武田信豊の戦場
師走です。皆さまお体を大切に……。
「兄上!頼みますぞぉ!」
「おう!」
大久保忠世は、二十六個下の弟の声と共に戦場へと飛び出した。
(十五にしてあのような業を背負わせおって……!武田の坊主めが……!)
—————凪の日に 二つの炎 騒ぎ消え 山の月たち 雨を怪しむ
昨年末歌道の心得などまるでないはずの彦左衛門が詠んだ歌が、忠世たちの心を深く突いていた。
さらに
—————いと軽き 主の頬を ただ濡らし 誓うは共に 虎の頬こそ
と言う歌まである。
前者は—————平穏な日に炎が音を立てて消え、その音があまり激しい物だから月たちが雨と間違えたのだろう—————とか言う訳ではもちろんなく、「凪」は「風」の反対、「炎」すなわち「火」が消え、「騒ぐ」の反対は「静かなる」事林の如しである。そして「山に月たち」は山の字に月二つで「崩」れる、つまり「山」の崩壊。「雨」に「怪しい」は「晴」「信」の逆と言う具合であり、武田信玄への憎しみを込めた恐ろしいまでの狂歌、いや呪歌であった。ついでに言えば二つの炎は四つの「火」であり、それが消えると言う事は武田「ひし」をも消してしまおうと言う事でもある。
後者も後者で家康の首を抱えながら岡崎まで逃げ伸びた彦左衛門がその涙で家康の首を濡らし、その上で甲斐の虎こと武田信玄の首を隣に添えてやろうと言うそれであり、さっきより直接的ながら迫力は十二分である。
「全ては徳川家のために!」
大久保忠世の声と共に、本多忠勝を馬込川へと追い落とそうとしていた信豊軍は逆に押されそうになる。
「お前たち、一人きりで戦う気か!」
信豊は織田軍の不動を責めるが、大久保軍は全くひるまない。むしろ逆に気合を入れて挑みかかって来る。
本当に自分たちだけでも信玄を討つ気なのか、それとも信長が自分たちを見捨てるわけがないと信じているのか。前者であるとするには、大久保軍の顔に悲壮感は乏しかった。
大久保忠世は四十二歳、ついでにこの時ともにいた息子の忠隣は二十一歳。
十分に分別の付く年齢である彼は、酒井忠次と共に信玄への憎しみに囚われがちな徳川家を理性的に支えていた。
「武田を討つのには十年かかる。一撃、一撃、ゆっくりと削って行かねばならん」
信長は信玄が即死したとしても武田の勢力は強大であり、また北条が武田を見捨てない以上、その程度の時間がかかると見ていた。もちろん織田が全力を注ぎ込めば可能だろうが、まだ畿内が平定されていないのにそんな事はできない。
その上で、まず目の前の勝ちを拾わねばならない。
「行くぞ!」
兵たちを促し、強引にでも前へと進む。自ら闘う姿勢を見せ、ひとりでも多くの敵を殺しておかねばならない。
先ほどの忠勝軍にもまして強引に突っ込み、当たる者みな敵と言わんばかりに得物を振り回す。
「さっきよりはましだ!」
信豊の言葉の上げ足を取るように暴れ、次々と精鋭部隊をなぎ倒す。忠世の体が返り血で赤く染まり、刃も人の脂で鈍り出す。それでも知った事かと言わんばかりに振り回し、血と油を撒き散らしながら武田軍を殺す。
「ええい確かにやる!だがもう狙いは見えている!」
それでも信豊は冷静沈着だった。忠勝も忠世も同じ所、浜松城跡を狙っている。
—————狙いは武田信玄か。いや!
「欠下方面を守れ!高坂殿にも伝えよ!」
信玄を狙っていると思わせて欠下と言う急所を横から突き、部隊を乱す作戦だ。そう判断した信豊はすぐさま兵を欠下に回し、高坂にもその旨を伝えるべく使者を送った。
大久保か、酒井か、あるいは信長かは分からないがいずれにしても味な真似をする。だが、そうやすやすとやらせる訳にはいかない。
「そろそろ織田も来るだろう。本番はここからだ」
「正面の佐久間が来ると」
「間違いない。敵は徳川勢によって高坂の脇を突きその上で正面から来る気だろう」
「その際には我々は」
「あくまでも徳川を受け止めろ。それでいい」
その上で、武田の本陣を守る。それ以上の必要はない。
お互いがお互いの役目を果たすだけ。徳川ができているのに武田ができなくてどうするのだと言う意地の張り合いがあった。
(と言うかここで来なければ織田は徳川を本当に使い捨てにした事になるぞ……)
暴れまわっているように見えた大久保忠世の攻撃は、どこか理性的だった。忠勝が信玄軍の真正面を責めていたのに対し、忠世は旧浜松城の方向を攻めている。言うまでもなくそこは信玄の居場所だが、同時に欠下から遠い方向でもある。織田軍に隙を突かせなければつじつまが合わないはずだ。
—————果たして。
「織田軍が動きました!」
ついに来たか!徳川にさんざん本陣をかき乱させ、その上で正面の高坂勢を抜く気だ!
