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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第四章 馬込川の戦い
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武田勝頼の乱心

 平手を名乗る若武者率いる軍勢は、疲れていないのをいい事にいっきに北条軍に突っ込む。

 真正面から来た軍勢に北条軍は一気に後退し、馬込川手前まで追い詰められた。

「まったく、織田軍はどこまでも…………」

 疲れていないのは北条軍も同じだが、士気の差がありすぎた。

 やる気のなかった氏照だが命だけは惜しく、あわてて身構えるしかなかった。三千の兵が簡単に押され、ためらうことなく逃げ出す。もちろん、勝頼に使者なんか送らない。


「敵は強いですなぁ!」

「しかし織田軍に援軍があったとは思わなかった、それをなぜ読めなかったのか、ああもう腹が立つなー!」

「いったん馬込川を渡って逃げましょう!」


 氏照も数少ない精鋭も実に息の合った芝居を打ち、対岸の北条の兵を当てにするかのように逃げ帰った。


「どうした!たかがあの程度の援軍で!」

「あの腰抜け!せっかくもう一歩で決着が付くはずだったのに!」


 氏照にしてみれば逆恨み以外の何でもない罵声にも耳を貸す事なく、馬込川を三つ鱗の旗が渡って行く。




「平手とか言う若武者は何だ」

「かつて信長の素行定まらぬ際に諌死した男の孫です。信長はかなり大事にしていたようです」

 息子と援軍の醜態を、信玄はまるで表情を変えずにじっと見つめていた。

「その程度の器の男を大事にするとは、信長も案外甘い男だな。栴檀は双葉より芳しと言う言葉を知らぬと見える」


 その上にこんな調子である。まったく他人事の上に信長にまでケンカを売っており、ある意味この上なく無責任で自分勝手だった。


「それよりも若君様は」

「信長の不意を突くとはやってくれる。それより高坂だ。これ以上の放置はできんから行くぞ」

「それでは!」

「まあ、信豊も含めやる事はやる。それだけの事だ」

 そして息子に対してさえもその調子を崩さない。内心の動揺などまったく見せず、あくまでも冷静に振る舞う信玄に、もし間近にいれば信長でさえも寒気を覚えたかもしれない。




※※※※※※※※※




「ええいもう!」

「まったく、どこまであがく気だ!」

 父親がそんなだと知らないまま、死にかけだと思っている相手を殴っている勝頼たちのいら立ちは頂点に達していた。

 おかしい。なぜ倒れない。なぜ平然としている。

 一瞬こっちに来ると思っていた平手とやらは北条を追いかけるだけ。紛れもない真正面からの衝突なのに結果は出ない。

 押されてはいない。劣勢だった事など一度もないはずなのに。


「あああああ゛あ゛あ゛……」


 勝頼の声に濁音が混じり、その濁った声が刃にも反映される。一か所しかやり場のない怒りがその一か所にぶつけられ、その度に顔が内外から赤く染まる。

「腰抜け、腰抜け、腰抜けぇぇ!!」

 万物を食らいつくさんと欲するけだものの様に吠え、疲れをごまかす。

 信長と言う敵への怒り、信玄と言う無理解な父親への憤り、高坂たち老臣の自分への侮り。その全てが乗っかった刃が七割近く関係ない信長軍に振り下ろされる。

 何が守りのためだ。何が引き分けであればこっちの勝ちだ。

 二万以上の軍勢を注ぎ込んでおいて引き分けで済むわけがないだろう、信長も信玄も甘すぎる。

 そして高坂も、信豊も、北条もわかろうとしない。


「若殿様!」

「死ね!」

「若殿様!」

「邪魔をするな!」

「若殿様!」

「何だ!邪魔をするな!」


 そんな一人ぼっち気取りの勝頼の背中に飛んで来た声に勝頼が反応したのは、三度目だった。ケンカ腰以外の何でもない口調であったが、それでも伝令兵はまったくひるむどころか眉一つひそめようとしない。


