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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第六章 幕府のその先に
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武田信玄の決戦準備

 五月二十五日。


 岩村城に甲陽菱の旗を掲げた三万五千の兵が集合していた中、信玄は本願寺からの贈り物を触っていた。


「雑賀衆も使っているような火縄銃、か」


 本願寺からの使者は使い方を丁重に説明しながら、三拝九拝していた。

 この岩村城には織田側だった人間も多数いたからある程度の知識はあったが、それにしてもあまりにも丁重だった。


「住職様は此度の、いや幾度も繰り返される信長の暴挙に頭を痛めておいでです。どうか住職様、いや民草のためにも!」

「確かに威力は間違いない……だがこれをどう使うかは我々が考える」

「それは無論でございます、どうか、どうか信長を……!」

「心得ておる。だが急いては事を仕損じる」



 銃声により空いた穴が見る信玄は、まるで躑躅ヶ崎館にいる時の様な顔をしていた。

 これから織田信長と言う存在との決戦を控えているのに、まるで緊張感がない。


「父上、敵は本腰を入れておりますぞ」

「心得ておる。だが気合を入れるのはいざと言う時で良い。何でもかんでも気を張っていてはその内壊れてしまうぞ」


 決戦間近の空気に耐えられないかのように言葉をかけてくる勝頼に構う事もなく、ただいつも通りの朝の様に空を仰ぐ。

「そなたは武田家の次代である。次代がそんなに慌てふためいていては、織田の次代に笑われるぞ」

「一向に構いませんよ、侮ってくれるのならばそれこそ絶好の機会ではありませんか」

「侮られるのと笑われるのは全然違う。ただ笑われるだけでは侮られているのか飲み込まれているのかわからないぞ」


 あくまでも真顔を崩さない。暗殺者ではなく腹心の部下に刀を突き付けられたように刀を抜く事もなくじっと息子の顔を眺め、何気なく顔を南側にやる。

 岩村と言う山城だからどこを見ても山しかないが、それでも南側はなぜか緑の色が濃くなっていた。盛夏と言うにはまだまだ暑さの足りない気温だが、それでも緑は今こそとばかりに青々と茂っている。

 美濃と言う甲信と同じ山国なのに、ずいぶんと違う草木。



「父上~」


 そこに飛んで来た、信玄の真顔以上にこの場にふさわしくない存在。



「武王丸……今父たちは忙しいのだ」

「わかっております。ですが此度の戦では私たちも必要だと」

「源三郎も弁丸も、何をやっているのだ」

「申し訳ございません、しかし私たちはお館様に呼ばれたのです」


 その異物をぶつけて来た、まだ幼児であるはずの武王丸とその家臣気取りの少年二人もまた、躑躅ヶ崎館であるかのようにはしゃぎながら信玄に寄って来る。

「喜兵衛」

「ああこれは若殿様!」

「おぬしらの子はどうしたのだ」

「申し訳ございません、どうしても付いて行きたいと言って聞かず……」

 もちろんまだ一ケタの子供をこんな戦場に連れて来るとは何事だと勝頼は二人の少年の父親に詰め寄ろうとするが、その足取りにも目つきにも迫力はない。


「素直になれ。父上に言われたのだろう」

「そうなのです、それがしも相当に反対したのですが…………」

「父上……」

「獅子は我が子を千尋の谷に落し、這い上がって来た者のみを育てると言う。そういう事だ」



 全く迷いのない目つき。ここに来た多くの将たちの心をつかんで離さない、魔力を込めた目つき。

決して恫喝などせず、あくまでも理屈で叩き込んで行く目。だがその大本にはおそらく何らかの噓っぱちが存在し、その噓っぱちを正当化するために理屈を乗っけている。


「それで父上、この岩村城に三人を置いておくのですね。要害であるこの岩村城に」

「そうだな」


 いちいちそっけない父親に、二十八歳の息子は頬を膨らませる事も出来ない。

 手本とならねばならない存在である息子がじっと自分を見つめ、大人らしい対応を待っている。

「次代を担う存在を守るのは大人の役目ですからね。我々はせいぜい子どもたちに朗報を届けるべく戦うまでですよ」

「どっちもそう思っております」

「…………」



 もっとも、その勝頼の目一杯の背伸びも四人目の子どもに論破されて簡単に沈黙と言う名の敗北を喫するしかなくなってしまったのだが。


「武田様。私はあくまでも織田の子であり、この岩村の子です。いざとなれば秋山様を説き伏せてでも出るつもりです」

「その際の敵は」

「武田様の敵にはなりませぬ」


 —————少年の名は、織田御坊丸。

 それこそ人質として甲州に残しておくべき存在でさえも美濃までやって来ていた。


「あくまでも指揮官は秋山だからな!そのことをゆめゆめ忘れるな!」

「心得ております。ですが私は先にも述べたように、いざとなれば武田側の存在として戦場に立つ覚悟もございます。織田の血筋ではありますが、紛れもなき遠山家の当主として振る舞うまでの事。遠山は今武田の配下にあるのですから、武田の配下として振る舞うまでです」

