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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第五章 農民と武士
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武田信虎の失望

2022年12月12日、誤字訂正。

 槙島城は本来、そんな大きな城でもない。


 一万近い兵を強引に突っ込むには無理があり、その内三千近くは周辺に天幕を張っている状態である。



「負傷者の手当てを早急に行え」



 優先的に槙島城に入れられたのは負傷者であり、すし詰め状態の兵士により次々に手当てが行われている。本来その担当であった女中たちは少なめの負傷者に慌てふためくか出番を奪われて突っ立っているかのどちらかで、無傷の人間たちが却って傷を増やしかねないような状態だった。

「ちょっとどいてよ!」

「城の外もいっぱいなんだよ!」

 そんな押し問答と共に城はよけい窮屈になり、将棋倒しを避けようと壁に向かってもたれかかって倒れようとする人間まで出る始末だ。ほとんどの兵が甲冑を取っていないのは戦時体制ではなく、単に場所がないからだ。

「ったく、気合を入れて財宝を運んできたのはいいけどこれじゃ壁じゃないか……」

 道中の小城からせしめて来た財宝があっちこっちに積み重なり、兵たちの進行も阻害される。

「まるで五千の兵が死んだ気分だよ!」

 そう女中がこぼしたのもまったく無理からぬほどのお話だ。


 実際の死傷者は千人にも満たなかった。

 予想外に少ない。


 そしてそれ以上に、投降者も逃走者も少なかった。



「これだけの数がいればどうにでもなろう!」

 義昭は人口密度の低い部屋でそう言うが、城内に入った兵はほとんど戦える状態ではない。単純に疲労していたし、それ以上に心理的打撃も大きかった。

 これほど兵を集めたのにたったの一戦負けてこうなる程度に心弱い兵たちは自ら衝突するのを避けるためだけに寝っ転がり、甲冑を外しさえもしなかった。

「多くの武器が失われております」

「まだあるだろう!」

 義昭の吠えるとおり、武器はまだある。槍も刀も、ひとり三本はある。その気になれば、ただ休むだけでまだ戦えそうにも思えた。



「で、援軍は?」



 そんな珍しく空っぽに近い部屋で重々しく声を出したのは、一人の老人だった。


「見ろ。既にこの城は完全に包囲されている。もちろんこの数をもってどこかを突っ切ると言うのは考えられなくはないが、それでどこへ行くのです?」


 重々しい声が指し示す通り、槙島城は完全に羽柴軍に包囲されていた。

 追跡して来た羽柴軍により南北は簡単に抑えられ、東からもさらなる援軍が来ている。

 その流れのまま、西側も抑えられて行く。


「京でのにらみ合いが長引けば明智が安堵してこっちに兵を向けて来るでしょう。となればますます逃げられなくなりますぞ」

「逃げる必要はない、敵を追い払うまでです!信虎殿はできぬとお考えなのですか!」

「できませぬな」


 武田信虎は、達磨法師の様に腕を組みながら義昭たちを睨んでいた。


 かつての甲斐の国主にして、齢八十二を数えるこの男。

 三十年以上前に国を追われ、生生流転の果てに幕府の家臣となったこの男の顔には年輪が刻まれ、威厳となっている。

 今回の出撃では年齢の関係もあり出撃しなかったが、事実上軍師のような立場で城に控えていた。


「敵の勢いに完全に飲まれている。それを何とかするためには大将自ら将卒を励まし勢いを取り戻されなばならぬ。しかも数日です」

「数日ですか、となると」

「籠城戦です」

「籠城ですか」


 その老人の口から出た籠城と言う言葉に間抜けなオウム返しをした義昭の頭の上を、信虎の右手が通過した。

 何だそれは、最初からこうなる可能性を考えていなかったと言うのか。征夷大将軍でなければ構わず引っぱたいてやったと言いたげな動きだったが、それでも義昭はたいして動こうともしなかった。


「確かに羽柴軍は六千と聞きます、しかし援軍はいくらでもやって来ます。なにせ征夷大将軍が相手なのですから。そんな絶好の餌を逃す馬鹿はいません」

「こちらの援軍は!」

「一応丹波勢にさんざん使者は送ったのでしょう?次は自分たちだと」

「そうだ、それが来れば……!」

「なら待つしかありませんな」


 信虎は別に出撃したことを責める気はない。

 このままでは織田勢の権勢拡大の前にじり貧以外の何でもない事は知っていたし、前々から本願寺などと手を組んでいた計画をいまさら取り消せばこっちが不信を買うだけだからだ。

