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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第五章 農民と武士
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羽柴秀吉の追跡

 瀬田川の東、大津と呼ばれる地よりやや南の山地にて、征夷大将軍足利義昭の軍勢と羽柴軍は対峙した。


「貴様、美濃に行ったふりをして待ち伏せか!」

「いやいやとんでもない、あわてて引き返して来た所でございます。いやー、徳川殿が無事でその点は安心しておりますがなあ!」


 嫌味ったらしさがない。

 猿とか言われている通りの顔をしているはずだが、どこまでも真っ正直で裏表がない。

 信康の死が誤報とか言う取り方によってははめたなと言われても仕方がない事を言っているのに、作戦の臭いがして来ない。


「んー、まあ、わしも織田の家臣でございますからなあ。織田の領国に勝手にお入りになるのは放置できませぬゆえ」

「いつから織田の領国になった!」

「五年ほど前からでしょうかな。ああ、日向殿の事もございますしなあ!

 まあ、わしが少しお相手させていただきますのでどうかよろしくお頼み申す!」


 そしてその調子のまま言いたい事だけ言い、羽柴軍は攻撃を開始した。




「落ち着け!織田は強くない!速いだけだ!」


 当然の如く、義昭も攻撃を開始させた。


 美濃まで行っていたのにこんな所まで引き返して来た以上、相当に無理をしているはずだ。

 当然疲弊しており、全力は出せない。


(何が何でも一勝を奪わねばならない!)


 一勝を奪えば例え犠牲を出しても何とかなる、その勝利だけで何とでもなる。



「征夷大将軍の名の下に!」

「覚悟しろ!」


 土気色の装備の羽柴軍に向かって、煌びやかな装備をした足利軍が突っ込む。

 いかにも正規軍と、山賊のように見える軍勢。

 それがまごう事なき、足利軍と、羽柴軍だった。




 だが。




「うわ、うわわ!」

「うう、うう!」

「がはあ!」


 両軍が衝突した途端、次々に足利軍の兵士ばかりが倒れて行く。


 この時、羽柴軍は六千。足利軍を下回る数であったが、その六千の前に足利軍八千はまるで歯が立たなかった。

 足利軍の兵が一撃を加える間に羽柴軍の兵は二撃を放ち、次々に倒れて行く。

 豪華絢爛な装備が血に染まり、次々と戦闘能力を失う。


 一人の羽柴軍兵士の前に三人の足利軍が飛びかかるが、かすり傷を付けるのが精いっぱいだった。そこにまた別の羽柴軍兵士がやって来てその三人の手足を斬り、得物を叩き飛ばす。

「この!」

 拾っていては斬られると思った足利軍の兵は腰の刀を抜くが、それも同じように叩き落とされ、踏みつけにされる。

 —————気が付くと丸腰になっていた訳だ。


 そうなったらどうなるか。



「逃げる!」


 戦闘能力がない以上、他にどうしようもない。鎧だけあった所で拳ひとつで敵を殴り倒せるような人間などほとんどいないし、いたとしても織田軍に引っこ抜かれている。


「おいこら!得物がなければ拾えばいいだろ!」


 義昭が喚く言葉は正論だが、そんな余裕がある兵士はいない。実際にそれをやった兵士は蹴飛ばされ、捕虜にされるか逃げ帰るかのどっちかになった。



 —————この結果に、全く複雑な理由はない。


 足利軍はその大半が新兵ですらない駆り武者(強引に集めた兵士)でしかなく、秀吉や信長に慣らされた兵とは格が違い過ぎた。それだけの事だ。


 それだけの理由で足利軍は崩れ、羽柴軍は前進している。

「この野郎!」

 一人の足利軍の兵士が定まらない手つきで槍を突き出すが、その先には誰もいない。槍に当たったのは刀と言う名の金属の棒だけであり、その棒によって槍は力なく滑り落ちるだけだった。

