羽柴秀吉の嫁と姑
今浜城改め長浜城は、異様なほど閑散としていた。
小谷城から近江の本拠を移す予定だったはずのこの地には、およそ百名の兵しかいなかった。
「まったくあの子は本当に忙しないんだから!」
「それがあの人の良い所なのですから」
出来かけの天守閣ではおよそ城に似つかわしくないような女性が娘同然の年齢の女性に向かって吠え、若い女性は年かさの女性の怒りを手を前に突き出しながら受け止めている。
「私をこんなところまで呼びつけといて、本当どこまで行っちまったのかね!」
「美濃から尾張に向かっているようです」
「ハン、ったく何様のつもりだい、藤吉郎は!」
本来ならば城主が座ってしかるべき場所に鎮座する女性は、去年の秋まで田んぼの稲を刈り取っていた人間だった。そのせいか五十も後半なのにやけにかくしゃくとし、本来同じぐらい元気なはずの嫁に張り合っていた。
「ご母堂様、白湯を」
「いらぬ。それよりあの子は今どこに!」
「関ヶ原へと入った模様です」
「ああそうかい、ったくもう、って言うか誰かご母堂様だよ!」
城主の母ならば、ご母堂様とか言う呼び名はそれほど珍しくもない。
だがなかとか言うただの農婦にしてみれば、そんな御大層な呼び方をされる覚えもなかった。
元々ただの農民であり、足軽であった長男の日吉丸が、織田信長に仕えて何の因果か出世に出世を重ね、近江半国を治める大名様なんかになり、そんな地位が降って来ただけである。
どうあがこうとあの子はあの子でしかなく、いつまで経っても世話のかかるやんちゃ坊主に過ぎなかった。弟を見習えとか言う気もないが、正直気が休まらなかった。
「それに何だい、城主の母親に白湯って!確かに私はぜいたくは嫌いだけどね、それにしてもさ!」
「申し訳ございません、すぐさま茶を!」
「構わないよ、八つ当たりを真に受けるんじゃないっての!」
「ですが殿から、ご母堂様と奥方様を粗略にするなと」
「本当、あの子らしいわね……」
ぶつぶつ言いながら、結局なかは白湯を飲む。ゆっくりと口に含ませるでもなく一気に飲み干し、わざとらしく音を立てて碗を置く。湯気が立っていた事などまったく気にするそぶりもない。
「しかしお殿様、いやお館様ってのも本当にせっかちなお人だね!」
「似た者主従なのでしょう」
「それに付き合わされる方はたまったもんじゃないってのにね!あの子の親友様も今頃は四苦八苦してるんじゃないのかい」
「いえ、私は前田様の奥様をよく存じておりますから」
「ああそうだったね、まさにあの子の親友だってよくわかるよ……」
まつとなかはそれほど親しくもなかったが、嫁のおねを通してまつとその夫の事はわかっている。
何かと奇矯なふるまいの多かったお殿様に付き従っていた傾奇者が利家であり、そのお殿様にへばりついてすばしっこく動いていたのが息子だった。そんな足軽の小僧二人が今やお家の中核だから、古い人間からすると付いて行けなくもなる。
なかにとって織田の重臣は佐久間や林や柴田であって、決して丹羽や滝川や池田ではなかった。前田は柴田の重臣だからまだともかく、あの息子が先に述べた三家と同じかそれ以上の扱いかと思うと怖くもなる。
「それにしてもさ、せっかくのこの城を投げ出してなぜ美濃へ行こうって言うんだか」
「織田様のお呼びかけです。しかもかなりの急使で」
「まったくお偉いさんってのは下っ端の都合なんか考えないんだね!…………ああ、言ってみたかっただけなんだけど」
だから、ついこんな言葉も出てしまう。
今の秀吉は旧浅井領二十万石を受け継いだ大名であり、なかやおねもそれ相応の身分である。
だと言うのに、失言をしたはずのなかの顔色はまったく蒼くならない。
「で、あんたもまあよくあんな事が言えたもんだね!」
「どの事ですか」
「とぼけるんじゃないわよ!あの子はもう立派な武家なんだから、一人や二人いいじゃないか!私にはよくわからないけどね!」
秀吉が好色家であることをもちろんなかは知っている。食うや食わずの足軽時代には二人目の嫁を取るだなんて論外だったし、このおねが来たのさえもあの桶狭間の後だった。その時には若い男女が嫌になるぐらい睦みあい、母ながらそのむさぼりっぷりに呆れもした。
そんな男が余裕を持ったとなれば更なる女を求めるのは必然だし、何より男子の存在もある。もう三十七歳の秀吉だが男児はおろか女児もなく、このままでは御家の存続にかかわる。弟の秀長も三十四歳だが同じく子はない。
「私はこれでも藤吉郎や小一郎(秀長)を育てて来たんだからね、あんたもそれぐらいの度量を持ちなさい!」
