跡部勝資を巡る戦い
「何だと言うのだ、まったく……!」
本人に言わせれば小声なぼやきをしっかりと聞き届けた少女の存在に、岩村城の秋山信友さえも気づくことはなかった。
(どの口が言うとかって言い回しはある、にしてもそれこそどの胃袋が言うんだと言うお話だ……)
甲斐忍びの棟梁、望月千代女は歩き巫女と言う名の間者を多数育て上げ、各地を勧進と言う目的で歩かせては情報を集めていた。もちろん彼女らは忍びであるからいざとなったら高い身体能力を発揮して戦ったり逃げたりする。そして時には機密保持のために自ら命も断つ。
それがくのいちだった。
もっともくのいちと言うのは忍者であり、忍者とは基本的に戦う物ではなく逃げる物である。
相手の懐に入り込んで暗殺とか言うのは絵空事とまでは言わないにせよまれな話であり、そんな任務が命じられることはめったにない。
ただ、此度はそのめったにない時であった。
(私のような使い捨てのくのいちでさえもわかっているのに、どうしてこうも簡単にひっかかるのか……!)
勝資が岐阜城で何をされて来たか。彼女は既に知っていた。
六韜にいわく、隣国から来た外交官が有能ならば何も与えずに返し、無能ならば目一杯与えて返せとある。
勝資に与えられた物はそれこそ信長が信玄に対するようなそれであり、まさしくとんでもない厚遇だった。一応仏頂面を気取っているが、その顔つきには迫力がない。いや元から勝資は武将と言うより文官であったためかその方向の迫力は薄かったが、仮にも征夷大将軍を服従させ二百年以上続いた幕府が断絶したという一大事中の一大事を糾弾するにはあまりにも力弱かった。
—————だから。
「あっ」
「う」
勝資の二名の従者が最後の一文字と共に、客死した。
手裏剣を打ち込まれ、全く動くことなくそのまま倒れ込んだ。
「な……!」
勝資はあわてて刀を抜き身構え部下の手首をつかむが、生命体としての活動が停止している事にすぐ気づいた。
なおこの二人はあの後おこぼれの様に最高級の食事と酒を受け取っており、最後の晩餐としてはなかなかに豪華であったのが最後の救いなのかどうかはわからない。
確かな事はただ二つ。
くのいちが優先順位を少し見誤った事と、跡部勝資の命が危機に迫っているという事だけである。
「おい、おい……!」
部下たちの死を確認した勝資はあわてて馬を飛ばすが、その馬の首にも三発目の手裏剣が刺さった。
当然の如く馬は昏倒し、勝資の肉体が投げ出されそうになる。
そして気が付くと部下たちに刺さっていた手裏剣がなくなり、ただ二人と一頭の死体があるだけになっていた。
「そうか!貴様は織田の刺客か!ただ正義の怒りを伝えに来ただけのわしを!」
「…………」
吠える勝資に無言でくのいちは斬りかかり、心の臓を突きにかかる。勝資が必死に急所を守るが、一発の防備の間に二発の攻撃が来る。
当然心の臓には届かないがその側には攻撃が当たり、血が袴を染める。
「くそ……!大夫様に、武田の、未来に……織田の、魔王の、簒奪者の刺客め……!」
勝資は一丁前にうめき声を上げながら後ろに飛ぶが、追いかけるように手裏剣が左肩を襲う。目の前のくのいちの殺意に織田と言う言葉で対抗しようとするが、それでも痛みがなくなる事はない。
「死ね……」
「信長……!」
そしてようやく彼女の口から出た言葉は、殺意が籠っていた。
戦場で出会うどんな将よりも強い殺意。己が身を顧みず相手の命を奪わんと言う欲望。
その強烈な欲望に、跡部は織田信長と言う名前に縋るのが精いっぱいだった。
勝資は暴虐なる織田信長の刺客により殺される自分の運命を、わずかに恨んでいた。
その覚悟を増幅するかのように、もう一発手裏剣の音がする。
「うぐ……!」
—————その音とともに、勝資を殺そうとしていたくのいちの体がのけぞる。
勝資はこの隙に必死に距離を離し逃げ去りにかかるが、くのいちは再び手裏剣を投げ付ける。
「やらせぬ……!」
野太い声と共に投げられた手裏剣がくのいちのそれを弾き返し、声の主自身も手裏剣と共に一挙にくのいちに近づく。
「邪魔……!」
低く太く、怒りを押し殺したような声でくのいちが相手の男に斬りかかる。
だが勝資を圧倒していた彼女が男には押され、後ずさりを始めている。
それでも勝資の逃亡は許すまいとばかりに必死に手裏剣を投げ付けるが、男に弾き返される。
「忍び…………!」
勝資がこぼすまでもなく、男もまた忍びだった。
細身に見えて筋肉の付いた体。手裏剣や忍び刀。
本以上の知識のない勝資でも忍びとわかる二人。
その二人が、自分を巡って争っている。
「はっ!」
「…!」
片方は自分への殺意をみなぎらせ、もう片方はその存在から自分を守ろうとしている。
たたでさえ出血が始まっている極限状況だった。
そんな時—————人間はどうするか。
答えは明白だった。
「ななっ……!」
勝資が、くのいちを後ろから斬りつけた。
くのいちの動揺を突くかのように男の忍びは攻撃をかけ、血が土に染み込む。
「跡部殿……」
「わかり申した!」
その男の口から出た高めのささやきが勝資の心をわしづかみにし、体を動かす。
