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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第六章 幕府のその先に
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武田勝頼の嘆息

 さて、信玄が義昭降伏を知る一日前。




 正確に言えば、半日前。







 この男は、義昭降伏の報を既に知っていた。







「間違いないのか!」


 身分の高そうな男が声を上げると同時に、間者らしき男は床を濡らしながら一段と深く頭を下げた。


「羽柴秀吉なる輩に槙島城を包囲され、食べる物もなく飢えに苦しみ、まったくなすすべを失い苦渋の果てにその秀吉とか言う織田の手先に向かって叩頭なされ…………!」

「なん、だと……!」


 武田勝頼も、泣いた。


 生まれ故郷の諏訪の地で、泣いた。


「それで今は!」

「一応京にはおりますが軟禁、いや監禁状態で日々泣き暮らしていると…………!」

「くそ……!」


 跡部勝資も、長坂長閑斎も泣いた。


「しかしにわかに信じがたいのだが、本当に信長ですらなく羽柴秀吉なのか!」

「本当です。秀吉とかいう男に向かって泣く泣く将軍の証をお出しになられました!

 源氏どころか平氏でも藤原氏でも、ましてや橘氏でもない、尾張の土民に……!」

「間違いないのか、本当に間違いないのか!」


 長閑斎の言葉に対し使者が首を大きく縦に振ると、長閑斎はまた大きく泣いた。

 いたたまれない空気を察して使者が腰を浮かすと、勝頼は使者の背中をさすりながらわずかに頭を下げた。その気遣いに感動するかのように使者も泣きながらこの場を去った。

 初春のくせに三カ月以上早い梅雨が到来したかのように湿気にあふれた場から逃げ出したという感覚など、使者を含め誰もなかった。



「はあ……」

「間違いないのだろうな……」

「間違いございません、腹立たしい事に」


 涙が乾いてなお、湿度が下がらない部屋の中で三人の男たちはうつむいていた。


 実際問題、三人ともひどく意気消沈していた。


 勝頼が生まれた時にはすでに権威なぞなかった室町幕府だったが、それでも武田晴信がわざわざ幕府の許可を得て信濃守を名乗れるほどには力があった。

 名目上とは言え、勝頼たち武田家は室町幕府をおびやかす織田信長を討つべく上洛しようとしていた。

「これでは下手をすればこっちが賊軍ではないか!」


 それが今や勝資が吠えた通り、下手に動けば自分たちが賊軍になる。

 三好や松永、いやかつて鎌倉幕府を実質支配した北条氏のように、征夷大将軍の名を振りかざして賊軍の烙印を押させる。


「もはや一刻の猶予もございますまい!」

「そうだ…………!そうだ……!」


 勝頼は再び泣いた。



 先ほどまでは泣き喚いていたのが、沈み込むように泣いた。


「若君様…………」

「ああ、悔しくてかなわん…………沈む船を下にして飛び降りる事も出来ない自分が…………」


 山国育ちらしくない言葉を吐き出しながら両手を湿った床に叩き付ける。拳は滑る事なく湿った床にぶち当たり見えにくい程度の水しぶきを上げ、すぐさま溶けて消える小さな水たまりをまた増やした。



「いずれ簒奪者はその名を振りかざし味方を増やす。さすればこの武田の命運は風前の灯火たる事火を見るよりも明らか!」



 —————この時すでに、勝頼は信玄を半ば見放していた。



 どうせ伝えた所で動かないだろう。

 まあまあ焦るなとか言いながらぼさっと立ち尽くし、朝敵とか言う悪名を押し付けられて初めて慌てふためく。そしてまたこれまでのようにやけになって突っ込み、敗戦しないにしても多大な犠牲とそれ以上のしこりを残す。


 そしてその負担は、そっくり後継者である自分に押し付けられる。

 はた迷惑どころの騒ぎではない。



「わしは、わし自らの手で糾弾する。簒奪者を前にしてひるむようでは武士の沽券に関わる」

「とは言え兵を動かすにも」

「わかっておる!とりあえず書をしたためねばなるまい!」


 右袖を濡らしながら、文面を脳内にはじき出す。

 墨と紙を汚さないために必死に涙を流し切り、枯れるまで頭を回し続ける。


(覚えていろ、覚えていろ……!)


 勝頼の頭の熱量が内に籠り、顔の水分を蒸発させていく。

 真夏の甲府盆地であればそのまま亡くなっていたかもしれないほどの熱量を持った勝頼は墨を荒々しく磨り、反故紙同然の下書き用紙に文字を書き記す。

 まとまりのない憤りが紙に踊り、紙を焼きそうになる。

 長閑斎も勝資も思わず主の様に袖で顔をぬぐい、主と同じだけ袖を濡らす。だがそれは涙に主の怒りの炎が気化させたばかりの涙がまじったそれであり、まともに水を含まないはずの墨が薄墨になる。

「うう……」

 薄墨が勝頼の心を憤りの薄さであると責め立てるように紙に染み込まず、その責めに憤りの炎の火力を上げた勝頼が気化させた涙を吸い、墨はますます薄くなる。


「簒奪者め、悪逆の徒め、第六天の魔王め……」


 紙に当たるのを必死にこらえながら呪詛の言葉を吐き、口から出た言葉を必死に書き連ねる。だがいざそうしてみると子供でも言いそうなただの悪口であり、気分は多少晴れたが品位はむしろ落ちそうであり、すぐさまその憤りで温度が上がる。


