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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第五章 農民と武士
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足利義昭の出陣

 二月二十一日。



 二つ引両の旗は近江にまで翻っていた。



「明智はどうした」

「依然として本願寺軍と睨み合っております」

「フフフフ……」


 義昭は笑っていた。


 山城から近江までさしたる抵抗も受ける事なく入り、すでにいくつか小城を占拠していた。


「しばらくは新たなる領国を確保し明智勢を分断させましょう」

 その意見に対し、義昭は笑いながら首を横に振った。

「この勢いを自ら削ぐ必要はどこにもない。さらに進むのだ」


 義昭は有頂天になっていた。



 —————織田軍は速い。だが、強くない。



(欠下の戦いでも織田は正面衝突した武田を破れなかった。そういう事だ)


 征夷大将軍らしい豪奢な装備に身を包み、しっかりと態勢を整えながら進む。それだけで十分役目を果たした気になっていた。

「とは言えあまりにもうまく行きすぎではと」

「織田の敵は武田だ。徳川と言う唯一無二の盟友を失っては本当に本当の一人ぼっちだからな、守らない訳には行くまい」

「信康が死に、家次が負傷したとしても家康の兄弟がまだいるはず。そう簡単に倒れるとも思えませんが」

「くどいな、岩村城よ」


 貞興の様に食い下がる譜代の家臣に対し、義昭は岩村城と言う単語をぶつけた。


「信長にとって美濃は本拠地。その本拠地の大事な岩村城と息子を持って行かれたままでは気分が悪いし、単純に岐阜城も危ない。信長はほどなくして岩村城を攻める。しかし信康が死んだとあってはそちらにも兵を割かねばならない。伊勢どころか近江まで兵を注ぎ込まねばならないだろう。

 ましてや織田はこの前信玄はおろか勝頼を含む重臣を一人も殺せなかった。一応領国を取り戻してはいるが徹底的に破砕された浜松城と焼かれた平野しかないらしい。焦土戦術としてもまったくえぐい物だが、徳川としては不愉快だろう」


 だから、織田は誠意を示さなければならない。


 二俣城奪還、いや遠江全土の奪還。

 ましてや信康まで死んだ以上、徳川の最後の後継者である徳川家次を守らねばならない。


 その上に岩村城の事まである。

 岩村城の城主として担ぎ出されていた信長の五男坊が先月武田領へと連れ去られたと言う。放置していてはそれこそ父親ではない。


「伊勢殿はさすがに近江の兵まではとおっしゃっておりましたが」

「あやつは知らぬのだ、羽柴秀吉が既に美濃まで向かっている事を」

「しかし柴田がどうこうと」

「くどいぞ、越前は遠いし朝倉は浅井ではない。朝倉は織田をよく思っていないから柴田勝家でも簡単には治まらん。もたついていると柴田が来るぞ」


 義昭はしつこい家臣の言葉に耳を貸す事もなく、ただただ進んだ。




「しかしよほどあわてていたのだな。こうも無人の野を行くが如しとは」

「その分兵は減っておりますが」


 その結果、戦もないのに一万の兵は八千になっていた。先に述べたようにあちこちの小城を占拠するために兵を置いたゆえ仕方がなくもあったが、それでも正直あまり感じのいい話でもない。

 ある種の奇襲戦であるこの戦いには速度が重要であり、確かに無駄な兵を抱え込まないはもっともだった。

「この先の瀬田川を越えればいよいよ本格的に織田領だ。このまま一気に行くか」

 少し身軽になった義昭軍はさらに空き巣狙いを極めるべく、目の前の大河の先へと足を踏み入れた。


「思えばかつて天武天皇様は、この瀬田川を越えて大友皇子を討った。今度はこちら側から渡るが、やる事は同じだ」

 武家の棟梁が帝の話を持ち出し、自信満々に瀬田川を渡る。その時は瀬田川を天武天皇軍が東から来た事などまったく意に介する事もなく、ただ楽しそうにしていた。


「不埒者を討つ。それだけの事」


 征夷大将軍でありながらそれらしい事など何もできなかった侍、いや坊主。

 兄を討たれ、従兄弟が一年足らずで追い出され、その上でなった征夷大将軍と言う地位。どこからどう見ても傀儡。応仁の乱から百年近く続いて来た力関係とは言え、最高権力者のはずだった存在としてはもう我慢の限界だった。


