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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第六章 幕府のその先に
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武田信玄、信虎に不意を討たれる

 元亀四年、いや天正元(1573)年四月二十二日。


 室町幕府滅亡からちょうど二ヶ月後。




 武田信玄は、躑躅ヶ崎館でまったく思わぬ人物と会っていた。




「今更何の御用ですか」


 当然の如く仏頂面で棒読みな信玄に対し、目の前の男もまた負けず劣らずの視線で睨み返す。

「羽柴秀吉とか言うのは恐ろしい男だ。その事を伝えに来た」

 信玄が敬語を使う唯一無二の存在として上座に居座っている男の目は、もう傘寿を過ぎていると言うのにまだ生きていた。

「羽柴秀吉とは農民上がりの男だと」

「黙れ」

「黙りません」


 だがそれでも主の言葉を引き取るように舌を回した武藤喜兵衛に言い返されてしまう程度には、武田家には信玄の支配が染みついていた。

 信玄が家臣にした喜兵衛は武田信虎など知った事ではなく、そっちが威ならばこっちは智で戦ってやると言わんばかりに冷静な目をしている。


「それがしは羽柴秀吉なる存在を不勉強ゆえ存じ上げません」

「なら聞け。あれは信長の草履取りだった男だ。それがほんの少し頭が回るのと底の抜けたようなすばしっこさで成り上がっただけの小利口小才子だ。

 だが、腹が立つぐらい愛想が良い。気が付くと不細工なくせに妙に魅かれるような猿顔に取り込まれ、あやつの思う通りになってしまう」

「理では通らず、かと言って理にも通じていると言う事ですか」


 信玄たち武田家にはない存在だった。

 信玄自体相手の気持ちを読んだ上で作戦をきっちり組み立てて行く戦略を好んだ事もあり、秀吉のようなどちらかと言うと情に満ちたやり方は取って来なかった。


「とにかくだ、将軍様はその羽柴秀吉にすっかりなついてしまっている。自分で羽柴の家臣とか言い出しかねないぐらいだ。その事がわかったならわかったなりに動け、いいな」


 信虎は言いたい事だけ言い終わると、終の棲家として当てはめられた甲州の小寺へと籠で連れられて行った。




「まったく、今更何の意味があると言うのか……」


 信玄は、三十幾年ぶりの再会を喜ぶ気になどなれなかった。


 今から二十日前、のちの時代には嘘を吐く事が許される日である四月一日にいきなり織田の使者が飛び込んで来て、信虎の身柄を引き渡す旨躑躅ヶ崎館までやって来た時は信玄をして目を剥いた。


 織田の使者と聞いて御坊丸返還とか言う話とか思っていた所に飛んで来た、信虎とか言う名前。


 正直駿河を治めた時には既に不在で行方を探そうともしなかった、一番冷たいことを言えばとっくに野垂れ死にしていてもどうでもよかった存在。噂では二十年前に息子の信友に家督を譲って京に引っ込んでいたとか言うが、その息子信友も今は信玄の家臣でありそれで終わっていたはずだった。


 信長はもちろん、武田家の内情など分かっていたはずだ。だがそれでもなおこうして信虎を寄越して来たと言うのは、情とかではなく策略だろう。

「ちゃんと改めたのか」

「間違いございませぬ……」


 幕臣になり、義昭と共に秀吉や織田家と戦い、それで敗れて捕縛された事などを聞かされる信玄の顔はどんどん曇って行った。

「……捨て置け」

 信玄が最終的に下した言葉はそれだった。


 だいたい、捕縛しているのならばとっとと言えばいい。なぜ幕府滅亡から四十日近く経ってから言うのだ。

 親とは思えないような言い草に、誰一人反論しない。それが今の武田家のすべてだと、信玄は確信していた。



 だと言うのに、無視を決め込んでからひと月以上経っていきなり織田の使者が信濃にこの老人を送り込んで来た。まったく、人の話を聞かないで。


「まるで貴人を奉るかのような有様でしたな」

「実際に貴人だからな」

 籠に乗せ、数十人単位の騎馬を含む護衛を付け、凱旋帰国する英雄の様に追放人を送り届けて来た。この信長の行いに闘志がそがれる事がなかったのは、幸運なのか不運なのかは信玄もわからない。


「そう言えば勝頼はどうした」

「会った事のない御祖父様に会いたいと面会を求めております」

「後にしろと言っておけ、今更何にもなるまい」


 そしてそれ以上に大事なのは勝頼だった。此度の遠征は言うまでもなく武田の命運をかけたそれであり、後継者である勝頼の存在を無為にすることはできない。甲州を小山田信茂と高坂昌信、駿河を穴山信君、信州を仁科盛信に任せるとしても、他の将はそれこそ根こそぎ持って行かねばならない。

