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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第五章 農民と武士
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浅井長政の復活

 翌朝。


 夜襲も何もないまま、山城の二月の夜が明けた。




「ふう……」




 磯野員昌は眠そうな目をこすりながら体を起こした。


 仕掛けるなら今夜か明朝、すなわち昨晩か今朝しかないと言う事で半分だけ寝させていた兵たちを起こし、ゆっくりと槙島城の方を向いた。

「阿閉殿は悠長だな、ぐっすり眠っていて……」

 磯野軍の残り半分は寝ずの番であったため今は逆に夢の中で、実質三百ほどしか動いていない。宮部軍も阿閉軍もやけに気持ちよく寝ているのに腹を立ててみたが、何せ大将である秀吉の軍勢の大半が寝ていたのだから何も言えない。

 こういう敵どころか新参者をすぐ前にして堂々と眠れるような、大胆不敵な人間でなければ織田家では出世できないのか。温厚な長政や旧態依然な久政とは違う織田家の常識に、員昌は昨晩作っていた焼き米をかじりながらも少し背筋が寒くなった。


「しかし本当に動かなかったな……」


 誰も答える人間がいないまま。槙島城を見る。炊煙はなく、ただじっとそこに立っている。

 あそこにいる征夷大将軍様、今日これからあれを討つのだと思うと、いい年して背筋が寒くなる。

 飢え死になどありえない。文字通り最後の戦い。

 逃げるのか、死にに来るのか。


 自分はあの時、逃げた。浅井を捨て、織田にひざを折った。いやそれもまた敵に首を預けると言う時点で死にに来たとも言えるが、それでも卑怯者の烙印を押されることぐらいは承知だった。


 もしこんな状況だったら、挑みかかって討ち死にしても無論、投降しても卑怯者呼ばわりされる度合いは少なくて済んだはずだ。

 そんな結局は卑怯な考えを頭から追い出し、武士として敵と戦いをせねばならぬと決意を新たにした。


 そして。

「槙島城の軍勢が一斉に動きました!」

 二つ引き両の旗を掲げた軍勢が、期待に応えるかのように動き出した。

 いよいよなのだとばかりに身構えた員昌だったが、すぐに顔が真っ青になった。



「なんでこっちに来るんだ!」



 一万の軍勢が、一斉に東側に向かって来る!


 距離的にはあと三分もない!


「どうするのです!」

「耐えるしかないだろう!」


 員昌は覚悟を決め。援軍を待つ事にした。

 あれが全軍ならどうせ三方向から援軍が来る。四方八方から袋叩きに遭い、いずれは止まるはず。

 だから、武士として、目の前に迫って来る津波のような大軍の前に立ちはだかった。

「さあ上様!この磯野員昌を抜いてみなさい!」


 武士らしい高揚感が一気に員昌の目を覚ます。ほんの少しでも耐えきれば勝ち。

 それでこそ征夷大将軍様に対する礼節であり、正しいやり方だと思っていた。


 征夷大将軍様の軍勢が、磯野軍に襲い掛かる。誰も彼も、生きるのに必死。目の前の敵を倒すしか生きる道がない事がわかっている。

 その敵を前にして、逃げるという選択肢は員昌にはなかった。




※※※※※※※※※




 だが、秀吉はすぐ逃げた。



 義昭軍が動いたと見るや、秀吉はあっという間に東へ向けて走り出した。


 阿閉も、宮部も連れて。


「磯野殿にも申し述べておいたはずだがのう」

「逃げるほど難しい選択肢もないのです」

 磯野員昌は五十一歳。老害となるにはまだ若いが、心底から染みついた考えを変えるにはさすがに年を取り過ぎていた。まだ四十六歳とも三十六歳とも言われている宮部継潤と秀吉にすっかり心酔していた阿閉貞征はともかく、員昌には逃げると言う選択肢はなかった。

「万一東に向けて全軍で向かってきた場合は、わき目も振らず逃げろ。どうせこの先には足利軍に味方する勢力はない。進めば進むほど腹が減るだけだ」


 実は昨晩、秀吉は物資の大半を後方に移していた。今の幕府軍の突進力では自分の本陣にたどり着くのがやっとであり、その先に行く頃にはもう三方からの包囲が完成しているだろうと読んだからである。


「すでに槙島城は空城か」

「おそらくは。ですが城があっても人がいないのでは」

「そうじゃな」


 秀吉がその城に織田木瓜の旗も千成瓢箪の旗も立てる気などない事を、義昭も員昌も知らなかった。


 ましてや、この戦場にて誰よりも年かさな男も———————————。




※※※※※※※※※




「貴様が浅井から寝返った磯野員昌か!」

「その方は!」

 しわがれた声と共に、重たくて仕方がないはずの刀を振る。

「わしは征夷大将軍様の家臣、武田信虎よ!」

 その上で小僧に名前を名乗ってやる。

 そこで敗死しても本望だった、今更惜しくもなかった。

(わしにはわしの責務がある。元国主、今は幕臣としてのな)