 ある意味殺されるより残酷な仕打ちが兵士たちの心を折り、次々に踵を返させる。


「ええい!」


 義昭自身も必死に得物を振るが、当たる事はない。


 後方に下げられているから当たり前だが、空振りするばかりの得物の輝きがひたすらに虚しく、美しいはずなのに気力を削いでいく。



 たった一度戦っただけなのに。たった一度兵を合わせただけなのに。



 勇将の下に弱卒無しとか言うが、とても勇将には思えない秀吉の配下がこの実力だと言う事は、信長や勝家などはもっと恐ろしいのか。


 人死にはそんなにないはずなのに、力の差を思い知らされた気分になって来る。


「こんなところで死ぬ理由などございますまい!」

「黙れ!ここで敗れては征夷大将軍の意味がない!そう、夷敵を征伐する大将軍としての意味が!」

「すべてを夷敵と思うていては身が持ちませぬ!百戦百勝など不可能です!」

「知っておるわ!でも勝てねばならぬ戦もある!それが今だ!」


 その現実を踏まえた上で進む。

 必死に諫言されても、義昭は言う事を聞かず前進しようとする。


 だがこの足利軍が前に進むことは。もうない。

 忠誠心も何もない兵士たちはこの状況を前にして踵を返すしかできず、義昭もあっという間にその波に呑まれてしまった。

「さあお早く!」

 桐紋と、その後ろに並ぶ千成瓢箪の旗が義昭の視界から遠ざかって行く。

 前進した時の倍以上の速度で後退させられている気分で前を見ながら後ろに走らされ、必死に涙をこらえながら睨み付ける。



「敵の追撃は限定的です!」

「わかった、やむを得まい!」


 部下の言葉通り追撃の激しくない羽柴軍に安心しながら、必死に瀬田川を渡る。

「人数は!」

 落伍者の存在を心配していると、予想外に人は減っていない。前を見ても後ろを向いても負傷者はいるが数は多く、八千と言う数を保てているように思えた。


 それでふと瀬田川に目を落とすが、血の赤みもなく水の色だった。

 一列になって軍勢が後退し、確実に退却していく。その整然とした動きに少しだけ希望を持った。

 確かに今回は負け戦だ。だがこの戦いで少しは成長した以上、後は恐怖心を取り除きどこかで勝利を収めればまだいける。


 それに。

「この先の小城を占拠した兵たちを呼べ!少し時間を稼がせる!」

 この先には先ほど空城を占拠した兵たちがいる。数にすれば二千ほどだが追撃をしのぐには十分なはずだ。



 しかし。


「羽柴軍が左右から付いて来ています!」


 真後ろではなく、左右から囲んでいる。まるで包み込むように、じっと斜め後ろから付いて来ている。後方を突かれるより嫌らしく、恐怖心が芽生える。


「ええい飛ばせ飛ばせ!」


 必死に速度を上げる。このまま包み込まれて退路を防がれればそれこそ一大事だ。

 一本の長細い棒になり、左右の挟撃から必死に逃げる。

 そしてもう一つ、その軍勢をさらに外側から攻めるための兵を出すために、使者を送る。その構えで何とかして逃げ切りたかった。


 その言葉に従い先頭の兵たちが次々と小城に入る。

「羽柴軍が来た!横を突け!」

 その声と共に、小城から兵士が飛び出し、羽柴軍の横を突くつもりだった。




 しかし。

「誰もいないじゃないか!」

 数百名の兵士を入れたのに、それがほとんど残っていない。

 どこに行ったのだと言う当然の喚き声にも、まともに返って来る声はない。

 まさか支給品を持ち逃げしてどこかに消えたのか……!

「ああ早くお退きください!」

 そんな考えに至っていた使者に声をかけて来た兵士は、やけに嬉しそうだった。

「どういう意味だ!兵士たちは!」

「いやあ、ここって小城なのにやけに金銀財宝がたくさんでしてね、残ってる人に聞いたら取引の道具なのでどうぞご自由にお持ち帰りくださいって!ちゃんと槙島城に運んでおりますからご心配なく!」


 見れば、荷車に多数のつづらが積み重ねられ、さらに小判らしき光まで見える。

 確かに、物資輸送は重要かもしれない。だが現状は、それよりも目前の羽柴軍だった。その羽柴軍を駆逐できそうな人間は、見た所三十人もいない。

「他はどうした!」

「さあ、でも他も同じ様子でみんな挙って金銀財宝を槙島城に運んでいる状態で」

「ええい取引の書はあるのか!」

「はいこれです」

 使者は書類をひったくってみると、確かに財宝との取引が行われている書だった。

「とにかくお前たち!上様のために羽柴軍を討て!」

「はい」


 なあなあな返事しかしない男を置き去りにして、使者は書を懐にしまい込んだ。




「やっと戻って来たのか!って援軍は!」

「来ませぬ……!」

「どうしたのだ!残していた兵は!」

「どうやら槙島城に物資を運んでいたようで!」


 近江山城の国境まで来ていた義昭は、覚悟していたとは言え使者の報告に失望した。

 付かず離れずの距離を保ちながらずっと付いて来る羽柴勢に全く打撃を受けている様子がない以上、襲われていないのか襲っていても薙ぎ払われているかのどっちかだと思っていたからだ。

 その上での物資を輸送していたという報国に少し首を傾げながらも、必死に馬を飛ばし続ける。


 近江を越え、山城に戻り、何とかして包囲網から逃げる。


「武田信玄は言った!人は城、人は石垣、人は堀!」


 とにかくひとりでも犠牲を減らすべく、全力で逃げた。







 その甲斐あって、無事に義昭は多くの兵と共に槙島城へと逃げ込めたのである。

「ところで婆さんや、飯はまだかい」「おじいちゃん六時間前に食べたでしょ」

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