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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第六章 幕府のその先に
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本願寺顕如の嘆息

「決戦は間近、らしい……」


 信玄が出兵を事実上開始した五月二十二日。

 石山本願寺でも織田と武田の決戦についての話が盛り上がっていた。


「これを機に我々も」

「教如、どうしてその方向へと動く?この前の出兵でも成果は上げられなかった。三度失敗すればそれこそこの本願寺は弱兵の集まりと思われる。そうなればこの本願寺を守る事すらままならんかもしれん」

 教如は当然の如く織田の後方を突くべく出兵の二文字を口にするが、顕如の口も尻も重い。

「織田を討てとは申し上げておりません。松永か耶蘇教徒たちを攻めよと」

「では聞くが、信長は此度の武田家との戦いにどれほどまでの戦力を注ぎ込むと見る?」

「六万ほどかと」

「痴れ者め!」


 それでも教如が適当な事を言うのに対しては厳しく叱責し、浄土真宗の本山だと言うのにどこからか手に入れた警策を叩き下ろす。音が堂内に鳴り響き、坊主たちをひるませる。


「織田は本気を出す必要などない。伊勢志摩や南近江、越前などに居る人間たちなど大っぴらに動かさずとも武田を凌げる。全力を出すまでもなく、だ」

「では武田を見捨てると!」

「見捨てはせぬ。兵が駄目なら物資を安く売るだけだ」


 織田への目一杯の反抗。

 それが、物資の提供でしかないと言うのもまた現実だった。


 一時停戦こそあったものの、石山本願寺と言う名の宗教界の頂点はずっと第六天魔王こと織田信長と戦って来たつもりだった。



(神は名を 失えばこそ 地を駆けて 死の原を去り 朝日を拝む、か……)



 その魔王が俗権の王者であった足利義昭から幕府を取り上げたと聞いた時には、真っ正直だったはずの明智光秀に挙兵を促してやろうと訴えかけてやった事もあった。


 だがその顕如なりに渾身の一撃だったはずのその書状に対しこんな三十一文字しか返って来なかった時には最初嘆きと驚きと怒りがこみ上げ、ほどなくして自分の負けを認めざるを得なくなった。



 神ならぬ、上。それは「上様」とずっと呼ばれていた足利義昭。それで「地を駆けて」はおそらく「足」であり、「死の原」は「シ」の「原」で「源氏」だろう。


 ずっと征夷大将軍とか言う地位、いや源氏の血や足利家と言う家格に苦しんで来た一人の男。それがすべてなくなった事により「死」から逃れ、朝日をゆっくりと拝む事ができるようになったのだ—————。



 もう、そっとしておいてほしい。そうでないとしても大義名分に使うなと言うやんわりとこそしているがなかなかに強い意志の抗議を前にして、顕如は動けなくなってしまった。



 信玄はそれでも強引に押し通すなりして攻めようとするだろうが、本願寺にそんなごり押しをする力はない。光秀は武田に備えて京には不在だとか聞くが、信長の政が失敗している話を聞かない以上さほど意味もない。





「皆の者。僧兵たちがなぜ強いかわかるか。御仏の力があればこそだ。

 だがこれまで幾度も言っているように、織田は御仏の力も天罰も恐れはせぬ。恐れようが恐れまいがある物はあるのだと言いたいのはわかる。だが僧兵はしょせん信仰の合間に武具を振るうだけの存在、織田軍は戦いのために日々を送る軍勢。残念ながら専門家にはやすやすとは敵わぬ、餅は餅屋だ」



 顕如は、あの信長の比叡山焼き討ちは比叡山の建物や人間たちを焼き討ちにしただけでなく、顕如たち僧兵の強さを灰燼に帰してしまったと感じていた。


 信長は無謀でやっているのではない。むしろすべてを悟った上で飲み込んでいる。


 釈迦如来に対面しても恐れひるまず口舌と頭脳を振るい、正々堂々と己が正義を振りかざすだろう。下手な坊主よりもずっと仏法を飲み込んでいるかもしれない。そんな主人の決意が揺るがなければ部下たちにもその意気は伝わる。

 こうなってしまうと完全に力と力の勝負であり、そうなると所詮は僧兵と言う名の片手間でやっている人間と専門家では訳が違い過ぎる。

 顕如がいくら背伸びしても無駄でしかない事を、本人自身が悟ってしまっていた。

 なればこそ雑賀衆がとか言うが、その雑賀衆とて数は知れているし基本的に紀州の土着勢力で行動範囲は狭く守りには有効でも攻めには使いにくい。


「しかし物資の輸送とか言いますが信濃とこの摂津はあまりにも遠うございますぞ」

「わかっておる。だが金銭や刀剣ならば携行は容易だろうし、何より楽市楽座とやらにより商人の通行はかなり楽になっている。その手の品を送ればいい。雑賀衆から融通した鉄砲もだ」