「徳川の横撃を阻止せよ!」
信豊はここぞとばかりに声を張り上げる。まだ忠勝と忠世しか動いていない徳川勢、ざっと見て三千少々は残っている。それを阻止すればこっちの勝ち。
「撃て、撃て、撃て!」
織田軍のそれらしき声が響く。王道のような弓の打ち合いから始まり、両軍が正面衝突する。織田軍は一万、高坂軍は五千。だが押されれば北条や勝頼が来る。そうすれば数で押し切れるはずだ。
「ほどなく徳川はさらに攻撃をかけてくる!おそらくは信康か酒井だ!」
織田の総攻撃開始。
そうなれば徳川もまた総攻撃を仕掛けてくるはず。わずかな兵を残すか、あるいは全軍そっくりそのままぶつけて来るか。その場合の大将はどう考えても当主の信康か、酒井忠次か。
「徳川が来ました!狙いは欠下の高坂様!」
「ついに来たか!その旗は!」
「葵紋です…………」
そしてすぐさまやって来たことを知って高揚した信豊だったが、信康だとしては妙に気乗りのしない口調に首を傾げたくなり、思わずやって来た軍勢を直視してしまう。
「どうした、信康自らではないのか!」
確かに酒井の剣片喰紋はない。
だが徳川の葵紋も二本ぐらいしかなく、見た事のない旗が多数並んでいる。本多の立ち葵でもない、大久保の上り藤でもない旗。
一体誰なのか。
「何だあれは……」
円の中に六本の線が入り、真ん中に太陽を思わせる模様が描かれている。
一体誰だ。
徳川の将であることは間違いないのだが。
一瞬石川数正の息子が仇討ちに来たのかと思ったが、石川の家紋は丸に笹竜胆だ。
そしてその信豊のためらいが、誰も知らないような将など大した事はないと言う油断を生み、一進一退気味だった武田勢に勝利近しと思わせてしまった。
「一気に進め!高坂を叩け!」
「何を!徳川の家に将はない!」
油断と安心を表出させた武田軍にぶつかって来た徳川の将の刃は、本多忠勝よりも鋭く厳しかった。
「嘴の黄色い小僧めが!おとなしく母親の胸に抱かれていろ!」
中年の将は若武者を煽ってやるが、若武者は無言で刃を突き出して来ただけだった。武田の中年の将はそれを軽々と受け止めると今度はこちらの番だと言わんばかりに刃を突き出し、若武者の首を取りにかかる。だが軽々とあしらわれ、二の矢が放たれる。
「ええいやるではないか!なればお館様のように大器になる前に叩き壊してやるわ!」
さすがに二の矢で相手の実力をつかみ本気になった武田の中年男は、これまでのすべての力を込めて若武者の喉を突きにかかった。
男の得物は鋭く伸び、若武者の首に強い風を当てた。あともう少しでも避けるのが遅れていれば家康のように大器を晩成させる前に叩き壊せたかもしれなかった刃だったが、しかし二発目はなかった。
—————その将の首が飛んでいたからだ。
「進め!」
あまりにも鮮やかな武技に一瞬動きが止まってしまったのを見越して若武者はさらに突き進む。
本多忠勝と年の変わらなさそうな若武者が得物を振り、武田軍を一気に食い破って行く。
「ああいかん!仇を討て!」
将たちがあわてて若武者を塞ぎにかかるが、攻撃を押しとどめる事ができない。いったん緩んだ緊張の糸を立て直す暇もなく、敵武者によって開けられた穴が広がって行く。信玄本隊からも兵が泥縄式に出て来るが、それで穴を塞げるわけでもない。
そしてついに信豊軍を突き破ったその軍勢が、高坂軍の脇を攻め始めた。ある種の特攻兵とは言え倍の兵を相手にしている最中の横撃はかなり厳しく、高坂軍はたちまち崩れそうになる。
「まったく、あれが誰かなどどうでもいいのに!」
信豊が自分の無知とそこから来る失態に腹を立てていると、ここぞとばかりに大久保だけでなく立ち直った本多まで突っ込んで来る。あの若武者はあくまでも先鋒であり後方に酒井や信康がいてもおかしくないのに。
だが後悔先に立たずである。今はとにかく伯父共々徳川の猛攻をしのぐよりない。その間に北条や勝頼の援軍で織田勢を防いでくれるのを待つよりない。
「申し上げます!織田本隊が動き出しました!」
「勝負と見たか!」
そこに飛び込む織田本隊前進の報告。この絶好の機会を逃すまいと言う訳か!
なればもう少し、もう少しだけでも踏ん張らねば!
気合を入れ直し、ついに自ら戦う決心をする。
「私も出るぞ!」
これまでは兵を動かすだけだった。それでも何とかなっていたが事ここに至っては放置などできないとばかりに、信豊はついに前線に出た。
「あくまでも敵兵を」
「わかっている!」
なるべく数を多く狩り、その上で耳目を集めて攻撃を分散させたい。
————————————————————そんな思いを抱え込んでいる信豊の事など、男たちは知らない。
「クックックックックック………………丁重にお相手しようではないか」
ひとりは三方ヶ原の陣から飛び出した、第六天魔王こと織田信長。
————————————————————そしてもうひとりは、その三方ヶ原の南の追分に向けて佐久間軍の横っ腹を突こうとした、武田勝頼。




