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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第五章 農民と武士
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羽柴秀吉は知っている?

「…………参ったな」



 義昭は他に何を言う訳でもなく壁にもたれかかっていた。城内の大騒ぎに応ずる気力もなく、ただ壁を見つめていた。


 都合の悪いことを話すのも将の仕事とは言え、五万の大軍が来たという方がまだましだったかもしれないとまで思ってしまった。



 ————————————————————羽柴の商人の詐術にはまり、米を市価の数倍の値で買い上げられてしまった。

 金銀財宝はすべてそのための策であり、このまま槙島城に籠城していられるのはどうあがいても五日ほど。

「しかも戦時らしく一日三食食べさせればそれこそ明日の分ぐらいしかないと」

 一日一食、しかも最低限のそれにまで減らして五日間。


※※※※※※※※※

「戦だから三食大飯を炊きたいのだがなあ」

「それをやると三日、いや二日も持ちませんぞ」

※※※※※※※※※


 外では羽柴秀吉と竹中半兵衛がそう勝手に言い合っていたが、実際はもっと深刻だった。

「このままではない士気がますます落ちますぞ」

「わかっている」

「わかっているのならば何をすればいいのか答えろ」

「それは無論残った米を全部食わせ、そのままどこかへと逃亡するまで」



 そんなごく一般的な信虎の理屈にも、義昭はため息を吐く事しかできなかった。



 もちろん東には逃げられないし、西の摂津も織田に味方する諸侯が威張っていてさらに西の播磨まで逃げられるかどうかわからない。南に行けばそれこそ本願寺頼りとなり俗権が完全に仏教に扈従する事となる。

 すると北の丹波しかないが、そこまで行った所で近江から離れられるわけでもない。丹波が駄目なら丹後、丹後が駄目なら但馬、そしてそのまま毛利領まで…………となれればいいが、それこそ亡命でも逃亡でもなく敗走、しかも連戦連敗である。そうなればいよいよ将軍の威厳などない。って言うか仮に無敗で毛利領までたどり着いたとしても、織田の傀儡から毛利の傀儡に変わるのが関の山だった。



「なあ、信虎」

「どうしてためらっているのです」

「鎌倉幕府は百四十一年で滅んだ。新田義貞に攻められてな。華々しい最期だったと思うか」

「そのような」

「弱気だと思うか?だがな、為政者と言うのは民を食わせる物だ。その点余は失格であり、秀吉は合格だ。食わせられない指導者など、指導者ではない」


 それもまた真理だった。

 日本では養和の飢饉に当たった平氏はともかく、北条氏はそれなりには食わせていたためかその点からの問題は弱くどちらかというと権力独占が問題になって潰れたのだが、中国ではその点が問題になって王朝が潰れた事が多かった。石高と言うのもどれだけの人間を食わせられるかの指標であり、今の足利家には一万はおろか三千、いや千の兵を食わせるだけの石高もない。


「信虎。余は武士だろう?」

「紛れもなく武士でございます」

「武士と言うのはどうやって死ぬ?」

「また死の事をお考えに!」

「だが死でなければ降伏だ。これほどの人間を飢え死にさせるのが征夷大将軍のやる事か?」

「降伏ですか……」

 信虎は、織田家に対してはそれほど悪感情を持っていない。

 単純に視野に入ってなかったし、たまたま身を置いていた伊勢長島一揆の時もどこか客観的と言うか冷めた見方で信長の行いを見られていた。確かに「武田家の敵」ではあるが、良くも悪くもそこまでだった。


「かつて尊氏公は九州にまで落ち延びてその後幕府を立てたのです。毛利領まで参りましょう」


 だがそれ以上に、武士としての意地の方が強かった。いい年して畳の上で死ぬ気のないほどにはその純度を高めている信虎からしてみれば、討ち死にでも逃亡でもいいから最後まで戦ってもらいたかったし、自分でもそのつもりだった。


「その時の尊氏公には京を守る部下がいた。今はいない」

「されどこのまま動かねば死を待つのみです!」

「だが兵士もまだ疲弊している。いずれにせよ一晩待つしかなかろう」

「ですから!今すぐ大飯を炊かせて士気を上げるか、さもなくば少しでも長引かせて丹波や本願寺を待つかです!この際後者でも構いませぬが、その答えだけはすぐに用意して下さい!」


 こうして迫る事によって迷っている人間を逆方向に追い込む可能性があるのはわかっていた。それでも言わずにはおれず、首根っこをつかまずにはおれなかった。



「……わかった。今日の昼飯と夕飯と朝の分はあるか?」

「なんとか」



 そしてついに自分の望む答えを引き出した信虎は義昭に深く頭を下げ、その上で兵士たちの面前に彼を引きずり出した。



「決戦は明日の朝だ。それまでに休息を取り、そして大食を取れ。

 そして、丹波の山へと向かう。残念無念ながら山城は捨てる。

 言っておくが、武具以外の財宝には手をかけるな。金銀の類は路銀として必要だがあまり過剰に持つな。どうか、頼む」



 義昭は必死に言葉を絞り出し、兵士たちの気力をかき立てる。

 とりあえず大食と言う言葉で兵士たちは活気づき、早速炊煙を上げるべく動き出す。


「まったく現金な物だな」

「すでに運命は見えております。一般の兵たちは、我々よりずっと鮮やかに……」


 すでに口では説明していたが、それでも先ほどの戦いの有様やその後の空気からだいたい自分たちの運命は察していたのだろう。その点庶民たちは鋭い。

 一応地元の駆り武者を使ったつもりだったが、それでも情報の伝播を止める事などできやしない。ましてや戦争と言う生の体験をして敗戦ともなれば、文字通り百聞は一見に如かずなのである。




