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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第五章 農民と武士
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羽柴秀吉の恐怖

「武田様が!」




 幕府軍を名乗る漏水に向かって、浅井長政と言う名の生ける堤防が突っ込んで来る。


 元々信虎の気持ちだけで回転していたこの漏水は中核を失い、一気に四散した。


 水のくせに浸透するほどの勢いもなく、あっという間に逆流していく。

 さもなくば吸収され、そのまま消えて行く。

「みな、命を守れ!」

 義昭もまた信虎に引きずられるだけの存在であり、大河の一滴に成り下がって逆流するしかなくなった。

 水滴は早く流れるために重石をなくし、四方八方に散らばり、前回に比べれば出来の悪い自然の防波堤から漏れ出るべく必死に染み込みにかかる。


「命が惜しい物は武器を捨てろ!逃げれば落ち武者となる!」

「わかった、わかりました!降りま、すっ!」

「おい馬鹿!向きを変えるな!」

 浅井長政の声に従いそちらに染み込みに行こうとする逆流の逆流も存在し、さらにそれを意図せずして阻む、逆流の逆流の逆流まで現れる。

 ぶつかった波と波はともに砕け、血の池を作って消波されてしまう。

 水同士のぶつかり合いなのに赤く濁り、大地を恐ろしい色に染めて行く。

 その大水は大地を飲み込み、元の池へと返されて行く。


「これが、幕府軍か……………」


 武田信虎を捕まえた浅井長政は信虎を秀吉の家臣に任せ、秀吉の指示通りにただ追っていた。


 別に、命を取ろうとする気もなく、ただ、追っていた。




「どうやら生存兵は槙島城に逃げ込んだようです」

「そうかそうか、よくやってくれたのう!」


 阿閉貞征が長政の方を見ないようにしながら秀吉に向けて頭を下げた。

 磯野員昌の戦死からわずか二十分足らずでの戦況の変化に、自分がきっかけの一部とは言え長政は付いて行けなくなっていた。


「阿閉殿」

「ああこれは殿!」

「浅井殿でいい」

 貞征は震えていた。


 今の浅井長政は、柴田勝家の配下でしかない。

 石高は三万石だから動かせる兵は七百五十から八百であり、これは阿閉貞征とほぼ同じでしかない。ちなみに前田利家と佐々成政は四万石であり、長政より多い。

 そんな立場上直に秀吉に絡みに行くのは難しく、かつての部下であった阿閉貞征よりも秀吉への距離は遠い。だからこそさっきのように向こうから来た場合と違い自分なりの礼儀を守るしかなかったが、それでも貞征の後ろめたさはどうにもならなかった。

「あの、それで拙者は…………」

「阿閉殿は北側へ構えてもらいたい。宮部殿には南に回ってもらう」

 貞征は長政から目をそらすように槙島城の北側、先ほどまで蜂須賀小六が指揮を執っていた方角へと赴き、宮部継潤もまた秀吉の言う通りにした。


「それで浅井殿、ちいと話が」


 貞征がいなくなると、秀吉は再び長政を呼んだ。長政が槍と腰の剣を投げ捨て下馬して頭を下げると、秀吉もまた同じように馬を下りた。


「羽柴殿」

「何、この話が浮かんで来た時から決して浅井殿を粗略にするなかれとお館様から言われておりましてな、わしも気持ちは同じなのです」

 嘘だとしても、すんなり聞き入れてしまう。悪い言い方をすれば毒とも言えるが、それでもその毒があまりにも甘美すぎて、死ぬまで気づかなさそうに思える。


「しかしなぜまた…………」

「お館様は大事にしておられるのじゃ、義弟様をな」

「……ええ」

「気にする事はない。今は同じ織田の家臣なだけじゃ」


 長政の妻は依然としてお市だが、その跡目は信長の乳兄弟の次男の恒政であり信長の親族たる万福丸や茶々や初がどうなるかは全く分からず、その点での特権もない。もちろん、阿閉や宮部などかつての部下に対して主君面をする事などできない。

「いや、その、どうして……」

「落ち着いて下され、あくまでもただの同僚ですから」

 宮部継潤はかつての主君に震え、阿閉貞征は気まずそうにしながら軍を整えていた。


「磯野殿は残念じゃが」

「彼は武闘派でした。征夷大将軍と言う存在を前にしてどうしてもその気になってしまったのでしょう」

「征夷大将軍という言葉は甘美な蜜なのかもしれぬ、誰にとっても」


 信長も勝家も秀吉も、征夷大将軍と言う名にこだわっていない。勝家はまだ多少遠慮があったようだが、信長と秀吉はまったく遠慮がない。

 信長に触れ、お市と床を共にし、勝家や秀吉に触れてようやく、その事を長政以下旧浅井家の人間たちは理解した。


「お館様は申し上げておられました。幕府と言う名の拠り所を失った所でまた別の看板が出て来ると。またいずれその甘美な勲章に惑わされ、道を誤る者は出ると」

「それではこの戦の意味は」

「かもしれませぬ。されどそれでもなおお館様は今の弊害を断ち切りよりそれの少ない体制を作ろうとしております。わしらはそれに付いてくだけです」


 そして長政自身、そこまでの展望もなかった。

 もしそんな事を考えていられたら、国を失う事などなかったかも—————とか言うのがむちゃぶりでしかない事を、秀吉はわかっていた。自分のようなただ後ろから付いていくだけの人間ならともかく、同格のはずの人間にそれができるとすればそれこそ図抜けた才能と幸運でしかない。