 山県、内藤、馬場、真田、原と言った居並ぶ名臣たちの中に勝頼及び信豊の姿がないのは不自然だし、それ以上に武田家の沽券にも関わる。


 だがその勝頼がこの三月ほど悄然としたり、急に激しく吠えて刀でわら人形を切り裂いたりと、落ち着きがないを通り越してかなり精神不安定になっているのもまた知っている。


 その原因が跡部勝資だとも。




 —————跡部なる男が岐阜城へと向かい、その帰路に何者かにより殺された。


 その報告が三月前に入ってからと言う物、勝頼はずっとああだった。


「わしとてこれまで数多の家臣を失ってきた。加齢と病ならばともかく、戦場で死んだ人間の事を思うと胸も痛んだ。勝頼にも良い薬になっただろう」

「はあ……」

「この戦ではまた多くの人が死ぬ。敵味方問わず、多くの亡骸が生まれる。一将功成りて万骨枯る物だ。いやそれならまだ良いが実際は一将功成らずとも万骨枯る、功成るとか言う前に枯れるそれもある。世は全て理通りにはならぬ。信長はわかっとらんようだがな」


 信玄自身、自分は冷たい人間だと思った事は一度や二度ではない。それでも将兵の情を力に変え、利用する程度にはその手の感情もあるつもりだった。

 だが信長は見た所、あくまでも損得でしか動いていない。それが極めて怜悧で効率的ゆえに莫大な戦果を挙げているが、あれではいつか効率の名の下に離反される。

 浅井長政を救ったと聞いた時には驚きもしたが、すぐさまあそこまでした存在を切り捨てるなど馬鹿だなで片付けた。

(まったく、わしが言うのもなんだが父親よりも優先されるほどにまで心をつかみ取るとは。魔王の名も伊達ではなかったと言う事か)

 自分に逆らう恐怖で心神喪失状態にまで陥っていた存在など格好の手駒であり、今度の戦で捨て駒にするぐらいの真似はしてくるだろう。



「だがこちらにも手はある。上杉も北条もわかっていてくれてありがたい事だ」

「それぞれ五千ずつですが」

「十分だ、と言うかわかりやすい男だな謙信も」


 もちろんこちらだって援護はある。武田軍はだいたい二万五千だが、それに上杉軍と北条軍が五千ずつ援軍を出して来たのだ。同盟相手の北条は無論、幕府滅亡の報告に誰よりも怒り狂っていたとは言え上杉からも兵を出せたのは大きかった。上杉軍は柿崎景家、北条軍は松田憲秀と一族でこそないが宿老であり名前としては十二分だった。

 武田軍の当初の予定は二万五千、それらを加えれば三万五千となる。


「加賀の一揆は一応動くだろうが期待はしておらん。本願寺や丹波の連中もまたしかりだ。柴田や羽柴とやらを釘付けにしてくれれば極上だがせいぜいが軍を割かせる程度だろう」

「すると」

「柴田は浅井長政とやらを加えても八千程度、羽柴も六千、京の明智は動けまい。そして織田の直属軍はざっと一万五千から二万で、それに徳川や滝川、丹羽とやらが少し加わるだろう。

 まあ、四万五千から五万だな」


 その数の差でも勝てる。それが信玄の算段だった。


 無謀に見せるほどの自信。


(信長、お前にそれがあるか?そなたは無謀に見せて計算を通している。

 だがその計算が狂った時、お前はどうする……?)


 兵数はごまかさない。どうせすぐわかるから。

 わかった上でどう振る舞うか。


 徳川を介する事なき、直接の対決。


 その先に何を見出すか。


「では出陣の準備を」

「その前に信勝たちに会って来る。その方も一緒に来るか」

「ありがたく」



 信玄はその戦いの未来を求めるように、四人の少年たちの下へと向かった。


「ああ父上!」


 真っ先に返事をした弁丸少年に呼応するかのように、信玄の嫡孫・武王丸と弁丸の兄源三郎も駆け寄る。


 そしてもう一人、織田御坊丸。

「御坊丸、その方も打ち解けたようじゃな」

「ええ……」


 岩村城にいる時は信長の様に鋭かった信長の息子も、甲州に連れられて三人と交わってからは徐々に丸くなっていたように見えた。だがそれが見た目だけであり、その顔は彼が紛れもなく魔王の子である事をいかんなく証明していた。


「織田と戦うのですか」

「それが我が家の定めだからな」

「どんな結果であろうと恨みませぬ。それがお家の定めなのですから」


 自分の口から出てきたことがはっきりわかるような言葉。このような子を持った信長の幸運を少しだけ妬み、今は手元にあるのだぞと少しだけ勝ち誇った。


(六韜三略にいわく有能なる使者は冷遇し、無能なる使者は歓待せよ……その事すらも忘れるほどの間抜けだぞ?あんなのが使えるのか?信長よ、勝頼よ……)




 歓待された無能な使者—————跡部勝資—————を殺し損ねた事、それが織田に走ってしまった事を、信玄は気にしていない。


 武田の機密を握っていて、しかるべきはずの存在を。







 そして、信玄はさらなる一手を打とうとしていた。

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