 これが天下一の侍だと言わんばかりに豪華絢爛な装備に身を固め、ただ敵を討つ。それだけのことができなかった自分や先代たちの思いが、義昭を動かしていた。

「かつての尊氏公も、こうして戦場を闊歩しておったのだろう。こうして西へ東へ駆けずり回り、逆賊を討伐した。そして二百年の歴史を作った。

 今我々は尊氏公の遺志を受け継ぎ、さらなる二百年の歴史を作るのだ。漢王朝のように!」




 義昭は今、夢の中にいた。




「上様!敵です!」

「来たか!」


 前方から、砂煙が立ち上っている。

 足利軍はすでに一軍丸ごと瀬田川を越えていた。

「どうせ急ごしらえの軍勢だ!軽く踏み潰して見せろ!」

 瀬田川を無抵抗で渡らせるような御家。


 どうせどこかの誰かがあわてて伝えあわてて兵を組織したに過ぎない。


 義昭は隊伍を組み、砂煙に向けて刀を抜いた。

 これまでの十四人の英傑の力を借りるように強く握り、砂煙に向けて突き付ける。

 数は多くて千名か、せいぜい二千名。

 まずは目の前の敵を叩き士気をさらに高める!


「先頭が来たぞ!さあ矢を射かけよ!」

 先頭の軍勢の存在を確認した足利軍の弓兵が、一騎に矢を射かけた。



 そして、一本の矢が一人の兵の右肩を捉えた。


 その兵が持っていた旗が大きくぐらつき、反動のように前に向かって来る。

 敵軍の前進が止まり、隊伍が組まれる。







 そして、義昭の夢に頭から水がかけられた。







「あれは!」


 その兵士が掲げていた旗。



 そこには、五三の桐紋が描かれていた。



「織田本隊!?」

 誰かがそう言い出すと同時に、足利軍の勢いは一気に失われた。

 桐紋は十三代の義輝が信長に与えた紋であり、こんな紋を使えるのは信長しかいないはずだ。

「馬鹿!ここで信長を討てばそれこそ最大の功績者となれるのだぞ!」

 義昭の言葉で士気低下は抑えられる流れになったが、それでも敵が本気である事を感じた足利軍から余裕はなくなっていた。

「どうせ急ごしらえだ!余自ら!」

「わかり申した!いざ!」

 それでもまだ、内心では余裕のあった義昭の声が鳴り響き、いよいよ正面衝突の戦いが始まるはずだった。




「いやー、これはこれは」




 だと言うのに、異様に軽い声。

 四十路近いだろうのにやけに軽く、いやらしいほど人なつっこい。

 不思議な魅力を持ったその声は足利軍の勢いをさらに削ぎ、戦場のはずのこの場を妙にさわやかにした。


「わしのような卑しい出のもんがこうしてご対面できるとは何ともはや、御光栄極まるお話でまさに汗顔の至りでございますわー」


 間延びしきった声を敵軍の中央から響かせる存在。

 背は低いかもしれないが存在感は天下一の声。


 そして、耳慣れてしまった声。



「お前、お前などがなぜこの!」

「いやー上様、いろいろありましてな、わしがなぜかもらえる事になったんですわ」



 —————羽柴秀吉。

 つい最近上司二人から名前を取って付けた姓を名乗っている男。


 美濃へと駆り出されていたはずの男が、そこにいた。







 ちなみに秀吉がこの時義昭と出くわしたのは、おねの腹いせである。


 元より女癖の悪い秀吉におねは悩みを抱えており、その事を信長に直に書状で相談したこともある。

 その際に信長は

「筑前にその方以上の女性はおらぬ。その方をないがしろにするハゲネズミはまったく許しがたき男よ。我が命であるととくと言い聞かせよ」

 そう送り返していた。

 一応表向きには秀吉も了承したが、どうしても跡取りと言う名のお家の都合がある上に姑がそれほど消極的ではなく、その上義弟の秀長にも子がいないだけにどうしても最低限の側室は必要になってしまう。


 今回おねに信長が直に作戦を授けたのはその時の事もあった。







 そしてこれは、義昭はおろか秀吉すら知らないおねと数名だけの秘密である。

羽柴秀吉「どういう出番じゃおい!」

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