※※※※※※※※※




「炊煙が上がっております」


 当然の如くこの炊煙は羽柴軍にも見える。

 すでに槙島城の食糧事情を把握している羽柴軍にとってあの炊煙が何を意味するかはすぐに分かっており、次々と北と西の防備が厚くなって行く。

「さて、将軍様はいつ動くかのう」

「おそらくは明朝か、速くて今晩。ですがおそらくは明朝かと」

「疲れ切った兵を癒すには時間が要るからのう、まあそれはこっちも同じじゃろうが。それにしても半兵衛、逃走に絶対邪魔にならない物をわざわざきれいにしてやるとは」

「征夷大将軍様には征夷大将軍様の装備がございましょう」


 本来なら美少年の肩書が似合ってしかるべきはずの半兵衛の顔は、恐怖心をあおるには十二分なほど歪んでいる。

 言うまでもなく将軍家の兵らしい豪華な装備を米と引き換えに寄越したのは半兵衛であり、策の一環だった。たとえ一戦分ぐらい汚れた所で、高級品には高級品の輝きがある。それはすなわち残党狩りが容易と言う意味であり、本来ならそれを避けるために雑兵用のそれぐらい用意しているのだが、それらもすべて下取りしてやった。今の槙島城には、米が一日分しかないように余分な武具もほとんどなかった。


「しかしいいのですか、確かに北西の守りを固めるのは重要ですが」

 それでも半兵衛は心配だった。

 北と西を厚くする代わりに南と東を薄くした結果、秀吉の本陣には五百ほどしかいなかった。南は明智光秀がいるからまだいいとしても、東側の秀吉本陣を狙われたら一大事だ。

「何、いざとなれば尻尾をまいて逃げれば良い。どうせ東は岐阜城までずっと織田領じゃ、何の補給の当てもない軍勢が生き残れやせん」

 もちろんそんな主君だったから過剰に心配する気もないが、それでも最後の最後まで油断してはいけない事を自分なりにはわかっていたつもりだった。

「それに大丈夫じゃ、ほどなく来る。ほれほれ来た来た」


 そして、この状況を補える存在も来ていた。



 阿閉、磯野、宮部と言った旧浅井軍の将だ。



「お三方ともよく来て下さった!」


 秀吉は自ら下馬し、本来顎で使ってもおかしくない人間たちの手を取る。実際彼らは名目的には秀吉の配下であり、来いと言われれば来るしかない身だった。


「これはこれは筑前様!此度、歴史に立ち会えるかと思うと心底うれしゅうございます!」

 その主に対して真っ先に歓迎の意を示したのは阿閉貞征であり、年甲斐もなく泣き出している。宮部継潤は冷静に近づき、磯野員昌は所在なげに半兵衛の顔を見ている。


「手勢はおよそ千五百と言う所です」

「これだけあれば十分でございます!」

 磯野も阿閉も二十万石の浅井家の重臣であり、元々一~二万石しかない。それら三人で千五百と言うのはかなり無理をした数であり、三人とも必死だった。何せ、羽柴軍配下としてほぼ初めての戦だからだ。


「この戦いは上様が相手となりますが」

「別に自ら刃を交える事などございませぬ、ほんの少し守りを固めていただければよろしいだけの事」

 員昌が緊張しながら義昭の事を持ち出す中、秀吉は相変わらずの調子で話す。継潤がゆっくりとほぐれたようになったのに対し、員昌は相変わらず固かった。貞征はと言うと笑顔をさらに緩め、面白そうに笑うばかりだった。

「おそらくは今晩か明朝が勝負。今はゆっくりとお休みください。このそれがしの側の東の陣で」

「はい……」



 半兵衛の受け売りだと言う事実を隠しながら三人を帰らせた秀吉は、西から立ち込める炊煙に目をやった。


「一段と高く昇っておるのう」

「それこそ最後の米を炊いているのでしょう」

「最後、か……」


 征夷大将軍様らしい炊煙と言うのはあるのか。そんな事など秀吉は知らない。


 ただ目の前の炊煙は、力強く、そして異様なほど真っすぐだった。



「武士道の名の下に死ぬ気かもしれん。だがわしとしては死んで欲しゅうない。どうにかして生きてもらいたい」

「どうしてそう思われるのです」

「お館様が慈悲深きこと、半兵衛は知っておろう」

「ええ」

「安心して死んで欲しいんじゃ、きっと」


 ここで逃げた所で、室町幕府にもう明日はない。

 それが誰よりもわかっていてしかるべきはずだ、為政者なら、大将なら。


 もしそうでないのならばその時はあきらめるが、それを理解したのならば信長の天下を見守ってもらいたい。


 先の天下人として、信長に天下人たる資格があるか。




「そう、誠意を示せば、優しいのだと言う事をな……犬千代かと思うていたが、まったく驚いた物よ……」




 秀吉は三人の将に内緒にしていたさらなる援軍の事を思い浮かべた。




 親友より、ある意味ありがたい人間の援軍を。

ヤバい。金より飯。

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