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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第六章 幕府のその先に
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丹羽長秀の酒

「武田の使者?」




 二月二十四日、岐阜城にて丹羽長秀は呆けたような声を出していた。



 長秀にしてみれば予想の範囲内ではあったが、それにしてもあまりにも早すぎる。


「どう思われます?」

「内容はおそらく征夷大将軍様のお話だろう。仮にも源氏の末裔として糾弾のひとことぐらいあってしかるべきだ。って言うかあまりにも早すぎないか」

「ですね」


 長秀の部下の長束正家もこの急使の到来にあっけにとられていた。これが戦場ならば不意討ちだったが、ただの使者では正直意味が分からない。

 いや、征夷大将軍を服属させるとはどういう了見だとか言う糾弾の使者が来ることはわかっていたが、それにしてもとんでもない速度だった。

 信長は義昭の事を秀吉に任せ、自らは息子たちと滝川一益らを連れて伊賀攻略に向かっている。信長らしい苛烈な攻撃が施されほどなくして落ちる予定とも言われているが当分は帰って来られない。言うまでもなくこの書状の対応は長秀に任される事となる。


「その使者は誰だ?」

「跡部とか言う男です」

「上杉とは近いのか」

「特段そんな事はないようです」


 征夷大将軍を服属させ幕府を終わらせたと言う松永久秀ですらしなかった前代未聞の事件に対し、上杉謙信が糾弾して来るのは目に見えていた。

 それで甲斐源氏とか言う由緒正しい家柄の、仮にも昨年から上洛と称して二度も攻撃を仕掛けて来たような存在として動かない訳には行かない。


 だがとにかく、早すぎるのだ。


「とにかくだ、どこまで来ている」

「あと一刻で来ると」

「そうか……!」


 長秀は腰を上げ、天守から出た。

 そして、正家に耳打ちをした。












「それがしは武田大膳大夫(勝頼)の使者である!」


 跡部勝資は、顔を赤くしながらなかなか開く事のない岐阜城の前で吠えていた。


 正直、一刻でも早く帰りたかった。

 言うべきことだけを言って、そのまま踵を返してやりたかった。


(まったく、急なのはわかるがあんな言い草が存在するか!)


 道中岩村城に立ち寄り補給を求めた際に城主の秋山信友から半刻外に待たされ、握り飯二つと水一杯を厄介払い同然に渡されたのもまた勝資の顔を染めていた。

 同じ武田家の人間だと言うのに、あまりにも雑過ぎる。せっかくその目的を堂々と伝えてやったと言うのにああそうかだのはいはい頑張れよとしか言わない。確かに飛び込みではあったが、仮にも甲陽菱を挿して来た人間に対する反応ではなかったはずだ。

 しかも、目的をきちんと伝えたはずなのに。


 ——————征夷大将軍を捕縛するとは何事だ。そんなごく当たり前のことを言いに行こうとしているだけなのに。

 ここで黙っていては示しがつかない事もわからないのか。


 信玄が死んで勝頼に代替わりしたら信友とやらも左遷か放逐してやる。武田のために戦えないやつなど要らない。

 そのためにまずは思いっきり目の前の存在を書状でぶん殴ってやろうかと思っていると、門が開いた。


 そして、やけに粗末な装束を身にまとった男が現れた。


「これは武田殿の使者ですか」

「いかにも!武田大夫が使者、跡部大炊介である!」


 目の前の足軽に毛が生えたような平侍を前にして勝資は胸を反らしながら声を張り上げ、岐阜城に自分の吐息を送り込む。織田の兵たちはひるみながら後ずさりし、腰に一本の刀を差しただけの男に道を譲ろうとしている。


「これはこれは遠路はるばる、とりあえずはこちらへ……」


 顔中に冷や汗を垂れ流す男たちに先導されながら、勝資は岐阜城を眺める。


 信長が本拠地として作り上げた城。元々は稲葉山城とか言う名前だったらしいが、その名前から出て来るような古臭い香りなどまったくせず、妙に新しい臭いがする。山生まれ山育ちの勝資にはもちろん気に食わない。

(甲斐も信濃もこの美濃も、全部同じ山国だろうが!)