「乱心したか!」
「馬鹿を言え!武士が自分を討とうとする相手を斬って何が悪い!」
乱心とか指摘されてもと言わんばかりに勝資は刀を振り回す。
これまでのどの戦いよりも激しく、振り回す。
「死ね……!」
「お前が死ね!」
もっとも汚い言葉で罵り合う二人。
「…………」
そして、それに無言で干渉する一人。
もはや状況は不利、しかも力の差は明らかだった。
—————いくら幼少より戦闘兵器として育てられて来たとは言え、しょせんは一人。
さほど修練を積んでいないとは言え武士と、自分以上の忍者に挟まれては、手の打ちようはなかった。
「おの、れ……!」
全身を赤く染めながら、なおも跡部勝資と言う存在を狙う。その度に勝資の心はますます追い詰められ、ますます本気度が増す。
そしてその本気の勝資を倒せなくなり、その間に男の忍びに隙を与える。
「あくまでも…………か。その心意気は認める。だが!」
命がけでこっちを殺そうとする自分の執念が何を招いているかはもうわかっていたが、それでもやめられないとばかりにくのいちは戦う。
これまで教わった全てを注ぎ込み、目の前の敵との刺し違えを狙う。
それが今の彼女にとっての夢であり、儚き希望だった。
「……!」
勝資の心の臓を貫かんとして突き出されたおよそ十本目の一撃が届く前に、彼女の背中に三つの刃物が到達した。
二つは手裏剣、一つは忍び刀。そして、二つの手裏剣はこそが問題だった。
「はっ……!」
くのいちが最後に漏らした通り、それは紛れもなく八方手裏剣だった。刺さりやすい代わりに殺傷力のない八方手裏剣は、おおむね毒を塗って使われる。刺さればよいからだ。
「た、助かった、のか……」
その毒によって目の前の殺戮兵器が死んで行くのを確認した勝資もまた、力を使い果たしたかのように倒れ込んだ。
決着が付いたのを確認した男は、二つの肉体を担いで走り出した。二人合わせて二十五貫(≒93キログラム)はくだらないと言うのに、まるで空箱でも持つように走った。
「ここは……」
「ご安心召されよ、目一杯の手当ては施した」
勝資が次に目を覚ました時には、山小屋の中だった。
体中に包帯が巻かれ、薬湯の匂いもする。
「そなたは……」
「跡部殿。それがしは織田の者……」
「織田!簒奪者の、織田、あたたた……」
織田と言う言葉に必死に反応するが、叫ぶだけで激痛が走る。
刀を持ち出そうにもまず腰に手が届かず、それにその刀自身も行方不明だった。
「足利様は既に織田家に心服している……」
「嘘だ……」
「惚れた女人に対し生木を裂くが如く振る舞うのが正義なら、魔王は幾度でも蘇りましょう。
足利様はすっかり織田様、いや羽柴様に心服し、これまでで一番楽しい時を過ごしておられる」
「嘘だ……」
その織田の男から告げられた「足利義昭の現在」とやらを信じられないと跳ね付けられるほど、今の勝資は強くなかった。嘘だと連呼するのが目一杯であり、その言葉も消えて行くばかりだった。
「それがしの仲間が先ほど屠ったくのいち、あの女についてお教えいたしましょうか」
「とっとと言え」
「彼女は紛れもなく、甲州忍びでした」
「馬鹿を言え、わしは武田の家臣だぞ」
「しかし丹羽様には武田大夫様の家臣と申された旨聞き及んでおります。武田大夫様と武田信濃様では話が違うでしょう」
武田信濃とは武田信玄の官位である。信濃守と言う称号は幕府から受け取った正式なそれであり、先祖代々から受け継いだ甲斐守以上に信玄の実力を示すそれだった。
「このままでは武田の跡目は大夫様ではなく嫡孫の太郎殿、あるいは仁科。そのような話も上がっているのでしょう」
「真面目に物を言え!」
「かつて武田信濃様は父君を追放して家督を握った身。大夫様が同じ事をせぬと考えるのはそれこそ愚かと言う物。貴殿が先駆けて織田を糾弾したことを握り潰しても一向におかしくはありますまい」
勝資は両眼を見開いて体を大きく起こし、痛みに耐えながら東側に作られた扉の先の山林をにらみ付けた。
そこまで言われて、ようやく思い出したのだ。
(思えば義信様でさえも自害に追いやったのだ。本来なら今頃武田の当主になっているべき存在でも!)
勝頼はまったく武田のため、世の中のためにやったと言うのに!
それをまるで裏切り者のように殺そうとするなど、そこまで権力の座が惜しいのか!
「どうせよと言うのだ!」
「実は武田の先代、信虎様も我が下にあります。どうかお会いいただき、その上で考えていただくと言う事でどうでしょうか」
「わかった……そうしてやろう。だが織田は何を望む」
「織田が決して足利を粗略にしたわけではない、その旨伝えて下さればよろしいだけです」
「わかった、見てやろうではないか!」
精一杯声を張る勝資だったが、その頭にはもう信玄への憎悪がはっきりと住み着いていた。
同じ信玄に放逐された身として信虎と言う存在に対する親近感も膨らみ、彼の心を癒していく。
そんな勝資は、やはり全く知らなかった。
—————側にいた男が信玄の配下のくのいちから自分の身を守った、徳川忍びの棟梁である服部半蔵だと言う事など。