 まだ、瀬田川を渡った事を責める気もない。

 どうせ秀吉なり誰なりが来るのはわかっていたから、防戦はできたはずだ。

 話を聞く限りかなり高速で戻って来たようだが、それでも対処できない数ではなかった。それがこうして敗れた以上、単に弱かっただけだ。今の兵では全軍で挑みかかれば穴を開ける事は出来るだろうが、その結果生まれる損害は凄まじい物になる。

(打って出られぬなら守り、守れぬなら逃げ、逃げられぬなら降れ、それができないなら死ね……)

 三国時代の英傑、司馬仲達が残した良くも悪くも残酷で現実を直視した兵法の言葉にあるように、打って出られぬならば守るしかない。



 そのための準備を整えるべく、信虎は城内を見回りに向かった。


 すし詰め状態の城内だったが年齢からして貫禄のある信虎が歩くたびに兵士たちが割れ、道を作り上げる。耶蘇教徒が言う十戒とやらの様に勝手に道を開ける兵士たちに一瞥をくれる事もなく、歩き回る。

 皆が疲れ切ったように空を仰ぎ、中にはあくびをしている兵までいた。肉体的以上に精神的に疲弊した軍勢を癒すのは、結局は飯と安眠でしかない事を信虎は良く知っている。


 そんなわけで案外簡単に城内の見回りができた信虎が最初に向かったのは、宝物庫だった。



「これはこれは武田様!」


 やけに明るい顔をした兵士は客を楽しそうに迎えながら、嬉々としてかんぬきを外す。


「中身を見せろ」

「それではご覧ください!」


 永楽銭だけでなく、骨董や金、佳酒や名刀などの財宝の山。

 それこそ一般兵の給金何ヶ月分の代物がずらりと運ばれ、並べられている。


「これはどこにあった」

「瀬田川の西の城です。それからこちらを」


 管理人らしき兵士が一枚の書状を楽し気に信虎に見せる。


「これが、代金だと言うのか」

「ええ、実はちょうど今日、受け取りに来てほしいと近江商人から!それでこうして丁重に受け取って来たわけでして!」

「それで何を売ったんだ?」

「私が直に交渉した訳じゃないんですがね、その近江商人によりますと、米二石だそうです、全部で」

「二石」

「これだけあれば二石どころか二十石は行けそうなのにねーほら、この壺、本当に上質なシロモノらしいですよ!」

 兵士はさらに四枚の書状を出し、それぞれ売買取引が正確に行われていることを見せびらかす。自分は関係ないと言っておきながら自分の事の様に得意満面になり、財宝の解説を始め出す。



 だがその間に、信虎の顔は急激に青くなった。


「……でだ。そのために米俵がなくなった訳か?」

「どうやら、農民たちから買い上げていたようで、しかしこの壺って一石はするらしいのにそれを四ヶ月分の米と引き換えにするだなんてねー」


「………………………………で、その壺は食えるのか」



 壺が食えるのかと言う質問にはあと言う顔をした男の頬を、信虎の拳がぶち抜いた。




「は?」

「確かに見事な契約だな!見事な!」

「ですから、その、なぜ……」


 自分が殴られた理由を理解しないまま呆けている兵士を置き去りにして、青かった顔色を紫にして信虎は宝物庫を飛び出した。

 そして

「ああ、くそ……!」


 その勢いのまま次に向かった米蔵を見て、本格的に絶望した。




 少ない。あまりにも少ない。


 米俵の山はどこにもなく、わずかに二、三十俵ほどが転がっているだけ。




 これで一万の兵とそれ以外の人間を、一体何日食わせられるのか。


 数えたかったし数えられたが、数えたくなかった。

やっぱり秀吉の得意技と言えば……

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― 新着の感想 ―
[良い点] 将軍相手に容赦なく兵糧攻めとはさすがに猿。 [気になる点] 途中で信虎が高虎になってました。 [一言] 果たして信康の死が嘘か信か・・・
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