 今更自分を追放した信玄とその家臣たちを恨む気はない。だがそれは責任を全うする前に終わらせられたと言う意味であり、中途半端な段階で見切られたとも言える。

 今度こそ、責任を全うせねばならない。

 征夷大将軍の家臣として。


「征夷大将軍たる道。それはこの場で勝つ事のみ」

「どう勝てと言うのだ」

「決まっておりましょう、あの羽柴秀吉を討つのです」


 信玄に親子以上に特別な感情などないように、秀吉にも敵総大将だから以上の感慨はない。

 あるとすれば、最後の敵としての感慨だけ。



「見ておけ!幕府の最後の戦を!」


 この場に引きずり出した責任者として、最後まで戦うしかない。

 信虎の覚悟は既に来世に向いていた。


「どうした!援軍は!」

「そんな物などない!」


 その上で、一万対三百である。


 じっと耐えて「いれば」援軍が来る「だろう」程度の見解と一般的な武士の覚悟しかなかった磯野員昌の軍勢は、死を覚悟していた信虎率いる軍勢の前には無力だった。

 員昌本人にも簡単に刃を付けられた。そのころになってようやく夢の中にいた兵が起き出したようだが、戦力になる事のないまま久政の下へ向かったか、秀吉の下へ向かったかのどっちかだった。



 そして信虎本人の刃も、年甲斐もなく躍動していた。


「どうしたどうした!羽柴秀吉とやらはうぬらを見捨てたか!」

「そんなはずはっ!」


 全く援護のない磯野軍の大将に向けて吠え掛かり、ついでに最後の戦果となれと刃を振るう。

「今更引く理由などどこにもない!」

 員昌の薙刀は三十も年上の信虎の刃を受け止め、こっちこそ最後の戦いだとばかりに刃を振るう。

 老将同士のある意味微笑ましい戦い。

 

 だが、状況がこの戦いのまっとうな決着を許さなかった。


 二人が五振りほど打ち合った時、員昌の馬に次々と刃が突き立てられた。

 当然の如く馬は平衡を失い、員昌は馬から飛び降りて刃を交わし、その反動で四人ほど斬った。

 だがそこに、その最後の一撃をかいくぐった兵士たちの刃が飛び、員昌の前面に十か所以上の傷を作った。

「この、ぐぅ、ああ……ああ!」

 必死に血の海を作りながらもだえる員昌の顔は歪んでいた。だが、ついさっき槍を付けた兵士の一人がとどめの一撃を放った時には、急に澄んだ顔に変わっていた。


「チッ……!」


 信虎は舌打ちした。こんな状況では真っ当な一騎打ちなどできる訳もなかったが、それでもこれほどの人間が雑兵の手にかかって死ぬのだけは見たくなかった。それでもこんな戦場で功績を上げるのは、得てして死に神の手から逃れた名もなき雑兵だった。


 そしてその死に神から逃げ切った雑兵たちは次々と磯野軍の兵を斬り、死体の丘を作る。山と言うにはあまりにも少ない数の死体を前にして、幕府軍はただ突き進む。



「前だ、前へ!」

 すでに三方向からの攻撃により多くの犠牲が出ている。

 狙いはあくまでも秀吉。


 どうせこの先には織田領しかない事を見切った秀吉の逃亡劇。

(まったく、どこまでも見事な手よ……!)

 見事なやり方だが、そうまんまと成功させる訳には行かない。

 尻尾が食われている間に頭だけが迫り、必死に敵の頭を食い尽くしにかかる。


「止まるな!止まって向きが変わるのを許したら負けだぞ!」

 それでさきほど足利軍は一万と言ったが、実際は三千もいない。

 東へ一直線に進んで行った中でも少しでも遅れた兵は次々と三方向の軍の刃にかかり、でないとしても足止めされている。

 三千では、羽柴軍が向きを変えて対峙した場合、それこそ不利になる。

 だから、一刻も早く秀吉の尻に食らいつくしかない。

 信虎も必死に手綱を動かし、前進する。馬が潰れるとか言う発想はもう捨てた。



「国境か!」


 そしてやって来た山城と近江の国境。

 その関を羽柴軍、宮部軍、阿閉軍の順に抜けて行く。

「進め!進め!」

 信虎の必死の檄と共に、足利軍も進む。


 そして見れば、阿閉軍の中で足弱の者たちが遅れ出している。



 これを捕まえれば!


「見ろ!敵はもう一歩だ!」


 信虎は声を張り上げ、さらに前進し、先頭に立つ。

 我が最後の敵ぞ今度こそとばかりに燃え上がり、そのまま敵を燃やし尽くし、そしてそのまま自分も共に。

 


 万感の思いを込めて、信虎は関をくぐった。


「さあ、我が最後の敵は誰だ!」




 その楽しい夢に終わりを告げたのは、一本の矢だった。


 その矢を弾き返した信虎が見た物。







 それは、三つ盛亀甲に唐花菱の旗だった。







「まさかお主は!」

「いかにも!」


 援軍が誰とかどうでも良かったが、それでもあまりにも思いもよらない人物の登場に信虎の動きが止まってしまった。

 その隙を突いた二本目の矢が右腕に刺さり、信虎は落馬し、捕縛された。


「これより突撃する!」


 そして三つ盛亀甲に唐花菱の旗を掲げた軍勢は、籍に向かって突っ込んで来た幕府軍に対し、総大将を先鋒に攻撃を開始した。



(まさかこうしてこの地に戻って来る事になるとはな……)


 弓をしまい槍を握った総大将は不思議な感慨を抱きながらも、西から流れて来た漏水を受け止めにかかった。


 かつての家臣、磯野員昌の血を吸っていた漏水を。







 柴田軍配下、浅井長政が。

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