「命を無駄にするな」


 目一杯感情を押さ込み、寛恕をさらけ出した事にする。

 何を言っても動きそうにない小さな魔王の子を前にして攻められない自分を抑え込み、内心だけ呼吸を荒くしながら父の張る陣へと向かった。


「勝頼。どうしたその顔は」

「どうもいたしません」

 岩村城と言う堅城があるくせに外に陣を張る信玄の神経を疑いながら幕を開くと、信玄が親らしい顔をして座っていた。


「言いたいことがあれば好きなだけ言え。大戦の前にため込んでいると体に毒だぞ」

「ではおうかがいいたしますが、なぜ武王丸たちを美濃にまで連れて来たのです」

「秋山は所詮よそ者だからだ。遠山とは訳が違う」


 岩村城は源頼朝の家臣遠山景朝が築いて以来ずっと遠山家の居城であり、武田も織田もよそ者である。

 信玄が十七年前に攻撃してからは一応武田寄りだが、去年織田の攻撃を受けて信長の息子を当主として押し込んだような家であり、それをまたこの前武田が奪い取ったようなものだから遠山家の家臣や民は織田にも武田にもなついていない。そんな状態だから信長の息子であっても幼くとも当主は当主であり、その重みは十分だった。


「確かにそれはそうですが織田との戦いに秋山軍を使わなくてよろしいのかと」

「秋山に岐阜城でも攻めさせるか?」

 理屈だけ述べていちいち真剣に対応しようとしない勝頼だったが、実際戦力は明らかに足りない。



 武田軍は三万三千。




 一方で織田は、五万。




「この数で戦えるのですか」

「戦えないと思えば出はせんよ。それに兵力など大仰に言うのが余の常」

「丹羽長秀込みとお思いなのですか、こっちだって秋山込みなのに」

「この戦で決着を付ける気か」

「長引けば非勢になるはこちらですぞ!今こそ、いや今しかないのです!

 上杉と、北条と力を合わせて!織田を打ち砕くのです!」



 勝頼はひと月以上前から、上杉の援軍をもっと求めるべきだと信玄に力説していた。

 それに対し信玄は北条と数をそろえる必要がとか川中島がどうとか言い出して提案を却下し、結果的に五千ずつとなった。

 この国で幕府滅亡を一番認めたくない人間こそ上杉謙信であり、その事をもっと声高に言うべきだった。それならば五千どころか一万の兵をもらえたと言うのに、あの軍神・上杉謙信がここに来てくれたかもしれないのに—————。



「織田信忠はこの戦におらん。それにあの羽柴とやらもだ。

 その二人がいる限り信長が死んでも織田家は弱りこそすれ壊れん」

「軍神の力あらば織田の小僧や猿男など鎧袖一触でしょう!」

「くどいようだがな、その方はあの川中島の時はまだ十五だった。そこで死んだ人間たちの事を知らなさ過ぎる。上杉から援軍を引き出すにあたってわしや盛信がどれだけ骨を折ったか知らんのか。

 それに謙信は思想信条を重んずる所が強すぎて統治者には向かん、足利義昭と言うか幕府と言う存在を救うためならば上杉家どころか越後全てを焦土にしても構わんと考える男だ。京の都や尾張の国など考えもしない。あれほどまでに強いくせに未だに領国が越後一国から広がらんのもだいたいそういう事だ」


 信玄から幾度目かになるかわからない言葉でたしなめられるが、その分だけ余計に勝頼は腹が立つ。

 跡部勝資を勝手に織田にやった事についても、叱責の一つもない。息子がこんなにもふざけているのにまるで構おうとせず、ただ笑っているだけ。それが信玄の手の者により暗殺されたとか聞かされた時には長坂長閑斎と共に泣きわめくでもなく嘆き合った。


「家臣としては使えるかもしれんがな、そう、明智光秀のように」

「ですから!その明智光秀がいると言う事について!」

「どうと言う事もあるまい、そんな男。わかったらゆっくり休め、戦う前から疲れるようなバカもあるまい」

「そうさせていただきます!」



 目一杯の悪態を付き、陣を出る。


 いっそ真正面から怒鳴ってくれれば、まだいいのに。


 そんな期待を裏切り続ける存在とそれを誰も諫めない家老たちの中で、勝頼は孤独だった。




「草花は 露に光に 邂逅し 枯れて芽生えて 大地と共に」




 勝頼は自分の陣で短冊にそんな歌を書き、その文字をずっと眺めていた。




 草花は雨露に濡れ光に当たると言う形でそれぞれの存在と出会い、また枯れた時は大地に落ち生える時は大地から芽を出す。


 草花でさえもこれほどまで出会いがあると言うのに、自分は……。


「長閑斎を呼べ……」

「はい」


 勝頼はただ一人、自分にとって信じられる存在を呼びつけた。


 まるで、粗相をして物置に押し込められた子どものように弱々しく、かつ死にかけの老人の様に細い声で。

 年齢も立場もまったく感じられないようなその声は、信玄と同じように平板な答えしか寄越さない平凡な兵によって引き取られただけだった。








 —————そしてそんな事などつゆ知らず、信玄もまた一首の歌を詠み、岐阜城へと送りつけていた。

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