 なぜこんな城を建てるのか。当て付けなのか。

 単純に腹が立つし、それ以上にきれいだった。

 尾張からやって来たからできるのか。甲州育ちには出来ないのか。


「此度我々武田が何をしに来たかわかっているのか」

「心得ております、ささ、どうぞこちらへ……」

「とっとと案内しろこの簒奪者」


 そのくせ兵は少し凄んでやるとわかりやすく震えた。

 こんなハコとアタマだけが立派な集団に好き放題されているのかと思うと、ますます憤りは増す。



「しばしお待ちください、ませ」

「フン……!」


 やがて大広間に通された勝資は部屋中に立ち込めるい草の匂いにいらだち、口の中の液体を吐き出したくなった。聞けば、この城に信長はおらず、丹羽長秀とか言う信長の重臣気取りの男が城番をしているらしい。

 織田家の中では重臣だが、まだ三十半ばの小僧。しかも従う兵士がこのざまでは少し脅してやればすぐ転ぶだろう。

 だが、なかなか来ない。一応城主みたいなもんだから小忙しいのはわかるが、仮にも使者を何だと思っているのか。実際には十分も経っていないのに半刻も一刻も待たされた気分で空っぽの上座を睨む勝資はその間に幾度も無駄にきれいな襖絵をにらみ、丹羽長秀とやらを待った。


「お待たせいたしました」

「ああようやく参りましたか!」


 で、結局十五分待っただけだったくせに殺意ばかりをたぎらせた勝資に対し、城主である丹羽長秀はやけにさわやかな顔で現れた。


「丹羽五郎左でございます」

「跡部大炊大夫です!」

「長旅お疲れさまでした。ささ、一献どうぞ」


 そして全く話を聞く事もなく、勝手に手を叩き出す。その暴走に対し勝資が突っ込む暇もなく、襖が開けられる。


「おい」

「せっかくいらっしゃられたのです。お疲れを癒しになってもらいたい」


 多数の侍女が大広間に入り、膳を並べて行く。


 そしてある者は舞い、ある者は勝資に酒を注ぎ、ある者は肩を揉む、


「……」

「どうしたのです」

 ほんの少しためらっていると侍女は平然と勝資に向けて注いだはずの酒を飲み、どうだとばかりにふんぞり返る。

「我々織田と武田の関係は重々承知しております。ですがそんな事をする理由など一向にございません」

「口の達者な事だな」


 長秀に対し勝資はもう一度悪態を付くが、迫力は低減していた。


 毒など入っていないことを証明された酒は美味だったし、それ以上に運ばれてきた膳の量が凄まじかったのだ。

 一汁一菜、いや一汁三菜どころではない。それこそ正月でもなければ食べられないような豪華な料理の数々に、勝資の目は白黒させられていた。

「これは何の冗談だ」

「冗談ではございませぬ、賓客として参った以上最高級のもてなしをせねばなるまいと」

「なるほど、幕府を簒奪すればこんな豪華な膳が出せるんだな」

「武田様は主が出した膳に毒が入っていると思い込んでいるのですか」


 その流れでようやく幕府滅亡について文句を口にした勝資だったが、長秀はまったく動じる事がない。ああそうだとばかりに首を縦に振ってやると、さっきと同じように侍女たちが次々と膳の食事をつまみ出した。

「ずいぶんとしつけられているな」

「彼女らに死んで欲しいのですか、死んで欲しくないのですか」

「ああわかったわかった、はっきり言う、死んで欲しい」

「第六天魔王を討つのですから、敵は非道な方がよろしいでしょう」


 突っかかっても突っかかってもかわされる。

「結局何がしたいのだ!将軍様を何だと思っておる!」

 その度に気力がうせ、字面と声ばかりが強くなる。


「足利様は明智日向と共に京におられ、のんびりと過ごしております。征夷大将軍と言う重責に耐えかねておられたようで今ではずいぶんと穏やかに愛息様とご一緒に」

「口では何とでも言える!大事にしておられるのならば今すぐ解放しろ!」

「籠の中の鳥を解放したのにまた戻れと言うのですか」



 ………………そして、口では何とも言えるのは武田も同じだった。

 勝頼自身、織田を倒して京を手に入れた所で大した政治的展望もなかった。幕府が残っていれば実力差を盾に禅譲させ、滅んでいれば甲斐源氏として自分が征夷大将軍になればいいと思っていた。



「ああもういい!とにかく、武田家はこたびの織田家の行いに対して大変怒っている!その事をゆめゆめ忘れるな!」

「わかり申した」


 結局勝資はそう吐き捨てながら目の前の膳と酒にがっつくのが精いっぱいだった。


(くそ、うまい!まったく、なぜこんなに……!)


 単純に腹が減っていたし、腹立ちのぶつけようがなくなってしまったからだ。そして単純にうまい。一口一口、食べる前につまみ食いした侍女達をにらみつけてやるが、顔色一つ変える様子もない、酒をわざとらしく手酌で、いや徳利からラッパ飲みしてやるが、それでも皆静かに笑っているだけである。


 この隠す気のない余裕がうっとおしく腹立たしく、それ以上に邪魔くさく、恨めしく、そして、うらやましくなった。




「織田家は我が風林火山の旗に蹂躙される覚悟があると主に伝えておく」

「わかりました、では道中ご無事をお祈りいたしております」

「フン……」


 結局たっぷり飲み食いした跡部勝資は、ついに気づくことはなかった。




 自分を大広間へと案内した平侍が、丹羽長秀の変装である事に。




 そして、この行動が二人の男女に監視されているのにも。

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