「今も小六と一豊は兵を追い込んでおります。投降者もかなり出ております」

「その者たちは」

「装備をすべて剥いだ上で捕虜としております」



 秀吉はありきたりな言葉と共に、縄で縛られている老人の下へと歩いた。



「こんな事をしておいて何のつもりだ猿男」

「まあ武田殿、少しお話を」

「いらん。早く首を斬れ」



 その老人は今更何の用があるのかとばかりに鼻息を鳴らし、総司令官様に向かって悪態をつく。

 それでも知った事かと言わんばかりに愛想よく言葉を続けるが、その老人こと武田信虎はまったくそっけない。


「わかり申した、斬ります」


 そしてその信虎の言葉に乗っかってやると言わんばかりに秀吉は刀を抜き、信虎に見せつける。信虎は満足げな顔になり、さあやってくれと言わんばかりに頭を下げる。




「身のよわさ ただ積み重ね 甲斐もなく 尊き者の 日をば召か……ん!」




 そして信虎は辞世の句を高らかに叫びながら首が落ちるのを待っていたのだが、なぜかまだ生きていた。

 落ちたのが縄だけだと知った時には、自由になった手を動かして秀吉の胸倉につかみかかろうとするのが精いっぱいだった。


「貴様……!」

「わしは武士ではござらぬ。死ぬのならば甲州でどうぞ」

「今更行けると思うてか!ここまで恥を掻かせおって!」

「今言ったようにわしは武士ではござらぬ。それに我が主よりこの戦の関係者を生かせと命を受けておりますゆえ」


 信虎は長政を人どころか鬼でも殺せそうな目線で見上げながら、信長への怨恨をさらに高めていた。あるいはそれだけでも何人か人を殺せそうだったが、秀吉は全く動じる気配はなく、長政も秀吉に引きずられたのか何の反応もしない。


「なぶり者にする気か!」

「どうしてもと言うのならば槙島城へお戻りくだされ。ただし幾度挑みかかってもする事は変わらんがな、太郎」

「どういう意味だ!」


 だがなおも突っかかられた秀吉の目が信虎に引きずられたかのように急に鋭くなり、猿は猿でも斉天大聖のようになっていた。

「フン!」

 その秀吉に長政たちがひるみ出すと、信虎はなおの事不機嫌になって秀吉に殴りかかろうとした。


「お静かに」


 武田家伝統の太郎とか言う幼名で呼ばれた信虎の首筋に刀ではなく木の棒が当たり、カタカナのヒの字のような姿にされてしまう。


 そしてそのまま目が合ってしまった秀吉の顔は、信長のそれを上回っていた。


「文字通りだ。わしはさっきも言ったように武士ではない。だから格好よく死ぬなどとか言う感覚はとんと理解できん。

 わしのおっ母は五十半ばまでずっと田畑にしがみつくしかなかったお人だが、子どもが幸運に恵まれていたせいで今はでかい城の主同然の暮らしを得られている。辞世の句を語るにはまだまだ早い。

 憎いなら息子や孫に託してみろ、打倒織田とやらを」




 本物の怒り。




 別世界の存在からの恐怖。




「わかった!生きてやるわ!我が息子の爪牙にどうしてもかかりたいようだからな!せいぜいあがけ!その時になってから後悔しても知らんからな!」

「ではしばらくは捕虜と言う事で」


 信虎は負けを認めるように吠えた。


 秀吉は淡々と処遇を命じ、信虎が後方に下げられて行くのを見届けた。



「羽柴殿……」

「いやー、浅井殿。そう言えば三人目ができたとか!」




 そして信虎が視界から消えるやあっという間に元の人たらしな笑顔に戻り、長政に向かって世間話そのもの言葉を口にする。


「それは!」

「いやいや!浅井殿とお市様の娘御ならみなお美しいのでしょうなあ!一度お目にかかりたいもんです、いやあ柴田様もおうらやましい!」

「それはそれは……あははは…………!」

 さっきあそこまで恐ろしい顔をしておきながら一瞬で場を切り替えてしまうこの目の前の人間を前にして、長政は笑うしかなかった。


「とにかく、これで幕府も、いやこの戦いも終わります。共に参りましょう」


 小柄なはずの秀吉が巨人の様になりながら、室町幕府終焉へ向かって進んで行く。



 長政も兵たちも、ただ黙ってついていく事しかできなかったし、他にする事もなかった。

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