「足利幕府に忠誠を誓うのは誰だ……」

「それは上杉…」

「他にないのか!」

「……」


 信玄すら信じられなくなった勝頼は必死に味方を探し求めるが、上杉謙信しか出て来なかった。


 北条家はどうせ関東にしか向かないし、本願寺や雑賀衆では後ろからちょっかいを出すのが精いっぱい。さらに西の毛利など当てにならない。

 さらにこれは勝頼も信玄もあずかり知らぬところだが、この時信長の命を受けた滝川一益が織田信孝を総大将に担ぎ出して伊賀に攻め入っており、さらに大和の松永久秀も友軍として伊賀に攻撃をかけている。伊勢長島一揆を強引に押しつぶした一益の攻撃はすさまじく、さらに織田の三男までいるからなおさら攻撃は苛烈だった。何よりあの松永久秀までいる以上、伊賀の国人の命運は死か降伏しかない。


 しかも、上杉謙信と信玄は五度の川中島の戦を含む仇敵であり、本国の越後から織田領に行くまでは越中と加賀を通らねばならない。もちろん信州の道を貸し与えて美濃を襲わせることはできるが、庇を貸して母屋を取られるような真似があってはいけないし現在進行形で武田が同盟を結ぶ北条と上杉は不仲である。

「北陸はどうでしょう、加賀の一向宗ははっきりとした反織田勢力であり能登越中も上杉家が本腰でかかればひざを折ると見ます」

「上杉はそちらから来られるのか」

「今は数です、数!」

 確かに越中の神保氏と能登の畠山氏は弱体で加賀は反織田の勢力である一向一揆がいるからさほど問題はないが、それでも距離としてはかなりの遠征である。

 だがとにかく織田の蛮行をとがめるためにも、数が必要なのも確かだった。


「わかった、とりあえずは上杉殿、能登守(畠山義慶)殿、神保(氏張)殿、それから加賀の僧官にも送る。名前は」

「下間頼照殿です」

「そうか!」


 とりあえずは方向を変えるために四人の味方になりそうな人間に向けての書状の原稿執筆に取りかかり、勝頼の体温はようやく低下した。


「しかしわかってくれるのだろうか」

「謙信と言うのは誰よりも真剣な人物。かつて小田原城を囲んだこと、川中島も元より村上らの本領復帰を目的としていた事などを思えば明白。幕府はそれこそ極上の秘宝であり神聖なる財宝。それを犯す者あらば一も二もなく兵を出すは必至」

「そうか……ありがたきかな!」


 勝頼はまた泣いた。




 今度は、感動の涙だった。




 勝頼は本来、こんなに涙腺が緩くないし、理想主義者ではない。

 元より諏訪勝頼に過ぎなかった勝頼はその程度には小さくなって生きていける人間だったし、義信がその気ならば唯々諾々と後を付いていくぐらいのことはできた。


 だがいざ義信の死により跡目が自分に回って来ると、父親に対する反発心が徐々に膨れて来ていた。確かに父は偉大だ。だが偉大であるだけにその次である自分への負担は果てしなく大きくなる。織田信秀は武勇の将だったが早死に、松平広忠も本領発揮とか言う以前に夭折していたのと比べると差は大きく、その分だけ自分は北条氏康の子である氏政と同じように損をしていると勝頼は信じていた。

 それに最近の信玄はいろいろと精神不安定に思えた。

 あれほどまでに徳川家康らを攻め殺しておきながら、その後はぱったりと戦を止めてしまう。表向きには農民がとか国力がとか言っているが、あまりにも極端すぎる。君子豹変すとか言うが、実際豹変されまくると付き合っていられないのも事実だった。老いてますます盛んと言うより、麒麟も老いぬれば駑馬に劣ると言う言葉の方がふさわしくすら思える。それに息子の信勝を父親を差し置いて私物化しているにも当然ながら気に入らなかった。


(父よ……あなたにはわからないのか!民の苦しみが!)










 ————————————————————勝頼は、知る由もない。



 武田の間者が、かなり実像とは違う義昭の暮らしを吹き込まれていた事を。



 義昭は今日も家臣の伊勢貞興、織田配下となった今川氏真と共に、茶会を楽しんでいた。

 征夷大将軍と言う身分も捨て、ただの一武将生活を満喫している。

 しかも本人自ら羽柴秀吉を主君と仰ぎ、二つ引両の旗すら本格的に与えようとしている事など、全く知る由もない。もっとも知ったとして聞く耳があったかどうか、全く別問題なのも事実だったのだが。



 いずれにせよ、「足利義昭が織田信長、いや羽柴秀吉に降伏した」と言うほぼ同じ情報を、さほど違わない態度の人間から受け取った二人の男たちは、その器量の差をはっきりと世間に見せつけてしまったのだ。


 そしてその事に気づくことなく、上っ面だけ冷えた頭で記される書に何の意味があるのか。


 それに気づく器量など、跡部勝資にも長坂長閑斎にもなかった。

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