「それは心得えております」
ある意味当然の指摘をしたなかに対しおねが平板な言葉を返すと、すかさずなかの右手がおねの頬目掛けて飛んで来た。
「なんで受けるんだよ!」
もっとも、それを察して右手の甲で受ける程度にはおねは知恵のある嫁であり、身体能力も伴っている女だった。
「旦那様と何年一緒にいると思っているのですか」
「それはこっちの台詞だよ!私が何年あの子の母親をやってると思ってるんだい!」
羽柴秀吉と言う男をめぐる嫁姑の戦いが起きようとしている中、茶碗は何の遠慮もなく転がっていた。適当に音を立て、ともすれば殴り合いにでもなりそうな二人の女性を黙って下から睨んでいる。
「まったく、恐ろしい女だねあんたは!」
「否定は致しません。しかしこれは旦那様からの命令である前に、織田の殿様からの命ですから」
「あんたに名指しで命が来たってのかい!」
「いかにも!」
自信満々な嫁の四文字に、母親は手を緩めた。
夫を通り越して妻に命を出すなど普通はありえない。それが帰蝶ならまだともかく、信長自らとは。その信長と言う名の桁外れの上官の存在に、なかは遠く離れていたのに力の差を見せつけられた気分になってしまったわけだ。
「……だからと言ってね、あんな慌てふためくほどの事を言ったのかい。目はまんまるにして大口開けて、飛び出して行ったからね」
「ええ、徳川様に死んでもらいました」
それでもその命を真っ正直に執行する嫁に、なかは空を仰ぎたくなった。
「武田軍は三河攻撃を行い吉田城を荒らし、迎撃のために出て来た徳川信康を攻撃。山県、内藤、馬場ら宿老に織田や徳川を抑え込ませ、強引に徳川信康を殺害。
さらに徳川家次をも撤退のさなかに紛れていた間者によって負傷させ、徳川を完全に破壊しようとしている」
こんな命令が信長から届いた旨をおねが秀吉に伝えたのは三刻ほど前の事だった。
秀吉は物理的に飛び上がり、持たせる物と兵をすべて集めて美濃へと向かって行った。
それこそ根こそぎとでも言うべき量のそれを集め、戦時体制ここにありとばかりに城から飛び出す。
長浜普請ばかりに目が行っていたはずなのにわずか二刻半でそれを成し遂げるのはさすがではあったが、それにしてもあまりにも急すぎた。
「あの子ったら私にあいさつもなしで!」
「非常時ですので」
真顔でこんな事を言う嫁に腹は立っていたが、それ以上に信長の恐ろしさもあった。
「でだ、藤吉郎にこんな事をさせる意味ってのは何なんだい」
「室町幕府にもう意味はない、と言う事だと愚考します」
「は?」
そんな信長から信頼される嫁から出て来た室町幕府と言う単語に、母親は「は?」しか言いようがなかった。
「母上は尾張にいる際、幕府をどう心得ておりましたか」
「どうって、どうとも思わなかったよ!存在を知ったのすら十年ほど前だし、私が無学なせいか知らないけど!」
「そういう事です。そして織田様もまた、ほんの数年前まで尾張と美濃の二ヵ国で目一杯で幕府など気にしていなかったと考えるべきでしょう」
この点に関してはおねは信長から情報を得たわけではない。
元々おねは秀吉よりはましな家柄の出ではあったが大差がある訳でもなく、幕府とかいう知識はほとんどが秀吉の出世と共に身についたにすぎず、秀吉が京の奉行職になった際にようやく幕府の存在を知ったぐらいである。
「でも二百年以上の歴史があるんだろ?滅ぼしちまっていいと思ってるのかい」
「思っているからこそでしょう」
「って言うかうちの子がここからいなくなれば幕府はおしまいなのかい」
「うまく行けばそうなるでしょう。二三五年の歴史に幕が下りるのです」
だがいてもいなくても変わらない存在とは言え二三五年もの歴史を持った代物を滅ぼすとなると、ますます秀吉が遠くに行った気がしてくる。
「全く人の悪い嫁だよ!」
「否定は致しませぬ。しかしこれもまたお館様の策であり、必要な事だと思いましたので」
その事を惜しむ暇さえ与えない妻。
その妻によって息子が変わってしまったとか言うありきたりな感慨を、なかは抱く気にはなれなかった。
(征夷大将軍ってのが一番偉いサムライだって事は知ってるよ!でもそのサムライに、うちの息子がとどめをねえ!でもまた人が死ぬんだろうね、人が……!)
—————あまりにも、残酷な結末。
一応一番偉いはずのサムライを、たかが農民だった男が負かすかもしれない。
なかが一見爽快とも取れるその一件の裏の犠牲者の事を考えたのは、たくましきはずの老女らしからぬ、現実逃避だった。
羽柴秀吉「わしの出番はまだかのう……」




