により既に近江の民は織田になついていたのでほんの一瞬だったが。

「もちろんそれもあるだろう。お館様はその点実にしっかりとしている。

 だがやはり、孤独には耐え難かったのだろう。娘婿の父である徳川殿、いや幼馴染とでも言うべき徳川殿を失い、さらに浅井長政まで失うのは耐えられなかったのかもしれぬ」

「…………」



 親友とか幼なじみとか簡単に言うが、織田信長と言う名の大名の跡取り息子にとってはそんな関係を持てるきっかけ自体がほとんどない。羽柴秀吉と前田利家とは違う。

 信長より八つ下の家康と信長が知り合ったのは二十年以上前、織田家が家康を半ば強引に今川から奪い取って人質として清州上に連れ込んだ所結果であり、その時に少年だった信長と家康は半ば遊び相手のように親しくなって行った。二年後に家康は義元の下へ向かったが、その二年間とその先の同盟期間が信長と言う孤独な天才にどれほどの癒しを与えたかは想像に難くない。

 


「その徳川様の代わりとしてお館様は長政を」

「だな。その重み信玄にはわからんのだろう、いやわかっていてもやるのだろうな」

「その点はお館様と同じですね、腹立たしいですが」


 信玄は実父を追放するほどに不仲であり、最近では息子の勝頼との折り合いもよくないらしいと言う報も入っている。信長は弟の信勝はともかく他の兄弟との仲はさほど悪くなく、父親の信秀ともそれなりに親子仲は良かった。そのような過去が関係しているのかは関係ないかもしれないが、それにしても信玄が家康を殺したやり方は常軌を逸していた。

 とにかく家康を殺すために兵法のいろはを無視し、ひたすらにそのためだけに兵を注ぎ込んだ。上洛とか言っておきながらそのために兵を数千単位で失い、目的達成と見るや何事もなかったかのように甲斐へと帰る。

「遠州殿は大久保彦左衛門とやらともにお館様に出兵を求める書状を幾度も送っております。まあゆえに此度の戦はかなり気合が入っているようです」

「全くその通りだ。そんな恐ろしい軍勢を前にして、お館様は無警戒すぎる。しかも此度は美濃に近いはずの羽柴殿さえも連れて来ようともしないようだ」

「徳川様が殺された事を憤っているのにですか?」

「今の武田はおそらく一敗が命取りだが織田は違うと言う所を見せつけたいのだろう。もちろんそれが悪いとは思わない。だが消極的にも思えるのだ」


 此度の戦の勝敗は実に難しい。誰も死なないまま引き分けで終われば国力の差からして織田の勝ちだろうとは言えるが、それではただ時間と資源を浪費しただけでもある。その間に織田家は丹波や本願寺を制圧して禁忌を完全に支配下に置き、さらに力を付けることはできる。だがこの戦が五分五分に終わった場合、信玄は少数にもかかわらず多数の織田を破ったとしてますます威張る事ができる。そうなれば上杉や北条をさらにはっきりと取り込み、結果的に肥大するのではないか。そうなればなおさらややこしくなりそうに思える。


「やはりお館様は信玄がほどなく死ぬと」

「だろうな。なればこそ徳川殿をあんな強引に殺したと思っている。あるいはこの戦で自分を殺しに来るとも思っているのかもな」

「その場合は」

「お館様は平然と逃げる事ができるから逃げるだろう。そして信玄には美濃を支配する力はないと見ている。その見立ては正しいのだろう。間違いなく正しいのだろう……」



 織田信長と言う主の弱点があるとすれば、極端に理性的な所だ。

 一見無理な状況でも自分と相手の状況や地理的条件をしっかりと確認し、きちんと結果を出す。桶狭間の戦いだって、情報をつかんだ上で奇跡とも思える勝利をやってのけた。


 その理性的なゆえに、理屈外の力を軽視している所がある。

 なればこそ本願寺を始めとした宗教勢力にもひるむことなく戦えたのだが、それゆえにつまずく事があるかもしれない。



「しかしこの兼山城を黙って通過させるのですか」

「信玄はこんな兼山城になど執着しない。いや囮としては使うかもしれないがな、普通なら……」

 長秀の言葉は歯切れが悪い。

 岩村城から西進するなら目標は普通岐阜城だろうが、信長もいないのに岐阜城と言う要害に執着して無駄に兵を削る理由もない。

 普通なら。

「だが過去の行いは本人にも他人にも重くのしかかる。兵を動員して警備を固め、住民にも一人残らず戦う決意を伝えねばなるまい」

「辛い相手ですね……」


 長秀は兵士だけでなく一般住民たちにも信玄の危険性を伝えねばならないという重責を思いながら、城外へと向かった。

 夏の夜は短かったが、それがかえって長秀の心を傷つけ、逆立たせた。



 それでも翌朝、長秀は奇襲も夜襲もなかった事もあり、ぐっすりと寝ていつも通りの朝を迎えたつもりだった。


「武田軍はどこだ」

「入っておりませぬ」

 朝餉を取りながら当然の話題をする長秀と太田一吉だが、その箸の動きはどうも重くなる。今まで自分たちが踏みつけにして来た人間たちの気持ちがとか言う話ではあるが、それでも武田信玄に対する不可解な恐怖心を拭い切る事ができない。

 一体何を仕掛けて来るのか。予想の「下」の手を取られるというこれまでになかった恐怖が、二人の箸を重くしていた。



「申し上げます!」

「どうした!」

「この兼山城を目指して武田が迫っております!数は三万!」

「そうかついに来たか!」

 それでも、いざとなれば覚悟はできる。それが丹羽長秀だった。

「ですがその……」

「……早く言え」

 しかし口ごもる使者にその勢いも削がれそうになり、長秀は口の中の物を飲み込んで使者の舌を促した。

「どうやらお館様もこの兼山城に向かっており、おそらくですが、その……」

「何だ!」

「その一部の部隊がですね、どうやら……」

「早く言え!」







 使者からその部隊の存在を無理矢理聞き出した長秀は顎が外れそうになり、一吉は口から米粒を吐き出した。


「……数は」

「三千程度です」

「…………この丹羽長秀が何とかするか」



 そして、この部隊については自分たちで抱え込むことを決めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