 それが顕如の最終決定だと察した下間頼廉が腰を上げると、多くの僧たちが付き従った。


 後に残ったのは顕如と教如だけであり、堂が急に広くなった。


「父上は何を恐れているのです?」


 その二人きりの場で、教如が顕如に噛みつき出した。盧舎那仏を前にして父であり死である人間に向かって唾を飛ばし、弱気をいさめるかのように首を伸ばす。

「まさか信長が恐ろしいと」

「恐ろしい。あれは破戒者であるが、同時に教祖でもある。もし仏陀と同じ時に生まれていれば彼が仏陀になっていたかもしれぬ」

「お戯れを」

「戯れではない。信長が僧であればそれこそこの国を御仏の慈悲溢れる王道楽土にしていただろう。ただその際に腐敗した僧を外道とか破門とかを繰り返していただろうけどな」

「将軍様は確かにもう無理かもしれません!ですが我々にはまだ雑賀衆や丹波の豪族たち、それに何より毛利がいるではありませんか!」

「毛利は元就の遺言により防衛はしても深入りはしないし、その前にこの本願寺がとって食われた所でさほど痛くない。六分の一衆とかかつて山名家が言われていたが、今の毛利家は六分の一までは行かないがそれに近い。仮に織田に攻められても数年は戦えよう」

「…………はあ…………」


 それでも弱気の虫に強く支配されている父親に向かって教如は拳を叩き落とすが、顕如は一向に動じない。専守防衛と言うより日和見、と言うか引きこもりを貫くやり方は一周回ってすがすがしいと言えなくもないが、教如には弱腰以外の何にも映っていなかった。


 大きなため息を吐いてもまったく顔を変えない顕如に対し、教如は懐から一枚の紙を叩き付けた。



「二つの黄金の杯の話を知っておりますか!」

「知らぬ」


 その上で飛んだ言葉に対して顕如が首を横に振ると、教如は右手を振り上げて紙をひっくり返した。


 骸骨、それも頭蓋骨。


「何を見せたい」

「昨月、岐阜城にて信長は二つの杯を作りました。その杯で酒を注ぎ、羽柴や丹羽に飲ませたのです」

「要領を得んが」

「ですから、二つのしゃれこうべを金で塗り杯にしたのです!」


 教如は親指と小指以外の六本の指を絵に叩き付け、顔を父親に近づける。

 その反動で堂が揺れ、盧舎那仏がわずかに傾いた気がした。


「それが何だ」

「朝倉義景と、浅井久政だったのです!」

「ふーん」

「真面目に聞いてください!」


 この好機を逃すまいとさらに突っ込んで行くが、顕如は動かない。

 ただでさえ坊主頭で茶を沸かせそうなほどになっていた頭から飛び出した言葉を、耳に入れるだけ入れてなおもまともに動かない石仏に向かって教如は全力で吠えた。


「死者を冒涜するにもほどがありますぞ!」

「落ち着け。本願寺の僧の中にそれを是とする者がおらぬとは限らぬのだぞ」

「そんな!」

「仮にそれが織田信長と松永久秀だったら?」


 にもかかわらず身も蓋もない正論を言ったきり平熱を崩さない父親を前にして、教如は浅井久政と朝倉義景のしゃれこうべを書き記した紙を丸めて叩き付け、その紙が顕如の頭を越えて背中に落ちると教如はわざとらしいほどの足音を立てながら顕如に尻を見せつけた。




(信頼を裏切られたのはつらい……それは言うまでもない事。武士とか坊主とか以前に、人間として信長が腹を立てるのは当然の事……)


 浅井長政を助命した上で、久政と義景に対しここまでの仕打ちを下す。

 愛の反対は憎しみであり、その結果こうなったのだろう。

 だがそれなら直に裏切りと言う名の手を下した長政をも許さないはずだ。


 なのになぜ長政を助命したのか。


「武田信玄……確かにその狙いは重々わかる。だがその道はあまりにも過酷だ。今更引く事もできまいが、天台座主とか名乗っていたとしても所詮は武士か。俗権の覇者か……」


 信長自ら義景と久政にとどめを刺しに向かったのも、長政を救うためなのかもしれない。

 武田信玄の手により徳川家康を失った信長が求めた、新たなる拠り所。


 あるいはあの器を生み出したのは、信玄かもしれない。



 やはり自分は坊主に過ぎないのか。

 坊主は坊主らしく経でも唱えてろと言うのか。

 あそこまで熱くなっている息子を見てなおこんな事しか言えない程度に冷めきっていた自分を嫌う事はなかったが、それでも信長との戦いに対する展望の暗さには呆れていた。


「……後でもう少し武田家の物資を増やすように申し付けておこう」


 他に手がないのならば、それをするしかない。


 せいぜい俗物の王者足らんとする信玄に味方するべく、二十挺の予定だった鉄砲を三十挺にし、その他の物資も増やさせた。

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