 その事にさらに憤った勝頼が見てやるからとばかりに後ろを向くと、秋葉街道が真っ赤に染まっていた。


「放火だと!」

「いかにも!このままでは我が軍は全滅です!織田めにしてやられました!」

 伝令が悲愴な顔を作ると勝頼は鐙を鳴らし、その反動のように目の前の織田軍二人の武器を叩き斬った。

「くそ……!わしがいなくなった隙を突きおって……!わかった!全軍後退!もう十分に武田の強さは示した!退くぞ!」

 怒りの矛先を信長から放火犯に変えた勝頼はようやく踵を返し、織田軍に尻を向け馬込川へと飛び込んだ。

 右目には織田木瓜の旗が輝き、武田菱を押している。自分を釘付けにさせて本陣を責めようなどなんと卑劣なのか。


「覚えておけ信長!次に会った時が貴様の最期だ!」


 信長に目いっぱいの悪態をつきながら、勝頼は織田軍へと斬り込む。



 そして、真っ先に目標となったのは—————

「高坂!」

「おお若殿様!」

 徳川軍により信玄本隊を切り離され正面と後方からの攻撃で苦境に陥っていた、高坂軍だった。

「まったく、織田の弱兵に苦戦しおって!今すぐ叩きのめしてやるからな!」

「感謝いたし申す!」

 勝頼は横槍と言う状況に沸き返り、高坂を押しまくる織田軍に襲い掛かる。三つか四つぐらい遅いお話だが、それでも確かに効果はあったようで織田軍が高坂軍を責める手は鈍った。

 勝頼の揺ぎ無い自信に満ちた刃が織田軍を押し返し、武田軍を突っ切ろうとしていた徳川軍を間接的に押し返す。

 その間に北条軍が隙間に入り、陣形を立て直しにかかる。

「ああもう面倒くさい、あれだけ痛めつけたのにまだ懲りないのか!」

 だがそれでも織田軍は攻撃をやめず、攻撃をかけてくる。勝頼など一時しのぎに過ぎないとばかりに気合を入れ直して来る織田・徳川軍に、勝頼の怒りは収まる事を知らなかった。

「狙いはおそらく北条」

「ええい、わしが北条を守ってやるわ!」


 北条軍は言うまでもなくやる気に乏しく、文字通りの穴埋めだけ。そもそも氏照にやる気がないのだから足が進むわけもなく、直秀に至っては文字通りの傀儡でしかない。半分腰が引けている所に襲い掛かって来たのだから大した抵抗力にもならず、文字通りつぎはぎの間に合わせでしかない。

「おいどうした!織田に蹂躙されたいのか!」

 しかも彼らの大半が氏照と同じように勝頼が普通に戦っていればこんな思いをする事はなかったのにと言う感情で包まれているのだから、援軍が来たからと言って士気が上がるはずもない。

 何より、この炎である。

 秋葉街道から流れて来た熱が恐怖心を掻き立て、北条軍のない士気をますます奪っているのだ。

「織田の策にはまりおって!」

 とか勝頼がわめいた所でどうにもならない。



「二俣城を狙われたら一大事だ!退け!」



 そしてついに、氏照がこんな事を叫び出した。

 大将様の命令ならば聞かぬわけにはいかないとばかりに北条の兵たちが逃げ出し、隙間が一気に増えた。予備隊だった三千はほとんど戦わずに逃げる有様で、勝頼でさえも怒る気がしなくなっていた。



 それでもなお、勝頼はしぶとかった。


「ああもう!どいつもこいつも!織田の弱兵などに!」

「しかし敵の数は多く!」

「うぐぐ……!死ね、死ね、死ねぇぇぇぇ!!」


 悔し涙を流しながら、織田軍を斬る。すでに三ケタかもしれない兵を斬りながらもまったく衰える事はないが、それでひるむ織田軍の人間はびっくりするほど存在しない。その事がなおさら勝頼の怒りを煽り、余計に刃が鋭くなる。

「わしは武田の、武田の次なる当主だぞ!我こそはと思わん者はこの首取りに来い!」

 いくら叫んでも、敵が狙うのは信玄か、高坂軍ばかり。実際高坂軍は信忠軍・佐久間軍にかなり押されており、死傷者ともほぼ同数の勝頼軍の倍以上いた。

「ああそうか……」

「若殿様!」

 そこでようやく、矢が飛んで来た。一本の矢が、勝頼を狙って飛んだ。

 その矢を受け止めた勝頼は、また笑顔になった。


「本物の武田の男はここにいる。さあ来い!」


 笑顔のままさわやかな声で放たれた一声には年相応の若さがあり、勝頼軍ならず高坂軍にも活力を与えた。


 —————だがそれでも数に勝てるかと言うと別問題で、勝頼軍・高坂軍合わせて一万で織田軍一万七千を受け止めるのは結局無理だった。


「ああ、くそ……!」

 疲弊度はどっちも変わらないが、数の違いが響き出す。これまで不作為に次ぐ不作為でなんとか兵力さをごまかして来たが、北条軍がいなくなってしまった事に対してはどうにもこうにもなりはしない。氏照たちの不誠をどうやって責めてやろうかと言う憤りの力も限界があり、勝頼軍の死者も増え始めていた。


 それにあの秋葉街道の火だ。もたつけば街道そのものが焼かれ逃げられなくなるのではないかと言う疑念が兵たちの足を竦ませ、逃げるという単語の存在感を高めてしまっている。

 退くのはいいとしてもそれでは武田の負けではないか、それだけは絶対に許されない。何としても、武田の強さを見せつけなければならない。

「貴様らのせいで!」

 北条に続き放火犯への憤りを糧に得物を振るが、どうにかなる訳でもない。




 —————そして—————。




「今度は南側から出火!」

「馬鹿を言え!」


 何が何でも退却させようとする忌まわしき存在に対する、また新たな憤り。

 疲れ果てていたはずの肉体をなおも動かし、織田の後継者をにらみつけさせる。

「奇妙だと……奇妙だと……織田の跡目だか何だか知らんが、あくまでも後ろで引っ込んでいるつもりか…………」

 信長の代わりのように信忠をにらみ、一騎打ちの夢を見る。そして、その首を取る夢も。それだけでなお、勝頼は戦意を失わずにいられた。

 だがそんな事とは関係なく高坂軍は押され気味を通り越して崩壊寸前であり、これに徳川軍か信長直属軍が加わればそれがとどめの一撃になりそうな状況だった。


「あああ、ああああああ……!」


 負けを認めろと言うのか!どうしても勝つ事など許さないと言うのか!

 ふざけるな、ふざけるな、所詮は信玄の影だと言うのか……!


 呪詛を込めた唸り声が響き渡るが、織田勢は止まらない。止まるのはお前の心の臓だけだとばかりに、雲霞の如く群がって来る。


 そしてついに、高坂軍が耐え切れなくなった。自分たちも高坂軍に押し流され、秋葉街道へと流されて行く。



 こうなれば、せめて殿軍を勤め上げるまで!

 だがその思いすらも高坂軍に押し流されてしまう。


 そして何より、敵が来なかった。


「何、だと……?」


 勝頼が流されながら見た旗。




 それは—————風林火山。




 殿軍は信豊ではなく、信玄自らだった。




 そして、放火犯も。




※※※※※※※※※




「浜松城のあった地を……」


 高坂軍を押しのけいよいよ秋葉街道を北上しようとした信忠が見たのは、前の敵軍と、左右斜め前の炎と、南側の炎だった。

 とくに南側の炎は強く、相当な距離があるはずの信忠すら呑まれそうに思えた。


「どうなさいます!」

「ここまで火が広がると追跡は難しい。ましてやこれだけの火となると焼けた田畑も多い。二月と言えばこれから田植えの時期だろうに……!」


 元々昨年の戦でかなり荒れていたが、その上に火までかけられたのだから文字通りのとどめの一撃である。

 さらに二月の炎は煙をたなびかせ、風を起こし、そして視界を塞ぐ。挙句

「街道に火が燃え移っています!」

 織田軍の前進まで阻もうとする。


「完全に信玄めの放火だな」

「これはもう……」

「これ以上の追撃は不可能と父上にお知らせせよ……」


 信忠は疲れ切った声で、前進の停止を決定した。

 もちろん信長も信盛も判断は同じで、姫街道と秋葉街道の交点である欠下にとりあえず陣を張るのが精いっぱいの自己主張だった。



 —————何の意味もない、ただ疲労だけが残った、あまりにも虚しい戦。



 信忠ならずとも、同じ感想を抱かずにいられなかった。

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